2024-09-08 Sun
三春城主秋田家菩提寺 安日山高乾院 秋田家墓所一覧
1.真如院殿 秋田俊季(初代) (慶安2年1月3日)
2.宝樹院殿良因妙果尼大姉 俊季乳母 明暦三年丁酉八月九日
3.陽雲院殿 秋田盛季(二代) (延宝4年1月13日)
4.陽雲院殿 御霊前奉献石燈籠二基
延宝五丁日年七月十三日 荒木佐兵衛尉藤原高壽(奉納)
5.猷光院殿非幻一相童子 秋田長十郎(輝季五男) 元禄十三庚辰歳正月二十三日
6.潤徳院殿温光玄珠童女 照(輝季娘) 正徳四甲午歳八月朔日
7.大通院殿 秋田就季 (正徳5年6月4日)
8.乾元院殿前信州太守剛山瑞陽大居士 秋田輝季(三代)享保五庚子年九月十九日
9.乾元院殿 尊前 献上石燈籠 両基 享保五庚子年九月十九日 4基
10.奉献 晓盤 享保五庚子年 荒木又十(力)(奉納)
11.乾元院殿 尊前献上石燈籠両基 享保五庚子九月十九日 2基
12.奉献 御石燈籠一基 享保六辛丑年九月十九日 大高源太夫奉納
13.奉献 御石燈籠一基 享保六辛丑年九月十九日 大見忠右衛門(奉納)
14.奉献 御石燈籠一基 享保六辛丑年九月十九日 岡山快入力直勝(奉納)
15.貞巖院殿柏操栄壽尼大姉 輝季後室 元文元丙辰年七月朔日
16.慈香院殿本性了薰大童子 安倍姓秋田安五郎行年八歲
秋田安五郎(賴李末男)元文三成午年十月十五日
17.妙鏡院殿粧影幻霧大姉 定季母 寛保三年癸亥閏四月廿九日
18.盥盤 奉拜進 寛保三癸亥年十二月朔日 秋田太郎左衛門安倍季言(奉納)
19.広運院殿 秋田頼季(四代) (寛保3年6月1日)
20.広運院殿 尊前 献上石燈籠 両基 延享元甲子年六月朔日 2基
21.恭徳院殿前朝散大夫仁則惟敬大居士 秋田定季(六代) 宝暦七年丁丑六月十四日
22.妙智院殿慧光了照大姉 倩季母 明和三年成七月初六日
23.天稟院殿前城州太守令徳永顕大居士 秋田治季(五代) 安永二年癸日七月六日
24.大乗妙典石写供養塔
為光照院摂誉浄取居土追薦冥福者也 寛政十三年辛酉二月四日
25.天稟院殿 尊前 献上石燈籠 両基 文化二乙丑年七月六日
26.建徳院殿前城州太守古極體仁大居士 秋田千季・倩季(七代)文化十癸酉歳八月十日
27.献上(手水鉢本) 文化十一年 (奉納者名あり一判読不能)
28.献上 文化十二歳次乙支八月十日 山野茂久堅達他1名(奉納)
29.随流院殿認得妙性童子 安東竪之助(孝季三男) 文政九年丙戌歲四月二十五日卒
30.淡月幻影童子 孝季四男 文政十一年歲次戊子秋八月十有一日
31.月桂院芳質孤明大姉(御側女中力) 文政十一戊子歲八月十六日
32.契心院殿随境自息大姉 孝季母 天保十一庚子歳四月十七日
33.空華幻相童子 肥李長男 天保十四癸卯歳三月七日
34.大雄院殿前豫州太守英徳文明大居士 孝季(九代) 天保十五年甲辰十一月二十四日
35.献上 弘化二乙日年七月十三日 (奉納者26名)
36.献上 弘化二乙日年十一月二十四日(奉納者名あり)
37。献上 弘化二乙巳秋 植田可成政裕(奉納)
38.奉献 大雄院殿 御靈前 弘化二乙已歲十一月廿四日
草川九郎右衛門次栄他5名(奉納)
39.本明院瑞光净啓大姉(御側女中) 弘化四年丁未五月初七日
40.心華院殿光台妙蓮童女 肥季長女 弘化四年丁未五月十七日
41.円光浄珠童子 肥季二男 嘉永二已西歲六月十一日
42.鮮明院献珠妙心大姉 (御側女中) 嘉永二巳酉歳七月二十二日
43.玉岑院殿珂光妙円童女 肥季三女 安政三丙辰歳八月二十三日
44.寂照院殿一㷌妙胎童女 竹(肥季四女) 文久三 癸亥五月廿九日
45.瑞秀院殿前房州太守麗山紹光大居士 肥季(十代) 慶応元年乙丑五月初四日
46.瑞秀院殿御霊前 慶応元年乙丑五月初四日 (奉納者46名)
47.清泰院殿観心智浄大姉 孝季室 明治四辛未年七月十又六日逝去
48.清泰院殿 御靈前 明治五壬申年七月十六日 山野権六他15名(奉納)
49.濃秀院殿梅月貞照大姉 肥季室 明治三十二年戊成十二月十二日死
50.翠雨軒秋田靜臥居士 贈正五位 秋田季春(孝季二男)明治三十三年三月十四日
大正七年十一月十八日御贈位 昭和十年五月二十六日自東京青山墓地改葬
51.秋田家累代之墓 昭和十年五月二十六日 重季建之
52.秋田家族之墓 昭和十年五月二十六日 重季建之
53.秋田氏御廟(位牌堂)
54.盥盤献上 秋田治兵衛源季堅(奉納)
安東・秋田家「檜扇(ひおうぎ)に違い鷲羽」紋。
この紋は、鎌倉時代の安東家当主・貞秀が後鳥羽上皇に召された際、朝鮮から送られた鷲の羽2枚を檜扇に載せて拝領したことに因んだものです。
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2024-09-07 Sat
安東・秋田氏の三春入府御三家の一つ水戸藩徳川家の支藩宍戸藩創設の幕府の構想を察知した秋田氏は、転封を必至と見て可能性のある移封先の検討を始めていました。
