2009-07-17 Fri

三春の石塔婆(板碑)
三春の石塔婆は、三春城下を除く全域で確認 されています。
平安末期の弘安年間に造られた、上舞木を最古として鎌倉期から室町そして南北朝の動乱期である応安年間のものまで、約百年にわたる貴重な資料です。
梵字によって人々の信仰と所願、そして精神文化のあり方がわかり、筆法によって時代を表しています。
また、願文や偈文(仏の功徳を褒め称える詩)から、信仰宗派や時代の書法が紀年銘・造建者名からは、その土地の支配階級者や寺院と僧侶などが推測されます。
さらに、石塔婆は中世の交通路を示し交易場跡である可能性も示唆しています。
石塔婆たちは、積年の中で、路傍や山林の泥に埋もれ、木の葉に隠れ、または、人為的に土留めや石垣や橋の材料にされたり受難の年月を送ったことでしょう。
時代を超えて現存するまでには戦火や長年の風雪に耐えてきました。
下舞木蛇田 種子金剛界大日如来
北山 種子胎蔵界大日如来
上舞木 胎蔵界阿弥陀如来「過去慈父幽霊 出離生死往生極楽也」
下山田寺作 阿弥陀如来
熊耳 金剛界大日如来
庄司 阿弥陀如来と金剛界不空成就・胎蔵界天皷雷音
斎藤場上田 阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、金剛界大日如来、阿弥陀如来
不動明王結衆石塔婆
斎藤新田 阿弥陀如来、双式阿弥陀如来・天皷雷音仏
斎藤戸ノ内 二尊塔婆は、戦乱の渦中で、生きる苦しみ老少不定の現実を体験した場合、あらかじめ死後の仏事を生前におこない修することを逆修と云われていますが、極楽に往生する仏果を得るとして造られたもので、中世の世相と人々の信仰観念がうかがわれます。


鎌倉期建立の斎藤場上田の石塔婆
付近には、和尚壇の地名が残り、法院屋敷跡や豪族舘跡などがあります。
2008-08-16 Sat

「寺山観音堂のツブ」

上舞木寺山の観音堂の境内に不動尊が祀られています。
このお不動様は目の神様と言われ、古より目を患っている人々が参詣に訪れていました。境内には、田村三十三清水にかぞえられる観音清水があります。とても澄み切った清水でこの水で目を洗えば、その患いが早く直るというもので、お参りの人が絶えなかったといいます。

この清水が注ぐ棚池には、ツブ(タニシ)がおおく生息していますが、他のツブとは少し形が違います。どちらから見ても、タニシ特有の尖っている部分が無ありません。
これは、その昔、近くに火事があったとき、池のツブが観音堂の屋根一杯に上がってこのお堂に降りかかる火の粉から護り、観音堂は類焼を免れました。このとき屋根一杯のツブたちは尖ってる部分が焼けて三角形になったと云われ、それ以後、尖っている普通のツブを池へ放しても、いつしか三角に変わり、「観音様のツブ」と呼ばれるようになったと云う言い伝えが残っています。

現代は、世の中の仕組みや価値観も、新しいものへと転換して行く激動の時代です。
そんな時代の激流の中で、自分を見失う事なく生き、なおかつ夢を叶えるのは、とても大変な事です。 多くの人々が何か、自分を見失わないでいられる心の拠り所と、夢を実現させる力強いバックアップが欲しいと思っているのではないでしょうか。
その両方の目的を同時に果たし、しかもそのパワーは史上最大級と言えるのが“観音菩薩”です。 観音菩薩は“慈悲”に溢れた菩薩で、数ある仏尊の中で最も広く親しまれて信仰されて来ました。

それは、功徳と守護力を示してきた、強力な現世利益的性質によります。観音菩薩は、あらゆる悩みや苦しみを、その名を称えるだけで無条件で迅速に救ってくれる万能の救済者であると説かれており、実際に観音菩薩の功徳で救われた実例が数え切れないぐらい存在するのです。 また、観音菩薩には、様々な姿に変身して私達衆生を救うという性質もあります。そのため、歴史上に多種多様な変化観音が造り出される事になりました。

そういう衆生のニーズに対応できる柔軟さも、観音菩薩が広く親しまれた理由の一つなのでしょう。

かつて、寺山観音の祭礼には、近所の子供たちが棚池払いと称し「願掛けの為に棚池に反しに米を包みお供えしたものを拾い、お宿のお宅に持参しご飯や、お菓子などを頂くのが楽しみだったと聞き及びましたが、その子供らが今では消防団の一員として、寺山観音のツブに成り代わり寺山地区、上舞木はもちろん三春全域を守っています。

蒼龍謹白 合掌

オブスナさま

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