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中津川鎮守 中津川神社 (旧菅布祢大明神)




中津川鎮守 中津川神社 (旧菅布祢大明神)


祭神 猿田彦命






社殿に掲げられてある「大東亜建設」の扁額が目を引きます


日本のみならずアジアの平和を祈願したものでしょう。








陸軍大将、男爵奈良武次の謹書による扁額「大東亜建国」が掲げられていました。

日清・日露戦争での活躍し、陸軍の官制改正問題、対華二十一ヶ条要求問題、中国第三革命への関与、シベリア出兵問題などにも関わっています。

東宮武官長、侍従武官長として、皇太子訪欧の随行から張作林爆殺事件、五・一五事件、満州事変勃発期まで、つねに昭和天皇の傍らにあった方で枢密顧問も務められました。

日本政治外交の大きな節目に重要な任務に就いていました。









三春田村氏一門より100年位前。


応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。


田村庄司田村氏のころです。

三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。

その頃の中津川城主に中津川千々代丸(なかつがわちぢまる)という名前が見えます。

当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

中津川千々代丸は、伊達氏に味方していましたが、田村伊達家の和睦により田村氏に降ったとされていますが、中津川氏が千々代丸という名称で記載されていますが、当主が元服前なのか個人ではなく集団なのか・・・いずれにしてもその後の行方が分かりません。






後々にも田村領城郭要害絵図に中津川城は記載されています。

城郭も三つの郭を持つ大きな城になっています。


中津川氏退去の後の中津川舘には、戦国大名三春城主田村氏の一門衆中津川兵部が居城しています。

兵部とは、中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継いだと考えられています。

 ※橋本刑部少輔顕徳の弟か息子との口伝あり



田村四十八舘の南の要害としていました。

田村三代清顕亡き後の岩城氏による田村庄進攻に際して岩城氏が拠点としています。


義顕公の正妻は岩城の娘です。







中津川城 歴代城主

南北朝時代の応永11(1404)年 中津河参河守秀清

仙道国人一揆連判状(結城文書ほか)に記載アリ


天文十年(1541)、

中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城を残して細田城及び田原谷城(小野町夏井)を破棄した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。

常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。

田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。

さらには、一度離反し反田村となった、常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。

このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます


田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ

天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。

天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ 

天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐

天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)

天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死  郡山合戦

天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ

時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。

この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。

6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より

天正十八年六月

去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様  「貞山公治家記録」より

中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。



三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 03:35 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
天正16年(1588) 相馬義胤三春入城失敗



天正16年(1588) 相馬義胤三春入城失敗


三春城主田村家三代田村清顕の突然の死により、田村家中は清顕の奥が出身の相馬氏と、娘婿伊達政宗の伊達氏とどちらに今後の田村家の行く末を暫定的に後見してもらうかと二分していました。

その混乱の最中、天正16年5月12日、 相馬義胤は三春城乗っ取りの為に入城を謀ります。

相馬勢が三春城の途中まで登った時に、その動きを事前に察知した伊達派重臣橋本刑部らの迎撃によい、弓・鉄砲を浴びせられ、乗馬の平頭に鉄砲玉が当たったので、馬を乗り返して東の小口(虎口)に回りこみますが、ここでも弓・鉄砲を射掛けられ、ことに三春城は堅固な山城の為に相馬勢は攻略しかね入城は果たせなかった。

後に相馬勢の騎馬武者200騎と弓・鉄砲が続かはずでしたが、遅参して役に立たず、義胤は築館にも相馬にも帰れず、船引城に立て籠ります。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
柳橋 「町裏舘」、「太古山舘」 田村四十八舘



柳橋 「町裏舘」、「太古山舘」 田村四十八舘






三春城下の南三里余、江戸期は、幕府直轄の天領であった柳橋。

藩政から離れた天領であったため、柳橋歌舞伎などの芸事が栄えました。


現在も、この歌舞伎は伝承継承され、9月15日に歌舞伎伝承館(黒石荘)で開演されます。

戦国期には、町裏舘や、太古山舘などがあり三春田村氏の要害田村四十八舘の一翼を構築していたと思われますが舘主は不明です。





このお寺は、柳橋町向にある、真言宗龍頭山宝蔵寺です。



三春城下真照寺参道 三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 07:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
「中津川館(なかつがわたて)」


中津川城・舘(なかつがわたて) 中津川 


天正年間、中津川次郎右衛門 太夫中津川兵部が居住。

※三春田村氏一門より100年位前。応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。

田村庄司田村氏のころです。

後に、三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。

その頃の中津川城主に中津川千々代丸という名前が見えます。

当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊
東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

中津川千々代丸は、伊達氏に味方していましたが、田村伊達家の和睦により田村氏に降ったとされていますが、中津川氏が千々代丸という名称で記載されていますが、当主が元服前なのか個人ではなく集団なのか・・・いずれにしてもその後の行方が分かりません。


後々にも田村領城郭要害絵図に中津川城は記載されています。

城郭も三つの郭を持つ大きな城になっています。

中津川氏退去の後の中津川舘には、戦国大名三春城主田村氏の一門衆中津川兵部が居城しています。

田村四十八舘の南の要害としていました。

田村三代清顕亡き後の岩城氏による田村庄進攻に際して岩城氏が拠点としています。

義顕公の正妻は岩城の娘です。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:47 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
「鬼生田舘」




「鬼生田舘」

三春城下の西二里余にある、旧鬼生田村。


平氏田村一族伝説が残る鬼生田一族の所領としていました。


時を隔てて戦国期には、三春城主田村公の家臣鬼生田惣右衛門が西方与力二十五騎とともに田村四十八館の一つ「鬼生田舘」に駐留して西の要としていました。







曹洞宗鬼生山廣度寺は、平将門の末裔とされる平氏田村一族、鬼生田城主鬼生田弾正顕常公が大同年間(806年~810年)に開かれたと伝えられています。


三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:12 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
田村四十八舘「黒木舘」




戦国大名三春田村氏の御幕下衆の重鎮の黒木信濃守居城、田村四十八舘「黒木舘」があり、三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。





その館跡付近には、黒木太子堂や元松山桂蔵寺がありましたが、太子堂は城下真照寺に移され、現在は新築となった桂蔵寺の道内に太子堂が安置されています。






三春城下南、三里にある旧黒木村にある再建された元松山桂蔵寺です。









三春城下 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
「牛縊城 白石館、八幡館」  田村四十八舘





「牛縊城 白石館、八幡館」  田村四十八舘


三春城下の南西、二里余。

旧牛縊村は、戦国大名三春田村氏の要害田村四十八舘牛縊城 白石館、八幡館があり。





城主牛縊五郎右衛門が城主を努めていました。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |