「忠臣蔵」赤穂浪士大高源吾(子葉)
 


年の瀬というと日本人の美徳を描いた「忠臣蔵」が定番となっています。
御存じ、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」、一節にある忠臣蔵外伝とも云うべき『松浦の太鼓』には、宝井其角と赤穂浪士の大高源吾が出てきます。
討ち入り前夜、雪が降る両国橋。
 
吉良邸の隣に住む肥前平戸藩士・松浦鎮信の俳諧の師・宝井其角が、俳諧仲間の大高子葉こと赤穂浪士大高源吾に偶然出会います。 
 
室井其角は『年の瀬や水の流れと人の身は』と発句を詠み、源吾は『明日待たるるその宝船』と付句しまが、物語を知る私たちには大きく頷けます。
 
源吾は、江戸では町人脇屋新兵衛を名乗り呉服商人として茶・俳句などにうつつを抜かすように見せて、緻密な情報採取で討ち入り決行の原動力となります。
 
仲間内にも決して心の内を見せず、「腰抜け」とまで酷評されたが、決行の際は一番槍として先頭に立ち最も勇猛果敢に吉良・上杉家臣と奮戦したといわれています。
 
俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、1214日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめたのも彼でした。
 
そして、「時は元禄15年、師走の14日・・・」で始まる赤穂浪士の討入りになるわけですが、見事上野介の首をあげ主君の仇討ちの本懐をとげたというこの事件は「忠臣蔵」の噺の中で今日まで言い伝えられています。
 
この大高源吾は三春とはたいへん「縁」がある人物だということをご存知でしょうか?
 
大高家は、もともと平安時代から続く名門です。
 
奥州豪族安倍貞任の一族で、奥州の大高館を本拠としていたので大高氏を称するようになったと伝えられています。
 
その後も代々大高家は、安倍・安東氏に仕え続け、江戸時代にも安倍・安東氏の嫡流である三春藩秋田氏五万石に仕えていました。
 
尚、大高家も秋田由来の家臣であり、安倍一族の出自であるので、大高本家は藩主から「秋田」姓を名乗ることを認められていました。
 
源五の父である忠晴は、この秋田家(大高本家)の庶子でしたので「秋田」の家名ではなく「大高」を家名とし、赤穂浅野家に仕えました。
 
「義」の心を持つ日本人の代表が三春縁の方だと思うと襟を正さなくてはと思います。
 
311の震災以降、私たちは、これまで以上に相手を思いやる気持ち・優しさ・慕う心を強く感じたことと思います。
 
殺伐とした現代に、失われてしまったもののように思われていましたが、実はしっかりと一人一人の心の中にそれは消えずに残っていたと確信しました。
 
命を賭して、人を信じる心、人と人のきずな、本当の正義、そして自らの信念を貫き通した赤穂浪士たちの生きざまは、見る者の心を打ち続けることでしょう。
 
「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」大高子葉(源吾)

さすけねぇぞい三春! 蒼龍謹白   合掌