| ryuichi | 09:09 | comments (x) | trackback (x) | 「日暮硯」堂守ブログ |
2011-12-27 Tue
福島テレビ「サタふくー自転車でGO!三春昭進堂」をyoutubeで見れるようになりました。
福島テレビ サタふく「自転車でGO!」は、如何だったでしょうか?
番組終了と同時に、大勢のお客様のご来店とともに、電話が鳴り響きました。
「テレビ見たよ!」「ずいぶん長い放送だね」「これコマーシャルだったら幾ら係るんだろうね?」「饅頭発送ください!」等々、皆様方の声が届きました。
本当にありがとうございました。
2011-11-25 Fri
三春ウォーク2011が「勤労感謝の日」の11月23日(水)に開催されました。
10キロのハイキングコースでしたが、山間の城下町の寺社仏閣巡りの上に、集合場所が旧三春城(舞鶴城)のお城山公園ですので、トレッキングと呼んだ方が正確だったかもしれません。
第3チェックポイントの真照寺の参道入り口にある当三春昭進堂には、大勢のお客様がウォークの途中ご来店いただきました。
ありがとうございます。
また、お帰りの際もお土産等をお買い上げありがとうございました。
事前の昨日、三春城下のシンボル「お城山」に沢山の方が入城するというので、我らが親分赤井氏の数年来の念願だった「三春城御旗立て作戦」を実行しました。
赤井親分引率の元、いそいそと竹伐りからの旗竿つくりあら設置までと半日お城山で格闘していました。
初めてで、手さぐりの試みということで、試行錯誤を重ねながらの決行でしたが、何とか6本をお城山に、2本を真照寺参道に建立しました。
その後の反省会では、来年の成功を祈願し一献傾けました。
メンバーですか?あと一人「チャンチキ」がいます。
次年度に向けてメンバーを募集します!
2011-11-21 Mon
真照寺阿吽講「小川ロン冬枯れコンサート」
先日、さすらいの吟遊詩人「小川ロン」さんのコンサートに行ってきました。
毎度ながら、心に響く歌と楽しいトークで会場となった菊川屋双龍ホールでは、お客さんがコンサートをおもいおもいに楽しんでいました。
ロンさんも、8月には大病を患い3週間にわたる入院生活をされたそうです。
今回の冬枯れコンサートも、東北復興応援と自身の病気回復コンサートとしていました。
MCで、大病しても尚ギター一本で、日本全国を旅しながら歌っていられる幸せのありがたさを話されていたのが印象に残りました。
コンサートの合間に、滋賀県野洲の「和裁ひまわり会」代表の新征子さまから東北の被災された方々のためにと預かってきた琵琶湖のシジミを加工した、和裁シジミストラップを頂戴いたしました。
新様ありがとうございます。
| ryuichi | 05:45 | comments (x) | trackback (x) | 「日暮硯」堂守ブログ |
2011-11-14 Mon
明日、11月15日は、旧暦の10月20日に辺り、「えびす講」です。
新暦の七五三でもあり、日頃の感謝の気持ちを込めて、本日ご来店のお客様に「紅白まんじゅう」進呈いたします。
休まず営業です。
昭和30年代
商家が商売繁盛を祈念して、恵比寿神を祭る行事が恵比寿講です。
恵比寿講とは、商売の神様である恵比寿様と大黒様を奉り、商売繁盛を祈念するお祭りのことです。
我が家もこの日にはちゃぶ台に恵比寿様と大黒様の像を飾り、赤飯を山盛りにして、お頭付きの鯛、大きな五目玉の算盤、大福帳、お金等商売に関連する道具にけんちん汁等のご馳走を並べて祝っていました。
関東・東北では旧暦十月二十日に行うことが多いため、「二十日恵比寿」と言い、関西では正月十日に行うところから「十日戎」と言います。
商人の家で行う恵比寿講さまは、恵比寿様の像を飾った座敷に商品を並べ、座敷にある道具類も含めて、招かれた人々が買い方と売り方に分かれて売ったり買ったりするまねをします。
双方が「千両」「万両」などと縁起をかついだ高い値をつけ、「売りましょう」「買いましょう」と言って手打ち式を行って締め、そのあとでごちそうを食べて祝うのです。ここから、とてつもないもうけ話のことを、「恵比寿講のもうけ話」などと言ったりするそうです。
昭和50年ごろ
