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旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷「紫雲閣」



旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷「紫雲閣」





吉田家住宅は、生糸商の吉田誠次郎によって明治30年代に建てられた邸宅です。


吉田誠次郎は、三春在駒板村 (現郡山市中田町駒板) の吉田常三郎の次男として生まれ、三春城下中町の商人釜屋宗像善吾の次女と結婚して養子となりました。

釜屋善吾は三春生糸「三春駒」の商標を取得して、東京や横浜で生糸商を行いました。

後に誠次郎は明治28年に分家して独立して益々生糸問屋として商いを拡げながら、取引先の外国人向けに錦絵や書画そして骨董の販売を行い、さらに金融業に手を拡げて1代で財を築きました。


誠次郎は、分家を機に三春城下に於いて居宅を新築、その邸宅は母屋と隠居として建てられた離れは隣接する紫雲寺に由来する「紫雲閣」と呼ばれる座敷蔵から構成されています。






離れの蔵座敷「紫雲閣」


この紫雲閣は、誠次郎の隠居部屋として建てられました。





誠二郎氏は謡曲、妻は和歌と、ともに風流な嗜みを持っていましたが、紫雲閣の設えは摩訶不思議が広がります。







2階建ての蔵座敷で計4室ありますが、どの部屋も見たこともないような独特の意匠が満載です。








1階の和室の床には、複雑な三角形をした床脇。






2階の茶室には、3本の奇木が床の間を飾り立てています。






柱や床框には龍の彫り物を施すなど、とにかく驚きの連続です。

2階の8畳間に現れるのは、龍の彫り物の巨大な2本の床柱。






柱や長押、天井に至るまで、全て漆塗りの唐風になっています。

ありとあらゆる銘木・奇木や漆を多用した旧吉田家住宅。











福島県の経済をリードした三春商人の明治後期における経済・文化の交流を考察しながら、粋な遊び心を垣間見ることが出来ます。







外観の蔵と内部が別々の構造を成しています。

蔵を先に在って(曳家をして移動した形跡有)、内部を一階部分から創り上げていく・・・






大工、左官、建具屋、漆塗師、そして、建主である誠次郎氏の見識と情熱が作り上げた豪華絢爛な遊び心がいっぱい詰まった建物です。







文化伝承館(国登録有形文化財旧吉田家住宅)について







明治中期、三春商人吉田誠次郎氏は、生糸商として横浜や東京の問屋を通じて海外貿易、さらには金融業、骨董商としても外国人向けに錦絵、書画、骨董の売買なども行い、一代で財を築きました。

明治28年(1895)、紫雲寺の参道脇に自宅を建てました。





敷地300坪に2階建ての主屋と蔵座敷「紫雲閣」がそれです。






三春の商人の蔵は城下町だけあってちょっと独特な配置があります。

商人の力量である「財産」を自慢するように表通りに面して建てるのでではなく、武士に遠慮して店舗屋敷の裏手に建てていましたが明治になってもそれは変わりありません。







この「紫雲閣」のその通りで裏通りにある自宅の一番奥まった場所に建ててあります。

また、その外観は普通の蔵ですが、内部には今でも最高級の材料を惜しげもなく使って、装飾や部材等々目を奪わんばかりの贅を尽くした造りとなっています。







当館は、令和2(2020)年に、国登録有形文化財に登録されました。











三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:00 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |
腹切梅伝説 ~ 御家騒動




腹切梅伝説 御家騒動


三春城下大町の紫雲寺、山内に入ると右手に梅の古木があって「腹切梅」と刻んだ小さな石碑がある。

あれは、大正十五年(昭和元年)に、河野広中磐州翁の碑を建てた時、「腹切梅」の主人公滋野多兵衛の供養のために建てたものです。..

今から350年程前の正徳5年6月、三春藩秋田氏3代の藩主輝季が逝去します。
跡取りである幼君はわずかに5才。

世嗣について客分家老荒木玄蕃(3代藩主輝季妹の夫)は、これをしりぞけて自分の子を入れたい野望を抱き、藩士達に連判を強要した。
それにしても幼君が邪魔なので、その毒殺の密計を企て、老女柳瀬と御殿医三宅良庵を抱き込んで、実行の機会をねらっていた.

滋野多兵衛は近習目付役で忠義一徹の侍でした。
荒木の連判には加わらず、幼君の身辺を離れず守護の役を果していた。

同年12月3日早朝、多兵衛が出仕すると、良庵と柳瀬が幼君に食膳をすすめていた。
怪しいとにらんだがどうしようも出来ません。
そこで滋野はとっさに自分のはいていた草履を食膳めがけて投げつけた。

その無礼で、滋野はその場に取り押えられ,重役詮議の上、切腹を申渡されます。

翌日、滋野はその菩提寺境内に設えられた切腹の座に据えられたが、

「何か望みがあるなら」という役人に対し、「乳母に会いたい」と答え、望は内密に聞き届けられた。

多兵衛が平沢田端の農家を訪れた時、乳母は噂で滋野のお仕置(切腹)きを聞き、仏前に供えようと、団子を作っている処だった。
思いも寄らぬ生きての対面に、涙ながらに団子を振舞います。

多兵衛は従客として馳走になり、別れを告げ·紫雲寺裏山の尾根伝えに、切腹の場所に戻った。
その時、乱母が飼い馴らした赤猫が、多兵衝にまつわりつきながらついて来た。

滋野は、処刑検視の役人を前にある城の方を睨み「この恨みは必ず果たしてやる!」と叫び、作法に従って左腹深く短刀をつきさして相果てた。

見守っていた赤猫が飛び出して着て、飛び散った滋野の血をすすって何処にか姿をくらまします。そして傍の白梅は、その翌年から、赤い花に変って咲くようになったという。






腹切梅後日談 「化け猫騒動」

腹切り梅の主人公滋唦兵衛の切腹処刑後、客分家老の荒木内匠は、自分の子である旗本秋田氏に養子に入っていた頼季を家督として幕府に届け藩内にも布告します。

その頃から、御城と家老荒木の屋敷に怪事が頻発するようになりました。

滋野多兵衛の亡霊と怪しい猫が家老や4代藩主頼季公(家老の実子)の夢枕に“猫の怨霊”が現れるようになったと云う、また、御殿や荒木屋敷など処々に同様の“猫の怨霊”が現われるのというもので、御殿出仕の侍達は極度の恐怖に陥っていました。

以来、この荒木屋敷では特に変事が続き、下僕・仲間(ちゅうげん)達や女中たちも相次いで宿下がり(離職)を乞い、長つづきする者がなかった。

奇怪な噂は尾ヒレをつけてひろがり、町内の者もふるえあがっていた。

慌てた城方では、3石7斗の供養料を紫賢寺に寄進し滋野多兵衛の亡霊を鎮めよう としたが一向きめがなく、御殿と荒木屋敷の怪事は納らなかった。

権力をほしいままにして剛腕でならした家老荒木内匠も居た堪れなくなり、南町の御城坂下の屋敷を捨てて、貝山地内·山崎の下屋敷を改築し、浪人者を雇い、番犬数匹を飼い警備を固めていた,

.
ところが、 天明5年 といますから今から約250年ほど前の2月23日早期、御厩(おんまや・現西山医院付近)から火が出て、見る間に焼けひろがり城下町内を民家伝えに家中侍屋敷を総なめに役払っていきます。

火は衰えることなくお城坂にある荒木屋敷、そして御城までも焼き尽し清水に飛び火して御典医良庵(幼君に毒を盛った医者)まで類焼し、三春城下未曾有の大火となった。






家老荒木氏の孫にあたる藩主千季は、馬に乗り単身新町にある祈願寺の真照寺に避雉して辛うじて難を免かれた。
この火事でも滋野の飼い猫が化け猫となり火を導いたのだと、専らの噂だった。

真照寺に伝わる伝説は、天明五年二月、八幡町より火の手が上がります。
すると火達磨となった猫の怨霊が天を駆け廻り、中町から荒町、そして、高乾院の家老の墓所を焼払い、北町を駆け上がり焼き尽くし、三春城(舞鶴城)の御三階や御殿を焼き払ってしまいます。
その後も火の勢いは衰えず、大町から南町へ炎が城下町を飲み込んでいきます。





亀井の黒門(現田村消防署三春分署)に消火の陣頭指揮に出向いた、藩主千季公(家老の孫)は、火勢を避けるために、真照寺へ向かいますが、それを追うかの如く炎は、勢いを増し南町から山中、そして新町をも紅蓮の炎に包んでいきます。

千季公を、真照寺住職が門前(当三春昭進堂前)まで迎えに出たところ、千季公の背後に“猫の怨霊”が見えたので、袈裟の袂で千季公を隠すようにして寺へ導きます。
すると、猫の怨霊が千季公を見失ったのでしょう、三春城下を焼き尽くした火災は、その場所でようやく鎮火したと伝えられています。

この大火後も、祟りの様に度々大火や大雪そして大雨に災害に襲われます。
また、五代治季公、六代定季公と二代続けてと早死にしたこともあり、猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた千季公は真照寺へ、弘法大師・興教大師像の中に滋野多兵衛の位牌を納めて奉納し、その怨霊を鎮めたといいます。






以来三春城下での大火の度に、火達磨が如く炎に包まれた“猫の怨霊”が空を駆け廻り、火をつけて回った話が生まれ、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

以来、三春では猫の芝居を敬遠しつづけて来たと伝えられています。

因みに、滋野多兵衛の墓は紫雲寺に現存していますが、この墓は、滋野の若党だづた北町の万屋(よろずや)德右衛門が、安永9年6月旧主の供養を営み石碑を建てたのである。

戒名·光照院摂誉浄取居士。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |
KFB福島放送 ふくしまSUPERらーめん道 本日12月7日(水)シェア第二部午後6:15分~








KFB福島放送 ふくしまSUPERらーめん道

「シェア」水曜は“らーめん道” 18時台!

三春の県民リポーターとして坂寄アナウンサーと共に三春城下大町の三條屋食堂をご紹介いたします~



あのラーメンも外せません!





放送は、本日12月7日(水)シェア第二部午後6:15分~

らーめん道も20年超を迎え7日放送の三春編が999回目の放送です。


お楽しみに!







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:00 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |
平成版今昔物語「百杯宴之碑 その2」



百杯宴之碑 その2

三春城下大町、不動山北側の桜川沿いに「百杯宴」と刻まれた安積艮斎の碑文があります。

この百杯宴之碑は、江戸時代末期の安政四年七月に建てられたと記されています。

“三春の異色ある文人に“と風変わりな紹介がされていた川前紫渓という風流人がありました。

詩文を楽しみ、酒と竹を愛したという儒学者です。

四方の友人が訪ねて来る時には、書画や杯を土産に持参したといいます。


紫渓は、その杯を貯めてついに百個を数えるに至ります。







それが安政四年で、紫渓の42歳の時でした。

男の42歳は、厄年とされていましたのでその厄払いの意味もあったとも思われますが、百杯を記念して、“百盃桜”と号して、桜花の咲く4月5日、不動堂の前に雅宴を張り、故知友人を招いたとされます。







当日は、記録係や酒係をおき、100個の盃を並べ、客は車座になって、盃を一つずつ順次飲み干す仕組みでした。

一杯ずつでも、盃が百です。中には、大きな杯もあったでしょう。

10杯目で酔う者、30杯で歌い舞う者、60杯で揮毫する者、100杯でやっと酔い始める酒豪の者とさまざま、主客相忘れて談笑しあったと記録されています。

こうした雅な宴を、紫渓が艮斎に頼んで顔てもらったのがあの碑文です。


三春にある碑文の中で、一風変わった面白いもののひとつですね。








安積艮斎は、安積国造神社の神官の子として生まれた、江戸時代後期の儒学者です。

二本松藩儒官を経て、幕府昌平黌の儒官となりました。

門人には、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作など 2,282名。

ペリー(米)及び露プーチャン持参の国書を翻訳し、通商条約に貢献しました。






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| ryuichi | 04:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
河野広中の遺髪を納めた瘞髪冢(えいはつちょう)





「磐州通り」由来


城下大町にある浄土宗の寺院 紫雲寺

天正15年(1587)に建立された浄土宗の寺院です。




自由民権運動家として有名な河野広中の遺髪を納めた瘞髪冢(えいはつちょう)があります。

また、境内には、江戸時代のお家騒動伝説にかかわる「腹切り梅」、戊辰戦争における政府軍戦死者の墓があります。





河野廣中
嘉永(かえい)2 (1849) 年に三春藩郷士の家に生まれ、自由民権運動を引率して明治、大正時代に政治家として活躍しました。

明治7年、国会開設をもとめた自由民権運動では、指導者として活躍して「西の板垣(土佐板垣退助)、東の河野」と評されています。





 明治14年に、福島県会議員に当選し、32歳という若さで議長になりました。

明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、それ以来大正7年の第14回総選挙まで続けて当選しました。

その間、明治36年には衆議院議長を、大正4年から5年にかけては第二次大隈内閣の農商務大臣をつとめました。










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| ryuichi | 04:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |
三春城下 「磐州通り」





そして、城下大町から荒町に抜ける石畳の小路「磐州通り」

時代劇のロケにピッタリな風景が広がっています。



風致地区に指定された紫雲寺山の緑や城下町時代を偲ぶ王子神社、三春町文化伝承館、紫雲寺の付近にあり、城下町を一番感じる場所です。







「磐州通り」と呼ばれのは、この通り名は紫雲寺に自由民権運動家の河野広中の遺髪を埋めた「磐州河野先生瘞髪冢(ばんしゅうこうのせんせいえいはつちょう)」にちなんでいます。






通りには、「加波山事件自由の魁の碑」もあり、自由民権運動の歴史を後世に伝えています。



昭和58年に策定されたHOPE計画。


この計画を起点として、三春町景観条例の制定(「市街地景観整備等特別地区」として指定)、まちづくり協定が締結されました。


行政と町民が一緒に考えた街づくりです。


城下町時代の雰囲気(短冊型敷地、蔵並等)や豊かな緑を活かした「歴史公園都市」としてのうるおいのある街なみ空間を創造しました。





 商店が面する表通りと、住宅や蔵が面する裏道(通路)を整備し、これに小公園等を有機的にむすびつけて回遊性を図っています。



 地元民が参加する「磐州通り街づくり協定運営委員会」が、街路灯の電気料、小公園の水飲み場の水道料の負担をはじめ、樹木の剪定、除草、日常の清掃活動等を行っています。










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |
三春城下大町「むらかみ亭」KFB福島superラーメン道



先のKFB福島superラーメン道 三春城下大町「むらかみ亭」が番組公式YouTubeにアップされていました。


当店もちゃっかり紹介していただきました。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 14:00 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |