2013-08-13 Tue
平成25年度「沢石盆踊り大会」大懸賞付き 主催 朋友会花火大会 子供ゲームなどイベント盛りだくさんです。
特に花火大会は、見る者を圧巻します。
期日 八月十四日 雨天決行
午後5時より・・・・・子供ゲーム
午後6時30分・・・ 盆踊り大会
午後8時ごろより・・花火大会
場所 三春町立沢石中学校校庭(雨天時 沢石中学校体育館)
昨年の盆踊りの様子 ユーチューブに投稿されていました。
三春四十七舘の北方の要。
富沢城と呼ばれた富沢館(富沢字聖楽)や富沢古館(富沢字松ヶ作)
北方与力五十騎を統括する富沢伊賀守が護っていました。
この舘は、戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。

城主は、時代ごとに、富沢玄蕃、富沢伊賀、さらに、田村重臣橋本刑部少輔を大将として天正十二年に勃発した「初森の合戦」時には、田村勢の負け戦となった際に、敵将小浜城主大内定綱に生け捕りにされた富沢式部の名前があります。
富沢伊賀は、富沢衆と呼ばれた「北方与力五十騎」の大将として戦国末期まで三春の北方を守護していました。
後に、田村家中が伊達派と相馬派に分裂した時に、富沢一族は、相馬派筆頭の小野保・小野城主田村梅雪斎に組し、小野城城代衆(三十六騎衆)と小野城下に移住します。
富沢氏移籍後は、実沢館( 実沢字開宝山)、実沢新館(実沢字館腰)主の佐久間氏が北方警備を司ります。
2010-06-22 Tue
三春城下の北二里余、旧富沢村。
戦国期には、富沢玄蕃が護る、田村四十八舘の北方守護の要である富沢館がありました。
その館の一角にあったとされる、富沢村鎮守天目鷲神社です。
社伝によれば「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。
旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。
旧富沢村社 天日鷲神社 御由来緒 調査書
御祭神 天日鷲神 社掌 飛田昭辰調進 (筆者現代文に調整・加筆)
往古由来鎮座の由緒不詳
但し明治十二年社書上の由緒によれば、「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。
旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。
其の後、延元三年 富沢舘主 富沢伊賀と云う者、神官にして武官を兼務し奥州鎮守府国主北畠顕家公に従って上洛致し、同年五月足利軍と激闘の末に顕家公は泉州阿倍野に於いて敗
戦、戦死す。
以後、富沢伊賀は流離潜伏し遂に阿州名東郡に至れり忌部神社の神官方に寄宿する事数年、然るに右社祭神天日鷲命奉斎に依って常に神事を賛助す。
然るに其の崇神篤志を賞して帰國の際に右社々蔵の水晶石を祖道とする。
以来、本国に携へ来り、「傳家ノ實器」と称せし所、遂に三春藩所の聞に達し、天保中覧に供せし所、その秀麗を称し来歴を思へ常に坐右を放○す。
然るに藩主世子数々夭折し遂に右水晶石を以て神に祭り子育て神と禰し、朝夕尊敬懈怠参る。
然る所、世子健全に成長し遂に万延元年の至り子育大神と書たる幟旗一流に金三両を添えて下附さられたり。
明治元年 天日鷲神社と改称す。
明治七年より同十五年迄 田村郡旧荒和田村、全青石村々社に列せられたり
明治三十五年十二月二十四
社掌 飛田昭宸(辰)
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地に祀られました。
神話で知られているのは天照大神が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で神々の踊りがはじまり、この神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まった。
多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。
境内末社の天神宮さま
江戸時代の三春秋田藩政下では、この富沢村は、旧旗本五千石秋田家領に分地されていました。
尚、旗本秋田家の所領は 新舘村、荒和田村、大倉村、ツクモ田村、丹伊田村、石森村です。
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三春昭進堂 髙橋龍一
2010-06-19 Sat
三春城下の北部、旧実沢村の鎮守高木神社です。
旧天王宮と称し、祭神を帝釈天として祀っていました。
実沢村は、戦国期には田村四十八舘の一つ北方守護実沢館があり、城主実沢山城守が治めていました。
明治初頭の廃仏毀釈で高皇産霊命(高木神)を祭神して高木神社と改称されました。
南北朝動乱の戦国期初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村庄の惣鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。
帝釈天とは、梵天とならび称される仏教の守護神です。
十二天の一で、また、八方天の一として東方を守るとされています。
また、天上界の王といわれます。
天衆をひきいて阿修羅を征服し、常に使臣をつかわして天下の様子を知らしめ、万民の善行を喜び、悪行をこらしめます。
欲界六天中の”とう利天”の主、須弥山の頂上の中央にある殊勝殿ともいう喜見城に住み、四天王を従えます。本生話(釈迦生前物語)や釈迦誕生の場面、釈迦が、とう利天で母の摩耶夫人に説法した際に付き従っていて釈迦の緊密な擁護者でもあるされています。
三春田村氏が奉納した銅鏡や銅鑼等の仏具は、県内有数の中世金工品として町の重要文化財にしていされています。
立派な彫刻が社殿を飾ります。
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2010-06-18 Fri
