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「赤子養育制度」 江戸期の秋田藩政




江戸期の三春藩主秋田氏は、三春入封以来、いろいろな改革や改正を実施してきましたが、窮乏を根本的に克服するには至りませんでした。

その政策の一つに「赤子養育制度」があります。



元禄以後の年貢の収奪は、農民の家族維持すら容易でなくなり、人口減少が目だってきてか人口増を計るためにこの制度は設けられました。

現在の児童手当とも考えられる政策ですが、子どもが生まれると二歳になるまで、米·麦,種を一俵ずつ養育手当として支給しました。

ただし生活困窮者に限るものであり、効果はあまりみられなかったと記されています。

さらに、天明八年には、妊娠·出生の係を村ごとに設け、月々巡回し確認報告することを義務づけ、手当は農家を五段階に分けて支給するよう改めたています。

安永七(1778)年より寛政四(1792)年の間に小児数が千人以上も増え効を奏したかにみえましたが、後の文化·文政期にはふたたび人口は減少しています。




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| ryuichi | 04:24 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春藩主秋田公出郷 村人の山追人足割り当て




三春藩主秋田公出郷 村人の山追人足割り当て

江戸時代、猪や鹿狩などの狩猟は武士の嗜みであり、藩主としての武芸の一つに位置づけられ、心身鍛錬でもありました。

殿様の出郷と称する山追(狩猟)では、猪·鹿などの山追い(狩猟)の際の人足割り当てがありました。

明和七年八月に過足村庄屋宅を本陣として猪追いが行なわれた例です。
この時は猟師14人、勢子(せこ)引の者10人、勢子は過足村中人足と庄屋宅小遣いの者、それに狐田·上石·牛縊村から60人が動員された。

また、高倉村北山も山追いがたびたび行なわれている。

秋には、北山より南の村の勢子は高、倉村庄屋宅詰め、北西側の村の勢子は斎藤村庄屋宅詰めの二手に分かれ、7~8カ村から200人ほどが動員されています。
これが、春の場合となると100人ほどが動員されている。

年不詳ですが、申年十月の堀越村での山追いは、大規模で、七割頭に対し500人を課した。
菅谷割90人·下大越割100人・常業割20人・船引割100人·木目沢割60人·根本割100人·過足割30人が芦沢村に詰めている。

過足割30人は六ヵ村に割り当てられたが、牧野山山追いのときは、過足割50人九ヵ村であるから、もっと大掛かりであったのかもしれない。

天明八年五月二十九日に御巡見使一行が領内に入り常葉村御昼、三春町御泊りで癖日に二本松領小浜村へ抜けた。


三春町史参照


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| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
田村大元神社 彫刻 伊東光運・伊東九賀之助 ご縁




先の塵壺355号に田村大元神社神門「随神門」の事を記載させていただきましたが、すっかり呑み込んでいたのと、再確認の不足で彫刻の作者の氏名をご記載してしまいました。

何度も表記・書いたりお話している名前です。
本来ならば、伊東光運と記すべき使命を→伊藤光雲と間違えてしまいました。
朝には、文字の誤記載の指摘のお電話もあり助かりました。
ありがとうございます。

気を付けたいと思います。







午後に、三春城下ボランティアガイドをされている桜ケ丘にお住いのS様から、問い合わせがありました。
S様はご近所ということもあり旧知の仲です。

お話を伺うと、自分の母方の先祖を調べていたら、今日の塵壺に出ている伊東光運の息子伊東九賀之助まで遡れたということでした。








平成11年晩夏に行われた「田村大元神社仁王像平成大修理」完成お披露目のパレードの折にお母様とその様子を見に行った際に「私のご先祖様が造った仁王様だよ!」と話されていたそうです。

