CALENDAR
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30      
<<  2025 - 06  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




「最後の説法 大地玄亀大和尚」 石龍木童正孝大和尚著 

「最後の説法 大地玄亀」


塵壺407号  「最後の説法 大地玄亀大和尚」 石龍木童正孝大和尚著 令和7年6月発行

この本は、三春城下新町の曹洞宗天翁山州傳寺第三十三世中興石龍木童大和尚(老師)が、師匠である州傳寺第三十二世大地沙門玄亀大和尚の総見や接心での法話や提唱、そして最後の説法を録音したテープなどから文字を起こして編集され一冊の本にまとめられたものです。

禅に興味を持ち始めたころで、塵壺の参考にしたいと思い30年余前に、石龍老師の下へ、参禅とまではいきませんが、州傳寺歴史や禅の教えを乞いに出頭していた頃に禅の教示と共に手渡された一冊です。






また、州傳寺では、石龍老師より玄亀大和尚の禅僧としての人となりも伺っていました。

玄亀大和尚は、明治24年紀州下津町生まれ、大正3年岸和田梅渓寺住職大洞石雲老師について得度。大正9年鶴見總持寺に安居、5年の総持寺安居の後に送行。以降、埼玉、千葉、小浜等々、そして発心寺専門道場の単頭など参禅、住職、安居などの修業を重ねた禅僧です。

この東北の地に「禅」を根付かせたいという想いから、良寛さまや乞食桃水和尚のように、一切の名利を捨てて禅僧として、自ら悟りを求め努力するとともに、人々を仏道に導き救済するという「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」の誓願を立て、三春城下でも檀用の少い州傳寺を選ばれて掛錫されます。



大地玄亀老師



また、本書の著者である州傳寺の前住職石龍木童老師も、玄亀大和尚の教えを下に州傳寺にて法名を継承されています。


仏道というと、普通一般の私たちは、私達の日常の生活とかけ離れた縁遠いもので、抹香・線香臭い陰気なものだと思ったり、あるいは特別な知識階級の人とか、極的保守的なもののように思っている人も多くありますが、玄亀大和尚は、本具仏性として坐禅といい、坐禅とは私達の日常の生活全てのことで、日常の外に仏道や禅はなく、朝から晩まで、晩から朝までする事なす事全てが仏道修行そのものです。


朝起きて顔を洗うこと、掃除をすること、食事を作ること、ご飯を食べること、仕事をすること、商売をすること、勉強すること全てに当てはまり、仏法即日常底、日常底即仏法、禅即生活、生活そのものが仏道であると説かれています。

また、「人」という文字を例えとして仏道を説かれ、一本を取れば必ず倒れる、一本では絶対に立てない、人間もまたその通りで一人では絶対に生活は出来ません。

我見我慢の心を一切捨てて、お互いに支え合わなければなりません。持ちつ持たれつして初めて人間世界が成り立っていきます。

この「人」という文字を学得して初めて幸福な家庭と文化国家が生れて来ます。

この「自他不二の道理」をよく心得て、お互いに和合して助け合う世界には、“闘争”とか、“戦争”とかいう汚い言葉や不平不満の声は無くなって、“有難いない”、“勿体ない”という麗わしいという言葉の下に「尊い汚れのない浄土」が建設されると説かれていました。



石龍木童大和尚から、道元の坐禅は、「只管打坐(しかんたざ)」であると教示されています。只管とは、ひたすら、余念を交えないという意味、打坐とは坐禅です。

つまりただひたすらに坐禅をするという意味で、あるがまま、自然の流れに身を任せ、ただ、ただ坐るだけ。

ひたすらに現実を見つめ、何も求めずに、ただひたすら坐(すわ)ることです。  

そして、禅僧の本懐とは、自分自身を最後の最後まで使い切って、その痕跡すら残さないことである。禅語の「破草鞋(はそうあい)」とは、長年の修行で履き破れた草鞋を、きれいに洗って刻んで、壁の下地に使ったり、そのまま畑に撒いて堆肥にして使い切る。

即ち、一切の妄想、執着を断ち切って、人知れず捨て去られる一足の破れ草鞋のように、自身を使い切り、その痕跡すら知られことも何もひけらかすことなく只々修行に励む大切さをご教示いただきました。


忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちですが、そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならないと思いますが、現実にはなかなかできません。

「艱難辛苦を我に・・・・」ではありませんが、人生というのは魂の修行の場だと思います。

いつまでも自分を高めるための良性なプレッシャーを追い求めながら新たな情熱を持ち続け、毎日ドキドキ・ワクワク高揚しながら日々を楽しく暮らして行きたいものです。



仏道というは自己を習うなり  自己を習うというは自己を忘るなり  自己を忘るるというは万法に証せらるるなり 
   
    さあ、坐ろう! 蒼龍謹白 拝  さすけねぇぞい三春!














三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





 

天翁山州傳寺歴住大和尚

三春城下天翁山州傳寺は、寛永五年(1638)、松下長綱公が三春城主として二本松城より転封されて間もなく、父重綱公を開基として烏山天性寺第十一世勝岩長全大和尚を開山として建立されました。




山号・寺号

祖父 綱玄院殿天翁長参(柵)大居士

父  州傳寺殿永厳長譽大居士



當寺は、曹洞宗において「片法幢(各地)」として宗門の僧侶・雲水を養成する修行道場




歴住大和尚

開山 勝岩長全大和尚 
本寺烏山天性寺十一世 寛永十三年(一六三六)八月 九日示寂

二世 雲州元龍大和尚

三世 海岸道吞大和尚  
末寺船引満円寺を開山 承応元年(一六五二)十月九日示寂

四世 斧山龍鈯大和尚
末寺船引照光寺を開山


五世 龍骨愚海大和尚 同 船引照光寺二世


六世 釼室雲利大和尚

七世 大祐元慶大和尚

八世 綴山寛補大和尚

九世 中興 一輪通禅大和尚
  元禄十五年(一七〇二)寺院再建

十世 悦山易禅大和尚

十一世 享天始元大和尚

十二世 中興 寶厳興隆大和尚
 元禄四年 越後弥彦山の禰宜髙橋太郎右衛門光宣第三子 慈海(具海)
埼玉加須全久寺第六世
享保十九年(一七三四)五月十五日 再建 法燈をただす
明和五年(一七六八)十月二十六日示寂

十三世 天随口音大和尚


十四世 蜜岩単隆大和尚

十五世 無幻老卵大和尚
庄内大山祐性院より
 明和九年=安永元年万徳丈六堂消失 天明の飢饉・三春城下大火 
後・大阪吹田大雄寺~周防洞泉寺~岩国善住寺開山~興聖寺~
文化二年(一八〇五)十一月二日 鶴岡破鏡庵示寂

十六世 佛印寛翁大和尚 福島市陽林寺十六世より晋山


十七世 洞雲全岩大和尚


十八世 東州智海大和尚

十九世 中興 虎云都繡大和尚
文化五年(一八〇八)九月二十六日再建
御朱印高弐拾石 寺領坪数三千余坪 
後年の火災により消失 現存遺構 正面石段 葷酒禁制碑柱 歴代住職墓地燈篭

二十世 高雲得(徳)宗大和尚
糸魚川金峰山大雲寺より文政八年(一八二五)六月晋山 
天保十一年(一八四〇)十月二十四日退山
再度、金峰山大雲寺へ帰山

二十一世 佛智大康大和尚


二十二世 大応玉仙大和尚

二十三世 梥屋慶音大和尚

二十四世 玉掌珍了大和尚


二十五世 桐宗恵文大和尚

二十六世 天外田龍大和尚


二十七世 悟山霊秀大和尚
(詳細別記)


二十八世 徳順吞海大和尚 明治二十年(一八八七)八月
二十二日示寂(詳細別記)

二十九世 中興 泰庀活麟大和尚
明治二十一年(一八八八)二月晋山
明治三十七年(一九〇四)十二月二十九日示寂(詳細後記)


三十世 徳充戒藴大和尚昭和九年(一九三四)十月九日示寂

三十一世 祖田瑞苗大和尚
昭和十七年(一九四二)二月二十八日示寂


三十二世 即如玄亀大和尚  稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)四月十七日示寂(詳細後記)


三十三世 現住 木童正孝衲 稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)五月十二日晋山
平成17年十一月二十九日・三十日厳修

三十四世 現住 



| ryuichi | 16:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め地蔵盆には“御霊まつり“が開かれています。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。

亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。

 こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
 
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。

人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。






私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原地蔵和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。


賽の河原地蔵和讃

これはこの世のことならず

死出の山路の裾野なる

さいの河原の物語

聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ

十にも足らぬおさなごが

父恋し母恋し

恋し恋しと泣く声は

この世の声とは事変わり

悲しさ骨身を通すなり


かのみどりごの所作として

河原の石をとり集め

これにて回向の塔を組む

一重組んでは父のため

二重組んでは母のため

三重組んではふるさとの

兄弟我身と回向して

昼は独りで遊べども

日も入り相いのその頃は

地獄の鬼が現れて

やれ汝らは何をする

娑婆に残りし父母は

追善供養の勤めなく

(ただ明け暮れの嘆きには)

(酷や可哀や不憫やと)

親の嘆きは汝らの

苦患を受くる種となる

我を恨むる事なかれと

くろがねの棒をのべ

積みたる塔を押し崩す


その時能化の地蔵尊

ゆるぎ出てさせたまいつつ

汝ら命短かくて

冥土の旅に来るなり

娑婆と冥土はほど遠し

我を冥土の父母と

思うて明け暮れ頼めよと

幼き者を御衣の

もすその内にかき入れて

哀れみたまうぞ有難き

いまだ歩まぬみどりごを

錫杖の柄に取り付かせ

忍辱慈悲の御肌へに

いだきかかえなでさすり

哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 03:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
 天翁山州傳寺歴住大和尚


 

天翁山州傳寺歴住大和尚

三春城下天翁山州傳寺は、寛永五年(1638)、松下長綱公が三春城主として二本松城より転封されて間もなく、父重綱公を開基として烏山天性寺第十一世勝岩長全大和尚を開山として建立されました。




山号・寺号

祖父 綱玄院殿天翁長参(柵)大居士
父  州傳寺殿永厳長譽大居士



當寺は、曹洞宗において「片法幢(各地)」として宗門の僧侶・雲水を養成する修行道場




歴住大和尚

開山 勝岩長全大和尚 
本寺烏山天性寺十一世 寛永十三年(一六三六)八月 九日示寂

二世 雲州元龍大和尚

三世 海岸道吞大和尚  
末寺船引満円寺を開山 承応元年(一六五二)十月九日示寂

四世 斧山龍大和尚
末寺船引照光寺を開山


五世 龍骨愚海大和尚 同 船引照光寺二世


六世 釼室雲利大和尚

七世 大祐元慶大和尚

八世 綴山寛補大和尚

九世 中興 一輪通禅大和尚
元禄十五年(一七〇二)寺院再建

十世 悦山易禅大和尚

十一世 享天始元大和尚

十二世 中興 寶厳興隆大和尚
元禄四年越後弥彦山の禰宜髙橋太郎右衛門光宣第三子 慈海(具海)
埼玉加須全久寺第六世
享保十九年(一七三四)五月十五日 再建 法燈をただす
明和五年(一七六八)十月二十六日示寂

十三世 天随口音大和尚


十四世 蜜岩単隆大和尚

十五世 無幻老卵大和尚
庄内大山祐性院より
明和九年=安永元年万徳丈六堂消失 天明の飢饉・三春城下大火 
後・大阪吹田大雄寺~周防洞泉寺~岩国善住寺開山~興聖寺~
文化二年(一八〇五)十一月二日 鶴岡破鏡庵示寂

十六世 佛印寛翁大和尚 福島市陽林寺十六世より晋山


十七世 洞雲全岩大和尚


十八世 東州智海大和尚

十九世 中興 虎云都繡大和尚
文化五年(一八〇八)九月二十六日再建
御朱印高弐拾石 寺領坪数三千余坪 
後年の火災により消失 現存遺構 正面石段 葷酒禁制碑柱 歴代住職墓地燈篭

二十世 高雲得(徳)宗大和尚
糸魚川金峰山大雲寺より文政八年(一八二五)六月晋山 
天保十一年(一八四〇)十月二十四日退山
再度、金峰山大雲寺へ帰山

二十一世 佛智大康大和尚


二十二世 大応玉仙大和尚

二十三世 梥屋慶音大和尚

二十四世 玉掌珍了大和尚


二十五世 桐宗恵文大和尚

二十六世 天外田龍大和尚


二十七世 悟山霊秀大和尚
(詳細別記)


二十八世 徳順吞海大和尚 明治二十年(一八八七)八月
二十二日示寂(詳細別記)

二十九世 中興 泰庀活麟大和尚
明治二十一年(一八八八)二月晋山
明治三十七年(一九〇四)十二月二十九日示寂(詳細後記)


三十世 徳充戒藴大和尚昭和九年(一九三四)十月九日示寂

三十一世 祖田瑞苗大和尚
昭和十七年(一九四二)二月二十八日示寂


三十二世 即如玄亀大和尚  稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)四月十七日示寂(詳細後記)


三十三世 現住 木童正孝衲 稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)五月十二日晋山
平成17年十一月二十九日・三十日厳修

三十四世 現住 


| ryuichi | 03:50 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 2020 御霊まつり 本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員の実の法要で執り行います。



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 2020 御霊まつり


本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員のみ臨席して法要で執り行います。


子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春物語176番 「三春州伝寺第三十二世住持 大地玄亀大和尚」
 



三春州伝寺第三十二世住持 大地玄亀大和尚
 
「最後の説法」大地玄亀  前州伝寺住職故石龍正孝老師著(非売品)


  この本は、即妙玄亀大和尚の接心での最後の説法を故石龍木堂老師がまとめられた貴重な本です。

前住職石龍和尚ご存命であったころ、塵壺に州伝寺を掲載するための資料集めにお邪魔した折に、頂戴したものです。

「最期の説法」は老師が東京都台東区浅草松葉町曹源寺内曹玄窟で遷化される直前に門弟のために病重症の所をおして行った提唱です。

それは、側に綿に水を浸して唇をうるおし、時に、声がかれ、とぎれ、欺息して休み且つ続けるという提唱であった。







大地玄亀和尚は東北の地に「禅」を根つかせた位という想いから、三春でも檀用の少い州伝寺を選ばれて掛錫された太地老師。


タイトル通り、石龍和尚の師匠である大地玄亀和尚の最後の説法を録音テープなどから編集して本にまとめられたものです.









玄亀老師発願の書(原文は血書)からはじまり

・ 総参の話(この接心会の直後に胃癌の診断を受ける)

・ 臨終の時の法話(門弟一同への経誨)

・ 最後の説法(浅草曹源寺での遷化直前の接心 綿に水を浸し唇を潤しながらの提唱)

・ 無門関提唱

・ 玄亀和尚示衆

・ 出家の本懐

・ 菩提心と無常観

・ 托鉢印施

・ 策励句集と続きます。





「総参の話」は昭和二十七年八月二日より一週間福島県田村郡三春町州伝寺において催された大接心会の時の総参の話である。
会衆七十余名、過半は在家の方で、特に初心者の方のために語られたものである。



尚、老師はこの接心会の直後、胃癌という診断を受けられたのである。




州伝寺晋山式修行することになりましたが、要するに私は東北の地方に真の禅風を一拳揚したい念願からであります。

私は超州和尚が六十歳で出家なされて八十歳迄行脚せられた尊い勝麗を慕って私も六十歳再出家の気持であります。

しかも此の寺は州伝寺というのですから、超州の禅風を伝えるというように解釈して、転任の機会に一切の名利を捨てて真の納僧として上求菩提下化衆生の誓願を樹てましたが、菩提心の未熟にて未だ実行が出来ません。実に慣憶に堪えません。

ほんとうに良寛さまや乞食桃水和尚のように名利をなげ捨てた真の出家児になりたい心はありますが、なかなか容易ではありませんけれども衆生無辺誓願度の四弘誓願文に鞭うって、生々世々勇猛精進する覚悟であります。

大地玄亀和尚の言葉より






曹洞宗天翁山州傳寺は、江戸初期悲劇の三春城主松下石見守長綱が三春入府の際、二本松より移した寺で、重綱公、長綱公、豊綱公と松下家三代の位牌所です。
 
松下石見守長綱公は三春在籍十七年の間に、最後の戦国大名として三春城や城下町を整備して、現在の城下町三春の基礎を築いたと言われます。

 長綱公は豊臣秀吉が日吉丸と名乗る十六の頃、最初に使えた松下加兵衛之綱の孫で、初期徳川幕府にとっては、他の豊臣恩顧の大名と同じく目障りな存在であり、理不尽な理由を徳川幕府より押し付けられ、改易の憂き目に合いました。






 その後、江戸時代秋田家藩政下では先の領主菩提寺として厚遇され、全国的に有名な名僧高僧が在籍し、歴代住職への曹洞宗永平寺・総持寺両本山並びに関三箇寺から要職の下命等があり、管内の由緒ある寺院として「録所」を勤めました、また歴代住職の下へ、徳を慕いその教えを乞いに全国から雲水が参禅し、片法憧(格地)、東北の禅修業道場として名を馳せました。