そのなかの一つ三春は、正保元(1644)年に松下氏が改易となり三春城は相馬義胤の預りとなっていました。
秋田氏は、先に三春から二本松移封後改易となった加藤氏の旧臣小野寺氏を召し抱えて三春領の研究に当たらせています。
そして、数ある候補地のなかから比較的米価の安かった三春を選び出し、三春への国替えを幕府に働きかけたことになる。
水戸徳川家との間に入った幕府は、正保2年7月10日、秋田俊季公には五千石加増の五万五千石をもって三春転封を申し渡します。
秋田氏では、早馬が宍戸へ立ち国許では、田村ノ庄三春領の庄屋2名を招いて領内の様子を聞き取りを開始しています。
二十三日から家中引き放しが始められ、二十八日には俊季帰国。
翌八月五日宍戸を出立した。
国替え行列は、旗一七本、槍一二〇本を立て、鉄砲一八〇挺、弓四五張、騎馬供七六騎であった。
八日、須賀川宿早立ち、三春領に入って赤沼村庄屋宅で行装を整え、朝五ツ時三春到着、三春城を請け取って入城します。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2024-03-28 Thu
塵壺393号 令和6年4月発行
安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)
安東愛季は、後の三春五万石秋田氏初代藩主となる秋田俊季の祖父で、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された戦国武将です。
津軽地方の下国檜山家・安東氏の御屋形(当主)安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。
母はもう一方の安東氏、上国湊家安東氏出身の嶺松院です。
安東愛季が御屋形となる安東氏は、平安期の武将・安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
その繁栄ぶりは国内外に広く知れ渡り、ルイス・フロイスが著した永禄8(1565)年の書簡にも愛季の蝦夷交易のことが記されています。
愛季は、長年に亘って利権争いなどから二分して争ってきた安東一門を統一するため、婚姻関係と養子縁組など政略的な縁組を行って弟・茂季を湊・安東家に養子入りさせ、湊家安東氏を吸収する形で、桧山・安東氏と湊・安東氏を統一して一流の戦国大名として本格的な領土拡張に動きます。
そして、愛季は戦国時代となる室町幕府末期の中央との政治工作も忘れてはいません。
強大な海軍力を備えた安東水軍を率いて日本海北前船交易で収集した畿内情報をもとに、娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使し、「言継卿記」を現した公家の山科言継などを使って織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。
さらには、北前貿易で蓄えた安東一門の財力をもって豊臣政権下での戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していたと考えています。
その一例として、蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられ、その時に殿様(愛季・實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
愛季はさらに領地拡大を目指して領国経営戦略を打ち出し、比内郡を含む出羽国北部の大部分を領地としました。
同年には、「本能寺の変」が起こり、信長が明智光秀に討たれて、天下が豊臣秀吉に移っても安東氏の立ち位置は変わりません。
これが結果として、後の安東家に大きな役割を果たします。
天正15(1587)年、愛季は仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いの最中、淀川の陣中で病により世を去りました。
享年四十九。戒名は龍穏院殿萬郷生鐡大禅定門。
墓所は三春城下荒町の秋田家菩提寺秋田山龍穏院にあります。
愛季の知略は、息子である實季(俊季の実父)にも受け継がれます。
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。
實季の姉、慶松院・北畠(浪岡)顕村夫人と婿養子慶好らが公卿北畠氏の権威を利用した禁裏・公家工作を行い、さらには、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開して安東家の安堵を画策します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な配慮を受けることに成功して無地、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
尚、慶松院は、常陸宍戸(現茨城県笠間市)で亡くなりますが、法名・昌安恵繁と刻された墓石は、父愛季の墓石同様に秋田氏の三春入部に伴って移された菩提寺龍穏院の秋田家墓所に運ばれて建立されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
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2024-02-29 Thu
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏
三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。
※ 安東・秋田家「檜扇(ひおうぎ)に違い鷲羽」紋。
この紋は、鎌倉時代の安東家当主・貞秀が後鳥羽上皇に召された際、朝鮮から送られた鷲の羽2枚を檜扇に載せて拝領したことに因んだものです。
三春初代秋田俊季の祖父安東愛季
安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。
蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。
「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。
「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。
後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。
以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。
蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。
若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像
奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。
羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。
この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。
さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。
若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。
高野山奥之院三春秋田家墓所
奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。
他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。
尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。
蒼龍謹白 拝
付記
「高野山金光院 三春家中過去帳 享保十七年始」 全61折
「三春家中過去帳 自永正十六年 至享保十七年」
「南無大師遍照金剛 高野山 金光院」
永室妙久大姉
永壽院殿御局伊井殿為自身逆修
御石塔奥院有之 萬治三年十一月八日
越山了公禪定門
施主秋田豊嶋武藏殿立之 永正十六年八月三日
乗重禪定門
施主秋田豊嶋惣右衛門殿為逆修立之 永正十六年己卯七月廿六日
妙光禪定尼
施主同人 右同時立之
乗泰禪定門
施主秋田豊嶋惣右衛門立之 永正十六年七月廿六日
浄雲禪定門
施主秋田大平坂口次平殿立之 永正十六年七月廿六日
善祐禪定門
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 永正十六年七月廿六日
>
藤参禪定門
施主秋田豊嶋次郎左衛門殿 大永二年八月
華月浄春居士
施主秋田湊藏人殿立之 大永五年九月十八日
月窓妙光大姉
施主秋田御屋形様内村松源之焏殿 大永六年六月十七日
妙高
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
本高
施主同人 右同時立之
妙西禪定尼
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 大永五年七月
>
道永神居
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
道順禪定門
施主秋田大平兵右衛門立之 天文三年六月十四日
那智阿弥陁佛
施主秋田豊嶋 天文四年八月十日
舊山妙香定尼
施主秋田御屋形様内湊左京進殿 天文十九年二月十五日
妙光大姉
施主秋田御城内古屋左衛門尉殿立之 天文三年七月廿一日
志父尊霊
施主秋田御屋形様内大平左京進殿 天文廿二年四月廿一日
高範禪定尼
施主秋田御屋形様内湊伊豫守殿 天文八年八月四日
高山春公沙弥
施主秋田御屋形様内石塚衛門四郎殿 天文廿三年四月廿一日
妙金禪定尼
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿 天正廿年二月八日
日 春月宗陽禪定門
施主秋田御屋形様内湊五郎殿立之 天正十一年六月廿四日
日 南臺香林童女
施主秋田御屋形様内大平殿 但為御息女也 天正十六年十一月十九日
即法禪定門
施主秋田御屋形様内 取次内膳殿 天正廿年正月十二日
花心禪定尼
施主秋田御屋形様内桓崎衛門殿立之 天正十七年三月十四日
道光禪定門
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿立之 天正廿年二月八日
日 高月禪定門
施主秋田御屋形様内田口彦助殿 但為弥四郎追福立之 天正廿年二月八日
龍然禪定門
施主秋田御屋形様内伏部沢二位殿為父 文禄三年七月廿二日
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為為御屋形様尭季公御菩提也
施主石塚衛門四郎立之 天文廿三年七月廿八日
九月十三日忌
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為御屋形様𠒖季公御菩提也
施主湊尾張守立之 天文廿三年七月廿八日
九月十三日忌
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為為御屋形様𠒖季公御追福也
施主金光院 天文十九年二月十五日
九月十三日忌
源安徹公居士
施主秋田大平摂津守殿 永禄八年十一月 日
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士
秋田奉為為御屋形様愛季御菩提也 施主桓崎衛門尉 天正十七年三月十四日
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士
秋田奉為為御屋形様愛季公御菩提也 天正十八年七月一日 城之助殿御父
湖光妙正大姉
秋田二郎殿御祖母為御逆修也 施主大平岩見守 天正十八年七月七日
香林月照大禪定尼
施主秋田大平岩見守殿 天正十八年七月七日
高月
逆修 施主秋田御屋形様内垣崎衛門殿 天正十七年三月十四日
華窓心公大禪定門
奥州深浦物主木場袋右衛門頭吉季為御菩提也
御施主安東藤太郎様御老母 文禄二年二月十六日 三十三回忌
高月大禪定尼
施主秋田御屋形様内御湊専十郎殿 為老母立之
文禄五年四月二日
壽山妙宗禪定尼
施主秋田御屋形様内御千代様立之
文禄五年四月二日>
熒月榮公沙弥
施主秋田御屋形様内傳右衛門殿立之
慶長二年八月十一日
巨海大姉
逆修 施主同人 為老母立之
慶長二年八月十一日
松月頂上大禪定尼
施主秋田御屋形様内 相模守殿 取次兵右衛門殿
慶長二年八月十一日
塒清春公大姉
施主同人
右同時立之
晏叟宗清大居士
施主同前
右同時立之
心月秋芳大禪定尼 施主同前
右同時立之
日 光含宗圓大禪定門 施同前
右同時立之
雲林宗月大禪定門
施主秋田御屋形様内勝三郎 但為半兵衛菩提也
慶長五年九月廿四日
榮山宗觀禪定門
施主秋田御屋形様内新山将監 但為内方立之
慶長七年五月十八日>
高林常秀禪定門
施主秋田御屋形様内御虎様 但為舎弟立之
御使者中村織部
慶長十二年閏四月十三日
月暉 逆修
施主秋田御屋形様局立之 取次紅梅殿
慶長十三年八月朔日
珎齡永松禪定尼
施主秋田御菊様 但御局為菩提立之
御使者中村織部
慶長九年正月十四日
池盛妙蓮禪定尼
施主秋田御菊様 但為御老母立之
御使者中村織部
慶長十二年壬四月十三日
秋月妙圓禪定尼
施主秋田御菊様 但為伯母立之
御使者中村織部
慶長十二年潤月十三日
日牌 春嶺晴雲禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内湊道久息女御宿様
但姉中殿為菩提也 取次三光院(金光院)久尊
寛永元年二月廿一日忌
慶長十三年十一月四日 十七回忌
梅節妙紅禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内秋田仁左衛門子息
七兵衛殿 為悲母也 取次久尊
寛永元年八月廿三日
元和九年八月四日忌
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
施主秋田将監殿
元和九年十一月朔日
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
施主金光院祐實
元和九年十一月朔日
玉窓妙金禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内岡道與内方
但為悲母也
元和六年庚申二月廿五日
心庵宗徳沙弥
施主常州宍戸城主秋田城介様内三光院久尊
為父立之
寛永二乙夘年七月廿六日>
(後略)
三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2024-02-12 Mon
「奥州下国殿之代々之名法日記」 熊野那智大社関連文書安藤又太郎宗季、其御子息師季、其子ニ法季、其子二盛季、其子ニ泰季と申、今の下国殿也。永享十二年(1440)ノ頃。嘉吉元年
「奥州下国殿之代々之名法日記」米良文書(和歌山県熊野那智大社所蔵)によれば、嘉吉元年(1441)、紀伊国熊野郡那智神社の先達(尻引三世寺別当)が、檀那・安東・安藤氏の嫡流の系図を作成し、御師の実法院に提出している。
熊野那智社の檀那となった氏族は一代に一度は那智社に参詣し、宝前に願文と系図を奉納するのが慣例であり、この系図は、当主の署名・花押に先達の署判を加えた正文が宝前に捧げられ、その写しが御師のもとに残されたものです。
※師季(高季)の父と書かれている宗季が譲状と合わせて、季久であること、高季の子・盛季の父が法季であることがわかる。
安藤又大郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季と申候也、今安藤殿師季と申候也、
この史料は、貞和五年(1349)一二月二九日「陸奥国持津先達旦那注進状案」、熊野那智大社文書である。師季が下国と号し、当主は又太郎と名乗っていたことがわかる。
「伝承と史実のあいだに」他 参考
熊野と津軽はこの文書に示されているように結ばれており、安東(藤)氏の祖先は糠部建部に拘わり合いを持ち、それは紀州からあの白浜の地名が残る沿岸を少しずつ北上してきた集団ではなかったのかとも考えられます。
そこに安東水軍という海運水軍構築の形成過程が見え隠れしてきます。
その延長線上に、安東氏の本拠地が古八戸湾であるように思えてしかたがありません。
さらに、その本拠を古八戸湾から下北へ、そして十三港へと時代と共に飛躍させていったように思える。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-12-31 Sun
塵壺390号「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号
高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所
高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所
今も尚、禅定(永遠の瞑想)を求め入定した空海が生き続ける霊域「高野山奥之院」。その入口「一ノ橋」から弘法大師御廟へと続く参道には厳粛な雰囲気が広がっていて、古木に覆われ静寂な空間の中には20万基を超える五輪塔等の供養塔や墓石群が広がっています。
その中に、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、そして、結城秀康といった戦国武将・大名の墓所として約110家の墓所があります。
武田の近くに上杉、そして、信長と光秀、徳川と結城等々・・・敵同士として戦った家中であっても関係なく、安らかに眠っているように感じられます。
これは高野山「御廟」に在る空海・弘法大師のそばで眠りたいとの先人たちの願いがこめられていると伝わっています。
磐城三春藩秋田家も、同じく高野山に墓所(供養塔)を求めた大名一家で、「奥之院」へ向かう参道「中之橋」のたもと手前右側にあります。
「金剛峯寺境内奥之院地区大名墓総合調査報告(高野町教育委員会編)」を見ますと、三春秋田家の墓所には、大型の五輪塔5基と中型五輪塔9基ほか多数の石塔があると記載されており、秋田家の墓所に五輪塔5基は南北方向に並んでいます。
三春藩初代後室 永壽院殿 本壽院真誉春覚照法 万治3年 盛季母
三春藩初代 真如院殿実岩常固 秋田俊季公
慶安2年 勤大阪城番於城中病没
三春藩2代 陽雲院殿龍天蒼松 秋田盛季公
延宝4年 勤大阪城番於城中病没
三春藩3代 乾元院殿剛山瑞陽 秋田輝季公 享保5年
三春藩4代 廣運院殿俊徳玄明 秋田頼季公 寛保3年
秋田家墓所中之橋の手前右に3代輝季公の嫡子で、秋田伊豆守就季(廣季)公(大通院殿心源自性)の五輪塔もあります。
就季公は、三春藩家督争いとされる「正徳事件」渦中の人として家督せぬまま正徳5年6月4日に父に先だって亡くなっています。
この五輪塔は旗本秋田家から秋田本家輝季公の養子を経て4代藩主になった頼季公(家老荒木高村長男)が建立したものです。
