2024-01-02 Tue
塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下
「令和6年能登半島地震」により被災された皆様のご無事と被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。
この地震の影響で、輪島市門前町にある曹洞宗の諸嶽山總持寺祖院でも、国の登録有形文化財に指定された建物が全壊するなど大きな被害を受けました。
總持寺祖院は、かつての曹洞宗の大本山「總持寺」で、明治31年に発生した火災の災禍により七堂伽藍の大部分を焼失。
これを機に、本山として神奈川県横浜市鶴見へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなっています。
元亨元年(1321年)、本年700回大遠忌を迎える開山太祖、瑩山紹瑾禅師によって開創され翌年には禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
瑩山禅師の跡を次いだ総持寺第2世・峨山韶碩(がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が参禅し、彼らが曹洞禅を全国的に広めたことによって更に門下が増えていきました。
そこで、曹洞宗開祖道元禅師の教えの「相承」と優秀な僧を育むために、峨山禅師の死後の「輪番住職制」で運営されるようになります。
もう一方の大本山永平寺は独住制です。
この輪番住職とは、全国末寺の「五院輪番地」(江戸中期記載17,361寺)から1〜3年おきに輪番住職として總持寺の住職を「五院(塔頭庵主も輪番)」と呼ばれる5つの塔頭寺院(普蔵院107ヶ寺、妙高庵86ヶ寺、洞川庵51ヶ寺、伝法庵49ヶ寺、如意庵58ヶ寺)から各塔頭から1名、計5名が選ばれて75日交代で住職を勤めました。
元和元年、徳川幕府より法度が出されて永平寺と並んで大本山となります。明治維新後の諸嶽奕堂(もろたけ えきどう)大和尚以降は輪住を取りやめ独住制となりますが、貞治3年から明治3年まで約500年間、実に5万人近い僧侶が本山住職を勤めました。
輪番住職の交替期(10月2日)には、上番下番の僧呂や寺院関係者1,000人以上も集まり、短期に住職が変わることで、全国の輪住地寺院から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。
三春城下からは普蔵院輪番地として清水にある曹洞宗録所萬年山天澤寺。そして、三春藩主に秋田氏が入城以降の「僧録(国僧録)」論争とは別に、藩主菩提寺の曹洞宗録所秋田山龍穏院も宍戸以来、總持寺直末三十六門、洞川庵輪番地となっています。
「能州大本山總持寺輪住心得并一回中手控」安政4年(天澤寺蔵)によれば、天澤寺の属する普蔵院末寺の場合は約50年毎、龍穏院は本山末寺三十六門及び洞川庵末寺数により、数年毎に輪番住職に赴任していました。
その際に赴く和尚は、供回りとして伴僧3名、従者1名を含めた滞在・往来費用は、年代にもよりますが180両は必要との記録が残り在勤中の諸経費はすべて自前だったといいますから事前の貯蓄が必要で天澤寺の記録には10年前から蓄えたと記されています。
また、その蓄えにしても末寺数の多さや藩主や大商人など強大な庇護のある有力寺院の僧侶しか本山の住職は務めることができなかったと思われます。
当家の菩提寺である天澤寺歴代住職の位牌堂を見ますと、御位牌には、「前總持 當寺廿一世 悅巖快禅大和尚禅師」または「前永平兼總寧 當寺 随意會中 霊海崐山大和尚禅師」と記されたお位牌を目にすることができます。
この「前總持」とは、悅巖快禅大和尚が總持寺の輪番前住、又は当住が總持寺に赴いた場合の資格を示し、そして、「前永平兼總寧」は、霊海崩山大和尚が永平寺に赴いた際の資格ないし待遇を示したものだと考えられます。
「随意會中」とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)「三法幢地(常恒会地、片法幢地、随意会地)」の一つで、3年ごとに1回、参加者七十人以上にて結制安吾を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられ「今の世にいふ認可僧堂と同義である」と『總持寺史』では解説しています。
蒼龍謹白 がんばれ能登! 拝
秋田山龍穏院 歴代住職 洞川庵輪番住職誌 總持寺住山記
開山 月泉良印大和尚応永七年二月二十四日夜
第二世 無等良雄大和尚 応永三十五年十月十日寂
第三世 龍谷良清大和尚 永亨十二年七月十三日寂
第四世 圓鑑良昭大和尚 康正元年五月十二日寂
第五世 機外良玄大和尚 文明五年三月十九日寂
第六世 鑑能吞昭大和尚 永正三年正月十八日寂
第七世 雲峰良集大和尚 永正十七年十月二十七日家
第八世 察心守鑑大和尚 天文十五年二日五日寂
第九世 草庵守瑞大和尚 永禄九年二月二十五日寂
第十世 光室源瑞大和尚 天正十七年七月八日寂
第十一世 天室宗龍大和尚 慶長十一年九月五日寂
第十二世 舜庵大堯大和尚 元和六年八月四日寂
第十三世 宏菴源奕大和尚 元和六年四月二十九日寂
第十四世 關室雲察大和尚 寛永十五年十二月十六日寂
第十五世 正眼雲祝大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛文七年二月十二日寂
第十六世 本祝松秀大和尚
第十七世 月宮慧閑大和尚 大本山総持寺輪番住職
(宍戸より三春へ) 元禄六年十月二十三日寂
第十八世 鑑室良亀大和尚 貞享五年三月二十三日寂
第十九世 麟元雲祥大和尚 大本山総持寺輪番住職 正徳四年正月二十五日寂
第二十世 高山本立大和尚 大本山総持寺輪番住職 享保十七年四月十九日寂
第二十一世 大重本孝大和尚 寛延元年十月二十七日寂
第二十二世 海翁祖印大和尚 不詳
第二十三世 泰山活玄大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛延四年正月二十日寂
月泉派 再公文龍穏院
一萬九千二百六十八世活玄和 元文二丁巳年八月十二日
受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師良悟和尚
第二十四世 亮廓普宗大和尚 大本山総持寺輪番住職 明和六年十月十九日寂
月泉派再公文
弐萬参千九百壱拾九世亮廓和尚 宝暦八戊寅年八月七日
受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師鐵崖和尚
第二十五世 萬巖普白大和尚 天明六年十一月二十四日寂
第二十六世 萬元一如大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛政元年六月十九日寂
月泉派再公文 弐萬八千九百世 萬元和尚
受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師亮廓和尚
第二十七世 九苞丹山大和尚 文化九年十一月十八日寂
第二十八世 本然量義大和尚 大本山総持寺輪番住職 天保九年七月二十五日寂
第二十九世 祥鳳忍瑞大和海 天保泗年十月十五日寂
第三十世 佛國泰然大和尚 大本山総持寺輪番住職 嘉永六年五月二十一日寂
無端派海蔵寺 四萬七百三十九世 泰然和尚 天保十四年三月十六日
授業師徳運和尚 嗣法師同
第三十一世 耕真禾山大和尚 安政五年人月二十一日寂
第三十二世 至仙卍定大和尚 明治九年入月十六日寂
第三十三世 微岩一筋大和尚 明治三十六年正月二十二日寂
第三十四世 大英大和尚 不 群
第三十五世 大機謙道大和尚 昭和四年三月二十一日寂
第三十六世 大心弘道大和尚 昭和三年八月二十六日寂
三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧
開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日
廿一世 悦岩海信大和尚 悅岩快禅大和尚(位牌)
儀岩行信和尚(四家氏家系図)宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2016-12-19 Mon
三春城下冬のライトアップ2016
「三春城下曹洞宗寺院ライトアップ」
三春藩主秋田家藩主菩提寺「秋田山龍穏院」
荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移したと云う禅宗の古刹です。
鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家の菩提寺です。
江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。
幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました。
今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2014-10-10 Fri
秋田山龍穏院境内の金毘羅大権現です。
10月10日が金毘羅さんの日とされています。
これに合わせて金毘羅宮の祭礼を挙行しています。
対面にあるのが、平石から移築された平石不動尊です。
毎年11月の第三日曜日には、この平石不動様の祭典を行っています。
三春昭進堂 髙橋龍一
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2010-12-15 Wed
三春秋田家菩提寺龍穏院の創建開山は、三春城主秋田公に請われた、総持寺25哲の一人とされる二代月泉良印和尚です。
月泉和尚は、秋田家の祖安東氏とはご縁があります。
先の正平四年(1349年)、大館の松原に湊安東家党首安東盛季の菩提寺である秋田最古の曹洞宗禅寺といわれる亀像山補蛇寺を創設しています。
