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秋田氏藩政時代、三春城下町村の役方




秋田氏藩政時代、三春城下町村には、検断(町役人、延宝六年後は3人)5人、町年寄10人 (同七人)を決め、大町、荒町 、中町、八幡町、北町、新町の各町に、小肝煎・長町人を1人ずつおいていました。

その他の村は、幾つかの代官の管轄下に分かれ、村ごとに庄屋(以前は肝煎と称し、ニ2~3ヵ村に1人)をおき、その下に庄屋補佐役どしての組頭や長百姓を数名おいていました。
また、庄屋の中で特に有カな者を割頭として代官所ごとに年番で当たらせていました。





尚、庄屋の大部分は、戦国時代の田村家旧臣からの館主を含む郷士から帰農した者でしたが、庄屋役の林の売買も公然と許していたため、百姓に代わる村もありました。
ことに天明の飢鐘 以降は変化が著しく、2~3の村の兼任庄屋もみられます。







庄屋や組頭には役料として土地を給されたり、米が与えられたりしていました。









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
三春藩駒奉行 徳田研山三代の墓





徳田研山三代の墓

荒町竜穏院、向って左手の丘の中腹に、徳田家の墓がある。

研山の名で、馬の絵をよく描いた、好時、好展、甘露の、いわゆる徳田三代-研山三代の墓が列んでいる。

初代研山は三之丞好時、七代藩主倩季(よしすえ)に仕え、大坪流の馬術を修め、天明4年5月に駒奉行所に召出され添役となり、文化4年奉行に昇進、文政3年には江戸邸監に補せられている。

天保2年死去。


三之丞は絵を学び、山水花鳥も画いたが、特に武者及び馬の絵に秀でていた。

羅漢や鹿山との交友も深く、藩主も之を賞その絵を封外に出すことを禁じた程である。


初代研山は、絵を学ぶ道は、画帳を摸写するだけでなく、自然の風物を写生することが大切だとして、放牧馬の写生に専念したという。

その作品は地方の旧家で見ることが出来るが、荒町の馬頭観音と三春大神宮(文化14年奉納)の絵馬額が絶品と言ってよかろう。







二代研山好展は通称三平、弘化3年大坪流馬術の皆伝を受け、嘉永4年に駒奉行になっている。

父の画才を継いで、やはり、馬絵をよくした。

大作として現存しているものは、荒町馬頭観音の献額、法華寺天井の龍の図がある。

なお、三春大神宮の木馬像は、石森の伊東光運の作だが、その下絵と製作指揮は、この二代!研山だったと伝えられている。



三代研山も三平といい、甘露とも号した。

藩政末期から明治にかけて、これも専ら馬の絵をかいたが、その作品は、到底父祖の雄渾さには及ばなかった.




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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江戸幕府外国奉行平山謙二郎 省斎(せいさい) 最後の将軍徳川慶喜の側近 
平山省斎(せいさい)は、本名・平山謙二郎、省斎は号。

三春藩士黒岡氏の出身。

江戸に遊学。
嘉永三年、幕臣 小普請組平山源太郎の養子となる。

安政元年(1854)堀織部正に従って蝦夷地を巡察し、安間純之進とともにアメリカ軍艦の応接に当り無事に退去させます。

後に江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の側近として外国奉行などをつとめる。


文久2年(1862)箱館奉行支配組頭勤方、同3年組頭となり、慶応2年(1866)外国奉行に任じ、同3年若年寄に昇進しますが、幕末動乱の中で徳川政権の終焉を見届けます。

明治維新にて徳川慶喜静岡移住に伴い平山も慶喜に随行して静岡に移る。


維新後、静岡にて本庄(松平)宗秀より永世と神道の奥義を学ぶ。東京の日枝神社や大宮の氷川神社の神職となり、神道大成教を創始しています。


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明治二年五月銘々書出候仏神取調 右之通二御座候 巳五月  橋元伝兵衛
明治二年五月銘々書出候仏神取調

馬頭觀世音/勢至菩薩   修験別当 華正院

八幡宮/牛頭天王     修験別当 大光寺  修験別当 改名 鈴木大学

三渡大権現 (込木村鎮守)   修験別当 常楽院 改名 田母野衛

山王大権現     修験別当 普明院 持来り改名 安田但馬

雷神堂    修験別当 天台宗 無住 寶(法)憧寺 院代 

自然不動明王   修験別当 来迎院 改名 川前丹波 (紫渓)
多賀明神

弁財天/児守稲荷  修験別当 吉祥院 改名 手代木上野

薬師如来    真言宗 無住 明王院 兼帯泰平寺

西宮大神宮/松尾大明神  和光院 堂宮無御座候 跡地面 吉祥院建兼務
          社家 藤宮勇之進(藤泉勇之進か?) 蛭子社人山田伊織

愛宕将軍地蔵大権現   真言宗 無住 西福寺  兼帯 泰平寺 

丈六薬師如来    真言宗 無住 万(萬)福寺 兼帯 泰平寺

守城稲荷大明神/天満大自在天神
秋葉大権現/愛染明王   真言宗 無住 般若寺  兼帯 泰平寺

若一王子大権現/大日堂  天台宗 無住 若王子 院代

秋葉大権現/関場大明神(李田村鎮守)
星宮大権現(李田村鎮守)/王子大權現(楽內村鎮守)
飯渡大権現(芹ヶ沢村鎮守)    修験別当 智法院 秋元有桂

千手觀音  天台宗 無住 清水寺 院代

主夜神     浄土宗   紫雲寺

稲荷小社    浄土宗 無住 光岩寺 院代 光善寺

熊野大權現   時宗  法蔵寺

文殊菩薩    真言宗 無住 文殊院 兼帯眞照寺納所

阿弥陀如来/子安観音  真言宗 陽照寺 兼帯眞照寺納所

十一面觀世音菩薩   済家宗 福聚寺

鬼子母神尊塔    法花(華)寺 無住 法花(華)寺





右之通二御座候

巳五月

光善寺 専修寺 光照寺 成就院

右堂社無之旨院代)書上且銘々寺院書出者典市事樣二而口上之事

橋元伝兵衛




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
春の宵 三春城下の山道散歩  



春の宵 三春城下の山道散歩  













体力増進とダイエットのために運動です。

私の、お昼の時間がないために夕食とお昼が一緒になってしまいます。









ゴミを拾いながら夕闇迫る宵の1時間









真照寺~恵下越歩道~御城山~東館~大元帥明王社(田村大元神社) 








免疫力アップ!






コロナ騒ぎですが、三春城下の春は、何といっても稼ぎ時です!

毎日、夜明け前より仕事です。






尚、三春昭進堂の三春花見だんごは、前年度を参考にしてその日分を製造していますが、当店では朝生ものとして販売いたしております。


午後の早めの段階で売れきれの場合は追加で製造しています。

もちろん、保存料は使用していませんので、翌日には硬くなります。

また、前日の売れ残りは販売いたしません。

夕方には売り切れてしまいますので、ご予約をお勧めいたします。







第2回三春一夜城 昭和63年?より 最後の一夜城




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 




「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 


三春在方鷹巣村の名主か組頭を務めていた橋本梅右衛門の資料です。

村の長として業務上の資料として使用して(写)いたのではないかと思われます。





  

『五人組』は、近世の村方及び町方支配のために設けられた、五戸の単位による近隣組織です。

 その主な目的は、相互監視と連帯責任にあるとされますが、住民同士の互助と言う意味合いもあったようにも見受けられます。

 『五人組帳』は、五人組の構成員が署名押印した帳簿と、守るべき法令を記した『前書』とで構成されていました。


五人組御仕置帳
   条々
 一 前々従 公儀度々出候御法度

   書之趣弥以堅相守御制法之儀
   
  不相背様ニ村中小百姓下々迄 可申付事

・・・・








五人組仕置帳は、前記の五人組の趣旨と共に宗門人別改の意味もあり、五人組の相互・連帯責任を負わせて、キリシタン禁制の徹底を図ったとも読み解かれ、宗門改. と五人組の両制度の充実をうかがわせるものとなっています。



三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂



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三春藩御用證書 「名字帯刀仰付相続状」



三春藩御用證書 「名字帯刀仰付状」


万延元庚申年

鷹巣村名主 橋本梅右衛門(二代)から、三春藩庁への家督相続願い。


鷹 巣 村
橋本梅右衛門 (※二代目)
倅 忠助(※三代・婿養子忠兵衛)

梅右衛門儀近年病身ニ相成
御城下往来不自由二相成候ニ付
竈頭倅忠右衛門江相譲度旨
無余儀事ニ付、願之通申付候
依之忠右衛門江親代之通、栗原
新田弐石為給地、永々被下代々
苗字帯刀 御免御目見被
仰付候
十二月廿八日







三春藩主秋田安房守から同橋本梅右衛門あてに名字と帯刀、及び栗原新田差配を後継である婿養子の忠右衛門へ許すことを認めた文章です。



鷹巢村
橋本梅右衛門

右之者 天保十四卯年
献金之訳ヶ以代々苗字
家內人別改 御免
被 仰付候処、右之奉
報御恩沢度、志願を被控
当年於 龍穏院様重
記御年回被為を御法
会前御破損、則御修
覆之後 承知仕候二付
嘉永七寅年御用
才覚金三分、船田久
五郎方より譲受候、嘉永四
年御証文金七両江
今度被仰付候、才覚金
壱両外二金四両継金
仕、都合金拾弐両三分
右為御修覆料指上度
旨、願之通可指上右躰
願置候様、兼々豊事 (※豊事 = 法事)
出情之故 之義、尤之
事二付、為御褒美栗
原新田弐 石為給地、永々
被下代々苗字帯刀
御免御目見被
仰付候

万延元庚申年
四月二日
御用向被仰付候

橋 本 梅 右 衛門








名字帯刀の他に「栗原新田」の差配許可の継続を記されています。


「栗原新田」

江戸期の三春五万石秋田藩政下、寛文年間のころに、時の三春藩郡奉行栗原兵右衛門は、領内の村々にある荒地や未開拓地の開墾指導を行いました。
 このとき開墾された新田を「栗原新田」と総称しました。



栗原新田は三春藩領全域におよび、約二十年後の享保十七年には新田総石高は738石に及びました。
 後に発生する、天明期や天保期の凶作による飢饉では、東北諸藩では犠牲者が続出する中で三春藩の犠牲が少なかったのは、この栗原新田が寄与すところも大きいと考えられます。


本文中に記載されている橋 本梅右衛門末裔の鷹巣の橋本様よりお預かりしました。




三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂




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