最上流和算佐久間派

 

 田村大元神社の拝殿の中に古い和算(算術)の算額が掲げてあります。
これは三春藩領船引の石森村庸軒塾主宰佐久間庸軒と、その一門が明治初期に奉納した和算の問答「当用算法」算額です。算額は,神社や仏閣に奉納した数学の絵馬の一種で、江戸時代中期,寛文年間の頃から始まった風習といわれ,現在全国に約820面の算額が現存しています。数学の問題が解けたことを神仏に感謝し,益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと思われます。
人の集まる神社仏閣を発表の場とし,難問や問題だけを書いて解答を付けないで奉納するものも現われ,その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことが行われました。この算額奉納の習慣は世界に例を見ず,日本独自の文化であり,明治になり洋算の導入を容易にしたのも算額を奉納する風習が貢献しました。
江戸期の三春藩に普及した和算は、奥州で主流を成す最上流和算で、特に三春では、佐久間質・庸軒親子の業績に負うところが多く、最上流和算の中でも、佐久間派と呼ばれ、庸軒は、「当用算法」を著わすなど、三春における算学・和算の普及に努めました。明治初めの佐久間庸軒の私塾庸軒塾には、旧三春藩士以外にも、県内外の一般庶民や女性も師事していました。中には、三春藩内の知識層を形成していた藩お抱えの絵師や儒学者、そして影山正博や岡野知荘など自由民権運動家の旧三春士族も入門しています、この庸軒塾は、師匠の庸軒自身が諸国を回り諸芸の修行を深め、庸軒の号も郡山の儒学者安積艮斎の知遇を受けて送られた名前が示すとおり、和算のみならず、さまざまな知識を吸収するサロン的場所だったのではないでしょうか。また全国の諸藩を見ても、藩士以外の庶民が和算を学んだ例は一部の富裕階級以外では珍しく、三春に於ける知的レベルの向上にも寄与して、明治初期の自由民権運動の輩出に繋がっていたのではないでしょうか。

蒼龍謹白 合掌