この寺の初期の歴史は明らかでないが、湊安東氏の外護(げご)により栄えたと思われる。曹洞宗大本山総持寺の直末である。
また、「月泉四十四資」といわれる弟子が輩出し、岩手県南部から現在の宮城県、山形県、埼玉県、千葉県などで多数の末寺が開かれ、正法寺が大きく発展していきます。
尚、三春に於いて月泉良印和尚は同じ三春城下曹洞宗天澤寺と僧録所問答を10年繰り広げたことでも知られています。
僧録とは寺院及び禅僧を管理・統括する役職
錦秋の朝日を浴びる城下の山々
三春昭進堂 髙橋龍一
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2009-07-03 Fri
「曹洞宗秋田山龍穏院」
安倍安東の称、生駒秋田家菩提寺
北国三春も梅雨、その蒸し暑さを楽しんでいるかのようです。
そんな夏の喧噪をよそに、涼しげに佇む荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、禅宗の古刹です。
三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移しました。そのときに、宍戸より運んだ、初代藩主の祖父愛季公の墓石があります。
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鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家の菩提寺です。
歴代三春藩主の中で、第8代藩主謐季(やすすえ)候だけが埋葬されています。
安藤氏は、奥州藤原氏の滅亡の後に蝦夷の支配権(東夷成敗権)を掌握した鎌倉幕府から、代官としての地位を与えられ、執権北条氏の津軽や糠部の所領(得宗領)の管理と夷島管理を行い、海運の掌握を背景に北方世界に君臨していた。応永年間に室町幕府を震撼させた北海夷狄の動乱の鎮圧に活躍した功により、宗家の津軽十三湊の下国(しものくに)安藤氏の安藤康季(やすすえ)が、日の本(ひのもと)将軍に任ぜられた。
永享八年(1436年)には、後花園天皇の命を受けて若狭国小浜の羽賀寺を再建しているが、『羽賀寺縁起』にも「奥州十三湊日之本将軍阿倍康季」と記されている。
さて、「日の本」とは、もともとは「日高見」と同様に東の意味で、古代には主に陸奥国の現在の岩手県辺りを指していたが、その後次第に北上し、中世には、国家統治の東の境界の地と認識された外ヶ浜あたりを指した。
15世紀には更に北上し、外ヶ浜と夷島を含んだ地域概念となる。
なお、「将軍」とは本来天皇から任命された追討将軍を意味することから、安藤氏に与えられた「日の本将軍」とは、古代の鎮守府将軍にも比すべき蝦夷征討将軍を意味し、北海道を軍事的に支配する将軍を意味した。
中世後期の物語『さんせう太夫』にも、安寿と厨子王の父が「奥州日の本将軍、岩城の判官正氏」と記されているが、当時日本海を行き交う人々の間で語られた話であり、安寿と厨子王は越後の直江津を中心に丹後から蝦夷島までを舞台としていますが、物語中の日の本将軍とは、安藤氏のイメージだとされている。
下国安藤氏はそれほどの実力者だった。
江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。
平均寿命の短かった江戸期、藩主はじめ領民が生きる支えとして仏教へ帰依し、心の拠り所として信仰を集めました。
幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました。
今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。
ご本尊の釈迦牟如来は、今日まで三春に生きる私たちを導いているようです。
龍穏院には、お彼岸の時だけ掛けられるという、土佐断金隊隊長美正貫一郎の書いた掛け軸があります、私も多少のご縁があり時折足を運んでおりますが、仕事柄彼岸の頃は仕事に追われその掛け軸をまだ見る機会に恵まれておりません。
美正貫一郎という人は、幕末戊辰戦争に於いて会津藩に就くか、薩摩長州土佐を中心とする西軍に就くか、未曾有の混乱の中で三春藩が選択を迫られた時、三春攻め直前に三春藩恭順派を受け入れ、戦塵から三春を救った土佐藩士です。
土佐金隊 美正貫一朗
毎年、春と秋の彼岸の期間中に、龍穏院小書院に掲げられる掛け軸があります。
作者は、戊辰戦争当時、三春を戦火から救った土佐断金隊隊長「美正貫一朗」です。
美正貫一朗は、天保15年(1844)1月~明治元年(1868)7月28日、医師・下村惇斎の次男として生れ、23歳で高知城下南奉公町の徒士格美正家を継いだ。胆力があり機敏な人であったという。明治元年戊辰戦争では迅衝隊一番隊司令として出征した。同年3月2日甲州に入り浪士掛探索役となったが、江戸到着後、甲州の有志を中心として遊撃隊を組織し、断金隊と称してその隊長となり、恩愛よく部下を掌握した。
閏4月21日今市に戦い、各地の探索と宣撫工作を続けて北上し、貫一郎の献身的な周旋によって奥州越列藩同盟の一角であった三春藩の無血開城が実現し、彼の徳を慕う有力者から三春滞留を求められたが実現せず、慶応4年7月27日二本松城攻略のため本宮に向う途中、阿武隈川渡河の際、銃弾に当って戦死した。
2008-12-31 Wed
大晦日、一年最後の締めくくりの日です。北国の小さな城下町三春の、田村大元神社、三春大神宮の元旦祭、
そして八雲神社の七福神舞が除夜の鐘とともに挙行されます。
三春藩主菩提寺 龍隠院の除夜の鐘が響き渡り、同じく藩主菩提寺 高乾院の甘酒振る舞い、
そして真照寺、福聚寺など各寺院の元旦法要など、城下町三春は新年を祝います。
新年を迎える、各地のさまざまな風習の中に、その一年の反省と明くる年への願いがこめられています。
大晦日は別名除日(じょじつ)といい、その夜なので「除夜」といいます。
古来より、日本には、ご先祖様はお盆と正月に家に戻ってこられるという信仰があり、大晦日の夜がご先祖様の到着する時とされていました。そのため、この日だけは夜を明かして宴を催すなど、早く寝ないで過ごす風習が生れたようです。
このように特別な意味合いを持つ除夜には、寺社への参詣もいつも以上にご利益があると考えられるようになったのでしょう。
除夜に年をまたいでお参りをすることで二年分のご利益を得るという 「二年参り」 といった風習が各地で見られるようになり、現在では、除夜のお参りと初詣を兼ねるようになっています。
本日は、除夜会という法要を営み、場所を鐘楼に移して読経が始まります。
そして、いよいよ除夜の鐘になります。除夜の鐘を撞くタイミングは、大晦日のうちに撞き始めるところもあれば、新年を迎えてからというところもあり、厳密な決まりは無いようです。
除夜の鐘の回数は百八回とされますが、これは百八煩悩といって人間の持つ煩悩の数とされます。かつては毎日朝夕二回、百八回も鐘を撞いていたといいますが、現在では年に一回に。 大晦日の夜、鐘を一回撞くたびに煩悩が一つずつ清められる中で、一年を反省し、心新たに新年を迎えるというわけです。
除夜の鐘を聞くと、人間の煩悩とは金銭欲や性欲だけが煩悩ではなく、 私たちが日常起こす様々な感情が煩悩の源であることに気づかせてくれます。
大晦日に食べるものといえば年越しそば。年越しそばの習慣は江戸時代中期が起源。そばの麺のごとく長生きができるように、家運がのびるように、などの願いがこめられています。逆に細くて切れやすいことから、一年の苦労や厄災を年内に断ち切ってしまおうというという説もあります。
蒼龍謹白 合掌
2008-06-20 Fri
「曹洞宗秋田山龍穏院」“四諦(したい)四苦八苦“北国三春も梅雨が明け、木々が今を盛りに夏の暑さを楽しんでいるかのようです。
そんな夏の喧噪をよそに、涼しげに佇む荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移したと云う禅宗の古刹で、鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家十一代の菩提寺です。
江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。
平均寿命の短かった江戸期、藩主はじめ領民が生きる支えとして仏教へ帰依し、心の拠り所として信仰を集めました。
幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました、今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。
ご本尊の釈迦牟如来は、今日まで三春に生きる私たちを導いているようです。
龍穏院には、お彼岸の時だけ掛けられるという、土佐断金隊隊長美正貫一郎の書いた掛け軸があります、私も多少のご縁があり時折足を運んでおりますが、仕事柄彼岸の頃は仕事に追われその掛け軸をまだ見る機会に恵まれておりません。
美正貫一郎という人は、幕末戊辰戦争に於いて会津藩に就くか、薩摩長州土佐を中心とする西軍に就くか、未曾有の混乱の中で三春藩が選択を迫られた時、三春攻め直前に三春藩恭順派を受け入れ、戦塵から三春を救った土佐藩士です。
四諦、四苦八苦という仏教用語があります、老、病、死、そして生という時間的な苦しみの四苦と、空間的な苦しみである愛別離苦(愛する者との別れ)、怨憎会苦(憎い者に合う)、求不得苦(欲求不満)、五蘊盛苦(ものを持余す)を加えて四苦八苦と言います。
私たち人間は、この世で生き抜く為にはどうしてもこの四苦八苦に遭わなければなりません。
しかし、その四苦八苦を素直に受け止め、この四苦八苦が在るおかげで人間として成長できる様に、負として受け止めるのではなく、四諦を業としてプラスに変えて受け止めることによりこの世に在る私たちを導く指針になるでしょう。
「自分を見つめ、自分に話し、自分で答える」
三春和合会短冊より
合掌
三春昭進堂 髙橋龍一
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