そして、「施主奥州三春城主秋田信濃守安倍頼季 三男秋田安五郎行歳八年而卒」「元文四己未 二月廿三日」と記された供養塔が見えますが、この方は、頼季公の3男で8
歳という幼さで亡くなった慈光院本性長了薫・安五郎・後の秋田民部公です。早世した為でしょうか高野山に供養のための石塔・墓が建てられています。
尚、5代藩主の秋田延季(治季)公・法名天稟院殿令徳永顕から歴代の藩主は、三春城下秋田家菩提寺高乾院墓所に埋葬されており、以後藩主の高野山への埋葬はありません。(初代俊季公から四代頼季公の分骨された墓も高乾院にあります。)
しかし、三春8代藩主秋田長季(謐季やすすえ)公だけは、もう一つの秋田家菩提寺である龍穏院の墓所に大仰院殿法鑑高輪大居士の法名で埋葬されています。
4代頼季までは高野山、そして、8代の長季(謐季)公は龍穏院にお墓がありますが、他の歴代の藩主は全て高乾院に埋葬されているというのは、家督騒動絡みの家中混乱や祟り伝説等の事情が見え隠れしているような気がします。
高野山は空海の御廟を中心とする聖域で、古くから奥之院と呼ばれます。
承和2年(835)に没した空海・弘法大師、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するその時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると(宗教的に)信じられていて、弘法大師のもとには「生身供(しょうじんぐ)」称して1日2回の食事が運ばれてきます。
高野山への分納骨の風習は鎌倉時代から始まったとされており、石造の五輪塔を墓石代とし始めたのが戦国期の室町時代末期。
現在は、江戸時代初期造立した諸大名家の五輪塔が多数見受けられます。
これは徳川家康が高野山を分骨墓提所と定めたため、諸大名がこぞって高野山に墓石を建てたことに由来するとされています。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
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2023-12-25 Mon
「夷千島王(えぞちしまおう)」一条写し
十三湊往来(抜粋)に元寇に係る安東水軍(安東船)の出撃の記載がありました。
前後の海外交流と共に記載します。
1186年には唐船が16隻来た。
1198年には唐国に安東邑を築成。
1222年には安東船が粛慎国から多数の馬を持ち帰った。韓国貿易盛んになり、また、水軍6隻で流鬼国(樺太)に渡陸し、帰途靺鞨に寄る。
1242年には安東船が西蕃より珍品を得た。1254年には安東船が金国より種馬3頭を得た。
1266年元寇起てる。
1268年安東船18隻筑紫に行く。
1270年安東船16隻沈む。
1274年安東船32隻出撃、元船6隻を撃沈、安東船12隻沈む。
唐涛丸 熊野丸 安涛丸 伏見丸 青竜丸 安東丸 東諸丸 天誅丸 弁歳丸 涛浄丸
十三宗丸 渡鳥丸 巌鬼丸 追手丸 天竺丸 平将丸 大峯丸 大日丸 往来丸 北条丸
大歲丸 皇帝丸 五行丸 竜王丸 神名丸 韓国丸 修験丸 波羅蜜丸 八幡丸 京師丸
蔵王丸 神風丸 白雪丸 大宰丸 金神丸 伝法丸 東日流丸 朝日丸 法城丸 月氏丸
右の安東船は、後の弘安辛日年に参戦して皆減せし軍船名である。
1275年十三湊に唐船21隻来る。
1285年渡島のこんぶを唐国に売益する。
1287年唐船来る。
1290年 安船にて元兵28人帰す。元船が貢宝を献ず。
1303年唐船と韓船34隻来る。
1306年唐船を以てこんぶ、千貝、千魚を商益。
1314年唐船28隻来る。
1319年韓船19隻来る。
1325年紅毛人漂着。
1327年唐船18隻、1401年唐船12隻来る。
その後1607年に至るまで、十三湊に来た唐船の記録はいるされていません。
夷千島王(えぞちしまおう)
1482年、夷千島王遐叉(かさ)の使者と称する宮内卿という者が、「日本国王」足利義政の使者栄弘首座とともに朝鮮王朝漢城に入り朝貢します。
この夷千島王の使者は、蝦夷地と本州の交易に関わっていた東日流(津軽)安東氏が日本国王使の派遣に合わせて送り込んだのだろうと考えられている。
このとき朝鮮側は日本国王の使者には大蔵経を下賜したが、夷千島王の使者には偽物として下賜しなかった。
室町時代、朝鮮王朝との朝貢貿易を行った足利室町政所が、朝鮮国王からの下賜品(回賜品)の中で最も好まれたのが「高麗版大蔵経」でした。
15世紀後半になると大蔵経の印本が減少し出し渋るようになると、有力国主・大名や琉球国王などの名を騙って「大蔵経」を入手しようとする偽使が横行するようになった。
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