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軍隊手帳 帝国日本陸軍




軍隊手帳


軍隊手帳とは当時の軍人が所持していた手帳です。

内容としては、その軍人の身分証明書としての意味合いと、軍歴の証明ともなる非常に大事なものだったとされていました。






大東亜戦争期製造のものになりますので手帳には、軍人勅諭や戦陣訓、応召及出征時の心得、などが記載されています。


軍人勅諭とは、明治天皇が陸海軍人に与えた勅諭(天皇の下した諭(ゆ)告)で、軍人に天皇が統帥権を保持することを示し、軍人の徳目などを説いたもので、軍隊の教育はこれを基礎として実行されました。







持ち主は、帝国陸軍軍人として召集され、駆逐艦に護衛された6隻からなる輸送船にて南方戦線へ臨場途中に2回も米軍に攻撃されて乗艦の輸送船は6隻とも撃沈され、5時間も漂流していたところを救援に来た味方駆逐艦に救助された経歴を持つ強運な方で、昭和21年に部位除隊しています。






そして、出征の際に親類縁者、地域の方々からもらった餞別の請書







おなか絵や役職などを見ていますと、ご縁のある様方々からの無事帰還を願う恩心が見えてきます。








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍





| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
神宮教院発行「第五百七十二番 神宮教会神風講社 副世話係 選定所」 鷹巣橋本氏文書




神宮教院発行「第五百七十二番 神宮教会神風講社 副世話係 選定所」 鷹巣橋本氏



神宮教会(のちの神宮教)とは、明治の初め、従来の伊勢講(太々講)を基盤とした伊勢神宮の教化活動を担うべく設立された神宮教院・神宮教会です。



さらにそれを母体として成立した神宮教・神宮奉斎会の傘下となる各地方の講社は神風講社と名付けられました







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
戦前のインディアン・スカウト  警保局保安課




古い写真より・・・・

戦前の警保局局員集合写真の後ろに古いバイクが写っています。

写真には戦前のインディアン・スカウトというモデルが写っています。

白バイとしても使用されたモデルです。


1901年に創業し、’50年代に幕を閉じるまでアメリカの二大モーターサイクルメーカーとしてハーレーと争い続けたインディアン。





警保局保安課
 
戦前の内務省の内局の一つで警察行政全般を管轄し、内務省官制」では、警務・保安・図書の三課が置かれていました。

警保局長は全国警察の責任者であり、高等警察を所管することで、政治情報の収集などをおこなう一方で戦時体制化が進むと、戦時統制経済の確立から経済警察を掌る経済保安課の設置や従来の図書課から発展した検閲課などが置かれていました。

終戦後、局内の組織改編、1947(昭和22)年に内務省が解体となるとともに、警保局は廃止されます。






この車はなんでしょう・・・・?






