三春田村の名将「斉藤大膳(だいぜん)と久我肥前(ひぜん)」
   
 大坂の陣でクライマックスを迎えたNHK大河ドラマ「真田丸」。
名将として上杉謙信、直江兼続に並び称される真田信繁(幸村)配下が装備を赤で揃えた「真田赤備え」軍勢で活躍し天下の名将「日の本一の兵」のとも讃えられていました。
 真田丸同様、三春田村氏戦国戦史の中で、最大の危機を、わずかな手勢と小さな出城を使い、卓越した戦術と知力をもって数に勝る敵方と死闘を繰り広げ、見事三春領を護り切った戦い抜いた武将が居ました。
戦国期の三春城主田村家の重臣、斉藤舘(現三春町斉藤)舘主・斉藤大膳と白岩風神舘(現郡山市白岩町)舘主・久我肥前。
この三春地方でも戦国乱世といわれたこの時代、三春城主田村氏を取り囲む環境は、群雄割拠、会津芦名、須賀川二階堂、相馬氏、伊達氏、佐竹氏等々周囲に強大な敵があり、正に四面楚歌の状況でした。
斉藤舘と白岩風神舘は、ともに戦国期の三春城主田村義顕が築いた領内防備の後に云う「田村四十八舘」の一角で、須賀川二階堂氏への備えとして三春本城南西の重要な防御の要で、田村家中でも信頼できるこの二人を城主として駐留させていました。
 愛姫が伊達正宗の正室として嫁いだ翌年の天正8年8月、田村家三代清顕の弟孫の八郎重顕(はちろうしげあき)が、岩瀬の塩田、洞樫(現岩瀬村)に出陣しますが、須賀川城主二階堂の臣、浜尾善九郎率いる岩瀬勢の激しい攻撃に会い討ち死にしてしまいます。
 勝ちに乗じた浜尾勢は田村領に向かって進撃し、三春の南西部にある大平舘(現郡山市田村町大平)を落とし大善寺舘(同田村町大善寺)をも陥落させ、清顕の大叔父に当たる田村月斎頼顕(田村初代義顕の弟)の守る今泉城(現岩瀬郡今泉)に迫ろうとしていました。
一方、須賀川勢を率いる二階堂氏は常陸佐竹氏を頼み、御代田城(現田村町御代田)に猛攻を加えます。
 そこで、仙台伊達正宗の父である輝宗が仲裁に入り、今泉城は二階堂に渡し、御代田城は田村氏に返させたことで、一応の停戦となりました。
 しかし、勝ち誇る二階堂氏は、須矢部、伊藤、浜尾の各武将に命じて須賀川勢、岩瀬勢を率いて翌三月には、行合、大平(ともに現郡山市)の二方向から三春田村領へ再び侵攻してきました。
 その最前線になったのが、三春城の南西にある斉藤舘と白岩風神舘です。
 二階堂氏の須賀川勢、岩瀬勢は、このそれぞれの侵攻口から斉藤、白岩舘に猛攻を加えます。この時は、田村勢には伊達の援軍がまだ着陣する前の闘いで、四方に兵を分散させる田村勢の劣勢は誰もが思うところです。
 しかし、斉藤大膳、そして久我肥前は、さすが三春田村氏の中で一、二を争うほどの戦巧者と言われた名将です。
それぞれ与力衆を率いて神出鬼没の戦術を使い必死の防衛戦を展開し二階堂勢を苦しめます。さらには、野戦においても勇猛果敢に打って出て、それぞれの総大将めがけて突撃し死闘を繰り広げます。須賀川・岩瀬の二階堂勢は、次第に劣勢となり多数の戦死者を出すという痛手を被って敗退します。
この戦は三春田村氏の存亡にかかわる未曽有の危機から救った輝かしい武功だったと伝えられています。
 なぜ、白岩舘が「風神舘」と呼ばれているかといえば、舘北西一帯の安山岩が露出した断崖にある風穴から風が吹き出す音が、風神の風の音の様に聞こえるところから付いたとされています。
後にこの音は、この舘の攻防で戦死した兵の悲しみの叫び声が聞こえてくるとも伝えられるようになり、その激戦の様を今に伝えています。
 現在白岩舘の址には、白岩神明宮、御嶽神社が祀られ戦没者を慰霊しています。

     

合掌 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