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三春城下新町鎮守「田村大元神社夏季祭礼」 KFB福島放送「シェア」 髙橋龍一(別火講中OB) 放送日 2023.7.27(木) 午後3時48分~







三春城下新町鎮守「田村大元神社夏季祭礼」 KFB福島放送「シェア」 髙橋龍一(別火講中OB)

放送日 2023.7.27(木) 午後3時48分~








四年ぶりの祭礼挙行です!



お楽しみに~



尚、後日KFB福島放送の番組公式YouTubeでも配信されます。



お見逃しなく!




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:17 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
三春城下新町鎮守 田村大元神社 令和五年夏季例大祭 




三春城下新町鎮守 田村大元神社 令和五年夏季例大祭 



7月16日(日) 夏季例大祭神事 社殿  午前9時

       町内神輿渡御 新町行政区一円 午前10時頃^

還御(神輿が神社に還る) 新町縦町 午後7時 ”庚申坂郭堺区分燈”出立








告知 KFB福島放送「シェア」 ふるさとリポート三春 三春担当 髙橋龍一(別火講中OB)

放送日 2023.7.27(木) 午後3時48分~

三春城下新町鎮守「田村大元神社夏季祭礼」 








旧秋田氏三春藩領内総鎮守であった大元帥明王社7は、田村大元神社の名称が変わり、御神体は「国常立命(くにとこだちのみこと)」となっていますが、旧神号大元帥明王の時代から例大祭時の御神輿渡御では長獅子が先払いとして先頭を練り歩きます。


「大元帥明王」は、敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われています。

その名残で長獅子の髭が災難除けとして町内に配られています。







明治維新後の三春藩解体に伴い、旧三春藩の総鎮守として三春領田村郡内全域と郡山の一部で運営されてきた「田村大元師明王社」を、紆余曲折はあったものの、混沌とした時代が過ぎた、昭和に成って、新町の大先輩たちが、別火講中を組織して、その心意気で一手に担い、今日まで継承してきました。


「別火」、古くは別の日と書きましたが、別火講中とは文字の如く、家と釜戸の火を別ける特別な「ハレの日」を意味しています。

新町の男たちは、家庭や社会から離れ、別火講中の一連の年間行事の中で、講員一同、正に寝食を供にすることにより「田村大元神社」の行事を司り、講中在籍中に実社会では体験出来ないような、様々な体験を通して思慮分別を養っていました。


さらには「真の三春人」となって、実社会においてこの発展に寄与する人間つくりを目的として、新町の先輩たちから、脈々と受け継がれてきた、三春人として、胸を張って誇れる組織だと思います。






世代が変わり薄れつつある事柄ですが、「別火講中」とは「同志、仲間」という意味であると理解してほしいと思います。


決してただ酒を飲んで大騒ぎをする会ではありません。

仲間がいることで「切磋琢磨」互いに良い影響を与え、学び合いながら、人は一人では生きられない。

また、支え合う人・喜びや悲しみを分かち合う人達がいてこそ、自分自身も、成長し、生きることが出来るということを、心に刻み、「別火講中で培った人格と経験を持って社会生活寄与する」という事を学んでいただければと心より思います。  







私は、よく「別火講中はコミニティーの原点だ」と申し上げていますが、別火講中とはまさにコミュニティそのものなのかもしれません。



辞書によれば 「講」とは、民間の金融上の組合、経典を講釈する会、信徒が催す法会や、神仏に参拝に行く団体」とあります。

また、コミュニティー【community】は、「人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域,およびその人々の集団。地域社会。共同体。」とあります。







昨今「日本からコミュニティが消えつつある」と言われています。

確かに昔はご近所があり、隣組があり、先輩・後輩があり、それに付随した言葉使い、義理や人情等々人付き合いのスキルがたくさんありました。


現在でも確かに存在はするのですが、個人の権利や自由が叫ばれ、仲間意識は表面的になっているように思われます、しかし、我が新町においては、別火講中があるかぎり、無縁の物の様に思います。





新町の先輩たちが築き上げた、別火講中の、心意気を忘れることなく、両番組力を合わせて、修行の場としての別火講中行事の中で、おのおの意味を見出しながら、時に楽しく、時に厳しく、孫子の代まで、「別火講中」を継承していってくれることを切に、お願いします。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍








| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
三春城下新町鎮守「田村大元神社夏季祭礼」 宵祭 





三春城下新町鎮守「田村大元神社夏季祭礼」 宵祭

※ 旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」のお祭でしたが、現在は城下新町の鎮守様 田村大元神社夏季例大祭

旧三春藩の領内総鎮守の祭礼 起源は古く戦国末期より500年余続く祭礼


新町字民をはじめ城下を中心に三春の町民が広く氏子として奉仕しています。

令和5年度

7月15日(土) 宵祭 還御 新町縦町 午後7時ごろ ”庚申坂郭堺区分燈”出立

7月16日(日) 夏季例大祭神事 社殿  午前9時

       町内神輿渡御 新町行政区一円 午前10時頃^

還御(神輿が神社に還る) 新町縦町 午後7時 ”庚申坂郭堺区分燈”出立

7月17日(祝・月) 直会

KFB福島放送「シェア」 ふるさとリポート三春

三春担当 髙橋龍一(別火講中OB)


放送日 2023.7.27(木) 午後3時48分~


旧三春藩領内総鎮守太元帥明王社 (田村大元神社)

本来、太元帥明王は四天王·二十八部衆を従え、悪獣や兵火の災難を除き、国を守り人々を保護する明王であった。

国常立命は記紀神話の神で、日本書紀では天地開闘の最初に出現した国土生成の中心的神として位置づけられている。


八幡神社、能熊野神社、神明宮、秋葉神社に対する篤い信仰を持ち続け、例祭には神輿渡御があり、長獅子、三匹獅子舞を奉納し祭礼を行う。






祭儀は一月元旦歳旦祭、四月二十八日春祭り、例祭は七月二十日(現在は第三の日曜日)、十月二十八日秋祭り、秋葉講祭が四月二十日と十月二十日、他に正月別火講祭奈が行われる。


別火講一番組と二番組が祭りの準備と執行に当たっている。


田村大元神社から勤請された神社と思われる大元神社が大越と船引にある。







坂上田村麿公は、坂上苅田麿公の子として天平宝宇二年(758年))に生まれている。成長して蝦夷征伐に関係し、延暦十六年(797年)には征夷大将軍に任じられている。

田村麻呂は、観音への信仰もあつく、同十七年(798)には京都に清水寺を建立している。朝廷や天皇からの信頼あつく、正三位まで授けられるとともに、参議や大納言などの要職に任じられている。





また、武門に対する信頼もあつく、右近衛大将や兵部卿なども歴任している。
弘仁二年(811)五月二十三目、都にて没している。






延暦年間(782~805)
坂上田村磨、征夷大将軍として征討の途上、磐城国岩瀬郡小山田村今明王壇に図常立命を安置奉斎、武運長久治国平天下を祈願したことに由来する。(社伝による)

永仁三年(1295)
社宝銅製松喰鶴鏡にこの年の墨書銘がある。

歴応年間(北朝年号1338~1342)
坂上田村麻呂・田村将軍の裔田村輝定、之を三春雲集山古城跡に遷し、祠官を置く。
(社伝による)

永正元年(1504)
田村麻呂から26代目の子孫とする田村義顕、居城を田村郡守山字山中(現郡山市)より三春大志多山に移した時、太元明王をも併せ移し、その社殿を同じく大志多山に建立、之を奉遷。

三春城の東舘(後の三ノ丸)の南麓に社地を定め、社地及び門前の町名を守山山中を模して山中とし、守山の泰平寺を移して別当寺とする。

天文年間(1532~1554)
境内末社、八幡宮、熊野宮を勧請。

天文十八年 (1549)
田村氏の変遷により、この年まで田村家領内六十六郷の総鎮守とする。

天文十八年(1549)~慶長三年(1598)
会津蒲生氏による三春支配、景仰奉祀する。

慶長三年(1598)~慶長五年(1600)
会津上杉氏による三春支配、景仰奉祀する。

慶長五年(1600)~寬永四年(1637)
再び会津蒲生氏三春支配、景仰奉祀する。

寬永四年(1637)~寛永五年(1628)
会津加藤氏支配、景仰奉祀する。

寛永五年(1628)~正保元年(1644)
三春城主松下氏支配、景仰奉祀する。

正保二年(1645)
秋田俊季、常陸国宍戸城より三春に移り、本神社を尊崇。
別当を真照寺とする。

寬文十年(1670)
仏殿、本堂火災により焼失。

元禄二年(1689)
秋田輝季、大般若経六百巻を奉献。

天明八年(1788)
秋田倩季、神号額を奉納。

慶応三年(1867)
秋田映季、仁王門(後随神門・表門・八脚門)を建造。
金剛力士像完成(石森の彫工伊藤光雲.同九賀之助の合作)







明治元年(1868)
神仏分離令布告。


明治三年(1870)
大志多山神社と改称。
三月、御神体·突鐘·金剛力士像を真照寺に移し、社殿を破却。
六月一日遷宮

明治四年(1871)
三春藩社詞方より国常立命を祭神として、三春町の鎮守とし、当屋制廃止を命ぜらる。
旧三春藩の総鎮守であった大元帥明王が明治四年の廃藩置県の際に無格社となり、一方三春町の一地域の信仰であった神明社が明治三十三年に県社に列せられた。

明治十二年(1879)
社名を田村大元神社と改称。

明治三十二年(1899)
本殿拝殿を建立。

昭和三年(1928)7月18日、
郷社に列せられる。銅板屋根にする。

昭和十六年(1941)
銅製松喰鶴鏡、国指定重要美術品に認定される。

昭和二十年(1945)
太平洋戦争終結・GHQ、神道指令を出す。

昭和三十六年
阿吽仁王像が氏子によって真照寺からこの随神門に戻された。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
2023 城下新町・夏の風物詩  田村大元神社祭礼、三匹獅子・長獅子の練習



三春城下新町の鎮守田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」)の祭礼を、今週末に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。







梅雨の時期独特の湿った気候、夕方の蜩、楽内のホタル、真照寺下セリ場の旗や大元神社山内の提灯、そして、この三匹獅子や長獅子の太鼓や笛の音を聞こえると「夏が来るんだなあ~」と思います。







350年余は続いてきたんであろう、正に初夏の三春城下を彩る風物詩です。







三匹獅子掛では、年長者が後輩に教えるという新町では当たり前の光景ですが、他では中々見られなくなった光景です。






長獅子舞の練習風景です。







田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.

やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。






自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。

| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
天正13年 四家氏 天澤寺住職 儀岩行信=天澤寺二十一世悦岩海信大和尚




清酒「又兵衛」で知られる、いわき市内郷の酒蔵「四家酒造」の四家社長より「四家家に伝わる幕末に写された系図の中に、天保13年に岩城家菩提寺龍門寺の弟子として18歳で出家し入山していた当家の先祖が三春の天澤寺の住職にとありました。なにぶん系図なので信憑性に欠けますが、何か手掛かりでもありましたら〜」という問い合わせがありました。





天澤寺は当髙橋家の菩提寺でもあります。


早速、古い資料を引っ張り出したり歴代住職墓所に参って墓石や歴代住職位牌堂を調べてきました。

四家氏から天正13年三春天澤寺住職に入ったのは儀岩和尚という法名のようですが、資料や墓跡には当該のお名前はありませんでした。





しかし、二十一世住職「悦岩海信大和尚」が年代的にも名前的にも該当しています。

というのも天正13年というのは、三春城主田村家も娘婿伊達政宗の伊達家も戦国乱世の戦いの真っ最中。

天澤寺も高野村鹿島(現郡山市西田町)から三春平沢村に移転し、さらに会下谷(三春城下会下谷)に移転している頃です。

後に時の城主松下石見守長綱によって焼き討ちされ現在の場所である城下清水に再々度の移転しています。







尚、 翌、天正 14年( 1586年 )には、三春城主 田村清顕が死去、後の 田村氏 を巡る内紛に発展し、2年後の天正16年( 1588年 )に清顕の娘婿である伊達政宗による「 田村仕置 (たむらしおき)」が行われています。








城下清水への建立以前の資料が焼けて残っていません。

また、天澤寺は天沢寺、曹洞宗総本山總持寺の元普蔵院輪番地です。


※普蔵院の場合は、約50年毎の輪住 『能州大本山總持寺輪住心得井一回中手控』(安政四年)同寺蔵文書があり。







高僧となると、新たに法名の授与がります。また、その遷化後に「諡号」があります。




御位牌には、「前總持 當寺廿一世 悅岩禅大和尚禅師」と刻まれています。

この前總持とは、悅岩和尚が曹洞宗総本山「總持寺」の輪番前住、又は当住が總持寺に赴いた場合の資格ないし待遇と考えられます。


その前後の住職を見ますと、「前永平 兼 總寧 當寺 随意會中 霊海山大和尚禅師」と記されたお位牌があります。

こちらも永平寺での前住又は霊海崩山大和尚が永平寺に赴いた際の資格ないし待遇を示したものだと考えられます。

尚、随意會中とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)の一。三法幢地の一で、3年ごとに1回、結制を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられます。








尚、輪住とは總持寺の住職を5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)からの輪番制の事を指します。


天澤寺も、輪住の一つ普蔵院の番地になっていました。


悅岩禅大和尚のお位牌の上部には總持當院と記されています。



輪住制も、元和元年徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となり、栴崖奕堂大和尚以降は独住制となります。


尚、1898年(明治31年)火災で焼失し、1911年(明治44年)、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目の現在地に移転し現在の總持寺となります。









尚、境内に安寿と厨子王の物語りを伝える身代わり地蔵を安置した地蔵堂があります。

当寺開創の栄峰と同門下の青岑珠鷹禅師が岩城氏菩提寺龍門寺を開いており、この辺に地蔵堂建立物語り発展の素因が考えられます。







尚、三春田村氏初代田村義顕公の正室は岩城常隆の娘です。







曹洞宗 萬年山天沢寺

室町時代の嘉吉(かきつ)3年(1443)丹伊田村(現在の郡山市西田町)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期には城下清水の現在の地に移転しました。
領内18の末寺を束ねていた古刹です。



天沢寺本堂の豪壮華麗な禅宗様式は地方に珍しいものである。 境内に安寿と厨子王の物語りを伝える身代わり地蔵を安置した地蔵堂がある。








天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」
安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。

現在の本堂は、文化13年(1816)から6年かけて完成したもので、大きく美しい彫物で飾られています。

境内には安寿と厨子王の伝説にまつわる身代わり地蔵堂や、四軒丁の修験常楽院から移された西国三十三観音巡りの石塔が立ち並んでいます。










開創の栄峰と同門下の青岑鷹禅師が、岩城氏菩提寺龍門寺を開いており、この辺に田村氏と岩城氏の関係性から身代わり地蔵堂の建立にかかわる事柄があるように見受けられます。


龍門寺は岩城の国主岩城家の菩提寺で、初代朝公氏が施主で建造に着手して間もなく亡くなり、二代目常朝公が石を継ぎましたが工事半ばで死亡、三代目清胤公が完成させて応永17年頃(1,409年)に青岑鷹禅師を開山主に迎え開創されたといわれている。






岩城氏については、水戸の佐竹氏と同郷に関ヶ原の戦いでに参戦せず曖昧な態度であったことから、田村家同様その仕置きとしていわきを追われることとなり、最終的には現在の秋田県由利本荘市(旧亀田町)の国替えとなってしまいます。

国替えの際、岩城の龍門寺の和尚を秋田に招いて龍門寺を再建しており亀田藩主(岩城氏)の菩提寺となっています。実際、由利本荘市の龍門寺は市の「史跡」に指定されており、岩城氏ゆかりの土地となっています。


三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧
室町時代の嘉吉3年(1443)丹伊田村(現在の郡山市)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期には現在の地に移転しました。領内18の末寺を束ねていた古刹です。

三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧
室町時代の嘉吉3年(1443)丹伊田村(現在の郡山市)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期には現在の地に移転しました。領内18の末寺を束ねていた古刹です。

開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日 
廿一世 悦岩海信大和尚 悅岩快禅大和尚(位牌) 
儀岩行信和尚(四家氏家系図)宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚 
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::萬年山天澤寺 |
三春城下曹洞宗萬年山天澤寺 晋山式 「結制 首座法戦式」



三春城下曹洞宗録所萬年山天澤寺

「結制 首座法戦式」

当家菩提寺の新住職をお迎えする晋山式です。





おめでとう御座います。











三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧
室町時代の嘉吉3年(1443)丹伊田村(現在の郡山市)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期には現在の地に移転しました。領内18の末寺を束ねていた古刹です。

開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日 
廿一世 悦岩海信大和尚 悅岩快禅大和尚(位牌) 
儀岩行信和尚(四家氏家系図)宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚 
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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三春城下曹洞宗天澤寺「カワガンジョウ」




三春城下曹洞宗天澤寺「カワガンジョウ」

カワガンジョウには「南無三曼多没駄南梵」と彫りこんであります。

この経木は春秋の彼岸会とお盆のときに、志300円で配布されています。

「南無三曼多 没駄喃梵 (なむさまんだー ほどなんばん)には、「あまねく諸仏に帰命いたします」という意味があります。

施餓鬼会【せがきえ】とい法要では開甘露門【かいかんろもん】というお経をお唱えしますが、その一説と教えていただきました。




 
当家では、カワガンジョウ経木をお寺から迎えて自宅の仏壇に安置・供えして供養しています。

それぞれの仏事期間が終わると家の中の納経袋に入れて年末寺処分しています。

三春城下の「カワガンジョウ」という習俗の由来や謂れははっきりとは見いだせていません。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



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