| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-11-09 Sat
三春町文化財保存活用地域計画策定協議会 第3回紙面会議意見書 委員 髙橋龍一
「文化財保護法改正」により、市町の文化財の保存・活用に関する法定計画として「三春町文化財保存活用地域計画」策定協議会を国の文化審議会へ申請しその答申を経て文化庁の認定(国の認定を申請)を目指し、さらに、認定後は本計画に基づき、三春町の文化財の保存・活用についてさらなる取り組みを推進すると承知しています。
現時点の三春町文化財保存活用地域計画策定協議会は前記の文化庁へ申請・答申へ向けての計画策定で、今回のアンケートについては町民の方々の文化財全般に対する意識を広く集めるとともに再認識を促すいい機会であると考えます。
その上で、策定した当該の文化財保存活用地域計画の認定は、少子高齢化の進行による文化財の散逸や衰退を防ぐため、地域社会全体で文化財を継承できるよう、活動主体を確保する取組みを推進し、文化財の保存・活用を目指すものだと思います。
三春の観光資源としての文化財は、旧町・三春城下だけのあるのではなく、それぞれの地域に存在しています。
歴史的な史実はもちろん、それらに付随する信仰・歳時、寺社仏閣や石碑、さらには郷土芸能や風習、そして、地域に伝わる伝承、昔話、伝記、民話、あるいは、方言などたくさんの三春独特の文化財(文化)があります。
本事業は、それらを今一度、現代の表舞台に現して、ストーリー付けするいい機会だと考えるとともに、町内に存在する有形・無形の文化財の調査、記録を重ねて、先人が残した市民共通の財産として地域の皆さんと共に後世に伝えていかなければならない時期ではないでしょうか・・・
広義的な文化財の継承者という意味での時間的な制約の中で、今すぐにでも始めなければという事案もあります。
三春に点在する文化財を“点”として捉えるのではなく、戦国期から近世までの田村領・旧三春藩領、田村庄、小野保など、地域一帯で“面”として捉えれば史跡も神社も伝統芸能も、いずれも地域社会が支えてきたものであり、歴史的な背景をもとに相互に結びついており、これらの文化財を時系列的に様々な時代に於いて連携させてストーリー仕立てにして保存・活用し、田村地方の歴史や文化を改めて再構築することによって、田村エリアをアピールしやすくなると考えます。
さらには、歴史の宝庫である小さな城下町「三春」独特・独自の文化財などの保存・活用を通じて、まちづくりや観光振興など、観光協会や商工会、あるいは個々の会社の事業化につながる方法を探りたいと考えます。
昨今、重要文化財、史跡や名勝、天然記念物のほか、重要無形文化財など、多岐にわたる貴重な文化財は、文化財保護法のもとで行政や地域、あるいは個人で守られてきました。
しかし、実はこれらの文化財の所有者の中には、維持・管理が厳しくなり、それを負担だと感じるケースもあるということも聞こえてきます。
寺社などの建造物の所有者は、その維持や管理に多額の費用がかかります。また、相続の際は税負担も発生する事案もあります。
そして、文化財に指定されると税制上の優遇措置や、保存修理の費用の若干の補助を受けることが可能となりますが、同時に現状変更が許可制になるなどの制約も発生します。
このバランスは難しく、若干の費用のために制約の方をより負担だと考えて、文化財指定を受けないという選択も少なくありません。
また、これらの負担から「町に寄付したい・町で何とかして~」という要望も少なくないと聞き及んでいます。しかし、町は一定の補助は出せても、町が所有する文化財が増えると、維持・管理を賄いきれなくなります。
しかし、過度な補助金への依存体質が、地域の魅力の喪失、低迷の一因であることは、多くの従来型文化財保有エリア・観光地に共通しています。
今後の地域の再生には、まずこのような体質からの脱却が不可欠です。
そのためには、地域がより主体的に取り組むことがこれまで以上に重要になります。
また、「お金をかければいいものができる」時代ではありません。そして、魅力ある町・観光地をつくることも、従来のような行政や一部の観光事業者が関わるだけでは難しく、地域本来の魅力が旅行者に伝えられない時代になってきました。
小さな城下町「三春」は、大型の観光バスで大勢の人がワンサカ来るような場所ではありません。歩いて楽しむまちであり、駐車場に車をとめて、まちの中を歩きまわってはじめてその魅力を肌で感じ、十分に味わうことができる小さな城下町です。
きれいに整備され街並、一方昔懐かしい町並みの面影が残る、単に歴史や文化が感じられるというだけでなく、生活のにおいがする魅力的な小さな城下町。
