2025-08-22 Fri
真照寺下“幻の霊鉱泉 不動温泉”
三春城下新町にある古刹、藩主祈願所真照寺下に、昭和初期から戦後まであった“幻の霊鉱泉 不動温泉”をつたえる古い新聞の記事をいただきました。
昭和二年十一月十三日付の福島毎日新聞(現福島民報社)です。
この新聞も、山三 渡邊商店から発見されたものです。

昭和14年4月の花まつり稚児行列での当店南側の旧セリ市場付近で撮られた写真ですが、左上に不動温泉が映っています。
郡山市ビックiにある昭和30年代の郡山駅前を再現したのジオラマにある「越後屋旅館」(もしかしたら木村屋旅館かな?)です。
旧不動温泉の三階楼建物を昭和25年ごろ移築。
一層と二層目の屋根の形状が、改築されている様子が見えます。
記事によると、

真照寺の奥ノ院参道に老杉が列なり、昼尚暗い谷間から湧出する薄茶色の天然温鉱泉が湧き出ていた。
昔この鉱泉の傍に掘った井戸の水が不治の難症に適するというもので、諸方より参詣が絶えなかった。
時の三春藩主秋田候も難症に悩んだ為一週間参籠してこの霊鉱泉で沐浴し満願の日に完治したと言い伝えられていた。
ビックiのジオラマ。場所は旧丸井と旧寿泉堂病院の間付近でした。尚、手前の建物は郡山駅です。
時代は下って昭和初期。
この話を聞いた庚申坂新地、娼館島村楼主人飯村政太郎氏は、福島県衛生試験場で成分試験を依頼したところ難病を治癒するに足りる成分が含まれることを発見し試験証明を交付された。
さらに、その適応症について大原病院皮膚科長にして物理学の権威である坂本医学博士に研究を依頼し、婦人病、胃腸症、中風症、リウマチ、神経痛等の難症の治癒し得ることが証明されたので、飯村氏は当時珍しい木造三階楼の湯屋を開業するに至った。
このことを聞き伝えて諸方から入浴者が続々と押しかけ同温泉は非常な賑わいを見せていると伝えています。
不動温泉という名前は真照寺のご本尊の不動明王からとったものです。

昭和八年生まれの父も、この三階楼の湯屋のことは幼い心ながらうっすら覚えていて、物心ついた時には廃業していて、飯村のじいさん一人が住んでいて、一階以外はすべて雨戸が締め切ってあり、渡り廊下の先にある元の浴場は開け放たれていて、時折爺さんの留守を見計らっては探検気分でなかを探索していたそうです。

旧セリ市場での花まつり稚児行列の全体集合写真(セリ市場東手から真照寺参道方面に向かって撮影された。どこかに幼いころの父が映っています)
戦後になって郡山駅前再開発により、郡山駅前の現寿泉堂手前の三角地帯に移築し昭和40年代まで「越後屋?」という屋号で旅館をしていたそうです。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2025-08-07 Thu
三春城下怪奇伝説
「庚申坂秘話」
“三春庚申坂七色狐、わしの二、三度騙された” この三春甚句が、風のように日本全国の巷を吹きまくったことがあります。
旧藩時代より、三春城下新町末の庚申坂の色街は有名でした。
大正・昭和となり、場所が庚申坂から新地(弓町)に移転してから最盛期を迎え5件の妓楼に約30名を超える遊女が在籍し、昼夜もない繁盛ぶりだったと伝わっています。

そして、その華やかさの陰には、花街につきもの事柄がたくさんあったことでしょう。
悲恋の恋の花が咲き、心中あり、駆け落ちあり、円満身請けあり、倒産あり・・・数々の秘め事話がを残しています。
今は、妓楼も朽ち果て、その面影をしのぶだけです。
これは、大正の中ごろのお話で、やや生々しいしい昔話ですがある妓楼(店名は秘す)に、越後白根在の小作農家出身の“大和(やまと)”という源氏名の遊女がいました。

越後美人で気立ても優しく、廓でも一二位を争う人気となっていました。
この遊女に入れあげた客の中でも、芦沢村の柏原という百姓いました。
分別盛りの五十を超えた男でしたが、最も足繁く通いつめます。
そして、一年も経たぬ間に、田畑山林まで人手に渡る始末になり果てました。
遊女大和は、この男柏原の身を案じて廓通いを諫めますが、糠に釘打ちでした。
柏原は、いよいよ最後の手段として北海道への駆け落ちを迫りますが、大和に強く拒まれます。
そして秋の色ずく頃でした。
いつもの様に登楼してきた柏原に対し、酒席の中で大和は素っ気なさを装って柏原を帰そうとして座がシラケてしまいます。
その翌朝、まだ夜の明けきらない早朝四時半ごろ、“恋心余って憎さ百倍”・・・柏原はかねてより用意していた出刃包丁をふるって寝ている大和の鼻柱に斬りつけます。
“無理心中”とばかりに、悲鳴とともに起き上がった大和に向かい柏原は執拗に斬りつけ、耳下、後頭部、背部と滅多突きにしてしまいます。
医者よ!警察よ!と早朝の花廓は大騒ぎとなってしまいます。
そのどさくさの中で、柏原は凶器の出刃包丁で自分の喉を突き、返す歯で男子のシンボルを切断し、流血の末に苦しみながら死んでいきました。
大和は、案外、傷が軽く、一命をとりとめますが、女の命といわれる顔に深い傷が残ってしまい、再び客前には出ることは出来なくなりました。
この無理心中があってから、この妓楼には不幸が続きますが、この柏原の祟りではと巷では噂が流れていました。
大正十四年発効「三春名所案内」には、遊郭の広告が掲載されています。
古い広報三春内コラム参照
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2025-07-19 Sat
「千客鰻来」
令和7年 土用の丑の日
7月19日(土) 第一丑の日
三春城下新町では、当店の隣にある城下一の魚屋「橋長」さんに、鰻のかば焼きを頼みます。
画像でお分かりになりますか?
国産浜松の鰻を、東京の料亭で修業した社長が、その自慢の腕前を見せてくれます。
裁き、蒸してからのかば焼き・・・・このふっくらとした身と黒あめ色に光るタレ!
当店女将など、知人や実家などにお中元としていそいそと配っています。
もう夕食まで待てません!
当家の分は、一人一匹。
お昼には”うな重”で頂き、夜は残りを肴に冷えたビールで一献!
これでこの夏を乗り切れそうです。
夏土用”あんころ餅” ~御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍~
土用の丑。
暑さが厳しい夏の土用の丑の日に、無病息災を願って身体に良いものを食す風習があります。 力がつくといわれる餅と、邪気を祓う赤色の小豆は悪病・災難を退けるとされます。

当店の土用餅は、柔らかい口当たりのお餅をなめらかな自家製こし餡で絡めてみました。
冷房のない時代に暑さを乗り切るため、様々な知恵を絞ってきたことがうかがえます。
私たちも先人の知恵に倣って、体調には十分注意をし元気に夏を乗り切りたいものです。
北海小豆のこし餡からのぞくお餅も愛らしいた土用餅。
古人の知恵にならった暑気払いの素朴なお菓子で、この夏を健やかにお過ごしください。
数量限定販売です。
あんころ持ちを食べて、暑い夏を乗り切りましょう!
ご自愛くださいませ。

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2025-05-29 Thu

「最後の説法 大地玄亀」
塵壺407号 「最後の説法 大地玄亀大和尚」 石龍木童正孝大和尚著 令和7年6月発行
この本は、三春城下新町の曹洞宗天翁山州傳寺第三十三世中興石龍木童大和尚(老師)が、師匠である州傳寺第三十二世大地沙門玄亀大和尚の総見や接心での法話や提唱、そして最後の説法を録音したテープなどから文字を起こして編集され一冊の本にまとめられたものです。
禅に興味を持ち始めたころで、塵壺の参考にしたいと思い30年余前に、石龍老師の下へ、参禅とまではいきませんが、州傳寺歴史や禅の教えを乞いに出頭していた頃に禅の教示と共に手渡された一冊です。

また、州傳寺では、石龍老師より玄亀大和尚の禅僧としての人となりも伺っていました。
玄亀大和尚は、明治24年紀州下津町生まれ、大正3年岸和田梅渓寺住職大洞石雲老師について得度。大正9年鶴見總持寺に安居、5年の総持寺安居の後に送行。以降、埼玉、千葉、小浜等々、そして発心寺専門道場の単頭など参禅、住職、安居などの修業を重ねた禅僧です。
この東北の地に「禅」を根付かせたいという想いから、良寛さまや乞食桃水和尚のように、一切の名利を捨てて禅僧として、自ら悟りを求め努力するとともに、人々を仏道に導き救済するという「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」の誓願を立て、三春城下でも檀用の少い州傳寺を選ばれて掛錫されます。

大地玄亀老師
また、本書の著者である州傳寺の前住職石龍木童老師も、玄亀大和尚の教えを下に州傳寺にて法名を継承されています。
仏道というと、普通一般の私たちは、私達の日常の生活とかけ離れた縁遠いもので、抹香・線香臭い陰気なものだと思ったり、あるいは特別な知識階級の人とか、極的保守的なもののように思っている人も多くありますが、玄亀大和尚は、本具仏性として坐禅といい、坐禅とは私達の日常の生活全てのことで、日常の外に仏道や禅はなく、朝から晩まで、晩から朝までする事なす事全てが仏道修行そのものです。
朝起きて顔を洗うこと、掃除をすること、食事を作ること、ご飯を食べること、仕事をすること、商売をすること、勉強すること全てに当てはまり、仏法即日常底、日常底即仏法、禅即生活、生活そのものが仏道であると説かれています。
また、「人」という文字を例えとして仏道を説かれ、一本を取れば必ず倒れる、一本では絶対に立てない、人間もまたその通りで一人では絶対に生活は出来ません。
我見我慢の心を一切捨てて、お互いに支え合わなければなりません。持ちつ持たれつして初めて人間世界が成り立っていきます。
この「人」という文字を学得して初めて幸福な家庭と文化国家が生れて来ます。
この「自他不二の道理」をよく心得て、お互いに和合して助け合う世界には、“闘争”とか、“戦争”とかいう汚い言葉や不平不満の声は無くなって、“有難いない”、“勿体ない”という麗わしいという言葉の下に「尊い汚れのない浄土」が建設されると説かれていました。
石龍木童大和尚から、道元の坐禅は、「只管打坐(しかんたざ)」であると教示されています。只管とは、ひたすら、余念を交えないという意味、打坐とは坐禅です。
つまりただひたすらに坐禅をするという意味で、あるがまま、自然の流れに身を任せ、ただ、ただ坐るだけ。
ひたすらに現実を見つめ、何も求めずに、ただひたすら坐(すわ)ることです。
そして、禅僧の本懐とは、自分自身を最後の最後まで使い切って、その痕跡すら残さないことである。禅語の「破草鞋(はそうあい)」とは、長年の修行で履き破れた草鞋を、きれいに洗って刻んで、壁の下地に使ったり、そのまま畑に撒いて堆肥にして使い切る。
即ち、一切の妄想、執着を断ち切って、人知れず捨て去られる一足の破れ草鞋のように、自身を使い切り、その痕跡すら知られことも何もひけらかすことなく只々修行に励む大切さをご教示いただきました。
忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちですが、そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならないと思いますが、現実にはなかなかできません。
「艱難辛苦を我に・・・・」ではありませんが、人生というのは魂の修行の場だと思います。
いつまでも自分を高めるための良性なプレッシャーを追い求めながら新たな情熱を持ち続け、毎日ドキドキ・ワクワク高揚しながら日々を楽しく暮らして行きたいものです。
仏道というは自己を習うなり 自己を習うというは自己を忘るなり 自己を忘るるというは万法に証せらるるなり
さあ、坐ろう! 蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!

三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
天翁山州傳寺歴住大和尚
三春城下天翁山州傳寺は、寛永五年(1638)、松下長綱公が三春城主として二本松城より転封されて間もなく、父重綱公を開基として烏山天性寺第十一世勝岩長全大和尚を開山として建立されました。
山号・寺号
祖父 綱玄院殿天翁長参(柵)大居士
父 州傳寺殿永厳長譽大居士
當寺は、曹洞宗において「片法幢(各地)」として宗門の僧侶・雲水を養成する修行道場
歴住大和尚
開山 勝岩長全大和尚
本寺烏山天性寺十一世 寛永十三年(一六三六)八月 九日示寂
二世 雲州元龍大和尚
三世 海岸道吞大和尚
末寺船引満円寺を開山 承応元年(一六五二)十月九日示寂
四世 斧山龍鈯大和尚
末寺船引照光寺を開山
五世 龍骨愚海大和尚 同 船引照光寺二世
六世 釼室雲利大和尚
七世 大祐元慶大和尚
八世 綴山寛補大和尚
九世 中興 一輪通禅大和尚
元禄十五年(一七〇二)寺院再建
十世 悦山易禅大和尚
十一世 享天始元大和尚
十二世 中興 寶厳興隆大和尚
元禄四年 越後弥彦山の禰宜髙橋太郎右衛門光宣第三子 慈海(具海)
埼玉加須全久寺第六世
享保十九年(一七三四)五月十五日 再建 法燈をただす
明和五年(一七六八)十月二十六日示寂
十三世 天随口音大和尚
十四世 蜜岩単隆大和尚
十五世 無幻老卵大和尚
庄内大山祐性院より
明和九年=安永元年万徳丈六堂消失 天明の飢饉・三春城下大火
後・大阪吹田大雄寺~周防洞泉寺~岩国善住寺開山~興聖寺~
文化二年(一八〇五)十一月二日 鶴岡破鏡庵示寂
十六世 佛印寛翁大和尚 福島市陽林寺十六世より晋山
十七世 洞雲全岩大和尚
十八世 東州智海大和尚
十九世 中興 虎云都繡大和尚
文化五年(一八〇八)九月二十六日再建
御朱印高弐拾石 寺領坪数三千余坪
後年の火災により消失 現存遺構 正面石段 葷酒禁制碑柱 歴代住職墓地燈篭
二十世 高雲得(徳)宗大和尚
糸魚川金峰山大雲寺より文政八年(一八二五)六月晋山
天保十一年(一八四〇)十月二十四日退山
再度、金峰山大雲寺へ帰山
二十一世 佛智大康大和尚
二十二世 大応玉仙大和尚
二十三世 梥屋慶音大和尚
二十四世 玉掌珍了大和尚
二十五世 桐宗恵文大和尚
二十六世 天外田龍大和尚
二十七世 悟山霊秀大和尚
(詳細別記)
二十八世 徳順吞海大和尚 明治二十年(一八八七)八月
二十二日示寂(詳細別記)
二十九世 中興 泰庀活麟大和尚
明治二十一年(一八八八)二月晋山
明治三十七年(一九〇四)十二月二十九日示寂(詳細後記)
三十世 徳充戒藴大和尚昭和九年(一九三四)十月九日示寂
三十一世 祖田瑞苗大和尚
昭和十七年(一九四二)二月二十八日示寂
三十二世 即如玄亀大和尚 稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)四月十七日示寂(詳細後記)
三十三世 現住 木童正孝衲 稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)五月十二日晋山
平成17年十一月二十九日・三十日厳修
三十四世 現住
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2024-12-07 Sat
三春城下清水にある曹洞宗 萬年山天澤寺の墓地への土手崩落の補修が完了しています。
一昨年の長雨により崩落していましたが、きれいに治っています。
安心してお墓参りが出来ます。
秋の落ち葉拾いも快適です。
三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2024-08-25 Sun
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり
子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め地蔵盆には“御霊まつり“が開かれています。
わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。
やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。
一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。
親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。
亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。
こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。
それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。
人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。
私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。
その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。
そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。
後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。
その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。
地蔵菩薩の縁日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。
お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。
「賽の河原地蔵和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。
賽の河原地蔵和讃
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む
一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく
(ただ明け暮れの嘆きには)
(酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる
我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出てさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
2024-08-18 Sun
三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。
地蔵盆には「身代わり地蔵尊祭礼」が開催され、法要と大数珠繰り、そして、ご詠歌がありました。
地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。
大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。
古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。
天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」
安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。
この政道が、安寿と厨子王の父親です。
しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。
安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。
丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。
安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。
一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。
後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。
それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。
かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。
今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。
親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。
亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。
こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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