2021-04-30 Fri
塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行
自由民権運動研究の第一人者である当家出身の髙橋哲夫氏の著書を、時々読み返しています。
その中の一冊「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきに、当家に関する初めて知る驚くべき記述がありました。
それは「かつて羽二重(絹織物)工場を営んでいたが大正7年頃には第一次欧州大戦(第一次世界大戦)終了後に到来した世界大恐慌のあおりをうけて経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒産し、それからずっと工場は閉鎖…」というものでした。
当三春昭進堂髙橋家の初代民四郎は、三春家畜市場門前である現在の場所に商機を見出して買い求め、商いを始めたとは聞いていました。
また、その商いも様々な商売をしていたと伝わっていますが、まさか羽二重工場を経営していた事、そして、世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということなどは、昭和8年生まれの父も聞いたことは無いということでした。
その後、妻おタリは持ち前の気の強さで果敢に商売に挑み、現在の饅頭屋に落ちつきますが、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか、読み書きソロバンが堪能ということで弓町新地遊郭や畜産組合での書記や会計の仕事、さらには祭礼での露天商~という下りと相成ります。
幕末から明治初頭より、三春城下新町は三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城街道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りやセリ市場開設など藩の政策が明治期以降も生かされ、大商人や遊里が軒を並べていました。
今でも新町の民家には一軒一軒「屋号」が付されているのは、当時のなごりです。
自由民権運動家松本芳長の生家「移屋」もその一軒で、初代当主の出身地「移村」に因んだものでしょう。
その他、油屋、春野屋、谷家、岩城屋、仙台屋、亀屋、浜野屋、金屋、飛田屋、山屋、割野屋、長門屋、四海屋、松本屋と呼ばれる家が、明治初頭から昭和40年代にかけて、
大半が農家や職人(大工、石エ、鍛冶)に転向して生活していました。
実は、三春の自由民権運動にとって、その事に重大な意味があり、時の県令三島通庸(みしまみちつね)の時代。旧磐城街道(現国道49号線の原型)の道路改修工事によって自由民権運動の盛んな三春城下を避けて通るルートに変更されたために新町一帯はかつての交通上の要路としての地位を転落して衰退の一途をたどり、商人達は半農や職人
に転向せざるを得なくなったというものです。
上記の「移屋」が新町第一の家であったことは、古老の話やその屋敷跡からも十分うかがわれ、明治十六年に六棟あったといわれる土蔵(酒倉)の中、昭和40年代までは二つだけが残り、その中の一つは「文庫倉」と呼ばれ、おびただしい書籍の類がここに保管されていたのでした。
現在は一般のお宅となり屋敷の形跡はありませんが、屋敷跡の奥に残る大井戸跡は、かつての酒造に用いられたものであろうと想像できます。
江戸時代中期、秋田藩政の三春城下における町屋(商工業)は、明和八年の「町内屋号覚」によると、大町62軒、中町4軒、八幡町12軒、北町31軒、荒町30軒、新町43軒の計182軒で、塩問屋·肴問屋·紙問屋·たばこ問屋・鉄問屋·木錦繰綿 茶問屋、炭問屋をはじめ、麹屋、染屋、質屋、薬屋、太物屋(たんもの・呉服屋)·小間物屋·水油、素麺屋などの店が記されています。
城下町三春は、会津蒲生氏の統治以降、大店が店を構え江戸街道や会津街道、磐城街道、相馬街道、二本松街道の大きな五街道が交わる物流・文化の中心地として栄えます。主産業である米穀をはじめ、いろいろな品物の集散地でもあり、他領からは塩、瀬戸物·綿糸、砂糖、小間物、鍬(農耕具)など多くの物が入り、領内からは米や煙草や繭などが出て行きました。
蒼龍謹白 With三春城下 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2021-04-29 Thu
早朝ウォーキングを再開しました。
仕事前の90分、滝桜まで往復アタックを再開です。
この日のごみ拾いの成果です
この二か月間は三春城下の和菓子屋の繁忙期の為に、早朝深夜からの仕事が続いていたので歩けませんでしたが、連休前の中休み的な感じの中で片道4キロ弱の滝桜までの散歩の時間が取れました。
桜シーズン前の一月前にも一回ゴミ拾いをしながらアタックしましたが、観桜の観光シーズンも終わり、定休日に歩いてみますとやはりゴミが気になります。
翌日は、袋とトンクをもってごみ拾いエクササイズを加味してのウィーキング。
場所を変えながらの早朝ウォーキングですが、約一年になりました。
体力がついたと思います。
体力がつくと気力も増すように感じます。
お陰様で、疲れ知らず。
春の繁忙期を乗り越えることが出来そうです!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2021-04-28 Wed
旧三春藩主祈願所真照寺庭園の花筏(はないかだ)です。
三春城下に初夏を告げる山桜の落花です。
水面に山桜の桜花が、花びらとなって降り注いでいます。
流れがあれば、春の名残を惜しみながら水面に漂う、刹那の「花筏」なのでしょう。
立春を迎え、三春城下にも初夏が訪れています。
皐月も開花してきました。
不要不急の外出を控えなければいけない昨今です。
散歩をしながら、お住まいに地域のすばらしさを再発見するまたとないチャンスです!
”今”に、楽しみを見つけましょう!
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺 |
2021-04-27 Tue
本日、火曜日は定休日となっています。
またのご来店をお待ちしています。
尚、来週の令和3年5月4日(祝・火)は通用営業となります。
2021 魁春旗争奪全国高等学校選抜柔道錬成三春大会
スポンサー記念品
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:12 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2021-04-26 Mon
双六山城 門澤 田村四十八舘
七郷村大字門澤にありました。
平貞盛七代の孫である安俊が、源頼朝に仕え、後に門澤○季を称し、奥州門澤深山御座城に居住し、安種に至ります。
時代は下がって、永禄年間に三春城主田村清顕に属し橋本城に移り、其の子満定門澤六郎と称し双六山城に居住します。
天正十七年、岩城城主岩城常隆が大軍を率いて田村領に攻め込みます。
この際に、伊達政宗の援兵茂庭定直と共に奮戦して戦死します。
墓所は、門澤常洛寺(現常楽寺)に在ります。
尚、茂庭定直の墓所は門澤宇堂山飛龍寺にあります。
茂庭定直は、伊達政宗より三春田村の援軍として加勢し、門澤城を守備しますが岩城勢と激戦の上天正十七年に戦死します。
門澤城攻防戦
天正17年5月27日、 岩城常隆は小野に布陣して門沢を攻めます。
従う勢は竹貫三河守重元・同越後守 同大蔵少輔・ 好間土佐守・白土摂津守・植田但馬守 舟尾右兵術将以下3千余。
27日から門沢城に弓鉄砲を射掛け攻防が始まりました。
門沢勢は、伊達家中の中島右衛門宗意 大町宮内少幡守ら千余人の加勢を受けて善戦しましたが、数に勝る岩城勢に押され町郭を焼かれ、門沢城の外構えを破られます。
門澤勢が、三の丸を固めた中島右衛門尉以下 20余騎は討たれ、 大町 宮野内らは三春に退却します。
この門澤城の攻防戦で田村方は城主以下 400人が討たれ、 岩城勢も 100余人を失います。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2021-04-25 Sun
真照寺の参道階段に、桜の花びらが舞い降りピンク色の染挙げていきました。
小さな城下町三春が一年で一番華やぐ季節の終わりを告げています。
令和3年度 ”春陽郷三春花見だんご”の販売終了の御礼
新型コロナウイルス拡散防止非常事態宣言の中、今年も、予定数の花見だんごを販売できましたこと、心より御礼申し上げます。
本日にて今年の花見だんごの販売を終了いたします。
本日をもって、三春花見だんごの店売りを終了させていただきます。
桜のシーズンも終わり、見た国の小さな城下町にいつもの静けさが戻ってきました。
安心したような、寂しいような・・・・
商売的には、これが一年続けば、蔵がいくつ建つものやら。
これで一息ですか?
いやいや何をおっしゃるうさぎさんです。
これから迎えるゴールデンウィークは、端午の節句です。
そうです、かしわ餅のシーズンの到来です。
かしわ餅 こしあん (おたりまんじゅうの餡をベースに拵えました) 茶色の葉
味噌かしわ餅 みそあん (手坊白あんに三春中屋味噌をブレンドしました) 緑の葉
化粧箱入り (兜熨斗付)
5個化粧箱入り(兜熨斗付) 864円 税込み
7個化粧箱入(兜熨斗付) 1145円税込み
9個化粧箱入(兜熨斗付) 1426円税込み
11個化粧箱入(兜熨斗付) 1760円税込み
13個 化粧箱入(兜熨斗付) 2041円税込み
名入れ承ります。
こしあんと味噌餡の詰め合わせなどお気軽にお問い合わせください。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2021-04-24 Sat
上移の石塔群です。
先の所要があり、移に出向いた折に写真を撮ってきました。
以前、上移の鎌田勝三郎様、そして、同じく移の菅野義徳様にもこの「馬頭観世音」の石碑の写真をいただきご紹介いただいたことがありました。
三春馬の資料にどうぞということで、鎌田様が、平成24年10月に老人会で講演されたときの資料「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」を持参されました。
資料にもありますが、上移曲山地内にある庚申様付近の建立されている「馬頭観世音(大正3年3月17日建立)」の石碑の施主にも武部八十七氏の名前が刻まれています。
鎌田様は、勝三郎様の祖父伊三郎氏が几帳面で、昔の資料を保存していたそうです。
それらの資料を勝三郎様が分析された中にこの資料の中心人物である武部為右エ門・武部八十七親子に出会って興味を持ち調べ始めたそうです。
「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」
明治から大正にかけて上移地区に、武部氏なる人物が住み、商売、畜産業を繁盛させた方の文献を少し、見つけまして、興味を持ち、調べてみましたが、何分にも資料が乏しく、あまり良い結果は得られませんでした。
ほとんどの方が、武部と云う姓を開くのが初めてだと思います。
年代から見て,親子二代に渡り上移地区内住んでいたものと思はれます。
父親と思われる為右エ門氏は八幡神社に神前に供える鏡を納入、通い帖を見て、幅広く商いをやった様子がうかがわれます
三春潘は昔から産馬に力をいれ馬産地として、有名であり馬の競り市を開き、各地区かり多くの馬喰が集まり大層な賑わいを見せ、その頃に庚申坂なる遊郭街が生まれたらしい。
八十七氏は馬産に力を入れ,上道の鍋越地区 現在の佐久間記一氏宅辺りに牧場を開いたらしい。
八十七氏は馬産の成功を願い、曲山地内、俗に云う庚申様は馬産の成功をの場所に「馬頭観世音」を建立したものと思う。
又、八十七氏は上移地区の産馬総代も務められて、明治四十三年には、国有種馬、厩舎の新築にあたりご尽力された方です。
国有種馬は、現在は、その建物はありませんが,上移町のふくだやさんの前の道を少し入った所の高台にありました。
三春町史3を見ますと、慶応4年4月の戊辰の役前夜には町役人として平日帯刀を許された20名の一人に武部為右衛門の名前が記載されています。
また、「三春町役人記(春山文書)」に、町年寄八幡町取締 武部為右衛門年齢58の名前が記載(明治2年8月改正、同年12月罷免)されていますが、武部氏が上記の武部氏と「同一人物なのか?また、同一人物なら移村に移った経緯は判りません。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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