男の一分「DESPERADO/デスペラード」
  先日、NHKニュースでイーグルスが、28年ぶりに活動を再開したと報じていました。
新譜では、煮詰まって思いつめていた頃の彼らとは一味違い、余分な力が入らず、良い意味での時間の経過を感じました。私は、1973年の名曲「デスペラード」という歌が大好きです。デスペラードの意味は、邦題の「ならず者」が示す通り、自暴自棄になっている人などを指していると解しています。
この歌は、その「デスペラード」に対して心を開いてくことを切々と諭してるような詩が、美しく切ないメロディーとともに歌い上げられています。
  私達は年齢を重ねるごとに、その傷や影を巧妙に隠して生きるようになって行くような気がします。少し哲学的な話しになりますが、人間の誰しもが持つ、傷や影の部分に、その人の「自身」が潜んでいると思いますし、私達は着飾ることによって、その「自身」とも言うべき傷や影を隠そうとしているのかもしれません。
  最近、このデスペラードという歌を聴いていると、藤沢周平原作の「武士の一分(いちぶん)」という映画が思い起こされます。内容は、藩主のお毒見役の下級藩士が、その務めで、ある日失明する。愛する夫の為、妻は尽くす。しかし、それが裏目に出てしまい夫婦の絆が壊れる・・。平凡ではあったがとっても幸せだった暮らし、そんな「譲れないもの」が奪われたその時、絶望の淵から這い上がり、妻は夫に身を尽くし、夫は妻に一分をかける。本物の男の生きざまを教えられた映画でした。
  この「一分」という語は、日本語の古からの特有の深いいみがあります。広辞苑によると「一人の分際。一身の面目そして責任」「一人前の男の存在として傷をつけてはならない、最小限の威厳」と解説されています。また、武士道倫理観が確立する江戸時代以降によく使われ、「武士の一分が腐る」「男の一分を棄てる」「男の一分が立たない」など用例が見られます。
この「一分」という語は、誰彼が安易に使えるものではありません。自分自身の生きざまというものを、己が自ら客観的にその本能に組み込まれた者だけが使用を許されるものであり、人から教えられる事ではなく、真似の出来るものでもありません。
己が守るべき家庭、そして健全な仕事があり、その余力を持って社会に奉仕するということが、「男の一分」というものだと思えます。
わたしの「譲れないもの」そして「命をかけて守るべきもの」・・・・
やはり「家族」でした。
    デスペラード,目を覚ましたらどうなんだい
    さあ,フェンスから降りてゲートを開けなよ
    雨が降っているかもしれないけど、虹だって頭の上にある
    誰かが君を愛してくれるようにしなよ, 遅くならないうちに
          (イーグルス 「DESPERADO/デスペラード」歌詞和訳より)
蒼龍謹白 合掌