2009-12-10 Thu
私の好きなお坊さんに良寛和尚がおられる。好きだと行っても特別知己を得たわけでもないし、直接お目にかかったわけでもない。
ただなんとなく親しみがあるだけだ。特別の感情もあるわけでもない。しかし和尚の書の素晴らしいことだけは自分なりに理解できる。
和尚の草書はホントに素晴らしい。
手鞠をついたり、かくれんぼうをしたり、子供たちとただ遊んでいるだけではこういう書は出来るものではない。
勿論才も溢れているだろうが、古典に則った学習も必要だろう。
托鉢をし、乞食坊主と呼ばれながら一生涯を過ごした良寛和尚、「人を隔つるこころ」を憎み、雪国の厳しい自然のなか、山中の五合庵で己れの孤独に向かいあいながら、聖でもなく、俗でもない道を選びとった求道者良寛、和尚の生と思想はあまりにも多様であり、人々は自らの生き方に応じて良寛と向かいあうことが可能であるような気がする。
良寛はいつの時代にあっても、日本人あるいは世界人にとって親しく、はかりしれない魅力と飽きることのない滋味あふれる「永遠の人」としてあり続けてきた。
どうもわが国では托鉢僧、すなわち乞食坊主という概念があるようだが。
良寛の例、しかり、仏教では、一般には修行の身で、お金という俗物とは無縁の存在、身体の維持のみのため托鉢をおこなうようだ。
あるいはある目的のため募金を目的に托鉢して回ることもあるようだ。
回首五十有余年
人間是非一夢中
山房五月黄梅雨
半夜蕭蕭灑虚窓
良寛禅師
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