2024-07-26 Fri
城下荒町鎮守 「八雲神社 夏季祭礼」
荒獅子奉納
7月26日(金)午前10時より
「荒獅子」は、戦国時代の田村氏、江戸初期の松下氏、そして、江戸期秋田藩政下でも三春五万石六十六郷領内総鎮守大元帥明王夏季例大祭にて露払いとして奉納されていた獅子舞です。
城下町として栄えていた三春城下に疫病が侵入するのを防御の祈願のため、天王様(牛頭天王)と荒獅子が、疫病を鎮めるために、町中を練り歩くようになったのが、始まりとされています。
明治維新後の廃仏毀釈等にて神仏離反、廃藩置県から大元帥明王も田村大元神社となり、長獅子も荒町末黒門外の八雲神社(維新前は牛頭天王社)の祭礼に奉納されるようになりました。
また、この八雲神社夏季祭礼だけは曜日に関係なく、7月26日という日にちに固定されています。
当初は、小山村(後の御祭村)の青年達が長獅子を奉納していました。
叉、獅子頭は、小山村(御祭村)の名工によって作られその地名を獅子造りと呼ばれています。
荒獅子は、秋田藩政期には領内総鎮守大元帥明王に露払い(悪魔祓い)として奉納されていた三春独特の獅子舞で、三春に在る長獅子の中では一番歴史が古く、田村大元神社や八幡神社の長獅子はこれを明治期に伝授されたものと伝えられてます。
明治維新後の神仏離反、そして廃仏毀釈をうけた明治初期、大元帥明王社は、大志田神社を経て現田村大元神社に改宗改名した際に時の総代といざこざになり、以後荒町の八雲神社だけの奉納となりました。
牛頭天王は、現八雲神社の祭神で、疾病を防ぐ神であり、神道におけるスサノオ神と同体とされています。
医療技術が乏しい時代に、疾病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、かなり大きかったと思われます。
牛頭天王は、単に「天王様」と呼ばれました。
また、荒獅子は一般に、悪魔祓い・疫病退散の役割を担うことが多いが、これが牛頭天王と同一視され、三春の祭礼においては、単に獅子舞ではなく、威勢のよい「荒獅子」になったのかも知れません。
人が死ぬと、「魂が霊となる」との考えは、世界共通の考えで、日本でも縄文時代から信じられていたと、言われています。
奈良時代には、厄災(天変地異や疫病等の災い)は不業の死を遂げた人達の、怨霊のなせる業と考えられる様になり、こうした霊を、丁重に祀り慰める事で、「怨霊」が「御霊」となり
「鎮護の神」となって、平穏をもたらすとする「御霊信仰」が起り、怨霊を慰める儀式 「御霊会」 が行われる様になります。
この「御霊信仰」を背景に、疫病神である 「牛頭天王」を、お祀りし疫病退散を願ったのが 「祇園会」 (ギオンエ) であり、祇園牛頭信仰 のおこりだと考えられています。
八雲神社の夏季例大祭の荒獅子奉納は、この半年の罪のけがれを祓い、夏以降の疫病除けを祈願する行事「夏越祓」(なごしのはらえ)の日役割もあるかと思います。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2024-04-13 Sat
「小さな城下町三春」に春の訪れを告げる、八幡神社の参道に祭堤燈が並び始め、桜の開花が気になる季節になりました。旧三春秋田藩五万石の城下町、三春の入り口にある八幡神社(明治初期の神仏離反により、村社格にて旧八幡大菩薩宮を改名)の縁起は、「田村郡神社明細」によれば、戦国期の天文年間に京都岩清水八幡宮よりの勧請(分霊)したとあります。
また「田村郡郷土史」には永正元年三春田村氏の初代田村義顕が居城を守山(現郡山市)より三春に移した際に、田村家祖先以来尊信してきた八幡大菩薩と大元帥明王を三春に移し、ともに三春城の大志田山の一郭(現田村大元神社境内)に勧請(分霊)したと記されてあり、現在も田村大元神社の境内には八幡神社の末社が熊野神社の末社と供に本殿の左右に祀られてあります。
後に江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。
八幡様は、本源を九州の宇佐八幡といわれます。
この宇佐八幡という人(?)は、奈良時代に奈良東大寺造営など大和朝廷の国家建設に埒腕を発揮して、朝廷より大菩薩号を贈られ王城鎮護の神として崇められました。
後に征夷大将軍となる源義家が、宇佐八幡大菩薩の生まれ変わり八幡太郎と称したこともあり、甲州武田信玄をはじめ代々清和源氏系の氏神として崇められ、戦国時代の武家政権の発達とともに、武人的性格の中で武家に篤く信仰されるようになりましたが、三春藩主安倍姓安東秋田氏は、その祖先安倍安東一族が「前九年の役」「後三年の役」で大和朝廷と源八幡太郎義家に敗れたと言う歴史があるためか、三春藩秋田氏からは冷遇されて、三春城下の境を示す黒門(現在も黒門遺構として桜川沿いに古い石垣が僅かに残っています)の外に移転されたと言われます。
境内には一対の苔むした石灯篭がありますが、これはその昔山賊に襲われた下総結城の商人が、八幡様のご加護により助けられ、そのお礼に寄進した話は有名です。
春の祭礼は、4月の第三日曜日に行われます、神輿還御は、満開の夜桜並木と祭堤燈のかもし出す幽玄な雰囲気の中で、神輿還御の先祓いとなる八幡町若連の勇壮な「長獅子」が供奉奉納され、三春の春を彩ります。
蒼龍謹白 合掌
塵壺平成15年4月号より
2024-04-04 Thu
法蔵寺本堂にて三春町の桜を中心とした桜の写真展を開催いたします
三春町在住の渡辺勝さんの夕暮れから朝方にかけての桜の写真を展示します
普段はなかなか見ることのできない幻想的な桜の光景が大迫力の大きなサイズのプリントに収められております
ぜひご覧にお越しくださいませ
■「桜夜景時間」法蔵寺 春の展覧会
会期:2024年3月23日(土) ~ 4月28日(日)
時間:10時~16時
会場:法蔵寺 本堂
日没から日の出までの桜のある風景を撮影
A0サイズとA1サイズの展示となります
※入場無料
※本堂にて法要中はご観覧いただけない場合がございますので予めご了承ください
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2024-01-02 Tue
塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下
「令和6年能登半島地震」により被災された皆様のご無事と被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。
この地震の影響で、輪島市門前町にある曹洞宗の諸嶽山總持寺祖院でも、国の登録有形文化財に指定された建物が全壊するなど大きな被害を受けました。
總持寺祖院は、かつての曹洞宗の大本山「總持寺」で、明治31年に発生した火災の災禍により七堂伽藍の大部分を焼失。
これを機に、本山として神奈川県横浜市鶴見へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなっています。
元亨元年(1321年)、本年700回大遠忌を迎える開山太祖、瑩山紹瑾禅師によって開創され翌年には禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
瑩山禅師の跡を次いだ総持寺第2世・峨山韶碩(がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が参禅し、彼らが曹洞禅を全国的に広めたことによって更に門下が増えていきました。
そこで、曹洞宗開祖道元禅師の教えの「相承」と優秀な僧を育むために、峨山禅師の死後の「輪番住職制」で運営されるようになります。
もう一方の大本山永平寺は独住制です。
この輪番住職とは、全国末寺の「五院輪番地」(江戸中期記載17,361寺)から1〜3年おきに輪番住職として總持寺の住職を「五院(塔頭庵主も輪番)」と呼ばれる5つの塔頭寺院(普蔵院107ヶ寺、妙高庵86ヶ寺、洞川庵51ヶ寺、伝法庵49ヶ寺、如意庵58ヶ寺)から各塔頭から1名、計5名が選ばれて75日交代で住職を勤めました。
元和元年、徳川幕府より法度が出されて永平寺と並んで大本山となります。明治維新後の諸嶽奕堂(もろたけ えきどう)大和尚以降は輪住を取りやめ独住制となりますが、貞治3年から明治3年まで約500年間、実に5万人近い僧侶が本山住職を勤めました。
