2019-11-24 Sun
いつもお世話になっているお客様、沼澤の清水田さまにご来店いただきました。
先の発行した塵壺340号に斎藤の沼澤のことが書かれていたので、以前先輩から頂いた「沼澤往来」と「沼澤往来の俗名」と題されたお手製の冊子を拝領しました。
「これらを塵壺の参考にして」ということでした。
中を拝見しますと沼澤の地名の由来をはじめ、寺屋敷、加護田、古関板、送り檀、和尚檀、細窪、谷地ノ前などなど沼澤の小字由来が詳細に記されています。
遠藤様のお名前と昭和六十三年戊辰の年号の入った「沼澤往来」
同じく平成二年の年号の「沼澤往来の俗名」
執筆者の遠藤様はもう他界されているとのことでしたが、地名や耕作地の由来が詳細に記されています。
ちょうど、青山氏関連の調べものをしている矢先の事でしたので大変参考になります。
これこそ「資料が向こうからやってくる」ということなのでしょうか?
清水田様、本当にありがとうございます。
有難く頂戴します。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2010-03-22 Mon
三春城下の南西、二里余り沼沢の愛宕神社です。
沼沢集落の防火無災害などの神様として愛宕地蔵権現を祀っています。
九十一段の石段を登った山頂に鎮座し、近くの春日神社とは峰続きにあります。
弘安年間に熊野別当の勧請によるもの伝えられています。
戦国三春城主の家臣沼沢城主沼沢孫兵衛の崇敬あつく社殿寄進が伝えられています。
また、沼沢居舘とは対をなす場所に立地しているところから、出城的要素が強かったのではないかと考えられています。
道内にあるご神体愛宕地蔵石仏は正徳年間の造立と云われ、西方の修験長根山意宝院の祭祀によるものとも伝えられています。
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2010-03-20 Sat
沼沢地区の庚申供養塔や月待供養塔、地蔵などが、光明寺の宇内に集められています。
庚申塔は庚申信仰により発生したもので、暦で60で割りきれる年を庚申年と呼び、その度に講が行わます。
その何年か毎に記念して石碑が建てられ「七庚申碑(更新年が7回毎)」などと彫られ奉納されます。
庚申の祭神は神道では「猿田彦神」、仏教では「青面金剛」と云われ、猿田彦神は道を司る神とされている為、道祖神と同類とされてきました。
このことより庚申塔は道祖神と同じ様に村境や辻、三叉路など交通の特異点に安置されるようになりました。
信仰の厚さはひと際強かった事が想像されます。
当然、各集落が意識しあっていた結果かもしれません。
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2010-03-01 Mon
沼沢子安薬師如来堂
戦国期三春田村氏の要害、田村四十八舘の一つ、沼沢館の一郭に鎮座してある光明寺境内の子安薬師堂は、大同年間(806~810)、法相宗学僧徳一大師の開基と伝わる古刹です。
本尊薬師如来坐像は、古くから安産・子女育成に験があるとされ、子安薬師と呼ばれています。
薬師如来像を安置する厨子は、江戸中期の作で、信者による寄進とされています。
比較的小型の厨子ですが、斗栱を組むなど複雑な構造が組み込まれ、美麗な彫刻が施され、建築当初の美しさが残ります。
薬師如来とは、十三仏の四十九日(七七日)導師。
三十日秘仏の八日仏。
左手に薬壷を持って、右手の薬指が前に出ているのが特徴です。
如来の中で、物を持つ如来は薬師如来だけです。
人々の病に応じて薬を施し救う仏様です。
通称は「お薬師様」ですが、薬師瑠璃光如来と言います。
日光菩薩、月光菩薩を従えて三尊形式で祀られたり、十二神将を従えるときもあります。
薬師如来の浄土は浄瑠璃浄土と呼ばれ、物語などの浄瑠璃の言葉はこれに由来します。
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2010-02-23 Tue
沼沢光明寺
応永年間に、元浜井場に宥尊和尚の開山と伝えられ、元禄九年に舘跡である現在の地に移されました。
戦国田村氏要害、田村四十八舘沼沢舘にある光明寺は、舘主沼沢孫兵衛の屋敷跡と伝えられています。
江戸期には、真言宗修験の守山大元帥明王別当師継院末寺と記録されています。
近代の明治の初めには中妻小学校の前進となる、達材小学校(後に沼沢小学校に改称)が設立されます。
境内には、沼沢子安薬師堂が安置され、集落より集められた庚申塔や如意林観音なども見られます。
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2010-01-10 Sun
三春城下の南、沼沢光明寺跡の路傍にひっそり佇む、馬頭観音の石碑がある。
正しくは馬頭観世音菩薩と呼び、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准堤観音、如意輪観音のいわゆる六観音の1つである。
特に、馬頭観音は、1に馬頭、2に聖観音、3に如意輪といわれるほど数多くの石仏が造立されている。
馬頭観音は馬頭観世音菩薩の化身で、いろいろの悩みを断ち切ってくれる功徳があるとされ、多くの人に手厚く信仰されてきたが、また、六道の中の畜生道擁護の仏尊とされていたことが、馬とのかかわりが生まれ、江戸時代中ごろから馬を使う人々や農民によって、馬の神として信仰されるようになり、石仏の造立が盛んになった。
馬頭観音には人馬の安全を祈願して造立したものもあるが、この石碑は苦楽を共にした愛馬の死に対する慈悲の心から造立されたものと考えられる。
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