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記
  
  鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記

太祖、征夷大将軍従三位大納言坂上田村麻呂より三十一代の末、田村右衛エ門隆信(船引舘主)の嫡子善内俊顕。

天正十六年六月、伊達政宗に随い常陸の佐竹義重、白川義親等と安積郡久保田に於いて合戦するも敗北となり単騎田村郡に帰還し鷹巣邑舘(たかのすむらたて)に居す。

其の後、文禄四年に至り本山修験(聖護院か?)となり般若院顕光と号す。慶長二年、卒す。

是より五代般若院清山周光般若院跡継、田中山讃州金毘羅大権現は軍中心願の依り慶長二年、当所謹請にして金毘羅様、金神様、不動様の三体ありと言い伝えがあり。

その後文政十一年金毘羅堂を再建せりという。

明治元年、王政維新の際、発布された神仏習合不相成御趣意(神仏離反・廃仏毀釈)に付き右(前記)三体を疎開して御堂を壊したという。

現在は一体で、之は昭和六年亀元翁北ノ内橋本喜平宅より戻せしなり 石段と石造の手洗い鉢一個を現存す。

字梅乃木作山頂の般若檀に無名の石碑あり、之は般若院般若坊を葬したという。

尚、前記五代般若院清山という法印故ありて上大越の修験喜明院に入夫に行き院家中絶す。

清山法印に弟あり善衛エ門という瀬山の橋本仁衛門方にいる聟(婿)となり、仁平と改名す。享保十一年十二月卒す。

此の人我が生家の断絶を嘆き男子を引き連れて来り、安達郡和田の岩角寺に遣り学問をなさしめ修験となし威徳院存光と称する。之によって院家再興せり。

之により姓を橋本という。


明和四年、方光(よしみつ)梅右衛門十八才となり北ノ内に分家せり。文政二年七月上京、前正別当権大僧都三僧祇法印賢光 天保十年七月。

嘉永五年十一月再度上京、若王子殿御直院となる。

明治二年御一新につき神主職琴平神社神主となり復姓し田村大和と号した後に清見と改む。明治五年二月、磐前縣より五番中学区鷹巣小学校校長を申し付けられる。

明治三年二月上京、品川神社神官小泉勝麿の門に入り神拝式奉幣式の伝授を受けて帰国。同年十二月家督相続神職を継ぐ。

同四年八月太政大臣の公布に依り全国一般神官神職の世襲を解かれ帰農の上民籍編入。

神職田村真紀、明治二十一年教導小講義に補され、明治四十一年社掌となる。


嫡子亀元翁、明治二十年より小学校教師、同三十一年より三春葉煙草専売局員、同三十四年、郡山地方裁判所職員、同三十六年縣蚕病予防史員を歴任す。

本宅の造築は何年頃か詳かならざれども凡そ三百年以前(令和余年記す)のものと推考する。

土蔵は明治十年頃、勇翁の新築也と伝之聞く、その後湿地の為大破に及び、昭和二十八年一月泰寿地上八尺通り石を以て改造せり。

以上は田村家の秘蔵並びに言い伝えを拝承に記して先祖代々の霊祭執行及び建立の記念とす。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
寛政九丁己歳 御年貢割集事 奥州 三春藩之内 鷹巣村




寛政九丁己歳 御年貢割集事

一 石高六百九拾二石八斗入升


奥州 三春藩之内 鷹巣村








栗原新田の記載済








田部井、梶塚、滝田の役人名と、荒木氏の署名捺印




| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
河野廣中、明治35年の衆議院選挙当選御礼の手紙です。




河野廣中、明治35年の衆議院選挙当選御礼の手紙です。

あて名は、鷹巣村旧名主だった橋本氏となっています。






粛啓 時下益御清穆慶賀之至ニ奉
存候 陳者今回之衆議院議員総選
挙二(罷)而者萬般御高配越辱
ふし、御尽力之結果 多数之得票
を以当選之栄を荷へ候段 深く奉
鳴謝候 右御禮申述度如斯 ニ御坐
候 敬具

三十五年八月(明治)

河野広中

橋本忠吉様

訳責 渡邉 日向







こちらは、河野廣中書「魔訶般若心経」の写経です。

天澤寺の本堂に掲げてあります。







面白いのは、当時城下大町にあった山中ホテルの社長が河野廣中さんの祐筆だったらしく、書の上手いのは全てこの山中さんの代筆だそうです。

何せ河野は寺子屋をクビになってる悪ガキでしたので読み書きはからっきしだったと言う逸話が残っています。

尚、晩年は禅宗に帰依し、晩年の実筆揮毫のほとんどが、禅宗の和尚さんの書らしく記されています。





三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂


| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
「続埋木」(ゾクウモレギ) 今泉恒丸著 柿壷蔵版



「続埋木」(ゾクウモレギ) 今泉恒丸著 柿壷蔵版



「参考にしてくださいと」鷹巣の歴史家橋本史紀様より、先祖伝来の蔵書である貴重な古書をお預かりしました。


今泉恒丸(今泉与右衛門) 雅号 石巌山人 葛斎 

宝暦元年(1751年)、三春藩領常葉中町(現:福島県田村市常葉町)出身で、父親は三春藩の土着給人今泉楢右衛門

今泉家は、三春城主田村清顕の重臣橋本刑部少輔貞綱(顕徳)の嫡男で、今泉(現船引町今泉)、後に常葉で給人格(食録100石)とする信綱(今泉岡右衛門)の末裔と伝えられています。







恒丸は、小林一茶と交流を深め、浅草の札差「井筒屋」五代目で俳人夏目成美の主催する成美亭に出向いて歌仙(連句)を開催していたようです。

恒丸は52歳の時に他所の奥方だった女流俳人もと女(恒丸没後、京都で髪をそり、素月尼と改名)と駆け落ちして江戸表へ出ます。

下総、常陸地方で四千人を超える門下生を従えたともいわれています。


今泉恒丸と素月松尾芭蕉の次世代では、夫婦で最も著名な俳人でした。



先に史紀さんから頂戴した『鴛鴦(えんおう) 俳人恒丸と素月』(歴史春秋社)矢羽勝幸・二村博共著にも詳しく記載。








寛政10年(1798年)、恒丸が、会津、江戸、名古屋を経て大坂まで旅をした折の記念句集。 寛政11年(1799年)、刊行。


如月の末高田なる二竹庵のあるじをとふに、かしらいたきとて臥ながら病る身にほかほか来たり花の風といゝ出、心よげに笑ひかたる。
扨とゞむるまゝに春も暮ん頃、別れを告て下つけの國にこゆ。
卯月の五日ばかり黒かミ山の奥にて

  夏霧に打濡て深山ざくら哉










笠はほつれて面を焦し草の枕も熱くるしきに何くれとなくつかれしを、むさしの成美おふぢがいたハるにいこひける。
それの別荘はかつしかといふ處にありてすミだの川風吹こゆるに夏も紙衣のほしきまでなり。

蓮のさくはヅミにうつる嚏かな 成美

石にからりと春せミの殻 恒丸

成美は、俳人夏目成美のことで、浅草蔵前の札差で、通称「井筒屋八郎右衛門」






三春の俳人平田掬明(三春城下荒町 平田治右衛門俊雅) 天保2年(1831年)没、83歳




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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