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福島民友 創刊130周年プロジェクト 【ごみレス100〜全国ワースト脱出作戦〜】 1人1日マイナス100g!




福島民友 創刊130周年プロジェクト


【ごみレス100〜全国ワースト脱出作戦〜】


1人1日マイナス100g!






三春町、そして三春昭進堂もゴミの削減に取り組んでいます。








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
中津川鎮守 中津川神社 (旧菅布祢大明神)




中津川鎮守 中津川神社 (旧菅布祢大明神)


祭神 猿田彦命






社殿に掲げられてある「大東亜建設」の扁額が目を引きます


日本のみならずアジアの平和を祈願したものでしょう。








陸軍大将、男爵奈良武次の謹書による扁額「大東亜建国」が掲げられていました。

日清・日露戦争での活躍し、陸軍の官制改正問題、対華二十一ヶ条要求問題、中国第三革命への関与、シベリア出兵問題などにも関わっています。

東宮武官長、侍従武官長として、皇太子訪欧の随行から張作林爆殺事件、五・一五事件、満州事変勃発期まで、つねに昭和天皇の傍らにあった方で枢密顧問も務められました。

日本政治外交の大きな節目に重要な任務に就いていました。









三春田村氏一門より100年位前。


応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。


田村庄司田村氏のころです。

三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。

その頃の中津川城主に中津川千々代丸(なかつがわちぢまる)という名前が見えます。

当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

中津川千々代丸は、伊達氏に味方していましたが、田村伊達家の和睦により田村氏に降ったとされていますが、中津川氏が千々代丸という名称で記載されていますが、当主が元服前なのか個人ではなく集団なのか・・・いずれにしてもその後の行方が分かりません。






後々にも田村領城郭要害絵図に中津川城は記載されています。

城郭も三つの郭を持つ大きな城になっています。


中津川氏退去の後の中津川舘には、戦国大名三春城主田村氏の一門衆中津川兵部が居城しています。

兵部とは、中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継いだと考えられています。

 ※橋本刑部少輔顕徳の弟か息子との口伝あり



田村四十八舘の南の要害としていました。

田村三代清顕亡き後の岩城氏による田村庄進攻に際して岩城氏が拠点としています。


義顕公の正妻は岩城の娘です。







中津川城 歴代城主

南北朝時代の応永11(1404)年 中津河参河守秀清

仙道国人一揆連判状(結城文書ほか)に記載アリ


天文十年(1541)、

中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城を残して細田城及び田原谷城(小野町夏井)を破棄した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。

常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。

田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。

さらには、一度離反し反田村となった、常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。

このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます


田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ

天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。

天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ 

天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐

天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)

天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死  郡山合戦

天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ

時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。

この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。

6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より

天正十八年六月

去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様  「貞山公治家記録」より

中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。



三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 03:35 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」   中田町郷土歴史研究会 講演会 



私は、還暦を迎えた今年度の集大成として、講師として4回講座で戦国時代の三春田村氏を中心とした歴史講座に望んでいます。

田村氏旧臣の多い郡山市中田地域の郷土史研究会の講座です。

このお話をいただいてから中田町地域の神社やお寺、そして、城跡を廻ったりと・・・これも先祖以来のご縁あるめぐり合わせかと・・・・

今回改めて戦国時代の田村の庄を中心とした、御春輩と称する平姓三春田村氏の旧臣衆と向き合っています。

「しっかり講話せよ!」と田村旧臣にお叱りをいただかないよう、あと3回の講座を自分なりに頑張る所存であります。

そして、もう少し戦国の世の田村庄を堪能したいと思います。

いざ出陣じゃ!




「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」1
  
      中田町郷土歴史研究会 歴史講座 於中田ふれあいセンター

   令和6年11月27日(水) 毎週水曜日 4回講座 午後1時30分~


三春昭進堂代表 髙橋龍一  塵壺発行責任者


講演項目

・三春田村氏と南方要害(中田町周辺)武士団      

・中世の田村庄と小野保周辺「奥州田村六十六郷・小野六郷」

・三春城主秋田氏

・幕末戊辰戦争と三春藩




参照資料

「田母神旧記」

「田村家臣録」

「田村系譜」

『中田町の文化財』 中田町郷土歴史研究会 1~4

『なかた町史』 中田町郷土歴史研究会 第1集

『仙道田村荘史』青山正 

『田村郡郷土史』田村郡教育會

『岩磐史料叢書、岩磐史料刊行會

『三春町史』 三春町

『船引町史』 船引町

『大越町史』 大越町

『滝根町史』 滝根町

『姓氏家系大辞典』 太田亮 姓氏家系大辞典刊行会

・三春町文化財保存活用地域計画 文化庁





御春輩 田村衆「田村四十八舘」現中田町地域周辺

室町幕府・足利政所の衰退からの戦国時代、織田信長による“いつでも”戦いをすることができる“銭で雇った兵”の創設を原資とする「農兵分離」政策によって軍事戦略が劇的に変革して、四季を通じて一年中戦が出来るようになります。

それまでの農民=武士(兵士)では、春秋の農繁期になると田植えや稲刈り等農作業で忙しく戦どころではありません。信長以前には戦国最強と云われた武田や上杉などの軍勢も既存の農民兵が主体なので、軍事行動は春と秋の農繁期を避けて行っていました。

地方の国人衆は、「兵農分離」そして太閤秀吉による「刀狩」等の政策を導入するという段になって、先祖伝来の所領(土地)がある「在家惣領家」は、その生活(収入)基盤である所領を手放してまで武士(兵士)として生きるという選択肢はあり得なかったと考えられます。


「上石過足舘」中山太郎右衛門尉

「牛縊舘(うしくびりたて)・城」
 牛縊壱岐五郎衛門 三百五十石 三春札場迄一里半
出舘として「白石館」、「八幡館」がありました。 天正日記16年 正宗拝謁

「古館(ふるだて)」中田町牛縊字袋内/館主不明。

「表館(おもてだて)」郡山市中田町駒坂 字表/館主不明。

「南館(みなみだて)」郡山市中田町駒板字南 館主不明。

「黒木舘」黒木信濃守 田村旗本近習 与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録)黒木大膳 

「海老根舘」三本木十郎右エ門

「赤沼舘」赤沼弾正 二百五十石 三春札場迄三里

「西平寺館(さいへいじたて)」郡山市中田町赤沼 字西平/赤沼弾正の居館跡。

「木目沢表舘(このめざわおもてたて)」木目沢式部内蔵之助 

田村家御一門中御家門方 木目沢善五郎顕継 田村宮内少輔顕頼月斎入道の七男

内蔵之助の一男 善次郎。孫大槻内蔵之助。 (田母神氏旧記)

出城として、「明神館(みょうじんたて)」木目沢善五郎顕継の居館

そして、「岩入館(いわいりたて)」下方主膳の居館などがありました。

 木目沢鎮守三渡神社では、木目沢三匹獅子舞が伝承。口伝によれば平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地を訪れた際、凶作・疫病で民衆が疲弊している様子を見て、厄難退散祈願の為に村の子供達に獅子舞を教えたことが始まりであると言われています。


「向館(むかいだて)」郡山市中田町木目沢五斗蒔田  吉田和泉守の居館跡。

「下枝上舘(したえだかみたて)」旧御舘村下枝   

旧御舘村下枝には、後に云「田村四十八舘」の三春城主田村氏の一門、の居舘「下枝上舘」がありました。  

橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善)の名前が見えます。

田村庄司田村家一門とも考えられます。

後に、三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。

当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でした。

天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

当時の下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされて田牟田亮から追放されています。


後々にも田村領城郭要害絵図には、下枝舘橋本刑部の名前が記載されています。

城郭も本丸となる郭の西手は切り立った断崖となっています。

東側は尾根が幾筋か伸びておりその上に郭の中心となる平場が段々に普請された丸を持つ大きな城になっています。

三春城主田村氏の御一門、田村四天王と呼ばれた重臣橋本刑部少輔顕徳(あきのり)(貞綱)の居舘。三春城下臥牛山(現紫雲寺山麓)に刑部舘跡あり終焉地(今泉系譜)

※田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。

田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主(兼務、弟や子が城代)、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も※田村月斎顕頼二男との記載が在り、弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春城主・田村家三代清顕の死後、田村家中が相馬方(清顕夫人実家)と伊達方(伊達政宗夫人・愛姫嫁先)に二分する御家騒動の際には伊達方につき、家中を伊達方へ導きます。仙台藩片倉家文書の中には、田村宿老「橋本伊豫守」及び橋本又十郎の名がありますが刑部は別と考えられます。

天正17年には、清顕亡き後の田村家混乱に乗じた岩城城主岩城常隆勢が、田村家中の反伊達派の加勢を受けて田村領に侵入し伊達派の拠点となる鹿股舘、門澤館と次々に攻め落とし、次に伊達派の統帥橋本刑部が護る下枝舘に狙いを定め攻撃を仕掛けますが、逆に迎撃した田村勢によって撃退され大敗を喫しています。

その際、田村を離反し岩城勢に組した元船引城主田村清康、飯豊舘主郡司某(敏良?)など多数の田村家旧臣が討ち取られています。


「下枝脇舘」旧御舘村下枝 三春田村氏没落後に廃城。

三春城主田村氏の重臣、横田盛尊・平内左衛門の居舘

横田盛尊は、会津城主芦名盛實の二男綱實で、安積郡横田城に在って横田氏を名乗ります。

その五世の孫にあたる盛兼の代に、須賀川城主二階堂遠江守に攻められ横田城は陥落、平姓田村満顕に属します。

以来、代々田村氏に仕え金屋平舘に居住します。

盛兼の孫、盛尊になって下枝脇舘に移居し、後の綱晴の代、天正十八年に三春田村氏の没落により帰農し、柳橋村字篠坂(現中田町柳橋字篠坂)居住します。

以来、その子孫が継承して十四代(明治期)当代の朝右衛門まで横田氏伝来の寶を伝承していると伝わっています。



御館(みたて)/郡山市中田町下枝字館  橋本刑部少輔顕徳(貞綱)

久保館(くぼたて)/郡山市中田町下枝字久保/館主不明。

町裏館(まちうらたて)/郡山市中田町柳橋 字町裏/館主不明。

太古山館(たいこやまたて)/郡山市中田町柳橋 字太古山/館主不明。

間所内館(まどころうちたて)/郡山市蒲倉 字宮ノ前/館主不明。

中館(なかだて)/郡山市中田町高倉字中館/館主不明。

「高倉舘」高倉近江守鎖定 (高倉遠江守顕貞) 田村氏 中田町高倉 

   今泉山城守(橋本氏) 高倉城主 与力五十騎 田村譜代家士

[中津川館(なかつがわたて)] 中津川 

天正年間(1573~92)、中津川次郎右衛門 太夫中津川兵部が居住。

※三春田村氏一門より100年位前。

応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。

田村庄司田村氏のころです。

後に、三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。

その頃の中津川城主に中津川千々代丸という名前が見えます。

当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

中津川千々代丸は、伊達氏に味方していましたが、田村伊達家の和睦により田村氏に降ったとされていますが、中津川氏が千々代丸という名称で記載されていますが、当主が元服前なのか個人ではなく集団なのか・・・いずれにしてもその後の行方が分かりません。

後々にも田村領城郭要害絵図に中津川城は記載されています。

城郭も三つの郭を持つ大きな城になっています。

中津川氏退去の後の中津川舘には、戦国大名三春城主田村氏の一門衆中津川兵部が居城しています。


田村四十八舘の南の要害としていました。

田村三代清顕亡き後の岩城氏による田村庄進攻に際して岩城氏が拠点としています。

義顕公の正妻は岩城の娘です。


茶黄田館(さきだたて?) 中田町中津川町/館主不明。

館(たて)中田町上石字館 館主不明。

上石館(あげいしたて) 中田町上石/館主不明。

牛骨館(うしほねたて) 田村町栃山神字川曲 遠藤貞衛の居館跡。

朝日館(あさひたて) 田村町栃山神字川曲 青木平左衛門の居館跡。
  


「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

 





| ryuichi | 03:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
郷社下枝鎮守 菅布祢神社 




郷社下枝鎮守 菅布祢神社 







下枝郷社 菅布禰神社 由来書

鎮座地 郡山市中田町下枝字長久保421

祭神 猿田毘古命

祭日 例大祭十月二十八日 春祭四月二十八日 新嘗祭十一月二十三日

当社は、人皇五十代桓武大皇の御宇延暦二十年、坂ノ上田村麻呂勅命を奉じ征夷大将軍となり、東征下向の砌(みぎり)り、

正三位藤原朝臣遠藤斉月郷従事し給い、勢州(伊勢国)より猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮「椿大神社」の御分霊を奉じ、

