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笠石八幡の馬頭観世音桜と込木地蔵堂櫻に御礼に参詣いたしました。




まだ櫻花の残る定休日、ご縁のある笠石八幡の馬頭観世音桜と込木地蔵堂櫻に御礼に参詣いたしました。






先に掃除を済ませていたので山内はきれいです。






この巨石を見るたびにパワーを貰えるような気がいたします。








祖父伝造の名前が刻まれた石板と・・









曽祖母タリの名前の石板


ルーツを感じます。







そして、曾祖父 髙橋民四郎さんの生まれ故郷込木にある地蔵堂と紅枝垂れ桜






やはりご縁ですね、妙に落ち着く空間です。






今があるのもご先祖様のお陰です。



とにかく感謝しかありません。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
本日は、火曜日ですがゴールデンウィーク ”昭和の日の祝日”ですので通常営業です。



本日は、火曜日ですがゴールデンウィーク ”昭和の日の祝日”ですので通常営業です。


代休は、あす30日(水)となります。



尚、ゴールデンウイーク明けの定休日は、

5月6日(火・振替休日) 通常営業

5月7日(水)~ 5月9日(金)3連休とさせていただきますは。


どうぞよろしくお願いいたします。




三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2025 ”三春城下 春の終焉” 真照寺参道階段の桜花の洛花掃除~




2025 ”三春城下 春の終焉”

真照寺参道階段の桜花の洛花掃除~


桜の花吹雪、そして、花びらの絨毯をを十分に堪能させていただきましたので、「日常山、桜の花も散れば見苦し・・・」の前に掃き掃除。







雑草を摘みながら、アミガサダケを愛でながら・・・・








ソメイヨシノは、花びらの後にサクランボの茎が落ちてきます。


これもこれで、楽しいひとときです。

これから三春城下は、初夏を迎えます!







仏道を習うというは、自己を習うなり







春の締めくくりにはもう少しかかります。







これから、真照寺では本堂の屋根の補修作業が始まります。







足場か架かっている真照寺も、これもまた一興。


今しか見れません。






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:07 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::祈願所の四季 |
 bookカフェ 「坂の上の雲」 司馬遼太郎著 福島民友新聞社 4月26日(土)朝刊




bookカフェ  「坂の上の雲」 司馬遼太郎著 

福島民友新聞社 4月26日(土)朝刊に」掲載されました。

大好きな司馬遼太郎さんの著です。


「坂の上の雲」 司馬遼太郎著

主人公の秋山好古、真之兄弟や正岡子規も、あらゆる困難に直面しながら、激動の時代を、それぞれが『坂の上の雲』という夢や希望を持って、ひたむきに生き気生き様を描かれています。
「坂の上の雲」で描かれた明治とは「日本人としての誇り」だと思います。

国家と民族の尊厳を守るため、維新から間もない明治の人々が、米と絹などの惰弱な産業しかない中で、大国帝政ロシアとの戦争という国家プロジェクトを完璧なまでに遂行してロシアから
勝利を得たという事実にただただ感動しました。

明治という時代は、永く続いた封建社会が崩れ、外国に負けない近代的な国家の建設に向けて歩み出した激動の時代でしたが、幕藩体制から解き放たれた人々が、身分を越えて「日本人」となり、一つの目標を共有したはじめての時代でもありました。

あとがきに「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」と筆者は記しています。

明治日本の集大成となった日露戦争を勝利に導いたその土台は、間違いなく教育だったと思います。

教育を通じて、多くの子供たちが学ぶことの尊さを感じて欲しいと願っています。




「日本の資源は人しかない その人を育てるのは教育しかない」

嘗て、三春小学校学校運営協議会長を務めていた時に、何回使ったかわからない言葉の一つです。


そして、その頃はこう続けました「三春で学んだことを子供たちが大人になっても誇れる教育」








そして本日の福島民報新聞には、河井継之助の終焉の地 塩沢(現只見町塩沢)の医師矢沢家に伝わる河井を治療し河井をの治療に使用したとされる薬剤の鑑定のきじが掲載されていました。






ちょうど塵壺発刊と同時期でもあり、様々な縁を感じているところです。




三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 03:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |
塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行



 塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行

岩江地区の舞木や日影、そして郡山市西田町の根木屋、木村などの地名が直毘神社に由来した話が伝わっています。

昔、上舞木にある権現さまと呼ばれる二社大明神(現直毘神社)の境内に大きな櫟(くぬぎ)がありました。







夕方になると、この櫟の影が十町(1090m)も延び、影が届いたところは、「日影」と名付けられたと伝わっており、三春茶屋のちょっと三春よりにある橋、これを日影橋と呼ばれています。

そして「舞木(もうぎ)」という地名の由来は、ある時、もの凄い風が吹いてこの大木が根こそぎ空に舞い上がった。それからこの地を舞木と呼ぶようになったといわれています。  

