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本日、火曜日は定休日となっています。
本日火曜日は定休日となっています。 









「初午大祭」 舞木のお稲荷様 御鎮座310年(令和五年) 高屋敷稲荷神社

舞木のお稲荷様「初午大祭」 高屋敷稲荷神社 


令和5年3月1日 (水)

初午祭典 午前10時〜

所願御祈祷 11時~ 随時受付









ぎゅぎゅっと三春のご案内です。

再度キャンペーンのご案内をいたします。




3月も送料無料キャンペーン継続となります。




三春城下真照寺参道 三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
「鹿島発ち」 令和5年立春の鹿島神宮詣




「鹿島発ち」 令和5年立春の鹿島神宮詣

2月立春です。

節分がすぎて立春を迎え、新しい節がはじまりました。

春は、はじまりの季節!

「鹿島発ち」

東と云う方位はお日様が上がる方位と云うところから、一日の始まりを意味します。

つまり、全ての物事の始まりや、出発、そして旅立ちの時に参拝するとご利益があるとされています。







ここは始まりの無事完了を祈願すべく「鹿島立ち」の起源ともなる鹿島神宮に参詣してきました。

以前から先輩から「忙しくなる前の立春過ぎの2月に鹿島神宮参詣に行きなさい」と、そして「この春・が商人の一年の始まりなんだよ・・・」教えられていまして立春の鹿島神宮詣でをしてきましたが、コロナ禍の中で2年ほど無沙汰でした。


拝殿は工事中です。







鹿島神宮に参拝して、奥宮へ通じる参道を進んでいきますと不思議と心が落ち着きます。







鹿島神宮詣でには、もう一つ、御無沙汰している鹿島神宮「荒御霊」近くにある茶店の女将さんへ、御機嫌伺に・・・とも思っていました。


が・・・・無い!茶店がなくなっていました。

その茶屋もこの2年でなくなって、経営者の違うおしゃれな新しいカフェ「あらのみたま」に代わっていました。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
弥生3月【ひな祭り】 2023 御菓子三春昭進堂



弥生3月【ひな祭り】 2023 御菓子三春昭進堂


女の子が健康で幸せに育つようにと願いをこめて祝う桃の節句、3月3日のひなまつり。

雛人形を飾り、女の子の健やかな成長を祈る行事です。


人形で身体を撫で、けがれを移し、川へ流して身を浄めたのがはじまりといわれています。

赤(桃の花)、白(雪)、緑(草)を表しており、それぞれの色には、厄祓い、清浄、健康の意味があり、子孫繁栄、長寿の願いが込められています。


旧暦の3月3日、おそらくまだ雪深い大地から芽生える緑、花などの自然の力にあやかる意味もあったのでしょう。






いちご大福 





道明寺桜餅 







うぐいす餅 







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子  |
「初午大祭」 舞木のお稲荷様 御鎮座310年(令和五年) 高屋敷稲荷神社






「初午大祭」 舞木のお稲荷様 御鎮座310年(令和五年) 高屋敷稲荷神社

舞木のお稲荷様「初午大祭」 高屋敷稲荷神社 


令和5年3月1日 (水)

初午祭典 午前10時〜

所願御祈祷 11時~ 随時受付







「初午」とは、「2月の最初の午の日」のことです。

お祭りでは豊作、商売繁盛、開運、家内安全を祈願します。


新型コロナウイルス感染拡大防止から、新しい参拝方式を取り入れて皆様の御参詣をお待ちしています。


三密を避けるため、お好きな時間にお参りください。







和銅4年(西暦711年)2月初午の日(2月最初の午の日)に、京都伏見稲荷山に稲荷大神様がお降りになられたことに由来し、全国の多くの稲荷神社でお祭りが行われます。


「福詣り」とも言われ、お詣りすると福が授かると言われております。








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
令和 5 年度 第 12 回魁春旗争奪全国高等学校選抜柔道錬成三春大会




令和 5 年度 第 12 回魁春旗争奪全国高等学校選抜柔道錬成三春大会



期日 令和5年2月23日(木)24日(金)25日(土)26(日)の4日間


会場 三春町民体育館(田村郡三春町貝山泉沢100 ℡0247-62-6212)







三春昭進堂も応援しています!


がんばれ日本柔道!