この地に戦勝祈願のために小祠を建て奉斎給いて、田村南郷の鎮護に当り太元惣社管船大明神と称し管船大神宮の神号を賜り 

明治維新管布禰神社と改称 磐前県に至るまで郷社に列せられは、明治9年改県の際制限されて下列 

昭和3年、郷社となり、

戦前の当社三大祭には、県知事共進使として神饌幣料を奉じる格式ある神社なり


御祭神は天孫降臨のとき、国ツ神として道先案内をして功を立て神とし育名で、武運長人、農耕守護、交通安全の祖神として崇敬され 昔より庶民に親まれている。

三春領下にあり藩公の崇敬も厚く 正保、元禄、寛保のころ 藩公の寄進奉納等数々あり、現本殿は元文二歳の改築にて 金穀の寄進あり その後度々の修復もまた同様なり

正保年間、藩主秋田俊季公、田村将軍の事績追懐のため鶴石山に遊びし折り、当社に参拝

帰路また社殿前に至れるとき大雷雨に逢い、これ龍神の怒りなりと報賽のために「双龍之旗」二簱を奉納せしという

また東方御舘山城主橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂の後裔)の武器数種あり、

安永二年、藩公安倍(秋田)千季、同内の奉納懸額あり


明治四十三年拝殿改築 

昭和二年社務所新築

昭和三十四年本殿銅板葺き替え

昭和六十一年幣殿拝殿営繕銅板葺き替え

又、一の鳥居も新築


下枝八景「社森の月」


“伏し拝む 神の姿は鏡なり 影さす月ぞ 己がまごころ”


宮司 植田義信

副宮司 植田瑞男

祢宣 植田倉夫







旧御舘村下枝には、後に云「田村四十八舘」の三春城主田村氏の一門、の居舘「下枝上舘」がありました。  

尚、橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善) の名前が見えます。


田村庄司田村家一門とも考えられます。

後に、三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。

当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

当時の下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされて田牟田亮から追放されています。


後々にも田村領城郭要害絵図には、下枝舘橋本刑部の名前が記載されています。

城郭も本丸となる郭の西手は切り立った断崖となっています。

東側は尾根が幾筋か伸びておりその上に郭の中心となる平場が段々に普請された丸を持つ大きな城になっています。








1589 年 (天正17年) 岩城常隆下枝城攻め

天正17年7月3日、岩城常隆は下枝城 (郡山市中田町) の攻略に掛ります。

田村、伊達勢による迎撃により、攻めあぐね形勢を立て直そうと引き上げる岩城勢を、田村、伊達勢が追撃します。

この当時、小野城主田村清康は、主家田村家に離反して相馬勢に組しており、相馬氏組する岩城勢として、殿を勤め、城主清康以下多数の小野勢がが討ちとられます。

翌4日にはその清康と郡司某 (飯豊城主郡司敏良か?)等の首級が注進書状と共に会津黒川城にいる政宗のもとに届けられている。





岩城常隆は、 天正17年4月中頃に小野に進出し 4月21日には鹿股城 (神俣駅北西)を落城させ下旬には大越城を占領し、6月9日には伊達の援軍も籠もった門沢城 (船引町門沢)を落城させています。




三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍






| ryuichi | 03:24 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
本日火曜日は定休日となっています。




本日の火曜日は定休日となっています。

またのご来店をお待ちしています。





お客様に綿をいただきました。綿が綿の花から採取するというのは何となく理解していたつもりですが実物を見ると驚きがあります。

早速恵比寿講祭にお供えさせていただきます。


ありがとうございます😊







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 03:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
ニューイヤーコンサート 2025 ㏌ まほら パシフィックフィルハーモニア東京




ニューイヤーコンサート 2025 ㏌ まほら パシフィックフィルハーモニア東京

会場 三春交流館まほら

2025年1月13日(月・祝)

開場/15時 開演/15時30分

全席指定一般5,000円(高校生以下2,000円)

お問い合わせ先
三春交流館まほら TEL.0247-62-3837
〒963-7759 福島県田村郡三春町字大町191


| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
海老根村鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)



海老根鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)


海老根村(現郡山市中田町海老根)の菅布祢神社は大明神と称していたが、明治二年二月神社と改称して社格は村社となった。







その後、明治二十九年に幣殿縦一間半、横二間、拝殿縦二間半、横五間に再築されており、同三十四年三月には土蔵、木造木羽茸、建立壱坪五合を新築しており神楽殿は同三十五年の暴風雨によって破損したなど、神社明細帳えの追記願や、取消願が大正二年一月八日付で知事宛に提出されている。






また、この神社の御由緒調査書によると次のとおり。

祭神一座 猿田産命

右古老伝説

当社の勧請は、平安時代末の永暦元年(1160)田村郡下枝村の菅船大明神の御分霊奉遷する所なり

この時、神殿を新築。







尚、その後に至って、海老根舘主今泉左馬之守なるもの者、特に神社を尊敬したとの伝説があり。

また、室町時代の永京11年(1439)に、海老根の泉舘主熊田右馬之丞藤原重特も、これまた大いに神社を信仰したる由、判然とし口碑にあり。






寛延二年(1749)神殿を改造して明治維新の折の村社に列せられる。

古器物

剣壱振

鏡四面

右之通に相違無之候也

明治三十五年十二月八日

社掌 遠藤直記






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