近年に於いても、先の住職大地玄亀老師や、その弟子現住職石龍木童和尚が在籍し、この三春で禅宗の要として人々を導いておられます。




 
また丈六仏と呼ばれる御本尊の木像阿弥陀如来坐像は、坂上田村麻呂東夷追討に由来し、鎌倉期作とみられます、その昔郡山赤沼に安置され、戦国期田村氏三春入府に伴い、三春町丈六、廃寺万徳寺へ移り、その後丈六堂へ移り、明治期に州伝寺に移された仏像で、その長い歴史の中で、火災や様々な災難に遭遇しながらも、現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。




 州傳寺の玄関に「照顧脚下」の墨跡を見つけました、「脚下を照顧せよ」自分の足元を見よ、つまり自分自身をよく見つめなさいと言う教えです。

 山内には一時地蔵があり、子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親達の信仰を集め、八月二十四日には“みたま祭り“が開かれます。

 「拝む手から 一家円満の ひかりかがやく」  州伝寺立て札より






合掌


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


 天翁山州傳寺歴住大和尚

三春城下天翁山州傳寺は、寛永五年(1638)、松下長綱公が三春城主として二本松城より転封されて間もなく、父重綱公を開基として烏山天性寺第十一世勝岩長全大和尚を開山として建立されました。

山号・寺号

祖父 綱玄院殿天翁長参(柵)大居士
父  州傳寺殿永厳長譽大居士

歴住大和尚

開山 勝岩長全大和尚 
本寺烏山天性寺十一世 寛永十三年(一六三六)八月 九日示寂

二世 雲州元龍大和尚

三世 海岸道吞大和尚  
末寺船引満円寺を開山 承応元年(一六五二)十月九日示寂

四世 斧山龍大和尚
末寺船引照光寺を開山


五世 龍骨愚海大和尚 同 船引照光寺二世


六世 釼室雲利大和尚

七世 大祐元慶大和尚

八世 綴山寛補大和尚

九世 中興 一輪通禅大和尚
元禄十五年(一七〇二)寺院再建

十世 悦山易禅大和尚

十一世 享天始元大和尚

十二世 中興 寶厳興隆大和尚
元禄四年越後弥彦山の禰宜髙橋太郎右衛門光宣第三子 慈海(具海)
埼玉加須全久寺第六世
享保十九年(一七三四)五月十五日 再建 法燈をただす
明和五年(一七六八)十月二十六日示寂

十三世 天随口音大和尚


十四世 蜜岩単隆大和尚

十五世 無幻老卵大和尚
庄内大山祐性院より
明和九年=安永元年万徳丈六堂消失 天明の飢饉・三春城下大火 
後・大阪吹田大雄寺~周防洞泉寺~岩国善住寺開山~興聖寺~
文化二年(一八〇五)十一月二日 鶴岡破鏡庵示寂

十六世 佛印寛翁大和尚 福島市陽林寺十六世より晋山


十七世 洞雲全岩大和尚


十八世 東州智海大和尚

十九世 中興 虎云都繡大和尚
文化五年(一八〇八)九月二十六日再建
御朱印高弐拾石 寺領坪数三千余坪 
後年の火災により消失 現存遺構 正面石段 葷酒禁制碑柱 歴代住職墓地燈篭

二十世 高雲得(徳)宗大和尚
糸魚川金峰山大雲寺より文政八年(一八二五)六月晋山 
天保十一年(一八四〇)十月二十四日退山
再度、金峰山大雲寺へ帰山

二十一世 佛智大康大和尚


二十二世 大応玉仙大和尚

二十三世 梥屋慶音大和尚

二十四世 玉掌珍了大和尚


二十五世 桐宗恵文大和尚

二十六世 天外田龍大和尚


二十七世 悟山霊秀大和尚
(詳細別記)


二十八世 徳順吞海大和尚 明治二十年(一八八七)八月
二十二日示寂(詳細別記)

二十九世 中興 泰庀活麟大和尚
明治二十一年(一八八八)二月晋山
明治三十七年(一九〇四)十二月二十九日示寂(詳細後記)


三十世 徳充戒藴大和尚昭和九年(一九三四)十月九日示寂

三十一世 祖田瑞苗大和尚
昭和十七年(一九四二)二月二十八日示寂


三十二世 即如玄亀大和尚
昭和二十八年(一九五三)四月十七日示寂(詳細後記)


三十三世 現住 木童正孝衲
昭和二十八年(一九五三)五月十二日晋山
平成17年十一月二十九日・三十日厳修

三十四世 現住 




| ryuichi | 13:25 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
「子育一時地蔵尊 」 御霊まつり28 天翁山州伝寺山内



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |