2024-07-14 Sun
田村大元神社は、江戸時代の秋田藩政下では大元帥明王でした。
真言密教にある「大元帥明王悪魔降伏諸畏怖消滅秘密」
国家を守るための調伏呪法が名高く、平将門の乱・元寇(げんこう)などを名だたる危機を救ったとされる。
町史を紐解きますと、大元帥明王には、世情不安な時などに、まさに幽玄の世界が登場します。
愛姫の父である田村清顕の亡霊が現われたり、秋田実季(三春初代藩主の父)の生首が漂ったり、「丑の刻参り」の女の変死体が見つかったなど、「大元帥明王の怪」として噂が記録に残っています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2020-01-22 Wed
腹切梅伝説 御家騒動
三春城下大町の紫雲寺、山内に入ると右手に梅の古木があって「腹切梅」と刻んだ小さな石碑がある。
あれは、大正十五年(昭和元年)に、河野広中磐州翁の碑を建てた時、「腹切梅」の主人公滋野多兵衛の供養のために建てたものです。..
今から350年程前の正徳5年6月、三春藩秋田氏3代の藩主輝季が逝去します。
跡取りである幼君はわずかに5才。
世嗣について客分家老荒木玄蕃(3代藩主輝季妹の夫)は、これをしりぞけて自分の子を入れたい野望を抱き、藩士達に連判を強要した。
それにしても幼君が邪魔なので、その毒殺の密計を企て、老女柳瀬と御殿医三宅良庵を抱き込んで、実行の機会をねらっていた.
滋野多兵衛は近習目付役で忠義一徹の侍でした。
荒木の連判には加わらず、幼君の身辺を離れず守護の役を果していた。
同年12月3日早朝、多兵衛が出仕すると、良庵と柳瀬が幼君に食膳をすすめていた。
怪しいとにらんだがどうしようも出来ません。
そこで滋野はとっさに自分のはいていた草履を食膳めがけて投げつけた。
その無礼で、滋野はその場に取り押えられ,重役詮議の上、切腹を申渡されます。
翌日、滋野はその菩提寺境内に設えられた切腹の座に据えられたが、
「何か望みがあるなら」という役人に対し、「乳母に会いたい」と答え、望は内密に聞き届けられた。
多兵衛が平沢田端の農家を訪れた時、乳母は噂で滋野のお仕置(切腹)きを聞き、仏前に供えようと、団子を作っている処だった。
思いも寄らぬ生きての対面に、涙ながらに団子を振舞います。
多兵衛は従客として馳走になり、別れを告げ·紫雲寺裏山の尾根伝えに、切腹の場所に戻った。
その時、乱母が飼い馴らした赤猫が、多兵衝にまつわりつきながらついて来た。
滋野は、処刑検視の役人を前にある城の方を睨み「この恨みは必ず果たしてやる!」と叫び、作法に従って左腹深く短刀をつきさして相果てた。
見守っていた赤猫が飛び出して着て、飛び散った滋野の血をすすって何処にか姿をくらまします。そして傍の白梅は、その翌年から、赤い花に変って咲くようになったという。
腹切梅後日談 「化け猫騒動」
腹切り梅の主人公滋唦兵衛の切腹処刑後、客分家老の荒木内匠は、自分の子である旗本秋田氏に養子に入っていた頼季を家督として幕府に届け藩内にも布告します。
その頃から、御城と家老荒木の屋敷に怪事が頻発するようになりました。
滋野多兵衛の亡霊と怪しい猫が家老や4代藩主頼季公(家老の実子)の夢枕に“猫の怨霊”が現れるようになったと云う、また、御殿や荒木屋敷など処々に同様の“猫の怨霊”が現われるのというもので、御殿出仕の侍達は極度の恐怖に陥っていました。
以来、この荒木屋敷では特に変事が続き、下僕・仲間(ちゅうげん)達や女中たちも相次いで宿下がり(離職)を乞い、長つづきする者がなかった。
奇怪な噂は尾ヒレをつけてひろがり、町内の者もふるえあがっていた。
慌てた城方では、3石7斗の供養料を紫賢寺に寄進し滋野多兵衛の亡霊を鎮めよう としたが一向きめがなく、御殿と荒木屋敷の怪事は納らなかった。
権力をほしいままにして剛腕でならした家老荒木内匠も居た堪れなくなり、南町の御城坂下の屋敷を捨てて、貝山地内·山崎の下屋敷を改築し、浪人者を雇い、番犬数匹を飼い警備を固めていた,
.
ところが、 天明5年 といますから今から約250年ほど前の2月23日早期、御厩(おんまや・現西山医院付近)から火が出て、見る間に焼けひろがり城下町内を民家伝えに家中侍屋敷を総なめに役払っていきます。
火は衰えることなくお城坂にある荒木屋敷、そして御城までも焼き尽し清水に飛び火して御典医良庵(幼君に毒を盛った医者)まで類焼し、三春城下未曾有の大火となった。
家老荒木氏の孫にあたる藩主千季は、馬に乗り単身新町にある祈願寺の真照寺に避雉して辛うじて難を免かれた。
この火事でも滋野の飼い猫が化け猫となり火を導いたのだと、専らの噂だった。
真照寺に伝わる伝説は、天明五年二月、八幡町より火の手が上がります。
すると火達磨となった猫の怨霊が天を駆け廻り、中町から荒町、そして、高乾院の家老の墓所を焼払い、北町を駆け上がり焼き尽くし、三春城(舞鶴城)の御三階や御殿を焼き払ってしまいます。
その後も火の勢いは衰えず、大町から南町へ炎が城下町を飲み込んでいきます。
亀井の黒門(現田村消防署三春分署)に消火の陣頭指揮に出向いた、藩主千季公(家老の孫)は、火勢を避けるために、真照寺へ向かいますが、それを追うかの如く炎は、勢いを増し南町から山中、そして新町をも紅蓮の炎に包んでいきます。
千季公を、真照寺住職が門前(当三春昭進堂前)まで迎えに出たところ、千季公の背後に“猫の怨霊”が見えたので、袈裟の袂で千季公を隠すようにして寺へ導きます。
すると、猫の怨霊が千季公を見失ったのでしょう、三春城下を焼き尽くした火災は、その場所でようやく鎮火したと伝えられています。
この大火後も、祟りの様に度々大火や大雪そして大雨に災害に襲われます。
また、五代治季公、六代定季公と二代続けてと早死にしたこともあり、猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた千季公は真照寺へ、弘法大師・興教大師像の中に滋野多兵衛の位牌を納めて奉納し、その怨霊を鎮めたといいます。
以来三春城下での大火の度に、火達磨が如く炎に包まれた“猫の怨霊”が空を駆け廻り、火をつけて回った話が生まれ、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。
以来、三春では猫の芝居を敬遠しつづけて来たと伝えられています。
因みに、滋野多兵衛の墓は紫雲寺に現存していますが、この墓は、滋野の若党だづた北町の万屋(よろずや)德右衛門が、安永9年6月旧主の供養を営み石碑を建てたのである。
戒名·光照院摂誉浄取居士。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2017-08-12 Sat
お盆です。
昔の記憶をたどって不思議な話をご紹介します。
稲川淳二さんの語りを想像ください・・・・
このお話は今から30年位前のお話です。
当時、世間ではバブル経済の名残があり、何かと派手な方が多かったように思います。
私もそんな世間の風潮に載せられてか、モーターボートなどを持っていました。
モーターボートといっても5~6人載りの船外機のついた中古の小さな舟です。
まあ、小さな漁船に毛の生えて程度の代物でしたが、重宝させていただきました。
もっとも仕事がら夏以外は忙しいので、猪苗代湖や檜原湖で釣りや舟遊びなど夏のレジャーを楽しもうという寸法でした。
当時は、私も独身でしたので男女問わずよくみんなでワイワイ遊んでいたものです。
夏場になると、猪苗代湖に船を持っている私の独壇場となります。
私の都合に合わせて、よく猪苗代湖のバンガローでバーベキューなどをしながら飲み会をして夜中まで騒いでいました。
ある時、女友達と一緒に来たおとなしそうな女の子が加わってきました。
どちらかというとあまり目立たない、夏の浜辺は似合わないようなそんな地味な娘さんです。
もちろん水着など持ってきていません。
日のあるうちには舟にも載らず、なんとなく宴会の準備・お手伝いをしながらみんなといたようでした。
その日も、いつもの様にバンガローに隣接の浜辺でバーベキューをしながら花火をしたりカラオケをしたりと、みんなで楽しんでいたんですが、その新メンバーの女の子の姿が見えないんです。
初対面なのでみんなのノリについていけないのかなあ?と周りを見渡してみますと、桟橋に係留している私のモーターボートの舳先に彼女がしゃがんでいるのが見えます。
酔い冷ましに湖面に映る星空や月でも見ているのかな?
しかし、近づいてみますと、彼女は舳先でしゃがみながら何か一人でしゃべっているようです。
おまけに線香の香りがします。
「ん~、おかしいぞこれは・・・」と近寄ってみると、舳先には三角形の盛塩と小さな百合の花束がありました。
「何やってんの?」と声をかけると、彼女は驚いた様子で「ここに居る皆さんとお話をしていたんです・・・・」と・・・
「あ?」待てよ・・・夜更けの湖面です。誰もいるはず等ありません。
酔っぱらっているのかな?と思いながら「ここには誰もいないよ、酔っぱらってんだよ~バンガーで寝なよ」というと、その娘は「はい」というと何やらぶつぶつと呪文のような言葉を唱えて部屋へ戻っていきました。
翌朝、私が目が覚めるころには、早くにその子は一人で帰ったということでした。
翌週も、みんなと猪苗代湖で舟遊びをした後にいつものように宴会がはじまりました。
すると、早く来て舟やバンガローの掃除をしてくれた友人の一人が「船の舳先に盛塩とカップに水が入っていたんだけど・・・おまけに花束も、あれは何かのおまじない?」と聞いてきました。
私には思い当たることが無かったので「冗談はよせよーと・・そんなもんある訳ねーだろー」といって笑って流しました。
翌週は風が近づいてくるというので、舟を桟橋から陸に上げるために、仕事を終えた夕刻に一人で行ってみると、夕闇の中私の舟に一人の女の子が乗っています。
「あれ、誰だろう?」と思いながら近づいてみると、先々週お会いしたばかりのおとなしそうな彼女でした。
訳を聞いてみると、彼女には霊が見えるらしく、猪苗代湖の霊を供養し慰霊して成仏させていたそうなんです。
しかも出会った日以来、2日毎にはここに来て慰霊をしていたらしいんです。
家族の中で女系が皆そうらしいんですが、元々霊感があるらしく、成長と共にはっきりと見えるようになってきたといいます。
さすがに是には驚きましたね~
恐ろしささえ感じます。
そして彼女はこう続けます・・・
初めて来たときも、友人から私の舟で「猪苗代湖で舟遊びとしない?」聞いた瞬間に無数の霊の声がしたそうで、居てもたってもいられずその霊たちとの会話の為に私たちの宴会に参加した旨のはなしをして、私に詫びていました。
何で私の舟かと聞きますと、どうも私に霊の皆さん?が助けを求めてきたということで私の舟の周りに沢山集まってきているそうなんです。
私が周りをキョロキョロ見渡すと・・・
「浮遊はしていませんよ~」
“湖面から無数の白い手が伸びて助けを求めているような感じ”だということでした。
来る度に、供養しても次から次に無数に集まってくるといいことでした。
私も恐くなって「私にも何か災いが起こるの?」と恐る恐る聞いてみると・・
「そんなことはありません。あなたにすがってきているだけですから・・・」
「そして、御縁があって私が呼ばれたんです」と・・・
ん・・・怖いような怖くないような不思議な感覚でした。
「何で私なんだ?」と尋ねると、ボランティアで水難救助隊にも参加していて、すがり易かったんだといいます。
しかし、ボランティアも私だけではありません。
なぜ私なんだろう?と不思議です。
その後、水難救助隊でその話をすると、慰霊する方は違いますが2、3人の隊員の方が同じような話をされていました。
まあ、その娘にはご自由に気のすむまでどうぞと夏のシーズン中、私たちの使わないときは開放していました。
それ以来、その彼女を見かけてはいませんが、存在は感じていました。
舟は一度買い替えもしましたが2年後には手放してしまいましたが、その間時折、線香の香りと慰霊したような跡がありました。
きっと彼女は時折ここにきては霊たちとお話をして供養・慰霊をしていたんだろうなあと思います。
約4年間ほどモーターボートを所有していましたが、事故は一度もありませんでした。
30年以上たった今でも不思議で仕方がありません・・・
しかし、あれは本当だったんでしょうか?
今はモーターボートはって?
夏になるとあってもいいなあとは思いますが、当時飽きてしまったという感覚がすぐによみがえってきます。
もっとも、生臭が嫌いで釣りもあまりしませんし、実は私は紫外線のアレルギーなので直射日光が大の苦手なんです。
それでもってモーターボートに、オープンカーというは可笑しいですよね・・・
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2017-07-11 Tue
三春城下 怪奇伝説 「久貝玄亭の屋敷跡」
これは、享保年間というから270年も昔のお話です。
三春城下山中(明王町)に、久貝玄亭という150石取りの秋田藩士の屋敷がありました。
久貝の屋敷には庄平という若党が住み込んでいました。
庄平は、鷹巣の出身で生来の実直者、主人や家族に忠実な下僕で、よく働き、近隣のほめ者でした。
ある年の春、主人玄亭は殿さま(秋田頼季)参勤のお供として江戸詰めを仰せつかり、屋敷を留守にすることとなりました。
その留守中に、庄平と久貝夫人との恋が芽生え、事件の発端となってしまいました。
庄平は、実直な下僕だったことから、この不義密通の色恋は、若い奥方から仕掛けたのであろうと想像されました。
とにかく、世間の噂にのぼる“わりない”中となってしまいました。
玄亭の江戸詰めは、二年余の月日が瞬く間に過ぎて、城下に無事帰還しました。
そして、知らぬは亭主ばかりなりの玄亭の耳にも家中の噂が伝わります。
玄亭は苦しみます。
悩み苦しんだ末に「不義密通はお家のご法度」の決断以外に手がなかった。
浸りに「お打ち」を申し渡し、まず庄平を切り捨てます。
忠実な庄平は素直に打てれて亡くなります。
しかし、奥方は泣きながら玄亭にすがりつき、助命を乞います。
玄亭は遂に手にかけることは出来ずに命は助けられました。
一方、奥方が助けられたことに、庄平の恨みが怨念としてこの世に残ったのでしょう、毎夜のごとく玄亭夫婦の枕元に庄平が亡霊となって現れるようになります。
そのせいか、奥方は間もなく、どこが悪いというわけでないのに病み細って死んでいった。
怨念とは恐ろしいもので、今もその屋敷跡には家が建たず、草に埋もれています。
昭和30年代の広報三春内コラム参照
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2017-01-24 Tue
平成版「三春怪奇説」佐塚様の老猫
町役場の南、三春町民俗資料館付近は、桜谷と呼ばれています。
あの高台は、旧藩時代の武家屋敷で、佐塚(秋田)様と云われた秋田廣記500石の家老屋敷がありました。
佐塚家では、犬を二匹飼っていましたが、猫は絶対に買わないという家風でした。
これは、その因縁のお話です。
江戸中期元禄の頃、佐塚家には幾年重ねたかわからない老猫が飼われていました。
昼間はゴロゴロと昼寝姿ばかり見せていましたが、夜になると、どことなく姿が消えるようになりました。
守山山中
ある年の5月、佐塚秋田家の若党権助が、主用で江戸表に行っての帰途、磐城守山(現田村町守山)から赤沼、鷹巣を過ぎ、今の貝山古内集落に入ったのはとっぷりと日も暮れたころでした。
その道端に当時大きなモチの木があって、その繁った枝が道を覆いに中でも薄暗く気味の悪いところだったといいます。
気のせいか、急に暗さが増したと思ったら、前の方から無数の三毛猫の群れが、こちらの方を向いて押し寄せてくるではないか・・・
貝山分岐
驚いた権助は、逃げ場を失い、傍らのモチの木によじ登ります。
よく見ると、猫の群れの中程に、主家の御老母さまが居るではありませんか!
しかも、御老母様は、鋭い爪を立てて権助めがけて迫ってきます。
権助は、とっさに道中脇差を抜いて、老母の左肩を一突きします。
すると、「ギャー~!」と激しい一声を残して、老母も猫の群れも一瞬で跡形もなく姿を消してしまいます。
それから、半刻して桜谷の主家へ帰宅すると、今起こった恐ろしい出来事を主に打ち明けました。
主は、今しがた御老母様は「肩が痛む」と言っていたと告げられます。
よく朝、佐塚家の老猫が、姿を現すのを待って戸を開けたところ、老猫は物凄い形相で飛び出し行方をくらましてしまいました。
それからというもの、佐塚様では猫を飼わない家となったと伝わっています。
三春での化け猫伝説をこういう話の集大成ではなかったと想像力を膨らませています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2016-12-08 Thu
三春怪奇伝説 その1 「白根屋事件」
三春の町は三百年来賑わった五万石の城下町です。
江戸時代の秋田藩政下以来、馬、葉タバコ、折り返し絹糸、羽二重などの集散地としても全国的に聞こえていました。
この話は、江戸中期の元禄から天保にかけて繁盛していた、三春城下の旅籠白根屋の物語です。
白根屋旅館は、三春城下中町にあって、大体出入りの激しい旅商人相手に、大変繁盛していました。
天保12年の頃、この物語の登場する白根屋の女将は淫奔多情で、用心棒に雇っていた若い浪人者と恋仲となり身を持ち崩すようになりました。
二人は、共謀してある夜宿泊していた絹商人の枕を探して莫大な金子を盗み取ります。
翌朝、その絹商人の客が騒ぎ出すと、永年召し使っていた実直者の女中に罪を擦り付け犯人に仕立て上げてしまいます。
挙句果てには、その女中をがんじがらめに縛り上げて松の根っこに据え付け、浪人者とともに責め苦を与え続けます。
三日目には失神した女中を藁菰で巻いて土蔵の床下に埋め、その客に「この通り懲らしめてやりましたと・・・」ひたすら詫びて、その場を何とか繕いました。
数日後、「白根屋の土蔵から怪しい唸り声が聞こえる!」という噂が城下に広まります。
噂は波紋のように広がり、町検断、与力同心の書留帳にも載り、奉行所の厳しい追及が始まり、白根屋の家宅捜査が進められました。
そして、遂に土蔵の床下から変わり果てた姿でしたが仮死状態の女中が掘り出され救出されました。
<
寄進社名に白根屋の名前が残る愛宕神社二の鳥居
女中は、懸命の手当の結果、一命はとりとめることが出来ました。
この女中の証言により、犯人は女将とその若い浪人者であると真犯人が判明し、罪が明らかとなって女将は牢獄につながれます。
秋風肌寒い日、薄い肌着一枚の女将は、御城大手前の責め所お白洲の砂の上に引き出され、黒山の見物人の罵声と役人の責苦の中に狂い死んだということでした。
一方、若い浪人者はいち早く逃げて行方はついにわからなかった。
昭和30年代の広報三春内コラム「三春怪奇伝説 その1白根屋事件」参照
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2016-10-12 Wed
三春城下怪奇伝説
「庚申坂秘話」
“三春庚申坂七色狐、わしの二、三度騙された”
この三春甚句が、風のように日本全国の巷を吹きまくったことがあります。
旧藩時代より、三春城下新町末の庚申坂の色街は有名でした。
大正・昭和となり、場所が庚申坂から新地(弓町)に移転してから最盛期を迎え5件の妓楼に約30名を超える遊女が在籍し、昼夜もない繁盛ぶりだったと伝わっています。
そして、その華やかさの陰には、花街につきもの事柄がたくさんあったことでしょう。
悲恋の恋の花が咲き、心中あり、駆け落ちあり、円満身請けあり、倒産あり・・・数々の秘め事話がを残しています。
今は、妓楼も朽ち果て、その面影をしのぶだけです。
これは、大正の中ごろのお話で、やや生々しいしい昔話ですがある妓楼(店名は秘す)に、越後白根在の小作農家出身の“大和(やまと)”という源氏名の遊女がいました。
越後美人で気立ても優しく、廓でも一二位を争う人気となっていました。
この遊女に入れあげた客の中でも、芦沢村の柏原という百姓いました。
分別盛りの五十を超えた男でしたが、最も足繁く通いつめます。
そして、一年も経たぬ間に、田畑山林まで人手に渡る始末になり果てました。
遊女大和は、この男柏原の身を案じて廓通いを諫めますが、糠に釘打ちでした。
柏原は、いよいよ最後の手段として北海道への駆け落ちを迫りますが、大和に強く拒まれます。
そして秋の色ずく頃でした。
いつもの様に登楼してきた柏原に対し、酒席の中で大和は素っ気なさを装って柏原を帰そうとして座がシラケてしまいます。
その翌朝、まだ夜の明けきらない早朝四時半ごろ、“恋心余って憎さ百倍”・・・柏原はかねてより用意していた出刃包丁をふるって寝ている大和の鼻柱に斬りつけます。
“無理心中”とばかりに、悲鳴とともに起き上がった大和に向かい柏原は執拗に斬りつけ、耳下、後頭部、背部と滅多突きにしてしまいます。
医者よ!警察よ!と早朝の花廓は大騒ぎとなってしまいます。
そのどさくさの中で、柏原は凶器の出刃包丁で自分の喉を突き、返す歯で男子のシンボルを切断し、流血の末に苦しみながら死んでいきました。
大和は、案外、傷が軽く、一命をとりとめますが、女の命といわれる顔に深い傷が残ってしまい、再び客前には出ることは出来なくなりました。
この無理心中があってから、この妓楼には不幸が続きますが、この柏原の祟りではと巷では噂が流れていました。
大正十四年発効「三春名所案内」には、遊郭の広告が掲載されています。
古い広報三春内コラム参照
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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