神無月にすべての神が出雲へ行ってしまう中、出雲に里帰りをしないで留守番をする例外的な神様、「留守神」様も考えられました。
例えば、農村の村境などに祭られている塞の神も、里帰りの費用もないほど貧乏で子だくさんだったから、などという理由がつけられ、出雲帰りをしない神と言われています。
なかでも、一般庶民に台所の神、家の神として祭られる「恵比寿」さまは、留守神としてよく知られています。
恵比寿さまは、「夷」や「戎」とも書き、異郷からやってきて、人々に幸福をもたらしてくれる来訪神(まれびと)としてあがめられ、もともと漁業の神として漁民に信仰されましたが、農村では田の神として信仰され、都市では商いの神、市神として、特に商人の信仰が厚かったと伝えられています。
そこで、留守をあずかる恵比寿神を慰めるため、十月には「恵比寿講」を行って盛大に祭ります。
昭和57年の当店
昭和40年ごろ
2011-11-04 Fri
「海を見ていた午後」ユーミン山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
今月、文部科学省主催の平成23年度「地域とともにある学校づくり」推進協議会が横浜の山下公園近くの横浜開港記念館で開催されます。
私も三春小学校運営協議会の会長という役目がら出席してきます。
横浜は久しぶりです。
数年前に、出張があった時以来の訪問になります。
前回は宿泊で、しかも、車での移動だったので、時間を取って山下公園付近の散策に行きました。
山下公園から外人墓地やら山手十番館やら、そしてお目当てはほろ苦い思い出のある「山手のドルフィン」でした。
1961(昭和36)年創業のカフェレストラン。
海を見下ろす夜景が楽しめるので、横浜ドライブの帰り道に寄るのにぴったりの、
デートスポットとして最適のロケーションにあります。
ユーミン(荒井由実時代)の「海を見ていた午後」で歌われています。
最後にお邪魔したのは、もう30年位前の茅ヶ崎での洋菓子修業時代(茅ヶ崎駅前サフラン洋菓子店)でした。
高校を卒業して福島の田舎から出てきたばかりのケーキ職人見習いに、休みのたびに神奈川在住の先輩方は、やさしくいろんな場所に連れていってくれました。
横浜山下公園や外人墓地、港の見える丘公園。
江の島や鎌倉、葉山マリーナとベンチャーズや、1978年にTBSドラマの『やあ!かもめ』の舞台にもなった「ラ・マーレ・ド・茶屋(金曜ロードショウのオープニングにも使われた)」、はたまた大磯ロングビーチなどなど・・・・
何故か、サザンやユーミンの歌を聴きながらです。
サザンではパシフィックホテルや烏帽子岩の解説を聞き、ユーミンでは中央フリーウェイなどなど・・・[山手のドルフィン]もこの類です。
その頃は、もっと小さい喫茶店で、平日の午後は割と空いていて、
修行先の洋菓子店の定休日に、ガールフレンドを誘って、デートでのドライブの途中に海を眺めに何回か行ったことがありました。
しばらく来ないうちに、お店は大型リニューアルが施されていましたが、青臭かったケーキ修業時代を懐かしく思い出していました。
夢や希望にあふれ、何もかも楽しく、煌びやかだったあの頃・・・
ここ「山手のドルフィン」が一番の思い出の場所です。
店の雰囲気や客層、景色までもずいぶん変わってしまって、何となく切ない、少し寂しいドルフィンでした。
あの頃は、若者特有の夢や希望であふれていたような気がしていましたが、アラ50’の年代になった今の方が夢や希望が多いように感じます。
若いころの夢とは、不安の裏返しで夢を探していたような気がします。
しかし、今は、経験値の中で自信が出てきたのでしょう、実現を前提にした夢が見れるようになった様な気がします。
矢沢永吉の語録は数知れませんが、その中一つでこう語っています。
「うぬぼれと言うといやらしく聞こえるけど、
考え方一つ変えていい取り方すれば
うぬぼれ屋ほど自分の主張を大切にしているんですよ。
前向きなうぬぼれならいくらうぬぼれてもかまわないんです。
それは言い換えれば自信だから。
自信ということは何かといえば責任なんですよ」
永ちゃん最高!
今回は時間がとれそうもないのでドルフィンにはいきませんが、やはり「思い出は綺麗なまま」がいいですね。
なんでハートカクテル?
それっぽいでしょ!
2011-11-01 Tue
双葉地方広域市町村圏組合消防本部富岡消防署
福島第1原発事故で放水活動を行って帰京した東京消防庁ハイパーレスキュー隊員らの活動報告会が行われ、隊員からの活動報告を受けた石原慎太郎知事は、出場したHPレスキュー隊員とその家族に向けて、
「まさに命がけの国運を左右する戦い。生命を賭して頑張っていただいたおかげで、大惨事になる可能性が軽減された」
何度も言葉を詰まらせながら感謝を述べて涙を隠さず、深々と敬礼していました。
まさに、今の日本人の心境を代弁していただきました。
この事案は、東京消防庁HPレスキューだけではなく、初動期に出場し六名の負傷者まで出した、双葉地方広域市町村圏組合消防本部の署員の方々とそのご家族にも同じことが言えます。
彼らは、今尚、原発から30キロ圏内の川内村出張所に本部機能を移し、通常消防救急業務という任務遂行のため、被曝の恐怖に耐えながら勤務しています。
24時間体制勤務、屋内退避地域のため、空調もつけず、防護服着衣用のまま車庫内に医療用エアテントを張って寝泊りしているそうです。
福島原発に一番近い消防隊として身の危険を顧みず、一難に駆けつけ地域住民の避難誘導、原発内での救急及び救助等、命がけで任務を遂行していただきました。
普段から、原子力のこわさを熟知している部隊ですから、隊員の胸に去来するその恐怖は並大抵のものではなかったはずです。
また、その命令を出す消防本部指令当直長や現場指揮官である隊長など、下命する指揮官たちの苦悩も想像を絶することはいうに及びません。
地域を、そして日本をまもるという使命と、目の前にある危機回避という任務遂行のため命がけで現場に出場する隊員、そしてその家族の方々の顔が脳裏をよぎったことでしょう。
東京へ帰還したHPレスキュー隊の隊長たちの会見にもありましたが、
出場した隊員たちの奮起奮闘そして任務遂行、そして放射能を熟知しているからこその恐怖心との戦い心境など、やはり言葉を詰まらせての報告でありました。
そして最後に隊員の家族へ向けて
「隊員は士気が非常に高く、よくやってくれた。残された家族には本当に申し訳ない。お詫びとお礼を申し上げたい」
隊長たちが目を潤ませながら語っているのを見ましたが、双葉地方広域市町村圏組合消防本部の隊長たちも同じことが・・・と思うと、同じ福島県人として、胸が締め付けられ目頭が熱くなりました。
壬生義士伝で新撰組斉藤一役を演じた佐藤浩一さんによる、
「生きているということ」谷川俊太郎作の朗読です。
東北関東沖代震災復興支援プロジェクトkizuna.com
政治的な背景は無視して、現場では国を憂い、国民を・家族を守るため命がけで戦っている日本人が居ることを誇りに思います。
まさに、石原慎太郎都知事の言葉を借りるならば、
「このすさんだ日本で、人間の連帯はありがたい、日本人はまだまだすてたもんじゃないということを示してくれた」ということだろうと思います。
「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚めることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた
私的な潔癖や徳義に拘って 本当の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずして何時救われるか
俺達は、先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る
まさに本望じゃないか」
吉田満著『戦艦大和ノ最期』より
地域における被曝医療訓練
福島原子力発電所被災における初動対応時系列
① 消火・搬送
・福島第一原子力発電所(1号機)において爆発が発生、負傷者4人
・福島第二原発3km圏内の住民を消防により要援護者等の搬送支援を実施(12 日)
・福島第一原発から10km 圏内の病院の入院患者(自力避難困難者21人)と病院関
係者の避難を実施。
関係者のスクリーニングを行った結果、3人について除染後も高い値が検出されたため、
第2次被ばく医療機関に搬送。この搬送に関係した消防隊員60人のスクリーニングで3人について、
バックグランドの2倍程度の放射線が検出されたため、60人に対し除染を行った。(12 日)
・14日11時1分頃、福島第一原子力発電所(3号機)において白煙が発生
双葉地方広域市町村圏組合消防本部の救急隊2隊、救助隊1隊が出動し、負傷者6人
を搬送(14 日14 時50 分時点)
・福島第一原発から4号機において火災が発生した旨の通報があり、双葉地方広域市
町村圏組合消防本部から6隊21人が消火のため順次出動→自然鎮火した模様(16日)
・福島第一原発から20~30㎞圏内の病院の患者の一部について、県内応援隊によ
り除染ポイントまで移送し、滋賀県隊により他の病院まで搬送。(17 日)
② ①以外の対応
・原子力保安院からの要望を受けて、福島県原子力災害対策センターにいわき市消防本
部及び双葉地方広域市町村圏組合消防本部が参画(12 日)
・原子力安全・保安院から施設を冷却するための装備を持った部隊を派遣してほしい
との要請があり、福島第一原発に東京消防庁のハイパーレスキュー隊及び仙台市消防
局の特殊装備部隊の派遣を消防庁より要請→原子力安全・保安院の要請取り消しによ
り、中止 (12 日)
・「官房長官指示」により、消防庁から下記の消防本部に協力要請し、合計4台の消
防ポンプ自動車を東京電力に貸与。
○郡山地方広域消防組合消防本部(2台)13日20時45分到着
○いわき市消防本部(1台) 14日 0時45分到着
○須賀川地方広域消防本部(1台) 14日 0時45分到着
・「官房長官指示」により、消防庁から下記の消防本部に協力依頼し、合計8台(総
計12台)の消防ポンプ自動車を東京電力に貸与。
○米沢市消防本部(1台) 14日21時45分到着
○会津若松地方広域市町村圏
整備組合消防本部(1台) 14日19時10分到着
○宇都宮市消防局(2台) 14日21時50分到着
○さいたま市消防局(2台) 15日 1時15分到着
○新潟市消防局(2台) 14日23時45分到着
・ 総理大臣から東京都知事に対し、福島第一原発への特殊車両等の派遣の要請があり、
都知事がそれを受諾(17 日夜)。
それを受けて消防庁長官が東京消防庁に対し、福島
県への緊急消防援助隊の派遣を要請(18 日0 時50 分)。
→東京消防庁から特殊災害対策車等30隊139人が出場(18 日3 時20 分)
・消防庁からも福島第一原発対応のため、職員1人を派遣(18 日3 時10 分)
消防庁発表より
2011-10-16 Sun
6年ほど乗った、平成3年型のアウディーのカブリオレをとうとう手放してしまいました。
オープンカー好きの私には完全に趣味の車で、計理士の先生から店の経費には一切認めてはもらえず、経費には組み入れていませんでした。
アメ車から乗り継いで、小さい日産フィガロからのスイッチした、ドイツ車です。
以前も、アウディーを所有していました。
この車も大変乗りやすい車で、普段の足として、北は岩手、西は新潟、南は東京・横浜など高速クルージングを楽しみました。
しかし、禁煙してから約三年、この度エコに目覚めた私は、トヨタのプリウスαを予約したのを期に、とうとう赤い戦闘機から降りてしまいました。
この車を入手以来、屋内車庫で保管。
リヤのシールド交換やナビやetcの装着。
タイヤ交換や小まめのオイル交換等々、たくさんの方の手助けを得て、ずいぶんと手をかけました。
夏は暑いし、冬は車庫で冬眠。
手間のかかる車ですが、かえって愛着がわくもんなんですね。
このアウディーでは、避暑地で活躍しました・・・・
特に那須高原や裏磐梯での活躍を忘れるわけにはまいりません。
インターを降りると屋根を開けてオープン・エアーを満喫していました。
しかし、紫外線アレルギーの私は、日焼け止めクリームにサングラスそして帽子にと・・・フル装備でのドライブでしたが、
さらには、普段着である作務衣にハンチングハット、そして雪駄といういでたちで、変わった格好ですよね!
知らない女の子に写真を撮られたり、そこら辺をドライブさせられたりと、随分楽しませていただきました。
チャラチャラ?
ですよねー!
森高千里「私がオバさんになっても」ですよ・・・
すみません」>」」
森高ファンなものですから・・・・
| ryuichi | 06:40 | comments (x) | trackback (x) | 「日暮硯」堂守ブログ |
2011-10-09 Sun
十三夜
日本では、古くから秋の名月を鑑賞する「お月見」の風習があります。お月見というと旧暦八月十五日の十五夜がもっとも有名ですが、日本では古来もうひとつ旧暦九月十三日の十三夜もまた美しい月であると重んじていました。
中秋の名月(十五夜)はもともと中国で行われていた行事が日本に伝来したものですが、この十三夜の月見は日本独特の風習だそうで、一説には宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています。
一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものともされていました。
これは十五夜だけでは、「片月見」といって嫌われていたからです。
十五夜はサトイモなどを供えることが多いため「芋名月」と呼ばれていますが、十三夜は「栗名月」とか「豆名月」と呼ばれています。
これはお供えとして栗や豆を、神棚などに供えるからだそうです。
十三夜月見団子
13ヶ入り 650円
5ヶ入り 300円
当日、10月9日(日)のみの限定販売となります。
中秋の名月の後なので、「後の月」と言われたり、「小麦の名月」と呼ぶ地方もあります。これは旧暦九月十三日の晩のお天気で、翌年の小麦の豊作、凶作を占う習慣から来ています。
十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜の夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります。
