2026-04-30 Thu
40年ぶりの鎌倉散策です。
塵壺に茅ケ崎の洋菓子修行時代のことを記載したせいでしょう、行きたくなりました。
鶴岡八幡宮
台承 4年 (1180年)石橋山での挙兵後、鎌倉に入った源頼朝が居館を新築しこの付近に幕府を聞いたことから大倉幕府の探索がしたくて~
嘉禄元年(1225年)の焼失で幕府が若宮大路東側に移転されるまで、鎌倉の中枢であり、周囲には執政期間の政所が置かれ多くの御家人・被官の屋敷地などもあったと推定される場所を横目に、まずは八幡様参詣!
鶴岡八幡宮参道石段の大銀杏は、1219(建保7)年1月、鎌倉殿 幕府三代将軍源実朝が僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺された際、公暁が潜んでいた「隠れ銀杏」とも呼ばれる。
戦乱によって多くの人々が命を落とした鎌倉には、鬼気迫るような霊気を感じる土地が少なくないと伺ったことがあります。
鎌倉の幕府末期、北条一門800余名が自害した「腹切やぐら」もその一つでしょう。
東勝寺は、北条泰時の時に創建された寺で、石垣を築いて砦のような構造になっていたと伝わっています。
元弘3年(1333)5月、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込みます。
元執権職北条高時は、手勢を率いて北条家の墓所である東勝寺に退却し、体勢を立て直してここで新田の軍勢を防ぐつもりでしたが、新田勢の勢いに打ち負かされなすすべもなく一族郎党と共にこの場所で自害します。
鎌倉市中で戦っていた北条勢も、この地に退却し高時に倣いここで自害、その数800余名。
寺には火がかけられ鎌倉殿はここに滅亡しました。
北鎌倉 建長寺
建長寺は、鎌倉殿 幕府第5代執権・北条時頼が創建した日本初の本格的な禅道場。
中国・南宋から招聘された禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が初代住職を務め、臨済宗建長寺派の大本山として、鎌倉五山の第1位に位置付けられています。
建長寺門前 点心庵
建長寺の名前に由来するけんちん汁だ食せます。
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円相窓と店内の坐禅堂
鎌倉といえば、映画「鎌倉ものがたり」のスタッフさんから依頼があり、三春昭進堂で製作しました。
この世には無い饅頭がコンセプト、名付けて”黄泉国茶屋特製火の玉饅頭!”です。
我が三春も”東北の鎌倉”と呼ばれた小さな城下町です。
鎌倉と名前が付いた映画の協力を三春の小さな饅頭屋が手掛けるというのも何かの御縁なのでしょう・・・
映画を見たら気をつけて見て下さいね!乞うご期待(^.^)


仮粧坂 (けわいさか)経由・・・
化粧坂切通し(けわいざか・化粧坂・仮粧坂とも記される)と言われ、鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つとして知られています。
名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからであるとか、この辺に遊女が住んでいたからと諸説ある。想像力を掻き立てられる名付けの坂です。
鎌倉トレッキングです・・
三春の化粧坂とは大違いですね
そして、たどり着いたのが銭洗い弁財天宇賀福神社
源頼朝が夢のお告げで創建したと伝わる神社。
鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社は通称 銭洗弁天と呼ばれ、お金を洗うと金運が上がると云われています
高徳院(鎌倉大仏) 鎌倉の大佛さま
中井喜一さんとキョンキョンのドラマロケ地
観たことだある方もいらっしゃるはず ♪
鎌倉権五郎景政 力持餅屋
この佇まい~良いですね。
鎌倉権五郎は、平安時代後期の相模国鎌倉を本拠とした坂東平家の武将です。
鎌倉 景正(かまくら かげまさ/平 景正(たいら の かげまさ))と言い、名は景政とも書く。通称は権五郎。
桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、源頼義・義家父子のもとで、奥州で起きた「後三年の役(1083年〜1087年)」で活躍した。とりわけ有名なのは、十七歳の若さで出陣した黄海の戦いにおいて、敵方の矢を右目に受けながらも退かず、武勇を示した逸話が残り、その豪胆さと忠節は武士の鑑として語り継がれ、武勇伝説とともに各地で崇敬の対象となっています。
鎌倉を中心に活躍した景政は、一帯の開拓者としても重要な役割を果たしました。
伊勢神宮に大庭御厨(おおばのみくりや)を寄進するなど、地域の開発に尽力したことが伝えられています。
尚、後三年の役関連でしょう、三春郊外鷹巣の石の宮様にもこの鎌倉権五郎景政が祀られています。
そして、40余年前の茅ケ崎時代にお世話になった小倉先輩と横浜で会食
これも不思議なご縁で、誕生日が同じ1月20日 丸々1年上の先輩です。
実は、朝一番で、逗子マリーナに向かい先輩を驚かそうとおもったら、先輩の別荘マンションは油壷マリーナでした。
連絡を取ったら、迎えに来ていただいてそのまま横浜中華街で40余年ぶりの食事
少し前に突然三春昭進堂へ来店されたときには驚きました。
今度は私の方が・・・と思ったんですが、リサーチ不足でした・残念!
40余年前と同じく、鎌倉から朝比奈インターを通って横浜へ
中華街で食事して、ホテルのバーで一献!
場所もそうですが、会った瞬間に18.19のことに戻ったみたいで、本当に楽しい時間でした。
中華街で食事をして、みなとみらいの海に浮かぶヨットの帆をイメージした「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」のバーでもう一献、先輩ありがとうございます😊
商売の話、生き方の話、人材教育の話等々、スキルアップのために勉強になるいいお話が聞けて、勉強になりました
本当に楽しい時間でした。
次回また横浜で〜
みなとみらいのロープウェイには驚きでした♪
近未来の都市空間が広がっていました。 三春出身の大高正人先生も基本計画に参画していたと聞いています
翌朝は、江ノ電乗って江の島へ
母が、7人姉弟の二番目、そして母以外はみな男、七男一女の姉弟ということで実家の姉弟や親戚には弁天様と呼ばれていました。
母に逢うような心持で、江の島へ
富士見亭で直会 窓の外には富士山が見えています
充実した鎌倉、江の島散策でした。
小倉先輩、改めて御礼申し上げます。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
2026-04-29 Wed
宇賀石さまに新しい御賽銭箱を設置しました。
春先の大雪で枝が折れれ心配しましたが、今年も見事に満開の桜を見せてくれていました。
それに合わせて、劣化の進んだ御賽銭箱を新調しました。
新年度は新たな気分で迎えたいものですね!
折れた枝も、田んぼから引き上げました。
そして春の側溝掃除
これがいい運動になります。
桜花の舞い散る中で汗を流してきました。
至福の時です。
ご褒美は筋肉痛と体力増強!
これから柏餅です~
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 06:31 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
| ryuichi | 03:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2026-04-27 Mon

5月の大型連休の定休日は、端午の節句・柏餅の注文や祝日の関係で変則となります。
5月5日(祝・こどもの日・火) 通常営業
5月7日(木) 店休日
5月8日(金) 店休日
よろしくお願いいたします。
店主敬白
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2026-04-26 Sun
まだ櫻花の残る定休日、ご縁のある笠石八幡の馬頭観世音桜と込木地蔵堂櫻に御礼に参詣いたしました。
先に掃除を済ませていたので山内はきれいです。
この巨石を見るたびにパワーを貰えるような気がいたします。
祖父伝造の名前が刻まれた石板と・・
曽祖母タリの名前の石板
ルーツを感じます。
そして、曾祖父 髙橋民四郎さんの生まれ故郷込木にある地蔵堂と紅枝垂れ桜
やはりご縁ですね、妙に落ち着く空間です。
今があるのもご先祖様のお陰です。
とにかく感謝しかありません。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:07 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |
2026-04-25 Sat
白河小峰城
「白河小峰城」は、関東地方と奥州の防備の要として建てられたお城です。
先祖を小山氏とする結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりです。
結城氏が豊臣秀吉により改易されると蒲生氏、次いで丹羽氏が入り、丹羽長重により近世城郭へと改修され、以降は譜代や親藩の大名が城主となり、以来7家21代の大名が奥州防備の要として居城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城し、白河小峰城は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の舞台となり焼失してしまいました。
約120年の時を経て、平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門が江戸時代の絵図に基づき木造で復元され、市のシンボルとして親しまれています。
幕末の文久2(1862)年、会津藩主であった松平容保は京都守護職に任命され、尊王攘夷派志士の取り締まりや禁門の変において江戸幕府の中心となって動いていました。
そのため会津藩は、鳥羽・伏見の戦いの後、慶応4(1868)年に新政府から追討令を受けます。
西軍は旧幕府軍の主力であり、幕府が将軍慶喜以下が恭順を示しているために、鳥羽伏見戦後も抗戦姿勢を崩さない会津藩を追討対象として東北に軍を送り込み、仙台藩を中心とした東北諸藩に会津藩追討を命令しました。
諸藩は平和的解決を望み、会津藩に降伏を働きかけます。
これを受けて会津藩は降伏嘆願書を提出しましたが、降伏条件が不十分なこともあり西軍はこれを却下。
交渉は決裂し、やがて東北~越後の諸藩による奥羽越列藩同盟が結成され戊辰戦争の場が奥州と移行していきます。
