「布施行」三春仏教会の托鉢

 

三春城下のお寺さんで構成されている三春仏教和合会で、稚児行列と歳末助け合いの浄財に当てるということで春と歳末の年二回の托鉢をしています。
家の前で、鈴を鳴らしお経を読んでいただけるだけで、背筋がピンと伸びます。
  布施という言葉は、お坊さんに差し出すお礼のことだと理解しておられる方がほとんどではないかと思います。しかし布施とは仏教的に言えば、僧俗の別なく私たちみんなが実践していかねばならない修行の一つです。
私たちはより良い社会の実現を目指してこの社会を形作っています。仏教では理想的な社会を目指す実践項目がいくつか有りますが、その一つが布施行ということになります。
  布施といっても三施といって三種類の布施があります。一つは衣服・飲食・田宅・珍宝などを他に施す財施(ざいせ)。一つは法施(ほっせ)といって人々に仏法を説き聞かせることで、これもちゃんとした布施の一つである。最後の一つは無畏施(むいせ)といい、一切の衆生に畏怖(いふ=おそれこわがる)の念がないようにさせることをいうだそうです。よく偉い人で、その人の前でひれ伏さないと気分を害するという人がいますが、布施の精神からは遠くなります。それとは逆に観音さまを別の名で施無畏者(せむいしゃ)というのは、衆生に畏怖の念が起こらないようにするからです。だから観音さまの前では、ことさらにひれ伏す必要はないといいます。
  禅僧は、托鉢に出かけることを仏教用語では次第乞食(しだいこつじき)といって、次第乞食とは軒並み家を托鉢(たくはつ)して廻り、一軒もはずさないことをいいますが、「家を一軒はずすなら、その村ごとはずせ」と言われています。お金持ちであろうと貧しかろうと平等に廻ることになっています。お金持ちや偉いといわれる人しか相手にしない僧はニセモノです。そして子供から喜捨(きしゃ)を戴くときも、美人から喜捨を受けるときも同じように頭を下げます。
但し、南方のお坊さんは決して頭を下げません。それは相手に善根を積まさせてあげてるから、頭を下げるのは布施をするほうで、お坊さんは頭を下げません。
福井の永平寺を開かれた道元禅師が書かれた「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)に、
「その布施といふは不貪(ふどん)なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。」とありますが、布施は「へつらわない」という気持を込めて行う修行です。
むさぼらない心が布施の第一ですから、財施でも法施でもしぶしぶの気持で行う布施は布施になりません。

蒼龍謹白 合掌