地元の人々が居住し生活する場であり、近郷近在よりの買物のお客さまが出入りする場であり、さらに近年は 春、桜の時期だけではなく四季を通じて観光のお客様が訪れる魅力的な城下町でもあります。
城下の道は、城下町のなごりで、道路は狭くて複雑であるため、生活に不便な点もありますが、御城坂 北町の坂や桜谷、天狗谷、谷間が多く、道が狭いことがかえってこの街の魅力を高めています。
北国の小さな城下町三春は、城下にこそ魅力があると思います。
城下の隅々を歩く 裏道の路地をぬけ、桜川や裏道の小さな公園にあるベンチでくつろぐ。また、郊外では、稲穂 田園風景や道端の地蔵さんや石碑で心が和む、そして地元の人々とのふれあうなかに本当の魅力を発見します。
このような三春らしさを失わず、小さな観光地として持続させていくためには、過剰な投資をせず、「身の丈に合った地域経営」が必要です。そのためには、官民が役割分担のもとに協働し、知恵と創意工夫で魅力を創り出す体制づくりが望まれます。
三春の歴史文化、歳時、産業などの再確認や連携によって、総合的な三春・田村地域の魅力、地域らしさに結びつけていくことが重要であり、「観光」と「まちづくり」を連携させながら、一体的に取り組んでいく必要があると考えています。
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 |
2024-11-08 Fri
塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行三春城主田村氏三代清顕公の正室、御北御前(於北、於喜多)は、相馬小高城(現・相馬市小高)城主相馬氏十四代当主相馬顕胤(あきたね)公の娘で、天文18年(1549)に三春城下へ輿入れしてきました。
後に米沢城主伊達氏十七代当主伊達政宗公(仙台藩初代藩主)の正室となった愛姫(陽徳院)の母です。
御北御前の婚姻に際して、花嫁於北姫の衣装やお化粧道具の費用、そして相馬家から守役として付いてくる侍女達の賄い料として、相馬領の古道村、岩井沢村、葛尾村、南津島村の4ケ村が田村領へ編入したとされ田村家と相馬家の結びつきの深さを今に伝えています。
さらに御輿入れの逸話として、後の三春城下新町末旧岩城海道庚申坂口に残る「化粧坂」の名称由来となる化粧清水には、この御北御前が城下に入る際に、この清水を使って化粧を直したことからこの名がついたとも伝わっています。
初代田村義顕公の正妻は、磐城大館城(現・いわき市内郷・好間)城主岩城氏十七代当主岩城常隆公の娘、二代隆顕公の正妻小宰相は梁川城(現・伊達市)、西山城(現・桑折町)城主伊達氏十四代当主伊達植宗(正宗の曾祖父)公の娘、そして三代清顕公の正室が相馬家から、さらにその娘愛姫が伊達政宗へと嫁ぎ、三春田村家三代当主の婚姻はそれぞれの時期の仙道(南奥州)地域の利害関係の構図が如実に表されています。
御北御前は、後の立ち振る舞いから推察するに大変に勝ち気で気丈な性格と見受けられますが、姑となる伊達家出身の小宰相とは単に嫁と姑の関係以上に、里(出身)である相馬家と伊達家の戦略的な外交関係がそのままに投影されていたようで、二人の険悪な関係が見て取れる伊達家への手紙なども残っています。
天正14年(1586年)、城主田村清顕が没すると跡目を巡るお家騒動が発生し、争いとなります。清顕公と御北御前の夫婦には一人娘の愛姫以外には子がいなかったので後継者問題があり、家中は、筆頭宿老田村宮内入道頼顕(月斎)を中心とする「月一統」が後押しする伊達派と、小野城主の田村梅雪斎顕盛を中心とする相馬派の御家騒動に発展します。
御北御前は、主君(清顕公)没後は出家したものの、混沌とする戦国期の仙道に於いて主亡き後の田村家を案じて“田村ノ後室”として実権を握って田村家中の陣頭指揮を執り、田村家宿老重臣を掌握しながら実家である相馬家と愛姫の嫁ぎ先の伊達家との均衡を保ってこの混乱を切り抜けようと苦心します。
天正16(1588)年には、田村家中の相馬派は家中掌握のため、甥の相馬家当主相馬義胤(そうまよしたね)が手勢を引き連れて強硬に三春城入場を企てますが、伊達派の田村月斎や重臣橋本刑部顕徳らの指揮する直属の宿直田村不断衆が撃退して撤退させます。
結果的には、相馬派の盟主とされる御北御前を船引舘へ更迭して、伊達政宗が三春城に入城すると、田村月斎や田村梅雪斎など田村家の重臣と協議して田村領の仕置を行い、田村清顕の弟田村氏顕の子である田村宗顕(孫七郎顕季、後に牛縊定顕)を後継と定めて田村家の当主とします。
そして、田村家中の相馬勢力の相馬派38名は小野保領小野城へと撤退させます。
御北御前が居住した船引舘(城)(現舘山公園)は、田村四十八舘の一つで、時の三春城主三春田村初代義顕公の二男で田村起雲斎憲顕(のりあき)によって築かれました。
相馬義胤が三春城入城から撤退した際には、相馬勢は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠城しますが、伊達勢に攻められて敗走します。
その後、政宗の裁断により御北御前を船引舘へ隠居させて、清康を船引城から退去させます。
船引、片曽根山麓には「御前池伝説」の逸話が残っています。史実から御前とは御北御前を指していると考えられます。三春田村家の内乱により三春城から船引城へ追われたことを嘆き悲しみ、田村家の行く末を案じてこの池の身を投げたというものです。
史実では船引城に隠居後、奥羽仕置で相馬中村領の堤谷(堤谷御前の由来)に移り、さらに正宗の招きに応じて仙台城北舘(御北御前の由来)に居住。元和5(1619)年正月21日、仙台城下にて亡くなっています。
法名玉質性金大姉。亡骸は仙台城下金剛寶山輪王寺に埋葬されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
おかげさまで 塵壺400号発行!
平成3年3月に発行して今回で400号となりました。
これもひとえにお客様からの励ましや誤記載や誤字脱字の修正及び指摘などのご指導ご鞭撻のお陰だと思っております。
衷心より御礼を申し上げます。
今回400号発行と発行者の店主が、今年還暦を迎えたことを期に製本化することにいたしました。
詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。
今後ともよろしくお願いいたします。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 22:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
2024-11-08 Fri
塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行
三春城主田村氏三代清顕公の正室、御北御前(於北、於喜多)は、相馬小高城(現・相馬市小高)城主相馬氏十四代当主相馬顕胤(あきたね)公の娘で、天文18年(1549)に三春城下へ輿入れしてきました。
後に米沢城主伊達氏十七代当主伊達政宗公(仙台藩初代藩主)の正室となった愛姫(陽徳院)の母です。
御北御前の婚姻に際して、花嫁於北姫の衣装やお化粧道具の費用、そして相馬家から守役として付いてくる侍女達の賄い料として、相馬領の古道村、岩井沢村、葛尾村、南津島村の4ケ村が田村領へ編入したとされ田村家と相馬家の結びつきの深さを今に伝えています。
さらに御輿入れの逸話として、後の三春城下新町末旧岩城海道庚申坂口に残る「化粧坂」の名称由来となる化粧清水には、この御北御前が城下に入る際に、この清水を使って化粧を直したことからこの名がついたとも伝わっています。
初代田村義顕公の正妻は、磐城大館城(現・いわき市内郷・好間)城主岩城氏十七代当主岩城常隆公の娘、二代隆顕公の正妻小宰相は梁川城(現・伊達市)、西山城(現・桑折町)城主伊達氏十四代当主伊達植宗(正宗の曾祖父)公の娘、そして三代清顕公の正室が相馬家から、さらにその娘愛姫が伊達政宗へと嫁ぎ、三春田村家三代当主の婚姻はそれぞれの時期の仙道(南奥州)地域の利害関係の構図が如実に表されています。
御北御前は、後の立ち振る舞いから推察するに大変に勝ち気で気丈な性格と見受けられますが、姑となる伊達家出身の小宰相とは単に嫁と姑の関係以上に、里(出身)である相馬家と伊達家の戦略的な外交関係がそのままに投影されていたようで、二人の険悪な関係が見て取れる伊達家への手紙なども残っています。
天正14年(1586年)、城主田村清顕が没すると跡目を巡るお家騒動が発生し、争いとなります。清顕公と御北御前の夫婦には一人娘の愛姫以外には子がいなかったので後継者問題があり、家中は、筆頭宿老田村宮内入道頼顕(月斎)を中心とする「月一統」が後押しする伊達派と、小野城主の田村梅雪斎顕盛を中心とする相馬派の御家騒動に発展します。
御北御前は、主君(清顕公)没後は出家したものの、混沌とする戦国期の仙道に於いて主亡き後の田村家を案じて“田村ノ後室”として実権を握って田村家中の陣頭指揮を執り、田村家宿老重臣を掌握しながら実家である相馬家と愛姫の嫁ぎ先の伊達家との均衡を保ってこの混乱を切り抜けようと苦心します。
天正16(1588)年には、田村家中の相馬派は家中掌握のため、甥の相馬家当主相馬義胤(そうまよしたね)が手勢を引き連れて強硬に三春城入場を企てますが、伊達派の田村月斎や重臣橋本刑部顕徳らの指揮する直属の宿直田村不断衆が撃退して撤退させます。
結果的には、相馬派の盟主とされる御北御前を船引舘へ更迭して、伊達政宗が三春城に入城すると、田村月斎や田村梅雪斎など田村家の重臣と協議して田村領の仕置を行い、田村清顕の弟田村氏顕の子である田村宗顕(孫七郎顕季、後に牛縊定顕)を後継と定めて田村家の当主とします。
そして、田村家中の相馬勢力の相馬派38名は小野保領小野城へと撤退させます。
御北御前が居住した船引舘(城)(現舘山公園)は、田村四十八舘の一つで、時の三春城主三春田村初代義顕公二男の田村起雲斎憲顕(のりあき)によって築かれました。
相馬義胤が三春城入城から撤退した際には、相馬勢は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠城しますが、伊達勢に攻められて敗走します。
その後、政宗の裁断により御北御前を船引舘へ隠居させて、清康を船引城から退去させます。
船引、片曽根山麓には「御前池伝説」の逸話が残っています。
史実から御前とは御北御前を指していると考えられます。
三春田村家の内乱により三春城から船引城へ追われたことを嘆き悲しみ、田村家の行く末を案じてこの池の身を投げたというものです。
史実では船引城に隠居後、奥羽仕置で相馬中村領の堤谷(堤谷御前の由来)に移り、さらに正宗の招きに応じて仙台城北舘(御北御前の由来)に居住。元和5(1619)年正月21日、仙台城下にて亡くなっています。
法名玉質性金大姉。亡骸は仙台城下金剛寶山輪王寺に埋葬されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
おかげさまで 塵壺400号発行!
平成3年3月に発行して今回で400号となりました。
これもひとえにお客様からの励ましや誤記載や誤字脱字の修正及び指摘などのご指導ご鞭撻のお陰だと思っております。
衷心より御礼を申し上げます。
今回400号発行と発行者の店主が、今年還暦を迎えたことを期に製本化することにいたしました。
詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。
今後ともよろしくお願いいたします。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2024-11-07 Thu
三春昭進堂の看板の一つ「花神」~花咲爺さん~
郡山出身の彫家三木宗策先生の作品です。
ご縁があり、三春へとの思いから譲ってもらった家宝です。
郡山出身の彫家三木宗策先生墓碑修復について
三木宗策先生の墓碑が郡山清水台の善導寺にあり、東日本大震災以来崩れたままになっているとのことで、その修復費用捻出の寄付のお願いという郡山市立美術館友の会事務局からの案内です。
三木先の生没後80年となる来年、美術館友の会も結成30年となり、記念事業として三木先生の墓碑修復という運びになったということです。
郡山の文化芸術を先導された三木先生の遺徳を忍び、心ばかりを浄財として収めたいと思います。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:09 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-11-06 Wed
綾小路きみまろ 爆笑スーパーライブ 郡山公演 2024
けんしん郡山文化センター(郡山市民文化センター)
2025年1月24日(金) 14:00開演
入場料
前売 5,500円(税込) 当日 6,000円(税込)
※18歳未満入場不可
[プレイガイド]
◆チケットぴあ(Pコード 530-214)
◆ローソンチケット(Lコード 21405)
◆一休さん大黒堂 郡山若葉町本店
◆けんしん郡山文化センター
※ 三春昭進堂でも、広告代理店エージェント枠の特等席(3列、4列目)のチケットをご案内しています。
早いもの順です。
電話にて問い合わせください。三春昭進堂 0247-62-2272
お問い合わせ
KFB福島放送
TEL:024-933-5856(平日のみ受付)
10:00~17:00
| ryuichi | 03:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
| ryuichi | 03:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
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