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三春藩駒奉行 徳田研山三代の墓





徳田研山三代の墓

荒町竜穏院、向って左手の丘の中腹に、徳田家の墓がある。

研山の名で、馬の絵をよく描いた、好時、好展、甘露の、いわゆる徳田三代-研山三代の墓が列んでいる。

初代研山は三之丞好時、七代藩主倩季(よしすえ)に仕え、大坪流の馬術を修め、天明4年5月に駒奉行所に召出され添役となり、文化4年奉行に昇進、文政3年には江戸邸監に補せられている。

天保2年死去。


三之丞は絵を学び、山水花鳥も画いたが、特に武者及び馬の絵に秀でていた。

羅漢や鹿山との交友も深く、藩主も之を賞その絵を封外に出すことを禁じた程である。


初代研山は、絵を学ぶ道は、画帳を摸写するだけでなく、自然の風物を写生することが大切だとして、放牧馬の写生に専念したという。

その作品は地方の旧家で見ることが出来るが、荒町の馬頭観音と三春大神宮(文化14年奉納)の絵馬額が絶品と言ってよかろう。







二代研山好展は通称三平、弘化3年大坪流馬術の皆伝を受け、嘉永4年に駒奉行になっている。

父の画才を継いで、やはり、馬絵をよくした。

大作として現存しているものは、荒町馬頭観音の献額、法華寺天井の龍の図がある。

なお、三春大神宮の木馬像は、石森の伊東光運の作だが、その下絵と製作指揮は、この二代!研山だったと伝えられている。



三代研山も三平といい、甘露とも号した。

藩政末期から明治にかけて、これも専ら馬の絵をかいたが、その作品は、到底父祖の雄渾さには及ばなかった.




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:03 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記秋田氏五万石雑記::三春秋田氏五万石雑記 |
KFB福島放送 ふくしまSUPERらーめん道 放送は、12月7日(水)シェア第二部午後6:15分~




KFB福島放送 ふくしまSUPERらーめん道

放送は、12月7日(水)シェア第二部午後6:15分~



三春の県民リポーターとして坂寄アナウンサーと共に三春城下の三条屋食堂をご紹介いたします~



あのラーメンも外せません!







らーめん道も20年超を迎え7日放送の三春編が999回目の放送です。


お楽しみに!





「シェア」水曜は“らーめん道” 18時台!


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯 |
「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5





「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5

戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。


「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。


「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。

三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。






「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。 

三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘

舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。


「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。

舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[


「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。

正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。

奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。

後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。


「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。

田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。


「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。







「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。

三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。


「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝







先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。


「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。


訂正いたします。


| ryuichi | 03:04 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
塵壺377号 「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5 




「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5

戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。


「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。


「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。

三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。






「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。 

三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘

舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。


「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。

舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[


「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。

正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。

奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。

後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。


「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。

田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。


「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。


「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。

三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。







「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝






先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。

「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。

訂正いたします。


| ryuichi | 03:01 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
「おたりパン」




「おたりパン」


明治中期頃に創業以来、地元のみならず多くのお客さんに親しまれ続けている「三春昭進堂」。

そして「三春昭進堂」の名物といえば「おたりまんじゅう」ですが…?

実は口コミなどを通して現在人気急上昇中のお菓子があるんです!





その名も「おたりぱん」!あんパンのような見た目で、サイズはおまんじゅうよりやや大きめ。

一体これはパンなの?おまんじゅうなの?とっても不思議な和菓子です!

パンと焼き菓子の中間を狙った食感!

見た目もさることながら、「おたりぱん」は食べたときの食感もとっても不思議!

パンと焼き菓子の中間の食感を狙ったという生地はサクサクだけどモッチモチ!?なんとも表現し難い…けれども病み付きになる食感です!

また、中身の餡は北海道産で、中双糖(ザラメ)というコクのある砂糖を使用。

香ばしい生地との相性は抜群です!






「おたりぱん」は現在、口コミを中心にじわじわと人気が拡大している注目の和菓子。老若男女問わず幅広い世代から支持されています。

お土産はもちろん、お花見のお供にも最適♪


ご家族と、ご友人とぜひ「おたりぱん」の不思議な食感をご堪能ください!








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:13 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子  |
鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記
  
  鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記

太祖、征夷大将軍従三位大納言坂上田村麻呂より三十一代の末、田村右衛エ門隆信(船引舘主)の嫡子善内俊顕。

天正十六年六月、伊達政宗に随い常陸の佐竹義重、白川義親等と安積郡久保田に於いて合戦するも敗北となり単騎田村郡に帰還し鷹巣邑舘(たかのすむらたて)に居す。

其の後、文禄四年に至り本山修験(聖護院か?)となり般若院顕光と号す。慶長二年、卒す。

是より五代般若院清山周光般若院跡継、田中山讃州金毘羅大権現は軍中心願の依り慶長二年、当所謹請にして金毘羅様、金神様、不動様の三体ありと言い伝えがあり。

その後文政十一年金毘羅堂を再建せりという。

明治元年、王政維新の際、発布された神仏習合不相成御趣意(神仏離反・廃仏毀釈)に付き右(前記)三体を疎開して御堂を壊したという。

現在は一体で、之は昭和六年亀元翁北ノ内橋本喜平宅より戻せしなり 石段と石造の手洗い鉢一個を現存す。

字梅乃木作山頂の般若檀に無名の石碑あり、之は般若院般若坊を葬したという。

尚、前記五代般若院清山という法印故ありて上大越の修験喜明院に入夫に行き院家中絶す。

清山法印に弟あり善衛エ門という瀬山の橋本仁衛門方にいる聟(婿)となり、仁平と改名す。享保十一年十二月卒す。

此の人我が生家の断絶を嘆き男子を引き連れて来り、安達郡和田の岩角寺に遣り学問をなさしめ修験となし威徳院存光と称する。之によって院家再興せり。

之により姓を橋本という。


明和四年、方光(よしみつ)梅右衛門十八才となり北ノ内に分家せり。文政二年七月上京、前正別当権大僧都三僧祇法印賢光 天保十年七月。

嘉永五年十一月再度上京、若王子殿御直院となる。

明治二年御一新につき神主職琴平神社神主となり復姓し田村大和と号した後に清見と改む。明治五年二月、磐前縣より五番中学区鷹巣小学校校長を申し付けられる。

明治三年二月上京、品川神社神官小泉勝麿の門に入り神拝式奉幣式の伝授を受けて帰国。同年十二月家督相続神職を継ぐ。

同四年八月太政大臣の公布に依り全国一般神官神職の世襲を解かれ帰農の上民籍編入。

神職田村真紀、明治二十一年教導小講義に補され、明治四十一年社掌となる。


嫡子亀元翁、明治二十年より小学校教師、同三十一年より三春葉煙草専売局員、同三十四年、郡山地方裁判所職員、同三十六年縣蚕病予防史員を歴任す。

本宅の造築は何年頃か詳かならざれども凡そ三百年以前(令和余年記す)のものと推考する。

土蔵は明治十年頃、勇翁の新築也と伝之聞く、その後湿地の為大破に及び、昭和二十八年一月泰寿地上八尺通り石を以て改造せり。

以上は田村家の秘蔵並びに言い伝えを拝承に記して先祖代々の霊祭執行及び建立の記念とす。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:06 | comments (x) | trackback (x) | 旧中妻村::鷹巣 |
本日火曜日は定休日となっています。


本日火曜日は定休日となっています。

またのご来店をお待ちしています。


「ぎゅぎゅっと。みはる」送料無料キャンペーンにつきまして、12月も継続となります。

引き続き、宜しくお願いいたします。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯 |