「本陣本店」三春城下検断職川又氏「御本陣」
 

三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。
縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。
当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。
検断職の記録は、現存する三春の歴史的な資料であり、特に川又氏が残した「記録・川又文書」は大きな役割を果たしています。その記録によれば相馬藩主の参勤往来や、幕府巡検使の城下通過の際などは宿所となっていたようです。
川又氏は、秋田氏三春藩政下の藩より名字帯刀の許可と御手当三人扶持を給されると共に三春の商人として生糸商や醤油商の他に藩指定の塩問屋として財を成し、藩領の経済及び文化の興隆に大きな役割を果たしていました。
江戸期の三春では、度重なる天変地異による自然災害や飢饉、そして御公儀による下命諸役などで藩に膨大な借財が慢性的に発生しており、川又氏をはじめ三春の商人たちは多大なる献金や貸付けをおこない藩の財政を援けていました。
しかし、明治維新後の廃藩置県等の藩の解体に伴って藩への貸し付けは不履行となりますが、さすがは三春商人です。
戊辰ノ役での戦火を免れた三春城下で、生糸や、塩、醤油商などの生業に加え、「第九十三国立銀行」(明治11年 彦十郎氏)で金融、製糸三盛社(明治20年 恒三郎氏)、「三春馬車鉄道株式会社」(明治27年 恒三郎氏)の運送、そして「三春電気株式会社」(大正9年 彦十郎氏)の電力部門等々を創設して三春城下の近代化を進めていきました。
明治、大正、そして昭和という激動の時代を“三春城下の商人”として「本陣本店」川又恒三郎(彦十郎)氏は、渡邊甚十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏等と共に当代の三春経済界の立役者として、三春・田村地方だけではなく、福島の経済界でも中心的な役割を担ってますます商いを広げ、地域社会を支え続けます。
文化面では、明治11年に「福島県民会規則略解」や小学校教科書「教則」を出版する「三春書林」を川又定蔵氏が立ち上げています。
後の衆議院議長となる河野広中も、この三春書林で「自由の理」(ジョン・シュチュアルト・ミル著中村敬宇訳)に出会い自由民権運動に目覚めたと記しています。
また、近年では町教育委員などを務められた本陣本店の先代川又恒一(つねかず)氏は、「三春駒とデコ屋敷 」(1983年)を出版するなど三春の文化向上に大変寄与されています。
後輩である早稲田大学の観光学会(当時)による「まちづくりと観光開発(S.59.6発刊)」の三春の観光についての取材の中で…
「三春は小さな城下町です。大きな観光地にはなりえません。三春人は観光開発のために新しくモノを作るのを嫌います。三春を訪れる方々に何か心の故郷、心に訴えかけるものをどのように感じてもらえるかを心掛けています。長い眼と時間、そして子孫が誇れる持続できる町づくりを目指したい。そして一番大事なのは”町の人が町の特性を十分考えてそれを守ろうとする姿勢”です」と話されています(一部要約)。
三春商人の先人、本陣本店川又氏から「経営者自身の自己実現を追求するだけが経営ではなく、地域社会の進歩発展に貢献することが大切である」ということを改めてご教授いただきました。


さすけねぇぞい三春!   蒼龍謹白    拝 

毎月第三の金曜と土曜の2日間だけ本陣本店さんの軒先をお借りしてオープンする「ちょっくら市」。
様々なクリエーター、アーティストの作品が並ぶお洒落なお店。
三春から新しい文化を発信しています。
もちろん、「本陣醤油」を重要な原材料とする「おたりまんじゅう」も販売中です。