「曹洞宗秋田山龍穏院」“四諦(したい)四苦八苦“
北国三春も梅雨が明け、木々が今を盛りに夏の暑さを楽しんでいるかのようです。
そんな夏の喧噪をよそに、涼しげに佇む荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移したと云う禅宗の古刹で、鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家十一代の菩提寺です。江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。
平均寿命の短かった江戸期、藩主はじめ領民が生きる支えとして仏教へ帰依し、心の拠り所として信仰を集めました。
幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました、今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。
ご本尊の釈迦牟如来は、今日まで三春に生きる私たちを導いているようです。
龍穏院には、お彼岸の時だけ掛けられるという、土佐断金隊隊長美正貫一郎の書いた掛け軸があります、私も多少のご縁があり時折足を運んでおりますが、仕事柄彼岸の頃は仕事に追われその掛け軸をまだ見る機会に恵まれておりません。
美正貫一郎という人は、幕末戊辰戦争に於いて会津藩に就くか、薩摩長州土佐を中心とする西軍に就くか、未曾有の混乱の中で三春藩が選択を迫られた時、三春攻め直前に三春藩恭順派を受け入れ、戦塵から三春を救った土佐藩士です。
土佐金隊 美正貫一朗
毎年、春と秋の彼岸の期間中に、龍穏院小書院に掲げられる掛け軸があります。
作者は、戊辰戦争当時、三春を戦火から救った土佐断金隊隊長「美正貫一朗」です。
美正貫一朗は、天保15年(1844)1月〜明治元年(1868)7月28日、医師・下村惇斎の次男として生れ、23歳で高知城下南奉公町の徒士格美正家を継いだ。胆力があり機敏な人であったという。明治元年戊辰戦争では迅衝隊一番隊司令として出征した。同年3月2日甲州に入り浪士掛探索役となったが、江戸到着後、甲州の有志を中心として遊撃隊を組織し、断金隊と称してその隊長となり、恩愛よく部下を掌握した。
閏4月21日今市に戦い、各地の探索と宣撫工作を続けて北上し、貫一郎の献身的な周旋によって奥州越列藩同盟の一角であった三春藩の無血開城が実現し、彼の徳を慕う有力者から三春滞留を求められたが実現せず、慶応4年7月27日二本松城攻略のため本宮に向う途中、阿武隈川渡河の際、銃弾に当って戦死した。
| 美正貫一郎 (土佐藩士) |
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安東愛季 1539年〜1587年
檜山安東氏。安東舜季の男。檜山安東氏8代。秋田氏初代。通称安東太郎。官位は従五位上。「斗星の北天に在るにさも似たり」と呼ばれた北出羽の驍将。
湊安東堯季の女を母とし、堯季が没したとき継嗣がなかったので湊安東氏を継ぎ、檜山・湊に分かれて抗争していた両安東氏はついに一統された。愛季は時代の感覚に優れ、1562年には上杉輝虎と連絡を持ち、早くから織田信長・豊臣秀吉に通じ、日本海航路を最大限に利用して京都・中央の情報を素早く入手すべく努力を払った。
最上義光と結んで出羽南部への進出を画策、また北隣・東隣の南部氏らと抗争し、秋田郡を中心として出羽北部に覇を唱えた。1562年比内に侵攻して長岡城に浅利則祐を自刃せしめ、その弟勝頼をして比内地方を治めさせた。
1566年南部領鹿角郡へ侵入し、長嶺城・石鳥谷城などを陥落させたが、年を越えても長牛城に拠る一戸友義はよく守備したため愛季も撤退。しかし同年(1567年)冬愛季は再び鹿角郡へ迫り、谷内城・長牛城を攻略、南部勢を鹿角郡より逐う。ところが1568年春南部晴政は南部信直・九戸政実らを率いて鹿角郡奪回に動き、愛季も鹿角郡より撤退。
1569年娘を北畠顕村に嫁がせている(のち津軽為信が浪岡御所を襲撃すると、北畠氏は安東氏を頼っている)。1577年に脇本城を修築(安東氏は脇本城主として登場することもあり、首都機能として檜山城、防衛機能として脇本城に居住したことも考えられる)。1578年織田信長に使者を派遣(このとき蛎崎正広も同道)。
1587年春、唐松野において戸沢盛安と戦って敗退するなど苦戦していたが、対陣中に急死した。享年49歳。秋田氏を称して安東氏とゆう旧勢力の脱皮を目指し、東北の弱小大名でありながらより早く近世大名への脱却を果たさんとする野心家でもあった。没年は1589年説もある。