電話を切った後、現在の田村大元神社社殿が明治32年に再建されますが、その時の寄付長を数冊(旧三春藩領内村分の内)をお預かりしています。





その中に旧文殊村の寄付受帖があった事を思い出し、中を開いて見てみると、石森の帳面に「伊東九賀之助」と名前が見えます。
記載の伊東九賀之助は、光運の孫(息子?)で父と一緒に大元帥明王社仁王様や仁王門の彫刻に携わった仏師です。

これも何かの御縁なのでしょうか?時空を越えた繋がりを感じます。






尚、この寄付受帖には趣意書と完成予想絵図面があります。

棟梁の名前(橋本強吉)は見えますが、彫刻師の記載はありません。

また、本殿・拝殿が記された絵図面の彫刻は現在の田村大元神社のそれとは違います。


伊東九賀之助が彫刻に携わったかは確認が取れていませんが・・・多額の寄付金を奉納されているようですので興味をそそられます。






仁王尊二躰及び仁王門ですが、大元神社は、寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
後に、本殿拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工です。
その時に、仁王像二躰はこの門に安置されていました。





尚、塵壺記載の通り大元帥明王社として建造された仏教色の強い本殿、拝殿は上記の明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の影響により、明治二年に取り壊されます。

現在の社殿は大元神社として明治32年に再建されたものです。





この仁王様は、東大寺仁王尊二像の象徴されるような筋肉隆々で胸を反らし威を張るような姿ではなく、体のラインが全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢をとっています。

まるで参道上がってきた参拝者に、「悪いことはしてはいねがー!」と子供を”諭している”ようにも見えます。






三春藩主秋田氏の出身が青森、そして秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」や「なまはげ」を想像したくなりますね。

また、仁王像の下絵は三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられている。











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| ryuichi | 05:16 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春藩秋田氏 御城下と役人




三春藩秋田氏 御城下と役人


松下氏時代にはほぼ町の形ができていたと思われるが、武家屋敷、足軽屋敷、奉公人屋敷、町人屋敷などの本格的な町割は、秋田氏入封後と考えられます。

城の周辺(南町、山中、清水、北町)と町を囲む“谷”を 家中屋敷(会下谷や桜谷には武家屋敷の名残りをとどめる家かかつてありました)と組屋敷にあて、町入口近辺にも組屋敷(新町末番組・四軒町・弓町等)を配置していました。

松下氏時代に南町にいた町人たちを新町に移住させ、新南町 と称したのもこのころでです。
かれらには米や雑穀の取引をする特権を、町外に過ずる道々の境や、山中新町境、切通しより上下の境など、家中屋敷と町屋敷の境にも、木戸門や黒門を設けて城下を取り締まると同時に、身分的に色分けもしていました。






正保五 (1648) 年 には、江戸街道口、馬場、新町、小旗町、小浜海道の6力所に紫雲住職に許可を出して地蔵を安置し、旧領常陸宍戸から秋田家菩提寺である龍穗院、高 院をはじめ、祈願所である秋田家鎮守古四王大権現別当真照寺や三光院を移し、寺領を与え町口の左右の丘に配して、町全体の配置を軍事的にもつくりあげました。








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| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
天明、天保の飢饉 三春藩



天明、天保の飢饉 三春藩

三春藩に限らず、全国諸藩特に東国では江戸時代を通じてたびたび飢饉に襲われたが、宝暦・天明・天保期のそれは、三大飢饉と呼ばれ幕藩体制にも大きな影響を及ぼしている。
天明二~三年(1782~3年) を中心とする 「天明の飢饉」は全国的なものであったが、特に東北地方はひどい打撃を受けた。

夏の土用になっても雨降り続き、六月以来時々綿入れを着るほどの冷気であったから、救物は実らず不足し、数年続きの凶作のために米倉は底をつさ食糧不足は限界に違した。

家中への扶持も半分に、酒、糀(味噌糀を除く)、飴、おこしなど穀物を原科とする商売を停止などしたが焼石に水の有様。

他国は「穀留(こくどめ)」といって他領内への穀類の持出し禁止の制をしき(三春藩でも四年には新館 に相馬への出米を防ぐ穀留番所を設けている)、他藩に流れるのを防いでいる。そのために藩の重役方が、会津·仙台·越後·関東へ足を運んで米の確保に努めたが思うようにはいかなかった。

天保三年、記録によれば領內各村の米の出来高は皆無の所も多く、葛尾、古道、中山、岩井澤などは稲刈りもせずに捨て置き、その他の村でも稲刈りしても種もみも確保出来ない有様でした。わずかに中郷地区·中妻地区のー部やその他数村から年貢米の上納があっただけと記されています。

農民は年貫の「金納願」を出しているが許されず、あるだけの米を納めなければならなかった(上大越村)。

武家·町人をとわず農民までも食物が欠乏し、山野にあってロにはいるものや、今まで食したことのないものまで採取しては少しでも種にしようど藁餅(わらもち)の作り方まで研究された。

天明四年の正月から五月までの117日間、新町 と北町 において、1人親椀(おわん) ニ杯宛の粥がほどこされ、領内一円より来場して延人数4万0161人が恩恵を受けました。

常葉、葛尾、南成田、北成田でも同様なことがあったが、2月になると村々で餓死する者が続出し、ついに領内で1500名に余る餓死による犠牲者を出しました。

全国諸藩を合わせると百十万人の餓死者を出した空前の「天明凶作」は、直接的には天候不順による冷害や洪水などの災害を契機として起こったのであるが、東北地方の低生産カと、領主による租税の収奪の苛酷さからくる江戸幕藩体制による社会経済そのものの矛盾に負うところも大きく、各藩が独自の経済圏を形成し、自給自足的な体制をとっていたこの時代には他藩に飢饉が起こっても積極的な相互扶助・接助ありませんでした。

「天明の凶作」の50年後に、「天保の凶作」が宿命のようにやって来ます。

天保4年(1833年)がとくに酷く、江戸在勤の藩主()は、幕府より暇をもらい、急遽三春へ帰城して、直ちに領内の水稲作柄を巡視している。
そして飢をまぬかれるために、菜、大根をたくさん作り腹を満たすよう奨励している。

しかし、農業そのものの進歩はあまりみられず、その年の天候回復、五穀豊作成就を祈念して領内総鎮守「大元師明王」、城下総社「神明」宮の両社において御祈祷をするのが通例であった。

たび重なる凶作は、農業の生産力、生活力の低い三春藩の財政を困窮させ、藩政そのものをゆるがしたことはもちろんである。

元文元(1736)年の東郷(当時は領内を大きく3つに分けているが2郷、4郷の時もある) 百姓強訴、寛延二(1749)年の全藩規模の強訴、天保七 (1836) 年の鹿又原騒動なども起きている。

また、藩政改革やら家臣による藩政批判もあり、すべて生活の困窮から出てきている。



江戸時代の凶作のうち、享保17年(1732)、天明二年(1782)~七年(1787)、天保四年(1733)~十年(1739)の凶作は江戸期三大凶作とよばれ、飢饉を伴って、餓死者多数を出したことで知られる。

享保の凶作は西国地方を中心とし、奥羽地方の被害は少なかったが、天明・天保の凶作では奥羽地方全域で被害を出した。

天明三年(1783)は、二月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、六月より十月まで霖雨止まず冷涼で、袷を着て焚き火を囲んでいた。

六月の大洪水、七月の浅間山爆発と寒気、八月の北風と大霜と災害が続き、畑作物・田作物が皆無となった。

 領内では、天明三年の凶作において秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽き、三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数城下に非難してきたため、八幡町末に集めて翌閏正月から五月まで施粥が実施された。

三春北部の成田村ではでも一ヶ月間施粥が実施された記録が残っていますが、領内の各村で餓死者を多く出しました。

天保七年の凶作では、施粥実施には至りませんでしたが、飢餓に瀕した笹山村などの百姓たちは、当村顔役辰五郎を頭取として鹿又原(現船引)に集まり一揆騒動が起こりますが、大規模な一揆に至る前に鎮圧されました。

また、三春城下での一揆騒動は、元文元年の東郷百姓一揆、寛保二年の五千石百姓一揆、寛延二年の領内惣百姓一揆などは起こり、強訴・諸負担の軽減や減免要求・譜代百姓の待遇改善などを求め城下に迫りました。


三春藩領は阿武隈山系の西側の波浪のように入り組んだ山間に村々が点在する土地で、山間高冷地の農業生産性の低い地域である。

平素より重税が当然化しており、衣食住の倹約が平年でも強いられてきた土地柄であった。

米産地の二本松領に比して米産地でない三春領の被害はより大きく、継続的不作の中で天明凶荒の襲来を受けた。

三春領内の餓死者は1,500人余に上った。

村々の三界萬霊の石塔は、天明飢饉と、後の享保、、天保飢饉における死者への供養塔です。

天明三年(1783)の凶作、四年の飢饉、五年二月の三春城下の大火と災害が続き、天明六年も寒冷が春よりゆるまず、七月の長雨と洪水、八月には暴風雨となって諸作不作。

天明七年には2月・4月に大暴風雨が領内を吹き荒れ、打撃を与えた。



三界万霊石碑は、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔です。

萬霊とは、欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさし、全ての生物の生々流転(せいせいるてん)してやむことのない世界のことをあらわします。

 その全ての世界の精霊を集め、それらを供養するのが、この三界萬霊石碑なのです。




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戊辰の役と三春藩 戦火から城下を救った戦い! 橋元文書「春陽思ひ附阿津免草」参照




戊辰の役と三春藩 橋元文書「春陽思ひ附阿津免草」参照


嘉 永 六(1853)年ベリーの率 いる黒船来航以来、騒然たるなかで、三春藩においても武器・武具の製作やら参勤作法改正に伴なって、文久三(1863)年には、農民を対象に金1500両を献金きせ、さらに元治元(1864)年には、世情の不穂な動きに対して日光警衛を命ぜられために、金3500両を町方および在方より調達している。

幕府勢力進討の勅命をとりつけた薩摩、長州、土佐を中心とする西軍は、江戸城無血入城を果たしたのち、幕府の根を断つために、会津藩、庄内藩討伐へと奥州めがけて押し寄せてくる。

三春藩をはじめ東北諸藩は、朝延に対して恭願 の意を示したが、奥羽諸藩を動員して会津藩(元京都守護職・新選組を預かり)と庄内藩(元江戸新徴組頭取))を討てどの命令が出されるに及んで、その真意を疑い、私的な薩摩・長州の憎しみと解し、西軍の理不尽に対抗する動きに変わってくる。






会津藩や庄内藩のたび重なる謝罪や恭順 を認めず、しかも奥羽諸藩が本気で会津·庄内両藩を攻めなければ「奥州みな敵」という西軍の官軍権力をかさにきたやり方に対しては、諸藩も屈することはできないという態度になってきた。

そのため、 四月二十日に仙台藩主伊違慶邦、米沢藩主上杉斉憲の呼びかけに応じて、当該会津、庄内両藩を除く奥羽二十五藩すべての代表が白石城に参集し奥羽列藩同盟が結成される。

そこでは、西軍への協力を拒否することと、改めて会津、庄内の両藩を救済するということが決議される。

三春藩は藩主秋田映季(当時11歳)の名で奥羽列藩同盟は、「朝延に反旗をひるがえすのでなく、朝延を利用して私暴の挙に出ている薩摩や長州の非を追及する」というものの、目前に迫った西軍を迎え撃つ作戦計画も企てられた軍事同盟であった。





三春藩は、すでに一月十五日に家臣の湊宗左衛門 (江戸詰御近習目付)を京都に出頭させ、「奧羽征討援軍」(会津攻めに協力)についての沙汰書(指示命令書)を受けており、幼少の藩主を抱えながら、 西軍に味方すべきか東軍の義に尽すべきか、列藩同盟条約には「同舟海を渡るごとく信をもって義を働く」とか「私をはかりて利をいどなむなかれ」ともある)藩論は容易に定まらなかった。

しかし、「会津 には同情するが、西軍は錦の御旗を奉じているので朝敵にはなりたくない。いかにしたら御家安泰が可能か。」という方向で藩論が続一されていく。

このようにして、 東西いずれの陣営にも味方であると思わせなければならない行動が開始される。

政府軍が来る前に三春藩の真意がばれれば、裏切り者として列藩同盟の攻撃を受けつぶされてしまうのである。

三春藩は、手薄になっている棚倉城を守るため、家老秋田太郎左衛門が藩兵を率いて石川郡岩法寺村(現玉川村)に陣し、他の同盟諸藩とともに政府軍と戦う。

この時(22日)奉勅のことを知り三春藩は兵を引く。24日には棚倉落城。






棚倉出陣を問われ、京都にいる三春藩家老秋田広記らは、約定に反したということで疑われ禁足を命じられることになる。
しかし、もともとの出陣している三春組は藩内の細かな事情までわかるはずはないし、会津藩や奥羽同盟諸藩の手前もあり戦ったわけである。


この棚倉の戦いでこりたのか、(事情が変化している)七月十六日の浅川の戦いでは、機会が過ぎたころ参戦し形式だけの戦をしています。

これは、三春藩のみに在らず、奥羽同盟盟主の仙台藩しかりである。


しかし、三春藩は今度は列藩より反同盟の疑いをかけられる始末になる。

列藩同盟に署名した大浦帯刀が秋田伝内と改名したり、 同盟との連絡保が、重役から外事掛(新設)に交替したことも疑惑の目で見られていたのである。





白河城、棚倉城の次は三春城攻略へと主力を移動させてくる西軍の動きに対して、東軍は、二本松の防波堤である三春城を守るべく三春藩領へ他藩の者が続々集結していた。

七月二十三日朝には、平城を落したた(十三日) 西軍の一隊(主カは相馬めがけで北上)が、磐城街道より仁井町(小野)方面に侵入の情報が入り、三春藩主力部隊と応授に来ている会津藩約70人、仙台藩約50人、福島藩約60人をその方面に向けた。

国境の広瀬村では、三春藩家老秋田勘解由の三春組が守備を固めていたが、小競り合いを演じた程度で武器(使い物にならない旧式の火縄銃等)を捨て敗走している。

仁井町から三春へ向けての道案内は、仁井町と堀越村の神官二名が務めている。

八月三日には田村郡の神官を中心 に官軍の護衛隊を結成、先導、連絡、渉外、慰霊の任にあたる。
この者たちが明治の神仏分離・廃仏毀釈では、打ちこわしの煽動者となる。

ニ本松藩約50人は、ニ十六日早朝、三春兵が案内人として守山方面に向け出発させ、赤沼村に待機させている。
この機会を待っていたように、中通りの西軍が三春めがけて進攻してくる。






ニ十六日午前十時に「政府軍米たる」の非常を告げる早鐘・早太敷三つ重打ちが鳴り響いた。

三春藩はもともと恭願する事前工作ができているから、藩主後見役秋田主税をはじめ家老たちが柴原村や貝山村、鷹巣村へ出向いて恭願を願い出た。

棚倉以来、意の通じている西軍の断金隊隊長の美正貫一郎(土佐藩下級藩士)のはからいで恭願・無血開城が叶います。

太鼓の音で城下は大騒ぎになり、数日前から家財を運搬、妻子を在方に預けた者もあったが、町人は逃げて行く者が多くなり、家も家財を整理して婦女子を逃がしたという
ニ十六日の昼ごろには、政府軍の城下入りが始まった。