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
令和5年節分明けの成田山講中 寺庭食事処「い津美や」



成田山新勝寺境内食事処「い津美や」の女将さんより、成田山節分会の「御福豆」と節分会福御守「剣守」を頂戴いたしました。


これは、お坊さまや職員に配られる、特別なお豆だそうで、成田山新勝寺の脇参道ともいうべき寺庭にある「い津美や」さんが、ご縁のある方にお配りしているそうです。





節分の日に一般参拝者に撒かれるのとは違う、ありがたい御豆です。


剣守は節分会福御守とあり、、開運招福の御利益があるとされています。


ありがとうございます。







生きていれば今年で百歳になるという「い津美屋」女将のお父様のお名前が「龍吉」ということで、同じ「龍」の名前に御縁を感じて懇意にさせていただいています。


三春城下新町の真照寺「成田山講中」等で成田山新勝寺にお詣りする際にはお邪魔していましたが、このコロナ禍の中で二年の御無沙汰です。


せっかちな私はまだ「御福豆」が届いていないということにすっかり早合点しまして・・・


この連休を使って女将さんの御機嫌伺に「成田山新勝寺」に初詣の行ってきました。





い津美やの暖簾をくぐってみますと元気に商いをさて例まして、一安心!と言う訳で、成田山新勝寺門前の定宿「若松屋」もおさえてあるし、まずは一献!


娘さんの計らいで新しいメニューも増えておしゃれな雰囲気です。






娘さん「ハンドメイド」作品


くまどりした猫のお土産屋、マスクなど新商品もずらり・・・







コロナ禍以来の成田さんの状況などを伺いました。






私も、当店先々代の祖父の頃よりお世話になっています真照寺の成田山講中。

当三春昭進堂髙橋は檀家ではありませんが、門前で商いをさせていただいているという関係から、二代目もこの成田山講中には毎年参加していたようですので、祖父の代から私へと三世代にわたってお世話になっています。







祖父の代には道路事情も今のように高速道路が整備されてはおらず、三春発・成田山新勝寺門前若松屋に宿泊して、翌朝、一番護摩祈祷を受けてから三春へ帰還というバス旅だったそうです。


その参拝の折には、時間を見て「い津美や」さんで、気の合った方々とおでんつまみに一献傾けていたそうです。

三春昭進堂当主祖父、父、私と3代での「い津美や」です。







若松屋さんではお気に入り「総門」が目前の部屋の案内していただきました!


目前に総門が・・・圧巻です!御利益が上がりそう


朝一の護摩祈祷を受けてまして商売繁盛祈願!





そして、今回は明治維新での「廃仏毀釈」「神仏離反」の際に取り壊された、旧三春藩領内総鎮守「三春太元帥明王」宇内(境内)にあったとされる「額堂」を想像したくて成夫太さんにある「額堂」見てきました。





こちらは、7間の4間といおう大きさです。




檀信徒より奉納された「祈願額」で外も中も埋め尽くされています。


さすが新勝寺さまです。





太元帥明王宇内の額堂は、7間の6間と記されていますので、もう少し縦が長かったのでしょう・・


そして、奥には愛染明王を祀る「光明堂」が鎮座しています。


先にも記載しましたが、太元帥明王から投げ捨てられた「愛染明王の石塔」を発見したばかりでしたので、「ワクワク感が倍増です。

之も卯不動様のお導き・御縁なのかと手を合わせてきました。







新勝寺宇内の出世稲荷様にも詣り「商売繁盛」祈願



そして、孫みたいな悠大君にお土産を・・・と、帰りには「成田空港」近くにある「空の公園」にて旅客機の撮影して・・・・

お土産を買いに「成田航空科学博物館」。












商売繁盛! 家内安全! 福和内 福和内

| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 令和5年正月






「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 塵壺380号 令和5年2月発行


 今年、還暦を迎えるので“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ妻を伴って初詣に行ってきました。


かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。





また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。

自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。




神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

禅寺「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。






この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。

即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。

三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。





天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。


同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。






後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。

幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。





實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。


また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。

幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。


]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。


我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓

尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の再建工事が令和5年2月26日より始まります。







蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春!  拝



以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書

右として

高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。

そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。

家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。

しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。

宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。

【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】

宝永六年三月
(日向訳)

伊勢度会郡朝熊村

石城山永松庵

中巌座元


※ 渡邊日向 訳




| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |