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塵壺9月号~三春城下北町末相馬海道口 烏帽子石「平石不動尊」(現在は龍穏院敷地内に移築)


三春城下北町末相馬海道口 仁井町「平石不動尊」(現在は龍穏院に移築)

三春城下北町外、相馬海道口の郭境付近に“烏帽子石(えぼしいし)”という地名が残ります。
これは、烏帽子に似た石があることから付いた地名とされています。

この付近には、”仁井町”、“烏帽子石”の他に、“六升蒔(ろくしょうまき)”、そして足軽組の屋敷があった“御旗町(おはたまち)”という地名が混在しています。

その分岐点にある、三春城下正徳六地蔵の一つ“烏帽子石正徳地蔵”の対面を、国道から現町立三春病院の北側下へ通じる細い旧道の小路を進んで行くと、木立に包まれた”仁井町”に、「平石不動尊」がありました。

案内板によれば、この平石不動尊は、三春田村氏が活躍した戦国時代の天正年間(1573年頃)に森次監物(もりつぎけんもつ)が、諸病回復に効くと云われる、日本三大不動尊の一つ越後の菅谷不動尊を勧請し建立されたと記録されています。
以後、四百数十年にわたり、森次家によて代々守られてきました。

後に、明治三十六年、森次家十九代の和呈氏没後、近隣の御旗町の方々がお不動講中を組織して、城下荒町の龍穏院さまが受持院として、毎年秋に「平石不動尊祭」を営んでお祀りして、人々の諸願成就、無病息災を祈願していましたが、お堂本体の老朽化と東日本震災による建物の被害の為に、現在は龍穏院の敷地内へ移築(平成23年11月移築落慶法要)してお祀りしてうます。

尚、毎年11月の第三日曜日には、この平石不動様の祭典を行っています






この「菅谷不動尊」とは、新潟県北蒲原郡菅谷(現新発田市)にある明玉護国寺(みょうぎょくごこくじ)のご本尊で、源頼朝の叔父にあたる護念(慈応)上人が開山、開基したとされ、上杉謙信も祈願された不動明王として、現在でも、家内安全、諸願成就、とくに眼疾に霊験あらたかといわれて各地より参詣者が訪れ信仰を集める古刹です。

かつての、平石不動尊の社地は、簡素なつくりのお堂ながら、高い梢から柔らかな光がそそぎ、とても清々しく気持ちのいい空間が広がっていました。
境内の裏山に“平石山”とよばれている巨石が鎮座し、その平石山から、年中涸れることのなく湧き出る清水がありました。
その清水が一筋の小さな滝となり、その境内にある“平石の不動井戸”に注がれていて、この清水で目を洗うと眼病に効くと伝えられてきました。




古より、人々は生きていく上でのさまざまな願いや希望を、身近な神や仏などへ託してきました。
それは生活の主体であった地域の安全や繁栄、また家族の健康など多岐にわたる複雑な祈りの世界でした。特に、健康については如実に現れています。
これは当時の医学の未発達で、怪我や病気での死亡率も高かったことに由来しています。
それに伴い、当時の人々は病を恐れ“藁(わら)をもすがる思い”で神頼みし、何とか無事を得ようとするのは、ごく自然のことだったのでしょう、古来より各地にさまざまな民間療法と土俗信仰が結合した社殿が見られます。




 このような人々の祈りという内面の世界は、長獅子や天狗、そしてお札等、三春城下に伝わる寺社の祭礼や、四季折々に模様される各種歳時等々様々な場面で具体的な形として見ることができます。
例えば、悪霊などから村の安全を守るために、人々は地蔵や道祖神といった石仏を配し、巨石や巨木等の異形のものや異常で尋常ではないものを村や家の入口に掲げ、不都合をもたらすものたちを威嚇してその進入を防いできました。



秋田山龍穏院

人々が何を願い、何を恐れ、それらとどのように関わってきたか?
それは、村に災いが訪れないことを願い、村人の病気の治癒を神仏に頼んだことも、また、死後の極楽往生を願ったこと等もあったかもしれません。
このように、様々な願いを共有しながら、かつての人々は村という地域社会を作ってきました。
そして、ここ三春では現在にも脈々と受け継がれています。



    
 さすけねぇぞい三春!   蒼龍謹白  拝

| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺8月号(H26.8.8)
 田村ノ庄(田村地方)と熊野三山~田村の熊野神社~
 
 お盆は先祖の霊があの世から帰ってきて家族と一緒に楽しいひとときを過ごし、また帰っていくという日本古来の信仰に基づく行事で、俗に「地獄の釜の蓋も開く」と言われています。
 これは、地獄の釜の開閉の見張りの鬼や、その上司である閻魔大王も、盆と正月に「薮入り」という休暇があり、そのお蔭で死者たちは一時、地獄の苦しみから逃れられると伝えられていますが、そのために、いわゆる「あの世」と「この世」の境もあいまいになり、地獄の餓鬼界に墜ちて餓えに苦しんでいる無縁の霊もこの世の付近まで漂ってくるとされています。

 その霊たちに御食(おんじき)を施す"施餓鬼法要"や追善供養法要もこの時期におこなわれます。
三春を中心とする田村地方一帯は平安期から室町初期まで「田村庄」と呼ばれ荘園制度の中で熊野本宮大社の荘園とされてきました。
その関係でしょうかここ田村地方には熊野神社が多く建立されています。
 
 奈良・平安の頃には、紀伊国牟婁郡(現和歌山県)東部にある"熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)"は"黄泉ノ国"とされていました。
当時の人々は、都(奈良や京都)を昼の国とし都からずっと南の方には夜の国があると考えられていたようです。
 有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と荘園制度の確立で隆盛を極めていきました。
 しかし、中世熊野詣を担った荘園制度という経営基盤や都からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになります。

 鎌倉中期以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いたとされています。
後に熊野信仰を盛り上げていったのは、先日の観蓮会で賑わった荒町の法蔵寺の宗旨である時衆(のちに時宗)でした。
 時衆とは、一遍上人(いっぺんしょうにん)を開祖とし、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教で、この熊野の本宮が、時衆の開祖とされる一遍上人が悟りを開いたとされ、時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、説経『小栗判官』などを通して熊野の聖性を広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのでした。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立したと考えられています。

 熊野信仰は、古くから人々の熱い信仰に支えられた聖地であり、『伊勢へ七度、熊野へ三度』とさえ言われ、人が険しく厳しい旅をしてまでこの熊野の地へ詣でる理由は、熊野詣は難行苦行の連続であり、苦行の果てに自らが体得し、悟りと不思議な力を知りえたといわれています。また、熊野の自然は、四季の変化に富み、実に美しく、山高く水清く、各所に湧き出す温泉など、この地にたどりついた人々は、この世の極楽浄土を見た思いだったのかもしれません。「熊野権現」は神仏一体であり、貴賎男女の隔てなく、浄不浄を問わず、なんびとも受け入れたことであると考えられて、人々は絶望の淵から再生を念じて熊野を目指したのでしょう。
    
   蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝




| ryuichi | 05:09 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺276号「富沢「宮代神社」~祭神 後醍醐天皇・後村上天皇・守永親王~


  富沢「宮代神社」~祭神、後醍醐天皇・後村上天皇・守永親王

今年は、出雲大社の60年に一度の遷宮の翌年で、御利益が増すと言われる「おかげ年」。この年に、高円宮家の次女、典子さまと、出雲大社宮司の長男である千家国麿(せんげくにまろ)さんの婚約が内定したと発表されました。
心よりお喜びを申し上げます。

その宮家と三春とは様々なご縁があります。
鎌倉時代末、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)率いる大覚寺統の南朝方と実質的には足利尊氏率いる持明院統の北朝方が対峙し、日本全土を二分する戦乱の世となりました。
その南朝方の立役者である後醍醐天皇を祀る神社が三春に在るのをご存知でしょうか?

その神社とは、三春城下北部の富沢宮ノ下にある「宮代神社」です。
宮代神社は、旧神号を三渡大明神。祭神を、後醍醐天皇、そして子の後村上天皇、さらには陸奥宮(むつのみや)とされています。
しかし、陸奥宮とは義良親王、後の後村上天皇ですので、もしかしたら、陸奥宮ではなく、後醍醐天皇の孫の守永親王(もりながしんのう)の宮称が宇津峰宮ですので、陸奥宮と宇都峰宮に誤記載ではないかとも考えられます。
もしくは、南朝方の東国総司令官とも云うべき奥州陸奥鎮守府将軍北畠顕家(後の三春浪岡氏)は従三位陸奥守という官位でしたので、陸奥守ではなかったか?等々、日本史の中世ミステリーロマンが広がりを見せてくれます。

その前に、何で三春に?と思われるかもしれません。
この鎌倉末の南北朝期の三春地方は、熊野三山荘園の庄司藤原姓田村氏が南朝方として最期まで奮戦したこともあって、その戦禍は田村郡内の村々に広く及んでいます。また、宇津峰山は雲水峰とも記され、雲水(修験山伏)の修行場で、山麓には大元師明王社・鎮守山泰平寺(現在は郡山市田村町守山の田村神社)の修験道場が数多くありました。
後にこの大元帥明王社(現田村大元神社)は、戦国武将三春城主平姓田村義顕(たいらせいのたむらよしあき)によって三春城(大志田山山腹)三の丸下に移します。
宇津峰城は、最終的には陥落しますが、この戦を指揮したのは、後村上天皇の甥の守永王(宇津峯宮)を奉ずる北畠顕家の弟の顕信でした。
さらに、要田に庄司(しょうじ)という地名が残りますが、宇津峰城落城後に田村庄司(たむらしょうじ)藤原姓田村氏(戦国武将三春平姓田村氏とは別の家系)が、田村地方の三春との関連があるのではと想像しています。

この時代、庄司田村氏は、熊野三山(くまのさんざん)荘園である田村地方の検断奉行として、南朝方陸奥鎮守府将軍北畠顕家とその最大勢力白河結城氏の下で朝廷側に関わったと考えられています。
延元3年(1338年)、庄司田村氏当主宗季は、南朝より田村の庄司職と遠江権守に再任されます。
しかし、建武2年(1335年)、国宣をもって、白河の結城親朝が田村など八郡の検断職に任じられると、藤原姓田村一族の田村弾正など一部の者は、天皇親政への不満が高まり、三春の勢力を率いて、足利方に応じます。

庄司田村氏は、その後も北畠顕信のもとで、北奥に出兵して国府を一時的に奪回したり、南奥南朝の拠点宇津峰城の防衛に当たりますが、白河結城氏の離反によって南朝方の劣勢は挽回しがたくなり庄司田村氏も、宇津峰落城の後に衰退していきます。

尚、京都の天龍寺は足利尊氏か後醍醐天皇を弔うために建てた寺です。
また墓所は、天皇家墓陵唯一「北面の御陵」として奈良県吉野にある金輪王寺にあります。

「身はたとへ 南山の苔に埋むるとも 魂魄は常に 北闕の天を望まん」 後醍醐帝御製

さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   拝


| ryuichi | 05:16 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺275号「 ”民の為に”「天明為民」の碑~二本松木幡山隠津島神社」


”民の為に”「天明為民」の碑~二本松木幡山隠津島神社

東日本大震災。私たちは多くを失ってしまったからこそ、学んだこと、大切だと気づいた事があります。
自然災害の脅威、命の大切さや家族との繋がり、そして自分の地域の魅力や価値を再認識しました。

この震災を風化させず、次の世代に安心で安全な未来を引き継ぐため、この震災から学んだことを教訓として、後世に伝えなくてはと思います。
"木幡の幡祭り"で知られる木幡山隠津島神社(木幡の弁天様)(現二本松市)に、 "民の為に"と記された「天明為民の碑」の石碑があります。
これは、江戸後期の天明3年、近くの内木幡村名主の紺野武左衛門嘉簇(こんのたけざえもんよしむら)が、自らが体験した「天明の大飢饉」で起きた目の前の惨状を教訓として警鐘を鳴らし、 "常に非常時に備えなさい"と日頃からの備えの大切さを後世に語り継ぐべく石に刻み残したものです。

碑文によると、「竹に花が咲くのは凶年の前兆という言い伝えがあり、その通りに天明2年に御山(木幡山)の竹に花が咲き、実が成ると翌年に凶作が訪れ、わらの粉のもち又草木の根葉まで食すれども飢えて死ぬ人数知らず」という悲惨な状況が刻まれています。
さらに、米価が3倍近く高騰し、粉糠やそば粕(蕎麦殻)、ひえの粕、柿皮までもが食料として取引された事までも知ることが出来ます。

文面は、当時としては珍しく漢字と平仮名の口語体で刻まれています。
これは、村 人のほとんどが文盲でしたので、子々孫々まで口伝えに残せるように、そして被害を最小限に止めたいという紺野嘉簇の思いが感じられるこの石碑を見ていると、目頭に熱いものが込み上げてきます。

 江戸時代の凶作のうち、享保十七年、天明二年~七年、天保四年~十年の凶作は"江戸期三大凶作"とよばれ、飢饉を伴って、餓死者多数を出したことで知られています。享保の凶作は西国地方を中心とし、奥羽地方の被害は少なかったのですが、天明・ 天保の凶作では奥羽地方全域に甚大なる被害をもたらせました。
記録によれば、天明三年(1783)は、二月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、六月より十月まで霖雨止まず。 冷涼で袷を着て焚き火を囲んでいたと記され、六月の大洪水、そして、七月の浅間山爆発と寒気、さらには、八月の北風と大霜と災害が続き、畑作物・田作物が皆無となったことも加えられています。

三春領内では、天明三年の凶作において秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽き、三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数に非難してきたため、八幡町末城外に集めて避難所を設け、翌閏正月から五月まで施粥が実施されたとあります。
また、三春北部の成田村では、一ヶ月間施粥が実施された記録が残っていますが、領内の各村では、多くの餓死者を出してしまいました。

天保七年の凶作では、施粥実施には至りませんでしたが、飢餓に瀕した笹山村などの百姓たちは、当村顔役辰五郎を頭取として鹿又原(現船引)に集まり一揆騒動が起こりますが、大規模な一揆に至る前に調停されたと古文書は伝えています。
このころの、三春城下での一揆騒動は、元文元年の"東郷百姓一揆"、寛保二年の"五千石百姓一揆"、寛延二年の"領内惣百姓一揆"などが起こり、諸負担の軽減や減免要求・譜代百姓の待遇改善などを求め城下に迫りました。

米産地の二本松領に比べて米の産出が少ない三春領の被害はより大きく、継続的不作の中で天明凶荒の発生を受け、三春領内の餓死者は1,500人余に上ったと伝えられています。
三春領の村々で見られる「三界萬霊」石塔は、飢饉における死者への供養のために建立され、現在の私たちに自然災害の恐ろしさを伝えています。

さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白  拝


| ryuichi | 11:19 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺274号「 “三春荒神さま”と“三春市神さま”」



  “三春荒神さま”と“三春市神さま” ~「守城稲荷神社」
三春の春は、観光の方々が多数来町され、当店にも沢山の町内外のお客様にご来店いただきまして三春昭進堂の味を知ってもらう絶好の機会でした。
また、今年も開花前にテレビ(KFBドミソラ)や情報誌(だいすき等)での紹介もあり、大盛況のうちに花見商戦を終えることが出来ました。
本当に、ありがとうございます。

この感謝の気持ちを“商売の神さま”に伝えねば!…っと思いまして、御礼も兼ねて三春城下大町にある、春季祭礼の「守城稲荷神社」に参拝しました。
三春城下の稲荷さまは、その土地柄なのか「農業の神さま」としてよりも「商売繁盛の神さま」としての性格が強く、かつては、様々な同業者組合が「稲荷講」を結び、屋敷神としても盛んに勧請されていました。

お稲荷さまは“鍛冶屋の神さま”でもあります。
それは“お稲荷さん”の化身である白狐が、三条小鍛冶宗近(平安末期に刀匠)を助けて「勅命の剣」を製作したとされ、「吹革(ふいご)祭(火焚祭)」が始まったといわれています。
三春の鍛冶屋の神さまは「荒神様」として祀られ、三春城下「守城稲荷神社」からお城へ通じる道の途中にあります。

「吹革(ふいご)」とは、鍛冶屋の炉に空気を送り込む道具のことを言いますが、『荒神講』は、この“ふいご”を使用する鍛冶屋を生業とする者約30軒で組織結成された同業講です。
「ふいご祭」は、春と秋におこなわれていた「荒神講」の祭典で、神官のご祈祷後、社前で直会を兼ねて会食し、祭典終了後に「荒神さま」の御札を持ち帰り、「商売繁盛」「作業安全」などを祈願と感謝の意を表して拝礼の後に仕事場の神棚に祀っていました。

戦前までは鍛冶屋の盛況に伴って、盛大な講であったと伝えられています。
終戦後における品不足にも鉄や、炭そして薬品などの割り当てに“荒神講”は重要な機能を発揮しました。

しかし、昭和30年代以降、大規模工場の台頭や海外製品の流入などの影響で小規模な三春の鍛冶業は衰退し、荒神講も衰退の一途をたどって行きました。
尚、現在の新潟三条市が金物の町として有名ですが、戦前までは三春から三条に金物を出荷していたと伝わっています。

そして、三春にはもう一つ商売の神さまを祀っている祠があります。
城下大町の鳥文肉屋さんの裏庭にある小さな祠の“市神さま”です。
三春城下各町での市「七拾二市」(往古は六斉の市と称した)が隆盛になり、商いや市の繁栄を祈願する商人の心の結集が“戎神”の奉斎となったようです。

この市神さまは、総本社である摂津西宮(西宮市)の蛭児(恵比寿)さま、いわゆる「お西さん」(現西宮神社)より分霊を受け当地に勧請鎮座したと考えられ、“戎神”とはこの蛭児(恵比寿)さまであり、以来“三春商人の神さま”として市の立つ日には商人の参拝が絶えなかったといわれています。

江戸期の享保年間の「所々市日之覚」によれば、三春城下の市日は、大町(二日)、新町(七日)、八幡町(十二日)、荒町(十七日)、中町(二十二日)北町(二十七日)各町で、二日と七日に「市の日」があったと記され、どの町内でも月に一回市が立ち、近郷近在の方々で盛況だったことが覗えます。
また、各市の会場には市神様の御仮屋に恵比寿様を祀り、市の無事と盛況を祈願していたようです。
大町の市では、四筋制札場へ一間四方の仮殿を作り、伊勢皇太神宮御玉串を奉安置するものでした。

正月の十二日は、現在の“三春だるま市”の原型となる特例祭日市でした。
後に、この御仮屋の社は大町小若連の御神輿として祭礼に担がれていたそうです。
  
「商売繁盛祈願」  さすけねぇぞい三春!


蒼龍謹白     拝

| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺6月号「風立ちぬ~宮崎駿・ジブリに学ぶ公共教育~」

呉大和ミュージアム保存の零戦

宮崎駿・ジブリに学ぶ公共教育

この夏、公開される宮崎駿監督のジブリ映画「風立ちぬ」
この映画は、旧日本海軍「零式艦上戦闘機」通称“ゼロ戦”の設計主任である三菱航空機(現三菱重工)の航空技師、堀越二郎氏の半生を描いたもので、戦闘機は大好きなのに戦争は反対という矛盾を抱えた方にとっては見逃せない映画ではないでしょうか。

余談ですが、堀越技師はこの零戦の他に、海軍最初の全金属単葉艦上戦闘機「九六式艦上戦闘機」(艦上戦闘機とは航空母艦から離着陸可能な高機能戦闘機)や、局地戦闘機「雷電」、そして日本海軍最後の艦上戦闘機、試作「烈風」を手掛けます。戦後は、国産旅客機第一号のYS11の開発にも精力を注ぐなど日本の航空業界の第一人者でした。

宮崎作品の根底には、現代社会へ警鐘を鳴らすテーマがあるような気がします。
ジブリのキャラクターを通じて語られる「文明の過度な成熟がもたらした人間への疎外」、「人間の本質的な衰弱」、そして「個々の人間の肥大化」。それらを制御する正当な意識の働きが薄れてしまっていることを訴えているように感じます。
「崖の上のポニョ」では、今まで自分たちが積み上げてきた高度なアニメーションの表現技術を否定し、とことん手描きという職人的手法にこだわり、手描きの絵を動かすという素朴なことで「生きとし生ける者に宿る生命感」は表現できると語り、小手先の観念や打算だけでは作品は生まれないと戒めているように思えます。




現代の若者の虚ろな経済至上主義への嘆きの中で、次代を担う子供たちに向かって、人間にとっての根源的な価値を、いかに伝達するかを、真剣に考えなくてはならないと思います。「損か得か」でしか物事を考えられない人が増え地域や世代を越えた人付き合いが希薄になりつつある現代社会の中で、子供たちの可能性を奪う閉塞した現代社会への憤りを宮崎作品に見ます。



人間らしく社会生活を生きて行くために必要な事柄や職業的なスキルを教える場である学校と云う組織。学校で平等という名のもとに全員が一緒に「道理」「情」「掟」「作法」を学ぶということは限界があります。
本来、それらを実践する場所は、家庭であり地域であったはずです。
三春町では、それらの解決策として文部科学省の指定を得て公共の学校に、地域と学校そして家庭を結ぶ“学校運営協議会”と云うものを開設しています。

平成17年にスタートした三春小学校に続き、今年度より三春中学校、中郷小学校にも学校運営協議会が開設され、次年度以降は、三春町の公共学校すべてに開設が予定されています。
地域主権の確立を目指す「新しい公共」とは、教育や福祉、あるいは医療や自治等を、官と住民が一緒に作り上げる仕組づくりで、そこで生まれた問題・課題に対して手立てを講じることが「地域文化をつくる教育」だと思います。
「自分たちの地域の学校」を良くするということが、「自分たちの地域」を良くするという意識につながります。そして、成熟した「新しい公共」へと発展することにより、人々の支え合いと活気のある地域社会が実現されると思います。 
先日、三春小学校で学校運営協議会が開催され、三春小学校運営協議会長に再選されました。

よろしくお願い申し上げます。

さすけねぇぞい三春!   蒼龍謹白    合掌




呉大和ミュージアム保存の零戦






| ryuichi | 06:06 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺258号平成25年1月発行「手紙~ありがとう~」
  手紙 ~ありがとう~ 
日本で一番短いラブレターは、 太宰治が恋人に宛てた“こいしい”の4文字の手紙だそうです。一枚の便箋に、たったそれだけです。
今みたいに電子メールで、便りがあっという間に届かなかった時代。
思いを込めた4文字が相手に届くまでの時空にロマンを感じます。
私など、手紙と云うと年末年始に書く年賀状くらいになってしまいました。
文献によると、年賀状の起源は、平安時代に貴族の間で新春の歌を詠んでやりとりしたことが始まりだと記されていました。
また、江戸時代には、武士や商人などが遠くの親戚や知人に年始の書簡を送る風習があったとも伝わっています。
現在の年賀状は、明治時代に発行された官製はがきが年頭の挨拶に使われるようになり、更に昭和の「お年玉つき年賀はがき」へと変遷してきたものとされています。
枚数が多ければ、それだけ書くのに苦労する年賀状ですが、頂いた年賀状を、元旦の朝に見るのは楽しみになっています。とくに何年も会っていない旧い友人や知人の年賀状を見ていると、元気でいるんだなあと、近況などが分かり懐かしさが込み上げてきます。
今は、手紙の代わりにメールで簡単に、世界中に言葉を伝える事ができます。
「年賀状もメールです」という世代もあるようですが、日常の手軽さから一呼吸置いて、自分の気持ちを自分の言葉や文字で伝えるということも、いつまでも大事にしたい日本人の習慣だと思います。
私も、この“塵壺”を発行しているせいでしょうか、お客様方から、励ましの手紙や電話をいただいています。
この励ましをいただきますと“褒められて伸びるタイプ”の私は、ただただ前向きに己惚れまして“塵壺”を書いていて良かったなあ。そして、また頑張ろうという気持ちになります。そのお蔭で長年この塵壺発行が続けられたような気がします。
中でも、父の同級生という方から頂く手紙は特別な思いがあります。
“親への・・・”ということからの甘えでしょうか、他界した母からの励ましと重ねて何度も読み返しています。
時には励ましの手紙として襟を正し、時には嬉しくて涙を流し、時にはラブレターとして高揚して・・・・私の中では大事な手紙です。
手紙はとても大きな力をもっていますよね。
季節を感じながら、相手を想いながら人に想いを伝える手紙―。
大切な人に 伝えきれない想い。伝えきれなかった感謝の想い―。
人生でも幾度となく「手紙」が重要な役割を果たしています。
手書きでその人の書く文字から伝わる言葉というのは、やっぱり伝わり方が違うと思います。
短くても、不恰好でも人を思う大切な時間。どんなに短い文面の一言でも、手書きの紙に載せるだけで、とてもあたたかい気持ちや心遣いを運んでくれます。
“便り”届ける人に想いをはせる。そんな時間も楽しいもので、人と人を結びつける何にも代え難い大切なものですね。
さすけねぇぞい三春!  合掌  蒼龍謹白   



| ryuichi | 06:01 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺257合12月「三春舞鶴会」在京三春縁者の会
「三春舞鶴会」在京三春縁者の会
 "故郷の 訛り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く" 
 北国に玄関口JR 上野駅15 番線ホームの線路終端部付近にある石川啄木の歌碑です。
 今日のように誰もが携帯電話を持ち歩き、いつでも家族や知人の声が聴け、日帰りで東京往復が出来る時代と違い覚悟を持っての上京が伝わる詩句ですね。
 洋菓子の修行で数年間ですが湘南茅ヶ崎に住んでいたとはいえ、三春生まれの三春育ち、三春在住の私は、啄木に負けない愛郷の想いの在京の会は縁の遠いものでしたが、この度在京三春縁者の会「三春舞鶴会」の方々と知り合う機会がございました。
 この"三春舞鶴会"は、故郷"三春町の応援団"として首都圏在住の三春町出身の方々や三春町に縁のある方々により平成21年2月に設立された会で、現在の会員は約200人の方々が加入されています。
三春舞鶴会(会長織方郁映)では、会員間や地元三春との交流のために「三春舞鶴通信」を創刊発行しました。
 創刊号を読み進むうちに、投稿された方々一人一人が〝ふるさと三春〟に想いを寄せる熱意が「三春舞鶴会」そのものの行動力につながっていることに、大きな感動を覚えました。
" 故郷の故郷たる所以は、生きた所ではなく生きた時間"と云われますが、故郷を遠く離れて、駆け足で走り抜けた昭和から平成という激動の時代の中で、時流に翻弄されようとも力強く生きた証として、時間の中に垣間見る故郷への想いが感じられます。
先日は、第2号が発行されました。この号は、三春町民の社交の場、発表の場(人々が集うところ)がテーマでした。
 伊藤寛前町長の「三春交流館まほら」と題された寄稿、せんえつながら私の「羽織袴の活弁士島暁蘭」と題した文章も記載していただきました。
かつての三春座、昭和館での投稿された皆さまの貴重な思い出が語られ、三春大衆演劇史にとって貴重な歴史的資料となっています。
 今回も会員の方々の投稿された文章を目にしますと、遠く故郷を離れご活躍しておられる皆様の愛郷の念が伝わり、三春人として、愛される三春に住む者として感謝とともに誇りに思います。         
 また、会長の織方さまはじめ事務局の黒羽隆雄さま、幹事長の岩崎宏さま、舞鶴通信編集担当の幹事佐久間健さま、そして渡辺文司さまなど会員の皆様には帰町の際にご来店され、励ましをいただいています。
 先日も、「三春地名石柱」連載中である内藤新吉さまには地名石柱をご自身で確認と撮影のために帰町された折に、当三春昭進堂まで足を運んでいただき様々な楽しいお話を聞かせていただきました。
 人間誰しも、どこに住んでいようとも、自分のふるさとというところは一番気になるもので、それは年をとればなおさら強いと言われています。
ふるさとを離れて過ごす人にとって、故郷とは一種独特の響きがあり、自分の子供、孫のような気になる存在ではないでしょうか。
そこに暮らしたことがなくても心に残る一枚の風景。やさしい人たちとの出会い、ふれあい。心躍る青春の一コマがある場所。三春はそういう町でありたいと思います。
 尚、この会報は店内にも置いていますのでご自由にお閲覧いただけます。
    さすけねぇぞい三春! 蒼龍謹白   合掌  



| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺10月号「東北ちんどん夢乃屋」一座三春巡業
 

三春大神宮祭礼「東北ちんどん夢乃屋」一座三春興業
先の三春大神宮祭礼で、城下中町若連では宮城県垣理町出身で、被災者でもある日本クラウン所属の演歌歌手「渡辺亮子」歌謡ショー。
当店のある新町睦会は、姉妹都市一関市出身の魔女伝説「瞳ナナ」マジックショーと趣向を凝らした奉納興業を催し祭りをより楽ませてくれました。
毎年、祭礼を盛り上げるため新町睦会は、ちんどん屋「東北夢乃屋」さんによる三春城下巡業を行っています。
今では珍しくなったちんどん屋。この興業で初めて見た方もいらっしゃるでしょう。
私の子供の頃、母の実家のある本宮(現本宮市本宮)では、奥州街道の宿場町という歴史もあって、昔から各種大売出しや安達太良神社や太郎丸の観音様の祭りなどでは歌手や旅役者、そして大道芸人の興業をちんどん屋が賑やかに巡業して知らせていたものでした。

母の実家は、「小山菓子店」という太郎丸にある和菓子屋で、祭りの賑わいや商店街の繁盛に、叔父の粋張りを感じていました。
私もそうでしたが多くの子供たちがあの哀愁のあるメロディーにのって後をついて歩いたのが懐かしく思い出されます。
また、ちんどん屋全国大会が本宮で開かれたのもこのころだったと記憶しています。
昔は『バーカ、カーバ、チンドン屋、お前のかあちゃんでーべーそ♪』と囃子言葉に使われるほど身近だったちんどん屋・・・子供心にちょっと怖かったり、でも楽しげだったり、なんともミステリアスでした。
『ちんどん屋』とは、演奏する楽器の「ちんどん太鼓」、これについている鉦(かね)を叩くと鳴る「ちん」という音色と、太鼓を叩くと鳴る「どん」という音色が合わさって、ちんどん屋と言うようになったとか。
商店やイベントなどの広告・宣伝を行うのが仕事のちんどん屋ですが、そもそも江戸時代に大阪の飴売りの「飴勝」という人が自分の声を売る商売として寄席の客寄せを請け負うようになったのが始まりで、「東西屋」「広目屋」とも呼ばれる ていたそうです。
 三春大神宮の祭礼の宵祭りで新町睦会さんが「新町大宴会」を催して20年近くなります。私も睦会の役員だったころ、どうしてもちんどん屋を今の子供たちに見せたくて、新町大宴会のイベントをお願いしている郡山Navi・ステーションの憲ノ介さんに相談したところ、なんと三春出身のちんどん屋さんがいるということを聞きつけて実現してから早10年になります。
「東北夢乃屋」さんは、三春出身の日本を代表するフリージャズの第一人者ジミー稲葉さんと、ちんどん娘のみこさん、そしてチャーリー金田さんの三人組のユニットです。
以来、三春城下挙げての三春大神宮祭礼ですので、三春城下一円を巡業してもらっています。
初めての巡業の時は、子供の頃にタイムスリップしたような空間で、ちんどん屋さんと家族連れの観客そして商店街の人達が触れ合う風景は、どこか懐かしくそして温かい雰囲気でお客様の心を優しく包み込んでいるようで、商人として嬉しくて涙がこみ上げてきたことを覚えています。
“ちんどんの音色”は、活気のあった「商都三春」に、もう一度元気をとのエールに聞こえます。      
 がんばっぺない三春!    
                 蒼龍謹白   合掌





| ryuichi | 06:48 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |
塵壺6月号「仁―JIN―」三春瀧桜千年の教え
 「仁―JIN―」三春瀧桜千年の教え
 震災にもビクともせず、春になれば、当たり前のように花を咲かせる三春瀧桜。
今年はその当たり前の風景がどれほど人々を安心させ、元気づけてくれたことでしょう。
 リーマンショック以来の長引く不況や、雇用不安の中、追い討ちをかけるよう発生した今回の大震災や原発問題・・・是までに経験したことのないような先の見えない状態の中で、余震や原発関連の報道により、全てに於いて自粛ムードが蔓延していました。
「こんな時」だからこそ、生まれ育った古里の美しい風土を愛し、家族や友人・知人と、季節の移ろいを愛でる心の潤いが大切だという思いを感じた方も多かったことでしょう。
 「三春に春は来ないのではないか?」と、心が折れそうになりながらも迎えた桜前線。ふたを明けてみれば、さすが千年の樹齢を誇る国指定天然記念物「三春瀧桜」です。
三春城下までが大渋滞が起るほどの大変な人出でした。
 開花宣言以来、四月いっぱいの約三週間の間、観桜のお客様が多数三春を訪れ、お花見を満喫したことでしょう。来町した自家用車のナンバーを見ると、県内や近県に混じって、首都圏ナンバー車も例年通りに見かけました。風評なんて「どこ吹く風!」です。
今回改めて思ったことは、お客様の「饅頭を持って震災見舞に行ってくっぱい」と言う笑顔、大切な方々へ甘いもので心を少しでも満たしてあげたいという「仁」の心が、ご来店につながっているのだということです。
震災直後の食料品や燃料などが品薄のときに、食べ物は橋長魚店で「普段通りとはいかないまでも困ることないよ」と食に窮することはありませんでした。
また、ガソリンも、ヤマサンさんに「大丈夫かい?」とこえをかけていただき、灯油もなかやさんから「お彼岸がすぎには入荷してくるから心配しないで」と安心の声をかけていただきました。まさしく「仁」の心なのでしょう。
普段のお付き合いの大事さ、そして心にかけてくれる人のいる安心と幸せを感じました。
「仁」とは、深い人間愛に包まれた思いやりの心です。
人の道を示す普遍的な価値観であると解釈して相手の立場、相手の気持ちになって考えられることです。即ち人の心の温かさにほかなりません。
厳しさの中に温かさ思いやりの「仁」の心を大切にしたいものです。
商人が「仁・・・他人を思いやる心」「義・・・人としての正しい心」「礼・・・相手を敬う心」「智・・・知恵を商品に生かす心」という4つの心を持っていれば、お客様の「信・・・信用、信頼」となり、この「五常の徳」で、商売は繁盛するのだと商いの師匠に教え込まれました。
「商人は商人らしく、ただひたむきに仕事に執心することが人格形成につながるのであり、決して目先の利益やひとときの我欲に惑わされてはならない」ということなのでしょう。平常を取り戻そうとするお客様に、いつもと同じサービスで応える。
それが商人としての勤めであると言う事を痛感しました。
そして先行きの見えないこんな混迷の時代だからこそ、その場しのぎの安易な小手先の改革ではなく、いま一度商人の原点を見つめ直し、実践することの必要性を改めて瀧桜やお客様、そして三春の先輩に教わったような気がします。
  「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」本居宣長
    蒼龍謹白     がんばっぺない福島!
              合掌



| ryuichi | 05:17 | comments (x) | trackback (x) | 塵壺 |