西軍の最初は中津川村を経由した一隊で、太敷や笛を鳴らして隊列を整えながら柴原道より三春へ入った。

その数は2000人ほどで弾薬や荷物がいっぱいあった。やがては、貝山や鷹巣道からも官軍は来訪、さらには守山筋からも三春城下に入ってくる。その総軍勢5~6000人、ほかに人足1〇〇〇人ほどであったという

ニ十七日には磐城口の軍勢6000人、ニ十八日に3000人というように続々と西軍が入ってくる。三春町村の人口は一挙に3倍半にふくれあがり、家中、町家をとわず分宿し、まるで市のようににぎやかだった。

戦火をまぬがれた町民は、夜中も休まず苦にしないで働き、互いの無事を喜び合い政府軍を歓待したという。

三春藩は無事「無血開城」を済ませたが、新たに政府軍征討戦争の全面協力という仕事が待ちかまえていた。

三十六日午後六時過ぎには、ニ本松攻めの先発隊400人ほどが出発し、ニ十七~ 八日には近村から微発した軍夫を動員、三春兵の道案内で本宮·二本松へと兵を繰り出した。






ニ十七日には、西軍参謀局軍監局より後見役秋田主、家老荒木国之助、小野寺舎人が呼び出されている。

そのどき、「御居城・御領地・兵器・人民・共に追って沙汰あるまで預かりおく」、「諸事是までの通り」はよいとしても、「役は勿論、万端さしつかえないように心得よ」と申し渡された。

主な賦役には、 「西軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「西軍の諸藩の道先案內」「参謀局会計局の世話」(はじめ 御殿、後に総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(西軍のために竜穩院に設置、病院内で死亡した者六6~7O名)などである。

会津攻撃に際しては「中山口へ兵隊五十人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬」を命ぜられ、人足達は最前線で弾薬を背負い兵隊に付き添って戦場を駆けめぐったのである。

三春近辺はもとより領内全域から徴発された人足は、多少の分補り品を持ち帰ったものの、みな死に物狂いであり、実際死亡した者も十教名に及んでいる。

現福島県の主な町は戦火で焼かれたり、戦場と化して荒されたりした(白河、棚倉、植田、平、須賀川、本宮、郡山、二本松、浪江、福岛、若松など)。

三春町は、相馬中村などとどもに無傷で残った。

このことは、明治の新しい世を迎えても、政治経済文化の面で県内有数の都市として残り、にぎわいを見せるのであるが、旧体制が順壊されなかったということが近代化への道にも影響を及ぼすことになるのである。







上記の戊辰の役と三春藩 橋元文書「春陽思ひ附阿津免草」参照は、三春城下検断職(今の米国的な町長職) 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治十四年まで日記風に書き留めておいた橋元文書を参照して執筆しています。

薩長などの西軍を途中から官軍と表記しています。


この「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されていて、貴重な資料と共に江戸末期から明治への転換期を体験した三春人の息遣いが感じられます。

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春の宵 三春城下の山道散歩  



春の宵 三春城下の山道散歩  













体力増進とダイエットのために運動です。

私の、お昼の時間がないために夕食とお昼が一緒になってしまいます。









ゴミを拾いながら夕闇迫る宵の1時間









真照寺~恵下越歩道~御城山~東館~大元帥明王社(田村大元神社) 








免疫力アップ!






コロナ騒ぎですが、三春城下の春は、何といっても稼ぎ時です!

毎日、夜明け前より仕事です。






尚、三春昭進堂の三春花見だんごは、前年度を参考にしてその日分を製造していますが、当店では朝生ものとして販売いたしております。


午後の早めの段階で売れきれの場合は追加で製造しています。

もちろん、保存料は使用していませんので、翌日には硬くなります。

また、前日の売れ残りは販売いたしません。

夕方には売り切れてしまいますので、ご予約をお勧めいたします。







第2回三春一夜城 昭和63年?より 最後の一夜城




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