2019-05-03 Fri
祝新天皇即位
現代川柳「駒のいななき」85歳記念号 わたなべ駒之助著
三春城下担橋にある「わたや呉服店」会長の渡辺和明氏ことわたなべ駒之助さんより、祝新天皇即位 現代川柳「駒のいななき」85歳記念号が届けられました。
病気療養とリハビリの日々と伺っていましたので心配していましたが、同書を拝見しリハビリ中なれど創作意欲にあふれ益々お元気な様子で安心いたしたところです。
腰から下はリハビリですが、腰から上はいたって元気とおっしゃっていられる通りのお姿が見えるようです。
早速、中を拝見いたしますと「祝新天皇即位」題されておられますところの、祝新しい元号「令和」とともに、
「紅葉山 皇室守り とこしえに」 と詠まれています。
紅葉山・・・江戸城西丸の東北にある丘で本丸と西丸のほぼ中間あたる。古くは「鷹の森」と呼ばれ現在は皇居を構成する一部となっている。著者中訳
また、それぞれの項目ごとに分かれた川柳には日々のリハビリテーションでの様子や関係各位への御礼が詠まれています。
三春商人として昭和から平成と全力で駆け抜けた85年.
川柳に表されている言葉にそれまでの商人として、三春人として歩んで来られた人生の汗と涙、喜びなど悲喜交々が根底に見えます。
読み進むうちに心が引き締まる詩が並んでいます。
そして改元され新元号令和の時代になっても益々人生を謳歌されることでしょう!
春が過ぎて立夏を迎えようとしています。
そろそろ自宅へ戻ってのリハビリになるのでしょうか?
三春商人の「商売のコツ」や「人生訓」をご教授いただきに伺と思います。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
2012-12-18 Tue
三春町平沢谷戸の旧家伊藤博さまより、ゆずを頂きました。
綺麗なゆずは商品として三春駅磐東プラザで販売していますが、形の悪いものは商品価値がないのでお客様にお分け下さいということでいただきました。
ご来店のお客様には、ご自由にお持ち帰りいただいています。
旧平沢村谷戸の伊藤家は、旧谷戸三軒の一件で、平沢伊藤家の総本家という家柄です。
敷地内には、旧谷戸安楽寺(廃寺)から移設した十王堂をお祀りしています。
「極楽浄土」信仰のための十王が祀られているお堂です。
これを十王堂(じゅうおうどう)というが、地元の人たちは「じょうおうどう」と親しみをもって呼び、今も大切にお守りしています。
十王とは冥界で死者の罪業を裁く10人の裁判官のことで、その10人とは泰広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王です。
この思想は平安時代に中国から伝わり、鎌倉時代に大流行し、江戸になると各村々の閻魔堂に像が祀られるようになりました。
仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔(えんま)大王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官である。
この十王をおまつりして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想である。
この思想は、十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)が出典のようで、地獄のことが詳しく描かれている。
この十王経はどうやら中国で作られた経典(偽経)といわれており、日本へは仏教伝来時に伝えられ鎌倉時代には大流行したという。
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| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
2010-03-26 Fri
三春城下の西、旧平沢の谷戸集落に、穴地蔵さんとよばれる北向きのお地蔵さんがひっそりとたたずんでおられます。
昔、この場所から大判小判が出たということから「守り地蔵」、「金持ち地蔵」としてお参りする方が絶えなかったと伝わっています。
谷戸の新墓地の一番奥への曲がり角の左手の土手の上に、切石で囲った岩室があってその中に二体の地蔵さんが納められています。
穴地蔵さんのご利益は、目、鼻,等々、穴という穴のすべての病気に霊験があるという 有り難いお地蔵さんです。
かつては、谷戸集落から旧御木沢小学校へ通じる、鬱蒼とした木の生い茂る寂しい一本道でしたが、この地蔵様が優しく見守ってくれていたそうです。
尚、夏にはカブトムシやクワガタムシが多く出没する虫取りスポットとして人気があります。
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こちらは旧谷戸の慰霊碑
| ryuichi | 06:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
2009-10-19 Mon
清水にある禅寺天澤寺の宇内に、西国33番観音石仏が安置されています。
江戸期までは、新町の修験「常楽院」にありましたが、明治の神仏離反・廃仏毀釈の煽りを受けて、現地へ移管されたものです。
聖観音・十一面観音・不空羂索観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音など、観音信仰が盛んになり、観音霊場めぐりが普及してくるにしたがって、各地に、三十三観音または百体観音像を石に刻んで建立することが盛んになりました。
三春の庶民は、札所めぐりをしなくとも、常楽院で巡拝することができるように建立されていたのでしょう。
観音様がさまざまな形に彫られてきたのには訳があります。
古来、観音様は、あらゆる姿に変化(へんげ)すると考えられたからです。
生きとし生けるものすべてを救うため、相手に応じて姿を変える。
それが観音様なのです。
こうした観音様への信仰は、江戸時代に大きな広がりを見せます。
そして、どんな時も全てを受け入れてくれる観音様に、母親の姿を重ねるようになったのです。
2009-06-29 Mon
平沢元町 物外地蔵堂播揚物外紹播和尚は、江戸初期、三春城外の李田(すももだ)に生まれました。
三春福聚寺の悦峰西堂の弟子となり、宇都宮興禅寺、館林慧林寺、京都妙心寺等に参禅・住持して、宍戸藩主の秋田実季の招きに応じ宍戸高乾院に赴きました。
江戸幕府二代将軍秀忠の江戸城への招きや伊達政宗の瑞巌寺開山の誘いを固辞して参禅者に教えを説いたと伝えられています。
この「物外地蔵堂」は、その母が子供の出来ないのを憂い、平沢の地蔵堂に三年間願を掛けたお地蔵様を安置してあります。
また、雲水として行脚を続ける物外禅師も故郷三春を訪れた時には、この地蔵堂の脇に設けられた「保春庵」を庵居としていました。
後に、後光明天皇の聖聴に達し、「勅諡 播揚大教禅師」の諡(おくりな)されています。
こちらは、物外地蔵堂のすぐ近くにある、「おすわ様」とよばれる「諏訪神社」です。
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