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上野前橋酒井家菩提寺 満珠山是字寺龍海院と三春第3代藩主秋田輝季公の娘、勝姫(養真院、幼名大姫)




年に数回、群馬からご夫婦でご来店される客様から、毎回群馬県の資料をいただいています。


いつもありがとうございます。

今回は女将の好きな古墳派には関連から、2027年NHK大河ドラマ「逆族の幕臣」の主人公小栗上野介忠順関連の資料もいただきました。

そしてメモ書きが一つ・・・・

ご自身の菩提寺が、三春にゆかりのある方と関係しているというものでした。

早速、そのメモを頼りに調べてみますと、三春第3代藩主秋田輝季公の娘、勝姫(養真院、幼名大姫)が、上野前橋藩の第8代藩主酒井雅楽頭親本(さかいうたのかみちかもと)公の正室として嫁いでいました。

その菩提寺が、今の群馬県前橋市にある満珠山是字寺龍海院です。

満珠山是字寺龍海院の沿革を観ますと、岡崎城主だった松平清康公(徳川家康公の祖父)は、「是」の字を左手に握った夢を見ます。

翌朝、清康公は、竜渓院住職の模外惟俊大和尚にその意味を尋ねると、「この字は日下人に分けられ、これを握るということは、戦国の分裂の世が統一される吉兆。君公により実現しなくとも、孫の代までに実現する」との答えでした。
 
これを喜んだ清康公は、享禄三(1530)年、岡崎城下に模外禅師を開山とする満珠山是字寺龍海院を建立。岡崎城下には松平氏(後の徳川氏)には大樹寺という菩提寺があったため、家老の酒井正親公に外護を命じ、以降は酒井氏の菩提寺になりました。
 
徳川家康公の江戸入城に伴って、酒井正親公の子重忠公は武州川越藩主に任命。

菩提寺の龍海院も川越に移り、さらに慶長六(1601)年の前橋転封によって龍海院も前橋に移転しました。

さらに、寛延二(1749)年、九代忠恭公の時の姫路転封。龍海院は前橋に留まり、その後も龍海院は酒井氏の菩提寺であり続け、文政年間にも大規模な伽藍の再興整備が行われて現在に至っています。

当初、前橋で寺が建設されたのは岩神村でしたが、火災のため、現在地の柿ノ宮村(現紅町)に移転。元禄八(1695)年、五代藩主酒井忠挙公によって行われた大規模な造営で、御霊屋、本堂、御衛堂、書院、衆寮、庫裏、方丈が整備されました。

前橋に行った際は、龍海院さまへお参りしたいと思います。






輝季公の晩年、三春藩お家騒動の発端となる、長男の就季公の早世と重臣の荒木高村(藩祖・秋田実季の外孫)に政治の実権を奪われ、正徳5年(1715年)12月7日には高村の長男・頼季公(三春藩四代藩主)に家督を譲って隠居。享保5年(1720年)9月19日、享年72で死去します。




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| ryuichi | 03:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
 「 三春藩主秋田家江戸藩邸菩提寺 浅草大雄山海禅寺」




塵壺419号 「 三春藩主秋田家江戸藩邸菩提寺 浅草大雄山海禅寺」 令和8年6月吉日発行


かっぱ橋や浅草など東京出張の際には、お参りするお寺さんがあります。

上野から浅草へ向かう途中にある旧三春藩秋田家江戸屋敷の菩提寺大雄山海禅寺さんです。

浅草新鳥越町(現・台東区松が谷)、今のかっぱ橋道具街から道一本西手に入ったところにある臨済宗妙心寺派の禅寺で、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624)神田明神北の妻恋に草創(そうそう)します。






寺号(じごう)「大雄山」は、平将門が下総国相馬郡に創建したとされる同名の寺院に因んで命名したと伝わります。

※「海禅寺縁起」(下総守谷藩主堀田正俊の寄進)によると、平将門が、紀州の高野山に真似て建立したと記載があります。


 後に、明暦3年(1657)1月、3日間に亘って江戸城をはじめ城下を焼き尽くした「振袖火事」の後に、当地へ移転しました。







諸国の在京大名家江戸藩邸や幕臣、旗本の方々の檀家寺となっていますが、中でも檀家筆頭の阿波・淡路2国25万7千石徳島城主の蜂須賀家から厚く庇護を受けたことから「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒{霊梅寺}、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁立(ようりつ)していました。

 また、江戸城下の妙心寺末寺の触頭寺院(ふれがしらじいん)として、湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めて、江戸市中にある妙心寺派寺院の統制も行っていました。

 徳島藩蜂須賀家は、大河ドラマ「豊臣兄弟」にも登場する秀吉の盟友で、川並衆を率いた播磨国龍野城主蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)の嫡子、蜂須賀家政(いえまさ)が藩祖となっています。





 海禅寺の主な檀家大名としては、この蜂須賀家。

関東大震災後、墓碑銘を残して徳島の万年山墓所に改葬、この墓所は徳島藩10代藩主が造営した一族の儒葬墓地。また、家祖・正勝以降が埋葬された仏式の興源寺墓所を遺髪のみの拝み墓としています。

豊前国小倉藩15万石小笠原惣領家。

常陸国土浦藩9.5万石土屋家。
土屋家の江戸屋敷は本所松坂町にあり、忠臣蔵の敵役吉良義央の屋敷と隣り合っていたために映画やテレビではおなじみですね。 

伊予国大洲藩6万石加藤家。
大洲藩と云えば、坂本龍馬率いる亀山社中改め“海援隊”が武器輸送に運用した大洲藩船籍の「いろは丸」と徳川御三家紀州藩船籍の「明光丸」が瀬戸内で衝突、いろは丸だけが沈没した際に万国公法に基づいて龍馬の死後、土佐商会が紀州藩から多額の賠償金をとることに成功した「いろは丸事件」の被害船主の藩です。

播磨国林田藩1万石建部家(歴代藩主の墓所は、京都紫野大徳寺内芳春院)などがあります。


そして東洲斎写楽。徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)が、写楽と同一人物ではないかと伝わっており、その墓碑が関東大震災の前までは確認されています。


さらに、幕末に吉田松陰などと同様に「尊皇攘夷」を唱えて、倒幕の先駆けとなった勤皇の志士、若狭小浜藩(福井県)藩士の梅田雲浜(うめだうんびん)の墓所としても知られています。


三春藩秋田家。江戸藩邸で亡くなった秋田家一族は、海禅寺に葬られましたが、関東大震災後にそれらのお墓は「雑司ヶ谷霊園」へ改葬され、さらに昭和10年5月26日に三春城下荒町にある秋田家菩提寺の安日山高乾院秋田家墓所へ改葬されています。

尚、三春城下のもう一つの秋田家菩提寺龍穏院には、藩主の中で8代藩主の秋田謐季公だけがその墓所に埋葬されています。

 三春藩の江戸藩邸は、江戸城下に3か所ありました。

上屋敷は愛宕山愛宕神社下(現・慈恵医大附属病院付近)、中屋敷は東京タワー近く麻布台のロシア大使館付近、そして下屋敷が西新宿の東京都庁付近、後に、代々木(現・文化女子大学付近※大火移転)にありました。

また、旗本秋田氏5千石の屋敷は、築地本願寺の西手(現・電通本社付近)、そして拝領屋敷が深川(現・清澄庭園大正記念館付近)にありました。                   






         蒼龍謹白 拝  さすけねぇぞい三春!


『いろは丸沈没事件』
いろは丸(以呂波丸)は、江戸時代末期の1860年代にイギリスで建造され、伊予国大洲藩6万石加藤氏(現在の愛媛県大洲市)が所有していた蒸気船で、45馬力の蒸気機関を有しておりマスト3本を持つ帆船の機能もありました。

坂本龍馬の海援隊による運航中に紀州藩の明光丸と衝突事故を起こした事で知られます。

事件は、1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃、
長崎港に向けて同海域を航行していた紀州藩の軍艦・明光丸(船長・高柳楠之助)が、備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で進路が交差、接近。
いろは丸が取舵、明光丸が面舵をとり、同じ方角に回避行動をとった結果、両船は衝突。

明光丸はイギリスで建造された長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船で、その大きさの差はあまりにも大きく、更に一旦後退した明光丸が再び前進して再度衝突を起こした為、いろは丸は大破し、翌日早朝、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島沖で沈没。

操船していた坂本龍馬はじめ海援隊士らいろは丸乗組員は全員、相手方の明光丸に避難のために乗り移っていました。

その後、龍馬らは鞆の浦に上陸。
紀州藩の用意した廻船問屋の桝屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を行いました。
紀州藩側は幕府の判断に任せるとしますが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりで自身が「万国公法」を持ち出し、

紀州藩側の過失を追及。事故から1か月後に紀州藩が折れて積荷代に相当する賠償金8万3526両198文(約164億円)を支払う事が聖福寺での交渉の席で取り決められました。

実際の受け取りは、龍馬の暗殺後、海援隊の解散後でしたので土佐藩の運営する商社」「土佐商会」が受け取りなど残務処理を行っています




| ryuichi | 23:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
大雲山 龍安寺  臨済宗妙心寺派




大雲山 龍安寺  臨済宗妙心寺派

龍安寺(りょうあんじ)は、984年(永観元年)に創建され、四円寺(円教寺・円乗寺・円宗寺)に数えられた第64代・円融天皇の御願寺・円融寺があった場所で、その後左大臣・藤原実能(ふじわらのさねよし)が山荘を営み、徳大寺を創建した場所となります。

龍安寺は1450年(宝徳2年)に室町幕府管領・細川勝元(ほそかわかつもと)が権大納言・徳大寺公有(とくだいじきんあり)から山荘を譲り受け、妙心寺5世・義天玄詔(ぎてんげんしょう)を開山、玄詔の師である妙心寺4世・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を勧請開山として創建しました。






しかし勝元が東軍総大将になった応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、1488年(長享2年)に勝元の子・細川政元(ほそかわまさもと)が中興の祖・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)とともに再興し、方丈が再建・石庭が作庭されたと言われています。

尚、龍安寺には勝元夫妻と政元の墓が残されています。

石庭として有名な方丈庭園(史跡・特別名勝)は三方を築地塀に囲まれた枯山水の平庭で、「虎の児渡しの庭」とも呼ばれています。

方丈の東庭には龍安寺垣があり、その横に秀吉が賞賛したと伝わる侘助椿があります。

また、その東庭を隔てた東北隅にあるのが茶室「蔵六庵」で。







三春藩には、室町幕府の管領を務めた細川氏の嫡流である「細川京兆家(けいちょうけ)」を通じて深い歴史的繋がりがあります。



龍安寺の創建: 1450年、室町幕府の有力守護大名であった細川勝元(京兆家)によって創建されました。細川家の菩提寺であり、勝元やその子・政元の墓所もここにあります。

細川京兆家の没落と移転: 戦国時代、細川氏の嫡流である京兆家は勢力を失いました。

織田信長に仕えた昭元の代を経て、その子・細川元勝は大坂の陣で豊臣方に加わりましたが、落城後に親族である秋田実季(三春藩初代藩主・秋田俊季の父)を頼り、秋田家が当時治めていた常陸国(茨城県)宍戸へ身を寄せました。

三春藩での地位: 1645年に秋田家が三春(福島県)に転封されると、細川京兆家も三春へ移りました。元勝の子・義元の代から、細川家は三春藩の客分家老(上席別格年寄)として代々仕え、幕末まで続きました。






龍安寺は、三春藩細川家の先祖である細川勝元が建てた一族の象徴的な寺院です。

三春藩の細川家は、かつての管領家の正統な末裔(京兆家)であり、かつて京都で龍安寺を創建した一族そのものです。

三春における細川家の墓所は、三春藩主の菩提寺である高乾院にあります





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中斎大塩平八郎と伊勢 神宮 




    中斎大塩平八郎と伊勢神宮 


大塩平八郎は、蒼龍窟河井継之助や南洲西郷隆盛と同じく陽明学の徒で、当代きっての陽明学者でした。陽明学とは、中国の明代に、王陽明という人物がおこした学問の1つで、その学派を代表する「事上磨錬」「知行合一」「致良知」を深く学んだとされています。


大塩は、大阪与力職を辞した後に開いた私塾「洗心洞」において門弟たちに講義しています.

後に「中斎学派」と呼ばれる一派を形成するまでになっています。

その中心思想は「知行合一」(行動が一致して初めて知が生きる)を根幹に据え、「理想や理屈ばかりこねて実際の行動に移さないということは、何も学んでいないのと同じだということで、その知識には行動を伴い実践しなければならない」というものです。

「形よりして言えば、則ち身は心を裹[つつ]み、心は身の内に在り。道よりして観れば、則ち心は身を裹[つつ]み、身は心の内に在り」――大塩平八郎『洗心洞箚記』





大塩平八郎は、二度、伊勢を訪れている。

神宮神官であり、国学者でもある御師権太夫足代弘訓(あじろ・ひろのり)との親交があり御師宿を取っている。

一回目は、天保四年七月十七日。大塩中斎が富士登山からの帰途、朝熊山頂で著書「洗心洞劄記」を焚(や)いて己れの思想(こころ)を天に伝えたいと、伊勢へと思い立った。

しかし中斎は山田の御師で近代の国学者たる足代権太夫弘訓から外宮附属の宮崎文庫内宮附属の林崎文庫の奉納書籍の話を聞き、朝熊山上に焚ことを罷め、天保四年七月富士登山の帰路三州吉田より海を航し伊勢に到り、両文庫に洗心洞箚記各々へ一部を納めます。

翌月更に、門人の橋本忠兵衛、同じく但馬不動二朗(但馬守)を足代権太夫の元へ遣わして、朱子文集・古本大学・及び伝習録を両文庫へ、陸象山全集を宮崎文庫ヘ、そして王陽明文抄を林崎文庫へ奉納しています。


二回目は、翌天保五年二月二十六日。内宮祠官の学問所的役割の林崎文庫にて、平八郎が書院にて陽明学を講じたといわれる。

※洗心洞箚記二冊は実に中斎畢生の大作である。「余が箚記は僣に河東の読書録、寧陵の語、及び寒松堂の庸言等に傚ひ、目の触るゝ所、心の得る所有る毎に、之を筆して以て自ら警め、又以て子弟の憤を助発するのみ」とあるは、畢竟謙遜の辞に過ぎず、彼が本書一部を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔かうとしたは、天照大神に告げん為である。
一斎拙堂等数十氏に寄贈したは、自説の可否を諮ふ為である。富士山の石室に蔵めたは後の学者を俟つ為である。一生の心血半は注いでこの書に在りと言ふも決して空言で無い。

足代は、諸学に通じ、寛居の塾には多くの門弟を抱えていました。

足代も天保大飢饉における窮民の救済や伊勢神宮祠官の弊習を打破する運動にも奔走したと伝わっています。

後の「大塩の乱」の時には大坂で取り調べを受けています。





豊宮崎文庫が外宮権禰宜で国学者でもある出口延佳(のぶよし)らの呼びかけで建てられたのは、江戸時代初めの慶安元年(1648)のことでした。

それまで伊勢神宮には内宮に「文殿(ふどの)」、外宮に「神庫(しんこ)」という建物があり、書籍などが収められ学問の場でもあったのですが、禰宜以下の者には利用が許されていなかったのです。

 林崎文庫は、豊宮崎文庫から遅れること42年、元祿3年(1690)に建てられました。

豊宮崎文庫が広く世間に知られるにつれ、多くの学者から書籍の寄贈が相次ぎ、それによって蔵書は充実したものになりました。

また、毎月定期的に行われる和学・漢学の学習会に加え、多くの碩学の学者たちも文庫を訪れ学問所としての文庫のために教壇にて講義や講演会が行われており、その中には大塩平八郎の他にも、貝原益軒、室鳩巣、伊藤東涯など当代一流の著名な学者の名前が残っています。


豊宮崎と林崎の両文庫は図書館であるとともに神職子弟の教育の機関であり、さらには碩学大儒との交流を通じて発展し、神都伊勢と京都、大阪、江戸などの文化的先進地を結ぶ役割を果たしてきたと考えられています。


大塩平八郎(1793~1837)は、大坂町奉行所与力を務めていました。

奉行所時代は西町奉行所筆頭与力・弓削新右衛門の不正の処断、キリシタンの弾圧、破戒僧(宗教の戒律を破ったなまぐさ坊主)の処断を行い、その辣腕ぶりは大阪庶民の尊敬を集めました。


奉行所を辞職したあとは、自宅にて陽明学の知行合一の精神を重んじる「洗心洞」という私塾を創設。頼山陽などとも交際を持ちました。




大塩平八郎の乱(大坂騒動)

1837年(天保8)2月19日に大坂東町奉行の元与力で陽明学者でもあった大塩平八郎中斎が、飢饉のさなか幕府役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件です。


大塩勢は乱に際し、中央に「天照皇太神宮」、右に「湯武両聖王(とうぶりょうせいおう)」、左に「八幡大菩薩」と書いた一流、そして五七の桐に二ツ引きの印を付けた一流を押し立て、「救民」と「南無妙法蓮華経」を大きく染め上げられたのぼりを先頭に進軍したと伝わっています。


町奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300名を率いて、天満の自宅から大坂城をめざしたが鎮圧側に阻止されます。

決起直前に江戸の老中らに送った建議書が近年明らかにされ、幕閣や大坂町奉行所にかかわる不正を摘発し、「救民」にきわめて政治的意味があったことが知られています。

当時配布された「檄文」は大名から民衆まで広範囲に伝写され、また乱の情報は大塩らの40日にも及ぶ潜伏期間によって全国に伝えられ、幕藩制社会に大きな衝撃を与えました。

 大塩の「檄文」には「天より被下候村々小前のものに至迄へ」など、檄文のいたるところに「天~」という文字が多数記載されています。
そして、その檄文には伊勢神官の御札が貼ってあったと記録されています。



陽明学 河井継之助も伊勢を訪れ、山田の御師久保倉邸に宿泊。

外宮、内宮、そして二見ヶ浦を参拝しています。






安政6年6月24日。晴。
伊勢の山田町も繁盛している。
山田の御師久保倉邸に宿泊。

安政6年6月25日。晴。
朝、案内と共に外宮を参拝。
間之山を過ぎて古市に至る。
聞きしに勝る繁華なり。
内宮を参拝し二見の浦へ行く。
古市に戻り山田を過ぎて小俣に宿泊。


三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::伊勢神宮参詣 朝熊永松寺 |
伊勢朝熊(あさま)にある石城山永松寺様の本堂落慶法要に臨席してきました




伊勢朝熊(あさま)にある石城山永松寺様の本堂落慶法要に臨席してきました。


永松寺は、三春人としては「お伊勢参り」の際には欠かせない場所だと思っていて、お伊勢参りの際には、實季公の墓参とお寺様であいさつに伺っていました。








青山紅葉朔風趨

五色雲飛殿裡隅

今日落成茲再造

净財辛苦徳檀徒.





この度は、ご縁があり本堂落慶式法要に際して来賓として案内をいただきまして、三春人としてお祝いに駆け付けた次第です。






本堂と共に、御位牌の入る厨子やお位牌も漆で再生され、須弥壇に安置されていました。







修復された厨子の中には、安倍實季入道 戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」の位牌が収められています。

そして、手前の御位牌は、片山殿、娘のお千世方のお位牌も修復され、同じ須弥壇の上に安置されています。


「穹清院殿功月昌光禪定尼」 片山殿

「月峰晴挂大童女」 於千世方



永松寺は内宮から車で10分余の神宮神田近くにあります。







三春藩秋田氏の初代藩主河内守俊季公の実父で、高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道、秋田實季(あきたさねすえ)公が、徳川幕府によって幽閉され、亡くなるまでの約30年、永松寺の草庵にて蟄居生活を送ったお寺さんで、幼くして亡くした娘と側室片山氏と共に墓所にて眠っています。


安東秋田家は、嫡男の河内守俊季公や秋田家家臣による幕府への忠節と、父實季公の正妻円光院は、管領職細川昭元の娘でその母は織田信長の妹お犬方で、徳川2代将軍秀忠(生母お江はお市の娘)とは又従弟という関係から幕閣に様々な方面から働きをかけて改易は免れて三春藩五万石の大名として明治維新まで続いています。








實季公は、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌をはじめ、書道、茶道に通じ、又、薬方にも詳しく、秋田候教示万金丹の名もここから出たと伝わっています。






墓碑には、「高乾院殿前侍従厳梁空大居士」「万治二年己亥(1659)十一月廿九日」「安倍実季入道」とある。又、傍には、その幼女、側室片山氏の墓石もあります。







同じく来賓として参列された同席の方は、なんと石田三成の妹婿の福原右馬助公の末裔の方でした。


宴席の中でしばし歴史談義に花が咲き戦国の世に思いを馳せることが出来ました。







この福原公とは、豊臣秀吉の小姓頭で、「慶長の役」では、三成の差配で軍監として朝鮮に渡り、後の関ヶ原の合戦で東軍に組する大名たちの軍令違反を奉公しています。






慶長五年(1600)、関ケ原で敗れ、大垣城にて抗戦しますが、和議に応じ出家して「道蘊」(どううん)と名乗り、わずかな家来と共に朝熊永松寺に謹慎をすべく落ち延びますが、永松寺門前にて東軍側の追っ手に討たれたと聞き及びました。實季公墓所の下にある墓碑には、「一任殿順積道蘊禅定門 濃州大垣城主福原右馬助」「慶長五年十月二日」と刻まれています。






付き人 交野五郎佐衛門奉納の天和元年(徳川綱吉御代1681年)の灯篭があります。


春陽士譜では、明智の狐との記載や、伊勢交野郷で拾って守役として養育したとか、がありますが詳細は不明です。



以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書

右として

高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。

そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。

家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。

しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。

宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。

【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】

宝永六年三月
(日向訳)

伊勢度会郡朝熊村

石城山永松庵

中巌座元


※ 渡邊日向 訳









秋田城之介・安倍姓安東入道実季公墓所

永松寺、伊勢神宮より少し外れた伊勢朝熊山の麓にある臨済宗南禅寺派の禅寺。



山門脇の階段を上った小高い丘に実季公の墓所はあります。

戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
 
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季(あきたさねすえ)はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。



長男の初代三春藩主秋田俊季との不和に加え、従来からの檜山系と湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとも考えられています。


寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)、同地にて死去。 享年85


実季には、正室円光院と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけていますが、朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。



片山というのは姓であり、出身や俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を「穹静院」と号しています。

お千世姫は、実季公の第二子であると思われます。

千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山氏は実季に最も尽くし、そして、最も愛された側室であった事だろうと想像がつきます。



しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、愛娘の千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。

片山は、不遇の中、異郷の地で娘を亡くしたことを憐れんで、落飾し“穹静院”と号して、夫である実季と共に、亡き愛娘の菩提を弔いながら余生を送ります。

そして、片山氏本人も、承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。








「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅 
 

江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」

三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。

伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松寺にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にも参っています。








この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の姉)”です。

即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。

三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。





天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。


同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。






後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。

幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。





實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。


また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。

幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。


]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。


我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓







蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春!  拝









三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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旧三春城址 秋田家祖先尊霊」石碑・慰霊碑 こぼれ話




旧三春城址 秋田家祖先尊霊石碑・慰霊碑 こぼれ話



この石碑について面白い話が伝わっています。

明治三十九年、三春町有志の人々が相計って「皇軍戦死之霊・日露戦従忠魂紀念碑」建立及び「三春藩主秋田公祖先ノ霊石碑」を旧城跡に祀るため、三春町の有志(六十歳)以上の年齢の者で構成された「尚輪会」という組織があり、その会員六十名余の発起により、石を水戸から輸入してこれを旧城山山頂に運ぼうとした。

しかし、城山の高さは数百メートルあり、城址とは言っても荒れ果てた山城の山頂に達する道路がほとんど有っても無いと同じように荒れて果てている。

ましてや、このような巨石を城山に運搬するのは、莫大な人夫が必要である。

ゆえに六十余名の発起者は大いに苦慮して一同に集まり、その方法・対策を話し合ったが、妙案は出なかった。

集まった人々が、考えあぐねあきらめかけていたその時に偶然にも川前紫渓の次男・川前英助が来訪し、今日の集まりは何事かと聞いた。

会員が、巨石を城山に運搬する良策が見つからない旨を話すと英助が大笑いをして云った。







「このくらいの小石余(私)が一日を費やすさず山上に輸送しよう」と。

会員もまた大笑いして云った。

「大昔、大力無双といわれた弁慶坊は一夜で三井寺の鐘を良いて比叡山に登ったと聞いた。しかし、弁慶が生き返ったとしてもその梵鐘より今回は重量である。この巨石と同じく考えることはできないだろう。」と。

これを聞くと英助は、かすかに笑い去って行った。


時をおかず、英助は、門弟三百名を招集し、巨石運搬の事を告げた。

すると門弟たちは快諾し、翌日紅白の旗をつくり盛えた。





英助は、筒袖短の軽装で、三百余名を二手に分けて、お互いに競争で上げることとし、直ちに巨石運搬に取り掛かった。

この時、三春小学校では、英助の行動を聞いて壮挙であると讃え、音楽隊をくり出して応援した。

引き上げる男たちの掛け声と音楽隊の演奏とが明和し、巨石はあたかも羽根が生えたように動いて行った。

果たして一日をかけずに「三春藩主秋田公祖先ノ霊」と刻まれた石碑運搬班は、無事この巨石は山上に上げられた。







もう一方の「皇軍戦死之霊・日露戦従忠魂紀念碑」運搬班は、田村大元神社からの城山山頂への搬送を試みたが、力及ばず断念し途中の同社境内が見下ろせる場所に設置されています。

時に元々が許して云ったことは「川前先生の力は弁慶に優った」であった。



これは、英助の持つ方がどのくらいのものであるかを想像するのに十分なでき事であった。



 三春最後のサムライ  川前英助  

明治維新後には、江戸榊原道場や千葉道場などで腕を磨いた剣客で、三春城下に道場を開いて広く門下を集めその指導にあたりました。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



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「お陰参り」伊勢の神宮さんへ塵壺発刊の御礼詣と秋田城介安倍實季入道さまに報告御礼




「お陰参り」伊勢の神宮さんへ塵壺発刊の御礼詣と秋田城介安倍實季入道さまに報告御礼

「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」発刊の御礼の意を込めて、伊勢の神宮さんと朝熊永松寺安東實季公墓所に「御礼参り」に行ってきました。

かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。






今回は、「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」発刊の御礼ということで外宮さんに於いて神威感謝の御神楽御祈祷を受けました。


御祈祷の祝詞の中でお一人お一人の住所と名前が呼ばれ、自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと “ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、畏敬の念に駆られます。






山神さまへの御礼参拝もしっかりとしてきました。







参詣後は、お祓い町にて直会です。






伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。





おかげ横丁の蕎麦やうどんの店ですが、蕎麦も二八の本格派です。

店長に曰く、社長(赤福)から本物をするようにとの指示が徹底しているそうです。







そして、宿泊は神宮会館です。

そして翌朝は早朝参拝。









偶然にも毎回お世話になる、早朝参拝が始まった平成10年より案内をしている元支配人の井田さんにも塵壺の謹呈させていただきました

井田さんからは伊勢の神宮さんを通じて人生のあり方などをご教示いただいています

さすがに、神宮さんの塵壺の奉納をできませんが、現代の御師である井田さんに謹呈したしだいです。







伊勢神宮参拝に先立って、まずは・・・

お伊勢さんへお参りと云ったら三春人には外せない場所があります

秋田安東実資公の墓所永松寺さんにて方丈様にご挨拶をして墓参。



高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道殿、墓参に参上しました!






神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。






實季公は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。


その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。





三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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