さらに、根が落ちたところを根木屋と名付けられ、幹が落ちたところを木村と名付けられたといいます。


※根木屋は、根際(ねきわ)から”ねぎや”へ転じ、木村は、きうら、木末(きうら)、きむらへ転じたと伝わっているそうです。







そうした由来の元となる今の上舞木に鎮座する旧舞木村の村社「直毘神社」は、御祭神として、伊奘諾命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、神直毘神(かみなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の四柱の神が祀られています。


 社伝を観ますと、今から二千有余年前、第10代崇神天皇御代10年に諸国鎮撫の為、「まつろわぬ者たち」を征伐するために遣わされた四道将軍(しどうしょうぐん)のゆかりの場所と伝えられています。







 この四道将軍とは『日本書紀』に見られる、崇神天皇が全国平定を目指して派遣した皇族の四人の将軍のことで、東海方面には武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、北陸方面には大彦命(おおひこのみこと)、西道(山陽)方面には吉備津彦命(きびつひこのみこと)、そして丹波(山陰)方面には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、それぞれ将軍として皇軍を率いて平定に向かい出陣します。


 直毘神社(旧二社権現)の由来書には、磐城に入られた四道将軍の一人である武渟川別命将軍率いる皇軍の軍勢は、夏井川の南西の山道より陸奥の真冬を田村郡(たむらこおり)の山奥に進軍して行きます。







その行軍中、道がますます険しくなるばかりか寒さが一段と厳しく、さらに連日の吹雪で疲労と凍傷に悩まされます。阿武隈川の流れを渡り、氷雪の安積平野を横切って、奥羽山脈を越すことは情けにおいても偲び難く、部下思いの武渟川別命将軍は、『朝日さし夕日なお照る』向きの良い場所を選んで軍勢を休めることにしました。


これが今の直毘神社の周辺であったとされています。

 その休息の際に、武渟川別命将軍は、手頃な櫟の木を求めて幣を結んで四柱の神をお祀りし、草々のお供えものを捧げた。

 この四柱の神を二つの社(やしろ)に祀ったので二社権現と称し、凍傷や病気に悩む兵の平癒と戦勝の祈願したのが、現在の直毘神社であるとされていると記されています。

 尚、二社権現を直毘神社と改称したのは、明治六年(1873)のことです。







四道将軍といえば、会津の地名の由来も関連してきますので添えておきます。

 先の武渟川別命は、東海方面を海路進軍して常陸に上陸、岩城から小野、仲田、中郷、鷹巣を経て、後の直毘神社付近で一泊し、二社権現にて戦勝祈願し、さらに北小泉から阿武隈川を越えて、保成(母成)峠から会津に入ります。
 一方、その父である大彦主命は、北陸方面を進軍して阿賀川を上り、今の会津まで進軍したところで、武渟川別命と戦陣にて親子の対面を果たしたと伝えられています。

 ※大彦主命(大毘古命)と武渟川別命(建沼河別命)親子が、無事に会えた場所から相津、転じて“会津”の地名が付いたとされています。


       蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!









直毘神社参道石段入口に立つ石灯籠

江戸時代後期の奉納ですが、内藤氏、栗山氏、荒木氏、影山氏、のご先祖様のお名前が見えますが、薄井氏の御名前も見えます。

夢のデパート うすいの薄井家のご先祖様です。








「塵壺」出版のお知らせ

「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 歴史春秋社  ISBN:978-4-86762-057-1

 上製本四六版 444ページ 定価:3,080円(税込)

 5月2日(金)より販売開始です。

 三春昭進堂店頭はもちろん三春はカネサン書店はじめ、県内の有名書店、出版元の歴史春秋社、そしてAmazonでも販売します。

三春城下の饅頭屋主人が販売促進を意図して平成3年から一生懸命に書き記した新聞折込チラシ「塵壺」。その中のコラム396号(令和6年7月号)分までの中から今回の書籍化に際して130号まで絞り込み、三春を中心に歴史や寺社仏閣、そして身の回りのことなど今までの塵壺に加筆・校正を加えまして単行本にまとめました。一家に1冊、そしてご親戚の方にもいかがでしょうか。

 皆様のご用命をお待ちしています。

店主敬具






三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 17:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行



 塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行

岩江地区の舞木や日影、そして郡山市西田町の根木屋、木村などの地名が直毘神社に由来した話が伝わっています。

昔、上舞木にある権現さまと呼ばれる二社大明神(現直毘神社)の境内に大きな櫟(くぬぎ)がありました。







夕方になると、この櫟の影が十町(1090m)も延び、影が届いたところは、「日影」と名付けられたと伝わっており、三春茶屋のちょっと三春よりにある橋、これを日影橋と呼ばれています。

そして「舞木(もうぎ)」という地名の由来は、ある時、もの凄い風が吹いてこの大木が根こそぎ空に舞い上がった。それからこの地を舞木と呼ぶようになったといわれています。  

さらに、根が落ちたところを根木屋と名付けられ、幹が落ちたところを木村と名付けられたといいます。


※根木屋は、根際(ねきわ)から”ねぎや”へ転じ、木村は、きうら、木末(きうら)、きむらへ転じたと伝わっているそうです。







そうした由来の元となる今の上舞木に鎮座する旧舞木村の村社「直毘神社」は、御祭神として、伊奘諾命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、神直毘神(かみなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の四柱の神が祀られています。


 社伝を観ますと、今から二千有余年前、第10代崇神天皇御代10年に諸国鎮撫の為、「まつろわぬ者たち」を征伐するために遣わされた四道将軍(しどうしょうぐん)のゆかりの場所と伝えられています。







 この四道将軍とは『日本書紀』に見られる、崇神天皇が全国平定を目指して派遣した皇族の四人の将軍のことで、東海方面には武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、北陸方面には大彦命(おおひこのみこと)、西道(山陽)方面には吉備津彦命(きびつひこのみこと)、そして丹波(山陰)方面には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、それぞれ将軍として皇軍を率いて平定に向かい出陣します。


 直毘神社(旧二社権現)の由来書には、磐城に入られた四道将軍の一人である武渟川別命将軍率いる皇軍の軍勢は、夏井川の南西の山道より陸奥の真冬を田村郡(たむらこおり)の山奥に進軍して行きます。







その行軍中、道がますます険しくなるばかりか寒さが一段と厳しく、さらに連日の吹雪で疲労と凍傷に悩まされます。阿武隈川の流れを渡り、氷雪の安積平野を横切って、奥羽山脈を越すことは情けにおいても偲び難く、部下思いの武渟川別命将軍は、『朝日さし夕日なお照る』向きの良い場所を選んで軍勢を休めることにしました。


これが今の直毘神社の周辺であったとされています。

 その休息の際に、武渟川別命将軍は、手頃な櫟の木を求めて幣を結んで四柱の神をお祀りし、草々のお供えものを捧げた。

 この四柱の神を二つの社(やしろ)に祀ったので二社権現と称し、凍傷や病気に悩む兵の平癒と戦勝の祈願したのが、現在の直毘神社であるとされていると記されています。

 尚、二社権現を直毘神社と改称したのは、明治六年(1873)のことです。







四道将軍といえば、会津の地名の由来も関連してきますので添えておきます。

 先の武渟川別命は、東海方面を海路進軍して常陸に上陸、岩城から小野、仲田、中郷、鷹巣を経て、後の直毘神社付近で一泊し、二社権現にて戦勝祈願し、さらに北小泉から阿武隈川を越えて、保成(母成)峠から会津に入ります。
 一方、その父である大彦主命は、北陸方面を進軍して阿賀川を上り、今の会津まで進軍したところで、武渟川別命と戦陣にて親子の対面を果たしたと伝えられています。

 ※大彦主命(大毘古命)と武渟川別命(建沼河別命)親子が、無事に会えた場所から相津、転じて“会津”の地名が付いたとされています。


       蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!









直毘神社参道石段入口に立つ石灯籠

江戸時代後期の奉納ですが、内藤氏、栗山氏、荒木氏、影山氏、のご先祖様のお名前が見えますが、薄井氏の御名前も見えます。

夢のデパート うすいの薄井家のご先祖様です。









「塵壺」出版のお知らせ

「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 歴史春秋社  ISBN:978-4-86762-057-1

 上製本四六版 444ページ 定価:3,080円(税込)

 5月2日(金)より販売開始です。

 三春昭進堂店頭はもちろん三春はカネサン書店はじめ、県内の有名書店、出版元の歴史春秋社、そしてAmazonでも販売します。

三春城下の饅頭屋主人が販売促進を意図して平成3年から一生懸命に書き記した新聞折込チラシ「塵壺」。その中のコラム396号(令和6年7月号)分までの中から今回の書籍化に際して130号まで絞り込み、三春を中心に歴史や寺社仏閣、そして身の回りのことなど今までの塵壺に加筆・校正を加えまして単行本にまとめました。一家に1冊、そしてご親戚の方にもいかがでしょうか。

 皆様のご用命をお待ちしています。

店主敬具






三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会 昭和9年5月4日 於皇居内済寧館




皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会


昭和9年5月4日、皇居内済寧館にて開催された皇太子殿下御誕生奉祝の天覧武道大会の記録です。


旧制田村中学校(現県立田村高等学校)の柔道部を出場していました。






田村高校柔道部の大先輩 内藤忠さん宅のお邪魔した際に拝見させていただきました。


名だたる田村の柔道の大先輩が出場されています。






さらに、大日本柔道誌


弘道館出版です。








柔道の歴史や心構えなどが記載されていました。


久しぶりに身が引き締まりました。



三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |