お陰おかげの「偈で生きろ」
 

二十年位前の長渕剛主演の映画「オルゴール」の中で、長渕の台詞の中に「おれが俺がの「我」を捨てて、お陰おかげの「偈」で生きろ」と自問する場面がありました。
この言葉は、今も私の記憶に鮮明に残り静かにこだまし続けています。
 
「偈」の心で生きようと決めながら「我」が知らず知らずのうちに頭をもたげているのに気がつきます。まだまだ「我」の心と戦わなければならないと思います。
「偈」で生きるとは何なのでしょうか?それは、相手を敬う心、相手に穏やかに接する心、  自分が世間の一つであり、生かされているということを五感で感じること、つまり何事も誰に対しても「お蔭様」という「感謝の心」で生きることだと思います。
 
社会の中で生きるということは、価値観の違う者同士のせめぎ合いといっても過言ではないでしょう。その中では、我を主張しあうより楽だし、円満解決できる確率は高いのではないでしょうか。
 「我」を通す人は、確固たる自身があるから「我」を通していると思います。しかし、自信も過信しすぎるのは大人げないというものです。それが、相手の不満をむき出しにすることにつながっていることは多々あります。
「我」を主張し合えば、はからずとも対立し、いがみ合うことにもなります。
お互いが「偈」の心で共に楽しく相手の意見を聞くゆとりも必要だと思います。
 
駄目なものは駄目と、はっきりすることがすべて悪いとは限りません。物事にはいくつもの側面があり、一面に於いてノーと否定しても、別の角度から見て、イエスの場合もあります。
 
人間は感情の動物です。真正面から否定されて心楽しいはずはありません。しかし、その感情に流されて、本質を見失ってはいけません。何故否定されたのかを冷静に考えお互いに認め合えるように努めることが大事なことだと思います。
 
相手のことを可哀想だと同情し、いたわりの言葉をかける優しさもあります。しかし、上っ面をなぞる表面だけの優しさでその場から救い出すことが出来るのでしょうか?
 
一面、厳しく思えるようだけれど、はっきり良し悪しをアドバイスすることによって、お互いを認め合えることができたら、より心が広がり、豊かな生き方が待っていると私は信じています。
 
「我」をつらぬき通している人も、相手を敬い、感謝の心でお互いを認めあえば、傾きかけた船が自ら復元するがごとく、解り合い溶け合える日が来ると思います。

蒼龍謹白 合掌