今年平成23年の十三夜は、10月9日日曜日です。
| ryuichi | 06:00 | comments (x) | trackback (x) | |
2011-10-02 Sun
先日、BSで「ローマの休日」が放映されていました。
DVDは持っていましたが、つい、録画していたのを見ました。
1953年制作の白黒フィルムですが、白黒ゆえにいっそうオードリーヘプバーンの清楚さが際立って見えます。
ある国の王女と新聞記者のおとぎ話のようなラブロマンスは、公開と同時に彼女は世界中を魅了しました。
そう云えば~
という感覚とともに遠い記憶がよみがえってきました。
主演のオードリー・ペップバーンに似ていた奴が居たなぁ?とおぼろげな記憶を辿っていくと、少しずつ霧が晴れて紐解けて行きました。
小学からの同級生が、当店に買い物に来てくれますが、正しくこの娘でした。
この娘といっても、当然同年代のアラフォー(50’?)世代ですが、知的で大人の女性の色気のある方です。
この同級生は小学校の時の転校生で、「ローマの休日」での上品でやんちゃでお転婆なお姫様を演じたオードリー・ペップバーンに似ているなあと子供ながらに見とれていました。
今から思えば普通の女の子でしたが、妖精のようにチャーミングな言葉と仕草などは、何か輝いていたように記憶しています。
まさに、チャーミングな笑顔が素敵な、そして勉強も良くできた、みんなのあこがれのマドンナでした。
アラ50’世代と呼ばれ始めた昨今でも、全然変わってなくて、あいかわらずオシャレで可愛い・・・というよりは、彼女の周りだけ時間が止まってしまったのでは?というくらい綺麗です。
ウン十年という時間が経過していますが、「可愛いという思い出」が全く崩れることなく、さらに綺麗なままでいてくれて本当に嬉しい限りです。
思い出は美しいままがいいですよね・・・・
懐かしさ、チョット苦い記憶が蘇る甘酸っぱい想い出。
青くさい時代を思い出します。
女性のの内面からにじみ出る美しさというものは、年を重ねるごとにごとにその輝きを増し、色あせることはないものなんですね。
「年を重ねる」とは、様々な経験を経て人生の引き出しが増えるということ。
素敵な言葉ですよね。
いっぱい引き出しを作れば、作るほど、奥の深い魅力的な女性になるのではないでしょうか。
そして、美しさというものは外見だけではなく、内面から出てくるものだと思っています。
美しい人ってつねに前向きですよね。
それが笑顔にもつながり、外見の美しさにも結びつくんじゃないかと感じます。
心が美しい人は、笑顔が素敵です。
目が笑っている笑顔は、やさしさに包まれています。
自分を大切にしているからこそ、他人も大切にできる。
「自分を大切にすること」は、決してわがままや自己中出はありません。
しっかり自立するということなんだろうともいます。
自分を大切にできない人は、他人も大切にできませんよね。
今が幸せなのでしょう.
子供のころ、その時以上に輝いている、自信がある生活をしている。
そのように見えるからだと思います。
こんなことを書いていると、昔の彼女?と言いたいところですが、前記したように、同級生一同のアイドル的存在で、内気な私など、話しすらしたことがありませんでした。
今思うと残念です!
最近、斉藤和義の「ずっと嘘だったんだぜ」ではなくて、「ずっと好きだった」が耳に残ります。
せめて妄想だけでも・・・ん?
この曲は、懐かしくオーソドックスなギターがカッコイイシンプルな曲です。
往年のビートルズ「ゲットバック」を再現したCMも話題になりましたね。
学生時代の憧れの娘に同窓会で再開するという歌詞は、リアルに経験がなくても「ドッキッ」としてしまいます。
この歌詞を聴いて遠い記憶がよみがえる人もいるんじゃないですかね・・・
それが、余りにも切なくて、自分のことのように胸が痛くなります。
アラ50’男としては、今さら、「相変わらず綺麗だなぁ!」って言ってみるのも結構勇気ほしいものですよね。
楽しくって、切なくって、胸がキュンとなる、同級生との時間。
たまにはこんな大人の楽しみも良いなぁと思いました。
やはり、同じ三春に住む同級生というか幼馴染?まして憧れの君は、どんなに時間が経ていても何気ない話をするだけでも落ち着くもんですね。
え、誰だって?
それは言えませんよ!内緒です。
数分間の恋愛映画を見ているような、素敵な思い出です。
もう少し、甘くて酸っぱい「青い夢の世界」を独り占めさせて下さい・・・
美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。
美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。
オードリー・ヘプバーン
| ryuichi | 06:46 | comments (x) | trackback (x) | 「日暮硯」堂守ブログ |
TOP PAGE △