2025-10-31 Fri
「八幡様の秋祭り」 三春城下八幡町鎮守八幡神社秋季例大祭
十五夜の日に、三春城下八幡町の八幡神社では秋季祭礼が執り行われ神様に五穀豊穣の御礼と氏子平穏の祈願をされていました。
この八幡神社の祭礼は、春と秋の2回催行されています。春の祭礼は、ご承知のように、4月の第3日曜日にその年の農作業の始めに当たり、五穀豊穣を祈願して開催され、御神輿渡御と先払いを勤める長獅子が三春城下に春の訪れを告げています。
そして秋の祭礼は、旧暦の8月15日(中秋)。十五夜の“中秋の名月”の日に社殿に於いて行われています。
三春城下の八幡様をはじめ全国の八幡神社の秋季祭礼が旧暦の中秋とするのは、鎌倉「鶴岡八幡宮」の例大祭、放生会に由来すると考えられています。
鎌倉幕府について書かれた『吾妻鏡』に、文治3年(1187)8月15日(旧暦)に「放生会」と「流鏑馬」が始行されたと記され、これが例大祭の始まりと伝えられています。
※現在の鶴岡八幡祭礼は、明治6年の旧暦から新暦へ移行した際に今の暦9月15日となり現在に至ります。
明治2年(1869)、明治維新後の廃藩置県、そして神仏離反、廃仏毀釈等を経て「八幡宮」も「八幡神社」と改称されますが、祭日は引き続き十五夜(中秋)に定められました。
しかし三春藩五万石領内の総鎮守だった太元帥明王(現田村大元神社)も、城下の総鎮守様として三春大神宮へ変更され、その例大祭も10月の1日から3日の日程となります。
それを受けて八幡様では、祭礼が旧暦の十五夜ですと、その年によって日にちが移動し三春大神宮例大祭と祭礼日が重なることがあるために、祭礼遂行に不都合が生じてしまうので、八幡様の祭礼日は春4月の第3日曜日に変更されました。
尚、長獅子奉納は、明治維新の後なので江戸時代にはありませんでした。
八幡町鎮守八幡神社(旧八幡宮)の御祭神は「品陀別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)」神社明細書によれば、天文年間京石清水より勧請とあり、三春田村氏二代隆顕公の治世です。
この応神天皇は、武家の棟梁源氏をはじめ武士の信仰が厚く、勝負の神、弓の神や出世開運の神としても崇敬されました。
家内安全・商売繁盛をはじめ、勝負の神・武神として必勝祈願や心願成就の御利益があり、また厄除八幡とも称され厄難や病などに打ち勝つ御利益のある神様として厚い信仰がよせられております。
三春の御城下は桜川の氾濫原を埋め立てた所で、特に八幡町の道は八幡小路とよばれた細道でありました。八幡様の参道は、雁木田西奥の桜川右折部から設けられ、雁木田から八幡町下手、丈六から鶴蒔田にかけては、かつての湿田を開拓されて広がった場所とされています。
八幡様といえば武の神と思われがちですが、もともとは開拓の神で、秋田候入府時の移設等、諸説ありますがこれらの田畑の守神として勧請されたと考えられています。
十五夜の祭礼にはこんな話も残っています。八幡様旧参道、八幡町末の三春城下旧会津街道口の左側にあったとされる、石造の大手水鉢(現在は無し)、通称“八幡様の化粧清水井戸”とも呼ばれていた巨石を掘り窪めた石の手水鉢で、祭礼参詣の行きかえりの際には、十五夜の月がその水面にあることを愛でながら、「今年の五穀豊穣を八幡様に感謝していた」というもの
で、三春人としては一興。風情がありますね。
また、八幡様の化粧清水井戸は、旧会津道口や若松道口から城下に入る人、関東道・近世の江戸道から城下に至る人々が汲み、身支度を整えるための化粧水や水鏡として使用された井戸と伝わっています。
かつての八幡小路(現八幡神社参道へ通じる道)は、三春川(現・桜川)を渡る八幡様(八幡宮)参道沿いにあることから、城下への出入り口にある亀井清水、新町末化粧坂清水と同じく大勢の方々が利用したと考えられます。
今年の「十三夜」は11月2日(日)。
今週末の三春秋まつりには八幡町若連をはじめ、八雲神社(荒獅子保存会)、そして田村大元神社別講中が長獅子(大獅子)を奉納します。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 20:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町::八幡神社 |
2025-10-06 Mon

八幡神社秋季例大祭 春八幡様の秋祭り
八幡神社の祭礼は、春と秋の2回催行されています。
春の祭礼は、4月の第3日曜日にその年の農作業の始めに当たり、五穀豊穣を祈願して開催され、八幡様の御神輿渡御と先払いを務める長獅子が三春城下に春の訪れを告げます。
そして秋の祭礼は、旧暦の8月15日、十五夜-中秋の名月の日に社殿に於いて行われています。
この秋季祭礼は、別火講中と称して作物の実りに対する収穫に対する感謝の色彩が強い祭りと言われています。
現在の春祭りに合わせて遂行される八幡様の御神輿渡御の例大祭は、明治維新前まで前記の陰暦の8月15日(中秋)でした。
長獅子奉納は、明治維新の後なので江戸時代にはありませんでした。
明治2年(1869)、維新前は八幡宮としていた八幡神社と改称し、祭日引き続き十五夜に定められます。
尚、明治維新から廃藩置県、神仏離反、廃仏毀釈等を経て、三春の領内鎮守だった大元帥明王(現田村大元神社)から、三春大神宮へ変更され、その例大祭が10月の1日から3日となりました。
※陰暦のため十五夜の日にちが移動して三春大神宮例大祭と日にちが重なったりと不都合が生じ、日程が近いということで、春4月の第3日曜日の春季例大祭に変更されました。
八幡町鎮守 八幡神社 御祭神 品陀別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇) 旧八幡宮
神社明細書によれば、天文年間京石清水より勧請とあり、三春田村氏二代隆頭の治世で、愛姫が生まれる一寸前の時期にあたります。
三春の御城下は桜川の氾濫原を埋め立てた所で、特に場外となる八幡町の現国道は、八幡小路とよばれた細道でありました。
八幡宮の参道は、雁木田西奥の桜川右折部から設けられていました。
雁木田から八幡町下手、丈六から鶴蒔田にかけては、かつては湿田が拓かれていたと思います。
八幡といえば武の神と思われがちですが、もともとは開拓の神で、これらの田畑の守神として勧請されたのでしょう。
八幡大神の御祭神である品陀別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇) は、武家の棟梁源氏をはじめ武士の信仰が厚く、勝負の神、弓の神や出世開運の神としても崇敬されました。
家内安全・商売繁盛をはじめ、勝負の神・武神として必勝祈願や心願成就の御利益があり、また厄除八幡とも称し、厄難や病などなどに打ち勝つとして厚い信仰がよせられております。
三春城下八幡様参道の大井戸
三春城下より会津へ通じる会津街道口は、八幡町末踊り場にある旧おどり場商店と現アクト(床屋)の間を通る会津街道沿いの左側のあった清水です。
当時は、巨石を掘り窪めた石の手水鉢があり、その手水石が道しるべとなっていたようです。
この旧会津・若松街道から城下に入る人、関東街道・近世の江戸街道から城下に至る人々が汲み、そして、身支度を整えるための化粧水として使用された清水と伝わっています。
かつて、永井家の先で会津・若松街道は右折していましたが、八幡小路(現八幡神社参道へ通じる道)は、道を直進し三春川(桜川)を渡る八幡宮参道沿いにあることから亀井清水と並ぶ大
勢の方々が利用したと考えられます。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:50 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町::八幡神社 |
2011-12-21 Wed
昭和49年5月放送
NHK「新日本紀行・山の 城下町で」【ナレーター】福本義典
山の城下町~春の訪れを告げる八幡神社祭礼~です。
約40年前ですかね・・・・
私が子供のころ、祭礼や盆踊り、そして街並みなど、テレビの収録が三春各地で行われていた時期があります。
当時「ディスカバー・ジャパン」小京都・小さな鎌倉
山陰の小京都と呼ばれた津和野は、水路に鯉が泳いでいることは当時有名になリました。
今でも、津和野での、この風情は素敵ですね!
それまでは、若い女性が旅行をすることは日本ではあまりなかったのですが、1970年の
大阪万博で国内旅行が定着し、その後当時の国鉄が「ディスカバージャパン」のキャンペーンを始めました。
ディスカバー・ジャパンとは、1970年10月から、当時の国鉄が大阪万博後の旅客減を想定して始めた、紙媒体および映像による一大キャンペーン。
名所や旧跡を急いでまわるのではなく、郷土料理や、名産のお菓子をゆっくり楽しむ
“癒し”がテーマの旅。
川端康成のノーベル賞受賞講演をもじった「美しい日本と私」なるコピー、作詞家の永六輔出演のTV番組『遠くへ行きたい』とのタイアップなど、新しい広告戦略が展開された。
キャンペーン全体として、陰りを見せ始めた、これまでのような団体旅行ではなく、個人旅行の増大をもくろんだものであった。
そのため、「日本の発見、自分自身の再発見」がキャンペーンのテーマに設定されます。
同じころに、ファッション雑誌“an・an”“Non・no”が旅先を紹介し、1978年の山口百恵の「いい日旅立ち」のヒットでブレイクしたのは、覚えている人多いんじゃないでしょうか。
アンノン族とは、1970年には『アンアン』、翌71年には『ノンノ』が創刊され、両誌は各地の「小京都」「小鎌倉」金沢や高山、倉敷・萩・津和野・小樽、そして三春などの街並み、信州の宿場町妻籠・馬籠などを特集した。
これにより、若い未婚女性の個人もしくは小グループでの旅行というスタイルが生まれ、同キャンペーンの相乗効果で、“アンノン族”と呼ばれるようになります。
当時は、まだ“おやじ”が旅の中心で、旅行といえば夜の大宴会が楽しみでしたが、歓楽色を廃し、女性観光客を呼び込むことができるかどうかというわけで、「アンノン族」に紹介された観光地は、いわゆる「小京都」「小鎌倉」とよばれるような、落ち着いた静かな歴史を感じさせる“おしゃれで静かな街”でした。
当時、「アンノン族」が訪れた観光地は、今でも「何々の小京都」「何々の鎌倉」と呼ばれるところが多く、いまでも素敵なところが多いですよね。です。
さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 05:47 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町::八幡神社 |
2011-12-20 Tue
三春城下末、八幡町にある八幡神社春季祭礼の長獅子による先払い宮立の様子です。
こちらも約20年前の映像になります。
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
古の昔、東北に北の王国を築き、五大洲(世界各国)と交易をしていた秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。
「10年は一昔」といいますが20年となると懐かしさが倍増です。
みんな若い!

さすけねぇぞい三春!
三春昭進堂 髙橋龍一
| ryuichi | 06:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町::八幡神社 |
2009-04-14 Tue
八幡町鎮守 八幡神社 旧八幡宮
神社明細書によれば天文年間京石清水より勧請とあり、三春田村氏二代隆顕公の治世で、愛姫が生まれる一寸前の時期にあたります。
三春の市街地は桜川の氾濫原を埋め立てた所で、八幡町の現国道は、八幡小路とよばれた細道でありました。
八幡宮の参道は、雁木田西奥の桜川右折部から設けられていました。
雁木田から八幡町下手、丈六から鶴蒔田にかけては、かつては湿田が拓かれていたと思います。
八幡といえば武の神と思われがちですが、もともとは開拓の神で、これらの田畑の守神として勧請されたのでしょう。
恒武天皇が即位したとき勅使を宇佐八幡宮に遣わして大菩薩の尊号を贈り、南無八幡大菩薩の称名はこの時に始まります。
宇佐から京都石清水に勧請の際、西国筋に多く祀られ、源氏の氏神となって鎌倉に勧請されると東国にも数多く祀られて、神は八幡といわれる程になりました。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町::八幡神社 |
TOP PAGE △