会津藩が新政府側の東軍の通達に対して、罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、仙台藩士が西軍の鎮撫使(監察役)である世良修蔵を殺害した事件から全面戦争へと発展することとなります。
幕末白河藩の藩主・阿部正外が幕府老中として対応した外交問題で失脚し、慶應2年(1866年)白河藩は消滅、藩領は幕府領となっていました。
正外は慶応2(1866)年棚倉藩へ転封され、白河城は二本松藩が守備することになります。そして、新政府樹立時には仙台藩が駐屯していました。
白河口の戦い
慶應4年(1868)4月20日、会津藩「合義隊」、旧幕府軍「純義隊」「新撰組」の約300名が、仙台藩を長とする奥羽鎮撫総監督府管理下にあった白河城を急襲します。
元々、会津藩に同情的な戦意のない奥州諸藩はあっさりと城を明け渡します。
しかし、宇都宮城の戦いに勝利した東軍は、白河城が占拠されたとの報を受けると、そのまま白河へ進軍を続け、25日に白坂宿へ転戦していますが、防御を固めた新選組をはじめとする白河口出張の会津藩兵に撃退され退却しました。
翌26日に、白河口の総督として会津藩別格家老・西郷頼母(さいごうたのも)、副総督として会津藩若年寄・横山主税(よこやまちから)が白河城に入城しました。
また、奥羽鎮撫総監督府から離反した仙台藩、棚倉藩(かつての白河藩士)、二本松藩の藩兵も奥羽列藩同盟を構築して白河城下に到着。
着々と戦力を増強していきました。
西軍もそれに呼応して増員し、その兵力は、同盟軍約2,500人、新政府軍約700人。
新式元込ライフル銃など最新装備の西軍の本隊は奥州街道を進んで小丸山を占拠し、正面から稲荷山の東軍を総攻撃するように見せかけ、その間に他の部隊が稲荷山に兵が集中し、手薄になった雷神山と立石山を棚倉街道と原方街道から迂回し城下へ突入します。
さらに、西軍は稲荷山を周囲から包囲する形で激しく銃撃を加え、さらに城下へと突入し小峰城は落城します。
以前、ある食事会で隣席でご一緒させていただいた方ですが、奥様の旧姓が海老名で級は会津藩湖南奉行そして戊会津戦争の折には白川口軍事奉行として白河城攻防戦の指揮官だった、海老名衛門季久の末裔の方でした。
白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた東北諸藩の列藩同盟戦没者を供養した石塔があり、その傍らに会津藩軍事奉行「海老名衛門季久慰霊碑」があります。
海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行でした。
嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出勤。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。
海老名衛門は、会津藩では公事奉行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。
最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた東軍・奥羽越列藩同盟軍が、西軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものです。
現地案内板参照
長男の季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。
後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。
戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任しています。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。
会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。
後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。
戊辰戦争では家老として新政府軍と戦い、明治後は警視庁警部などを経て若松町長となりました。
妻の海老名リンは、会津の幼児教育・女子教育の先駆者として知られます。
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2026-04-24 Fri
”三春城下 春の終焉”
真照寺参道階段の桜花の洛花掃除~
桜の花吹雪、そして、花びらの絨毯をを十分に堪能させていただきましたので、「日乗山、桜の花も散れば見苦し」の前に掃き掃除。
雑草を摘みながら、アミガサダケを愛でながら・・・・
ソメイヨシノは、花びらの後にサクランボの茎が落ちてきます。
春の締めくくりにはもう少しかかります。
これもこれで、楽しいひとときです。
これから三春城下は、初夏を迎えます!
仏道を習うというは、自己を習うなり
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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