三春城下北部、垢潜(あかしろ)集落にある火雷神社です。
案内板によれば、
「京北野天満宮に発し、平将門一族の流浪地に祀られたことから起こったものとされる。
当社も当初は小さな祠であったが、この地に社殿を建立し、同地の守り神として現在に至っている。
祭神は火雷神で農耕の神である」としてあります。
祭礼のときに奉納される「垢潜三匹獅子」は、三春町文化財にで指定されています。
私たちの祖先は、山や木や岩、あるいは風や火や水といった自然の現象の中に神の存在を感じて畏れ敬いました。
そして部族の者達が飢え苦しむことの無いように、農耕や狩猟や漁業の収穫をそうした自然の神に祈ったのです。
これが天神様の原型でした。
農耕民族にとってとりわけ大切なのは雨です。
その雨を降らす雷様を、古代人は「天神」として崇拝したと考えられます。
「続日本後紀」のような古い記録に、豊作を祈願して雷公を祀ったとありますが、現在の北野天満宮の本殿前にある火之御子社がそれです。
後に菅公を北野にお祀りするようになったのも、菅公が『火雷天神』という神号を持っていたからだと言われています。
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2010-06-13 Sun
三春城下の北部二里余、旧実沢村にある現人神社です。
小社 現人神社御由来緒 (寫)
磐城国田村郡澤石村大字實澤字八龍山鎮座
小社 現人神社
祭神 後醍醐天皇 義良親王 護良親王
當社勧請の由来を原するに、佐久間遠江守盛清の後胤右京太夫が當實澤郷に移り實澤上舘の屋形に住い
御宗参議源(北畠)顕家公が奥州鎮守府へ下向の際、義良親王を奉じたりに、官軍の利を失い、遂に大塔宮と共に伊達霊山に籠城し御難渋なされ、帰京ましましの途中、安達郡菅ノ澤とい
う所に掛けたる時しも雨天にて恐れ多くも十善萬乗の御玉体を田夫野人姿に替えさせ給いる。
玉は御歩行なれば一足に息し二足に立ち止まり給ふを見上げ奉じるに、実に感泣に堪えざるとて菅ノ澤(今の杉沢)の三瓶美濃と云う者、當村(實澤)迄案内を申す時に實澤村の北端を流れる移川と云う川があり(源流を美麗山とする川)、この川に掛り足る時、折からの雨の為に川が増水し洪水となり、其の架橋を渡ることが危険為るを以て御背負申せしに「我渡る」と仰せありたるを以て、此の処を「川渡」と呼ばれるようになった(我渡の義あり)。
此の時、三瓶美濃はこの地の八龍山迄御供を申し慈にて御休息ましまして御別れを申す。
この御休息の処として「御塔壇(大塔宮)」「御聖壇(義良親王)」「御参議壇(参議北畠顕家公)」と唱する遺跡を設ける。
茲(ここ)文中元年皇子の御尊影を崇し奉らんとしてこの山に祠を建立し、御尊像三体を造り現人神社と勧請する。
これが當現人神社の創立の濫賜(かんしょう)なり。
今に至るも甚だの御縁を以て安達郡杉沢村の三瓶家にては毎年歳初めに御幣束を納めることに怠りなく履行しています。
明治三十六年
社掌 岩崎嘉門
惣代 佐久間泰四郎
明治維新後になるのでしょうか、一言主命(ヒトコトヌシノミコト)という神様をお祀りしています。
この御祭神は、人々が普段口にする言葉を叶える神様で、特に一言で言った言葉に対して強い霊力を持ち、この地方の人々の間では「何事でも一言で聴き届けていただける」という根強い信
仰があります。
この神さまは「一言(いちごん)さん」と地元のひとには親しまれているそうで、さらに、「一言」にあやかって、1度にひとつだけのお願いごとなら叶えてくれるのだと言われています。困ったことが起きた時には、神前で一つの言葉に願いを込めてお参りするのが習わしです。
古代の人々にとって、信仰の対象は自然界における事象や事物すべてでした。
「八百万の神」というほど日本の神が多いのはそのためです。
人間の力ではどうすることもできない自然の出来事に神の姿を見たのでしょう。
巨石、滝、川、巨木などが神の宿るところとみなされていたので、山は霊域として信仰の対象になり、多くの神社や仏閣が創設されました。
季節の移り変わりも、人生の節目も、鎮守の神様とかかわりながら体験していたといってもよいでしょう。
そこは、暮らしのごく身近にある「祈りの場」でした。
大黒様や巳待供養等などもあります。
2010-06-12 Sat
三春城下の北部、旧実沢村にある阿弥陀堂です。
その名のとおり、阿弥陀如来を納めるお堂です。
この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。
西方極楽浄土の主である阿弥陀如来は、別名 無量寿如来ともいわれ、その寿命は限りないとされ、その光明は十方国を照らすとも言われています。
弥陀の四十八願により「南無阿弥陀仏」と唱えれば、如何なる者であっても、死後、阿弥陀様の極楽浄土へ人々を導き、生まれ変わらせてくださるという、大変ありがたい仏様です。
阿弥陀如来の功徳は、極楽浄土、現世安穏、先祖供養、家内安全、戌年・亥年生まれのお守り本尊などです。
2002年の10月に封切られた「阿弥陀堂だより」
ご覧になった方も少なくないのではないでしょうか。
黒澤映画「阿弥陀堂だより」
東京で暮らす熟年の夫婦、孝夫と美智子。医師として大学病院で働いていた美智子は、ある時パニック障害という心の病にかかってしまう。東京での生活に疲れた二人が孝夫の実家のある長野県に戻ってきたところから映画は始まる。二人は大自然の中で暮し始め、様々な悩みを抱えた人々とのふれあいによって、徐々に自分自身を、そして生きる喜びを取り戻していく。
物質社会にまみれた今の世にあっては「神道の潔さ」、あるいは「仏教のもつ謙虚さ、慈悲深さ」など、現代人にはむしろ学ぶべき事の方が多いのではないでしょうか。
「物質的な豊かさと精神的な豊かさは、必ずしも正比例はしないよ。」
路傍のお地蔵さまが私達に、そう語っているような気がしてなりません。
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