輪番住職の交替期(10月2日)には、上番下番の僧呂や寺院関係者1,000人以上も集まり、短期に住職が変わることで、全国の輪住地寺院から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。
三春城下からは普蔵院輪番地として清水にある曹洞宗録所萬年山天澤寺。そして、三春藩主に秋田氏が入城以降の「僧録(国僧録)」論争とは別に、藩主菩提寺の曹洞宗録所秋田山龍穏院も宍戸以来、總持寺直末三十六門、洞川庵輪番地となっています。
「能州大本山總持寺輪住心得并一回中手控」安政4年(天澤寺蔵)によれば、天澤寺の属する普蔵院末寺の場合は約50年毎、龍穏院は本山末寺三十六門及び洞川庵末寺数により、数年毎に輪番住職に赴任していました。
その際に赴く和尚は、供回りとして伴僧3名、従者1名を含めた滞在・往来費用は、年代にもよりますが180両は必要との記録が残り在勤中の諸経費はすべて自前だったといいますから事前の貯蓄が必要で天澤寺の記録には10年前から蓄えたと記されています。
また、その蓄えにしても末寺数の多さや藩主や大商人など強大な庇護のある有力寺院の僧侶しか本山の住職は務めることができなかったと思われます。
当家の菩提寺である天澤寺歴代住職の位牌堂を見ますと、御位牌には、「前總持 當寺廿一世 悅巖快禅大和尚禅師」または「前永平兼總寧 當寺 随意會中 霊海崐山大和尚禅師」と記されたお位牌を目にすることができます。
この「前總持」とは、悅巖快禅大和尚が總持寺の輪番前住、又は当住が總持寺に赴いた場合の資格を示し、そして、「前永平兼總寧」は、霊海崩山大和尚が永平寺に赴いた際の資格ないし待遇を示したものだと考えられます。
「随意會中」とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)「三法幢地(常恒会地、片法幢地、随意会地)」の一つで、3年ごとに1回、参加者七十人以上にて結制安吾を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられ「今の世にいふ認可僧堂と同義である」と『總持寺史』では解説しています。
蒼龍謹白 がんばれ能登! 拝
秋田山龍穏院 歴代住職 洞川庵輪番住職誌 總持寺住山記
開山 月泉良印大和尚応永七年二月二十四日夜
第二世 無等良雄大和尚 応永三十五年十月十日寂
第三世 龍谷良清大和尚 永亨十二年七月十三日寂
第四世 圓鑑良昭大和尚 康正元年五月十二日寂
第五世 機外良玄大和尚 文明五年三月十九日寂
第六世 鑑能吞昭大和尚 永正三年正月十八日寂
第七世 雲峰良集大和尚 永正十七年十月二十七日家
第八世 察心守鑑大和尚 天文十五年二日五日寂
第九世 草庵守瑞大和尚 永禄九年二月二十五日寂
第十世 光室源瑞大和尚 天正十七年七月八日寂
第十一世 天室宗龍大和尚 慶長十一年九月五日寂
第十二世 舜庵大堯大和尚 元和六年八月四日寂
第十三世 宏菴源奕大和尚 元和六年四月二十九日寂
第十四世 關室雲察大和尚 寛永十五年十二月十六日寂
第十五世 正眼雲祝大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛文七年二月十二日寂
第十六世 本祝松秀大和尚
第十七世 月宮慧閑大和尚 大本山総持寺輪番住職
(宍戸より三春へ) 元禄六年十月二十三日寂
第十八世 鑑室良亀大和尚 貞享五年三月二十三日寂
第十九世 麟元雲祥大和尚 大本山総持寺輪番住職 正徳四年正月二十五日寂
第二十世 高山本立大和尚 大本山総持寺輪番住職 享保十七年四月十九日寂
第二十一世 大重本孝大和尚 寛延元年十月二十七日寂
第二十二世 海翁祖印大和尚 不詳
第二十三世 泰山活玄大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛延四年正月二十日寂
月泉派 再公文龍穏院
一萬九千二百六十八世活玄和 元文二丁巳年八月十二日
受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師良悟和尚
第二十四世 亮廓普宗大和尚 大本山総持寺輪番住職 明和六年十月十九日寂
月泉派再公文
弐萬参千九百壱拾九世亮廓和尚 宝暦八戊寅年八月七日
受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師鐵崖和尚
第二十五世 萬巖普白大和尚 天明六年十一月二十四日寂
第二十六世 萬元一如大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛政元年六月十九日寂
月泉派再公文 弐萬八千九百世 萬元和尚
受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師亮廓和尚
第二十七世 九苞丹山大和尚 文化九年十一月十八日寂
第二十八世 本然量義大和尚 大本山総持寺輪番住職 天保九年七月二十五日寂
第二十九世 祥鳳忍瑞大和海 天保泗年十月十五日寂
第三十世 佛國泰然大和尚 大本山総持寺輪番住職 嘉永六年五月二十一日寂
無端派海蔵寺 四萬七百三十九世 泰然和尚 天保十四年三月十六日
授業師徳運和尚 嗣法師同
第三十一世 耕真禾山大和尚 安政五年人月二十一日寂
第三十二世 至仙卍定大和尚 明治九年入月十六日寂
第三十三世 微岩一筋大和尚 明治三十六年正月二十二日寂
第三十四世 大英大和尚 不 群
第三十五世 大機謙道大和尚 昭和四年三月二十一日寂
第三十六世 大心弘道大和尚 昭和三年八月二十六日寂
三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧
開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日
廿一世 悦岩海信大和尚 悅岩快禅大和尚(位牌)
儀岩行信和尚(四家氏家系図)宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2023-11-25 Sat
先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。
コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。
三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。
正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。
謎が深まるばかりです・・・・
秋田愛季に綸旨 【天正十二年(1584)六月、秋田愛季に、羽賀寺再興の綸旨】
門主傳二十四 (華頂要略十三所収)
龍池院二品法親王 諱尊朝 (十一年)九月十二日、若狭國羽賀寺之事、被遺御書於渡邊宮内少輔。十月廿三日、羽賀寺之事相整。珍重々々。十二月七日、羽賀寺之八木今日参著云々。(十二年正月)同廿九日、若洲羽賀寺為年禮両種二荷進上。六月十日、若洲羽賀寺之事、賜綸旨。
若洲羽賀寺之事、霊亀巳来勅願無雙之精舎歴然候哉。然處近國依錯乱、本堂以下破壊顛倒之由、被聞召候。尤被歎思食候訖。然則叡慮之趣、早被任其由緒、十三湊(秋田愛季)被告申。一寺之再造、以権勢之助成、可致其勵之旨、被加下知者可為神妙候。併為國祈、且御門葉之潤色可有此時之旨、天氣所候也。此由可令洩申青蓮院宮給候也。仍執達如件。
天正十二年六月十日 左中将判(中山慶親)
内大臣僧正御房
内大臣僧正御房 左中将慶親
※参考文献:浪岡町史第一巻史料
○秋田愛季に対して「十三湊」と呼びかけていることは注目される。愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季の子実季により成し遂げられた。
塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季(愛季)、実季木造座像」令和5年8月発行
福井若狭湾に面する小浜市。
その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。
本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.
その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。
「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。
羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。
平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。
また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。
鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。
応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。
応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。
この時分は、盛季死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。
この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。
羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。
安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。
三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。
安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が盛季(父・愛季?)の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。
安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。
また本堂前の梵鐘は、実季の嫡男で三春藩主俊季が寄進されています。
羽賀寺梵鐘 秋田俊季公寄進
梵鐘名
若州遠敷郡本浄山羽賀寺者奥州十三湊
安倍康季公再興之地也依是臻
秋田城介實季公八代胤皆其善志然
先師真通雖浦牟百支損日久而不聞
微妙之声兮也九代之檀越秋田河内守
俊季公之以信心心洪鐘令成就有采庶幾
所者檀越貴福寿域千秋牟
銘日
金輪聖皇 地久天長
国家安泰 寺院繁昌
一聞必満 二世願望
洪鐘得益 功徳無量
正保三丙戊年八月吉日
伝燈阿闍梨権大僧都印良秀敬白
大工江州辻村住田中忠兵衛藤原正次
各種資料によれば、実季と俊季の親子仲は大変悪く、戦国武将の気風を残す實季の行跡を俊季以下家臣団が否定し、その行為に實季が憤慨するという資料も多数残っています。
この羽賀寺も例外ではなく三春藩として寄進額を大幅に減らし、それを知った実季が憤る当時の住職に宛てた書状が現存しています。
これは、伊勢朝熊の永松寺も一緒です。
こちらは、山内にある實季の実弟 安東玄蕃亮英季の宝篋印塔です。
大坂の陣では兄實季と共に出陣していますが、その後は小浜藩の家老職となっています。
再建当時、常陸宍戸藩主であった実季が羽賀寺修復に当たって信頼できる弟、英季を伽藍造営修復の管理の為に派遣・常駐させたという文献ものこります。
落慶以降も宍戸、しして、三春へ転封した安東秋田氏の繋がり残りますので、そのまま小浜藩に出仕して両藩や洛内はもちろん畿内との調整役を担っていたのかもしれません。
尚、羽賀寺山内には秋田実季の供養塔もあります。
もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。
三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。
以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。
先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。
さらにもう一つ。
時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。
平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。
征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。
阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で
処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。
「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。
蒼龍謹白 来てみねぇげ、田村! 拝
小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺
〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5
若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分
小浜駅よりタクシーで10分
拝観時間 9時~16時
○拝観料
ひとり 400円
団 体 360円(20人から)
330円(50人から)
○北陸三十三観音霊場》 五番
○北陸不動尊霊場》 三十六番
○若狭観音霊場》 十二番
○宝の道七福神霊場》
○数珠巡礼の会》
もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。
三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。
以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。
先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。
さらにもう一つ。
時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。
平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。
征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。
阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で
処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。
「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。
蒼龍謹白 来てみねぇげ、田村! 拝
小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺
〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5
若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分
小浜駅よりタクシーで10分
拝観時間 9時~16時
○拝観料
ひとり 400円
団 体 360円(20人から)
330円(50人から)
○北陸三十三観音霊場》 五番
○北陸不動尊霊場》 三十六番
○若狭観音霊場》 十二番
○宝の道七福神霊場》
○数珠巡礼の会》
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::安日山高乾院 |
2023-03-03 Fri
令和5年 「初不動尊祭礼」 三春城下 郡守山法蔵寺 「不動講中」
毎年2月28日に初不動尊祭礼を厳修しております。
家内安全、健康祈願、商売繁盛、学業成就、厄除招福などを祈願します。
本年も、新型コロナウイルス蔓延防止の対応として住職のみにて法要を実施しました。
御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::郡守山法蔵寺 |
2023-01-07 Sat
三春城下荒町 時宗 法蔵寺様よりご年始をいただきました。
「今日一日が笑顔でいられますように」と揮毫された、住職さまが所属している時宗青年会の令和五年度のカレンダーです。
正に、この世に生きている中で、この一言に勝るものはないと思います。
明日もみんなで笑顔になれますように!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::郡守山法蔵寺 |
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