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三春城下中町、愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養



三春城下中町、愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養


中町の愛宕神社山内への参道中腹左にある旧中町児童公園跡の朽ち果てた姿のお地蔵さまの補修が、有志の方々いよって行われました。






中町鎮守の愛宕神社は、明治維新前は三春城下の火伏の神様である愛宕権現(愛宕将軍地蔵)を祀った愛宕社です。


その祭事を司る塔頭である修験の庚申、大光寺、西福寺が愛宕社が愛宕山にはありました。






愛宕社山内への参道階段の中腹にある旧中町児童公園は、他中の一つ庚申(大光寺?)があった場所です。



補修完了後、皆で線香をあげて供養いたしました。







明治維新後の廃仏毀釈の際に落とされたお地蔵さんの頭が、150年ぶりに付きました。







そのあとは、直会です。


会場は、お地蔵様のある庚申跡の敷地内にある中町若連の太鼓練習場です。







外には御城山を望み城下を一望しながら供養のお酒を一献!







さわやかな、済んだ秋空のを望みながら親しい方々と酌み交わす般若湯はさいこうです!








ソーシャルディスタンスをキープしながら、各々様々な話で大いに盛り上がり・・・・



〆は中町らしく「中町山車太鼓」








三春城下に馬鹿囃子が響き渡ります。



戦国末期の慶長十八年(1613年)、時の三春城主、会津城主蒲生氏郷の三春城代蒲生郷治は、三春鎮護と火伏せ当を祈念して、京都嵯峨野にある総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀りました。

それ以後、愛宕堂は塔頭である庚申や西福寺・大光寺には代々法印が居住してご祭神を守護してきました。


本殿は、神仏習合の名残から奥の院と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が納められています。







秘仏とされ二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあり、古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競争に打ち勝ち、或は貧虚から免ぜられるといわれ、三春城下の人々の信仰を集めてきました。

明治維新後には、この勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められましたが、勧請の時とみられる勝軍地蔵尊の小像が現愛宕神社に残されています。








もう一つの塔頭愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡にある西福寺第三のお地蔵様







愛宕神社から一段下の南東面、参道中腹右側に位置する平場に堂字がありました。


宗派は真言宗、 愛宕社の別当寺院であったと言われていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われます。






江戸時代後期に無住寺となりました。近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は本堂も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。


また、旧山内の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。

六地蔵があったことが推定されますが、近年の急傾斜地の整備と共に姿を消しました。





三春城下清水 天狗谷


三春城下清水の天澤寺参道西側の地区を”天狗谷”とよんでいますが、正式な地名ではありません。

元々修験の行者が管理する愛宕将軍地蔵尊を祀ったお堂があった場所とされています。

約350年前、江戸期の三春城主秋田家が宍戸より三春へ移封の際に、愛宕地蔵堂を城下中町へ移築し、秋田より移設した古四王堂(後に真照寺境内へ移築)の御借屋があった場所でした。




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| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |
文久三年、城下中町「山崎屋」奉納石灯籠 愛宕神社




三春城下中町鎮守である愛宕神社

その境内、参道階段の最上部にある石灯籠です。

文久三年、城下中町「山崎屋」治兵衛の奉納名があります。






文久年間といえば江戸幕府末期、いわゆる幕末です。

京都では、幕末動乱の真っ最中です。

先の生麦事件の報復である「薩英戦争」が勃発し、京都では、三条実美・沢宣嘉など尊王攘夷派公家「七卿」と長州藩兵千余の人が長州に落ち行き、後に「七卿落ち」で知られる薩摩・会津主導による「八月十八日の政変」が起きて、畿内より長州藩が一掃されたころです。








また、これに関連して尊王攘夷による蜂起の「天誅組の変」・「生野の変」などが発生しますが、いずれも討伐されています。

そんな血生臭い情勢も、三春城下にも届いていると思われる時期と思います。







灯篭奉納の十年前にペリー来航以来があり、国難が囁かれはじめ、三春藩でも藩軍備の西洋化が図り新式カノン砲実弾訓練などが行われていました。

また、藩の借財も五万三千五百両と膨大な金額に膨れ上がったころでもあります。





先の本陣川又氏の灯篭奉納が文久二年ですので、世情不安の中で三春城下の守り神である愛宕神社(当時は愛宕権現)に城下平和祈願方の奉納かなあと考えています。

尚、子の翌年の元治元年には、水戸天狗党の乱が発生し三春藩は日光警備を命じられ藩主以下三春藩兵が出張しています。








中央では、新選組による浪士捕縛「池田屋事件」がおこり、先の政変で殻の禁門の変(蛤御門の変)は勃発し、長州藩が御所を攻撃しますが敗走します。
そして、第一次長州征伐、アメリカなどの四国艦隊が長州藩の下関砲台を占拠等々、戊辰の変、そして、明治維新へまっしぐらに突き進んでいきます。







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| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |
愛宕神社 二ノ鳥居




愛宕神社の100段ある石の参道階段

その険しさは三春城下でも有名で、愛宕神社か!八雲神社か!といった具合で運動する学生には持って来いの修練場となっているようです。

その中段に石で造られた二ノ鳥居が奉納されています。





年号は戊寅としるされています。

風化の具合からして1818年の文化15年(文政 元年)かな?と想像しています。

寄進者・世話人の欄を見て驚きましたが、城下中町の「白根屋」の文字が読み取れます。






三春怪奇伝説の中にある「白根屋事件」の白根屋です。

この話は、江戸中期の元禄から天保にかけて繁盛していた、三春城下の旅籠白根屋の物語です。
白根屋旅館は三春城下中町にあって、大体出入りの激しい旅商人相手に、大変繁盛していました。





天保12年の頃、この物語の登場する白根屋の女将は淫奔多情で、用心棒に雇っていた若い浪人者と恋仲となり身を持ち崩すようになりました。

二人は、共謀してある夜宿泊していた絹商人の枕を探して莫大な金子を盗み取ります。

翌朝、その絹商人の客が騒ぎ出すと、永年召し使っていた実直者の女中に罪を擦り付け犯人に仕立て上げてしまいます。

挙句果てには、その女中をがんじがらめに縛り上げて松の根っこに据え付け、浪人者とともに責め苦を与え続けます。

三日目には失神した女中を藁菰で巻いて土蔵の床下に埋め、その客に「この通り懲らしめてやりましたと・・・」ひたすら詫びて、その場を何とか繕いました。







数日後、「白根屋の土蔵から怪しい唸り声が聞こえる!」という噂が城下に広まります。

噂は波紋のように広がり、町検断、与力同心の書留帳にも載り、奉行所の厳しい追及が始まり、白根屋の家宅捜査が進められました。

そして、遂に土蔵の床下から変わり果てた姿でしたが仮死状態の女中が掘り出され救出されました。

女中は、懸命の手当の結果、一命はとりとめることが出来ました。





この女中の証言により、犯人は女将とその若い浪人者であると真犯人が判明し、罪が明らかとなって女将は牢獄につながれます。

秋風肌寒い日、薄い肌着一枚の女将は、御城大手前の責め所お白洲の砂の上に引き出され、黒山の見物人の罵声と役人の責苦の中に狂い死んだということでした。
一方、若い浪人者はいち早く逃げて行方はついにわからなかった。









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| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |
愛宕神社参道階段中段の灯篭 文久二年 川又彦左衛門




愛宕神社参道階段中段の灯篭


三春城下中町にある愛宕神社







その参道の100の石階段の中間に文久二年に奉納された石灯篭があります。






当時、三春城下検断職の「御本陣」当主川又彦左衛門氏が奉納しています。






文久二年(1862年)と云えば、江戸徳川幕府の末期、いわゆる「幕末」です。


この年、生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)で、江戸に上った薩摩の島津久光の大名行列に、女性を含む4人の英国人が馬に乗ったまま割り込み、薩摩藩士に切られたという生麦事件が発生しています。

その11年前の嘉永6年(1853年) には浦賀沖に黒船来航。
そして、安政5年(1858年)からの安政の大獄、そして、翌々年の桜田門外の変~と幕末の動乱が次々と発生して行きます。






そのような世の中の不穏な様子も三春藩国元へは伝わってきていた時期です。

火伏の神様である「愛宕神社(当時は愛宕宮大権現)」へ城下の禍・戦乱回避を祈願して奉納されたものかもしれません。








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| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |
三春物語662番「城下中町鎮守 愛宕神社の本殿」




三春城下中町鎮守 愛宕神社






社由来にいれば、
戦国末期の慶長十八年(1613年)、時の三春城主、会津城主蒲生氏郷の三春城代蒲生郷治は、三春鎮護と火伏せ当を祈念して、京都嵯峨野にある総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀りました。

それ以後、愛宕堂は塔頭である庚申や西福寺・大光寺には代々法印が居住してご祭神を守護してきました。





本殿は、神仏習合の名残から奥の院と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が納められています。






秘仏とされ二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあり、古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競争に打ち勝ち、或は貧虚から免ぜられるといわれ、三春城下の人々の信仰を集めてきました。







尚、現在の本殿建屋は旧三春尋常小学校の奉安殿の遺構を移築したものです。








御神木の大欅







紅葉狩りの名所です。









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| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |
三春物語656番「三春城下愛宕神社の紅葉」


三春城下、中町にある愛宕神社は、やはり紅葉の季節に限るでしょう。
山々がそれぞれに錦秋に彩られるこの季節、北国三春は華やぎます。
錦秋という言葉がありますが、城下」の周囲を囲む山全体、一面にとかはなくても神社にも、家々の庭先にも秋は訪れて、城下町の景色に注し色のように、彩が加わっていきます。
「すそ模様」の衣装をまとった、山々がそれぞれに錦秋に彩られ、小春日和の陽に輝く秋の彩り。



地域の象徴となる歴史、文化的継承物という心のよりどころや、まちに住み暮らし働く人びとの生きざまを未来への宝としながら、自らの手で積極的にまちを創っていこうという気概を持って、果敢に行動する人びとであふれたまちへと進化させていきます。
私たちは、地域が持つ固有の歴史や、自然に発生した生活文化といったものに内在する「三春っ子魂」が現在の時代にも綿々と継承されている地域に学び、人びとが今も大切にしている心のよりどころと地域特有の気質との関係から、理想とするまちに必要な要素を明確にしていきます。
そして、まちにたくさんの人を惹きつけてやまない磁場に、人やまちのために積極的に関わっていこうという気概と、新たなる風を吹き込み、揺るぎない信念を持ちながら次代の担い手へと受け継ぐことのできる心のよりどころへと進化させていきます。
一人の生きざまでも地域の一人ひとりがストーリーテラーとなって互いに影響を与え合い、周囲の人びととの関わりあいを芽生えさせ、まち全体に自分たちの手でまちを創りあげるという前向きな強い力を生み出していきます。


| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |
三春物語162番 三春城下 中町鎮守旧愛宕大権見


<中町鎮守旧愛宕大権現>


 




 

戦国末期の慶長十八年(1613年)、時の三春城主、会津城主蒲生氏郷の三春城代蒲生郷治は、三春鎮護と火伏せ当を祈念して、京都嵯峨野にある総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀りました。

それ以後、愛宕堂は塔頭である庚申や西福寺・大光寺には代々法印が居住してご祭神を守護してきました。







中町鎮守になった時の勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められましたが、勧請の時とみられる勝軍地蔵尊の小像が現愛宕神社に残されています。


秋田家祈願寺真照寺建立の際に仏像を仮安置した聖地とされている場所ですが、天狗谷の地名から愛宕権現太郎坊が連想され、勝軍地蔵が祀られて武士層の信仰が集めていたと考えられます。







本殿は、神仏習合の名残から奥の院と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が納められています。

秘仏とされ二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあり、古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競争に打ち勝ち、或は貧虚から免ぜられるといわれ、三春城下の人々の信仰を集めてきました。

明治維新後には、この勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められましたが、勧請の時とみられる勝軍地蔵尊の小像が現愛宕神社に残されています。




愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡

愛宕神社から一段下の南東面に位置する平場に堂字がありました。
宗派は真言宗、 愛宕社の別当寺院であったと言われていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われます。

江戸時代後期に無住寺となりました。近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は

本堂も墓地も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。
また、旧墓地の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。

六地蔵があったことが推定されますが、廃仏毀釈や急傾斜地の整備と共に姿を消しました。



天狗谷と呼んでいますが、三春城下清水の天澤寺参道西側の地区を”天狗谷”とよんでいますが、正式な地名ではありません。

元々修験の行者が管理する愛宕将軍地蔵尊を祀ったお堂があった場所とされています。

約350年前、江戸期の三春城主秋田家が宍戸より三春へ移封の際に、愛宕地蔵堂を城下中町へ移築し、秋田より移設した古四王堂(後に真照寺境内へ移築)の御借屋があった場所でした。





| ryuichi | 04:33 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下中町::愛宕神社 |