2024-08-30 Fri
三春盆踊唄 唄唱:村田賢治 伴奏:笛・大太鼓・小太鼓・鉦
昭和06年(1931年) コロムビア 俚謡 26361-A
三春櫓音頭 唄唱:村田賢治 伴奏:笛・大太鼓・小太鼓・鉦
昭和06年(1931年) コロムビア 俚謡 26361-B(34729)
懐かしいおレコードが出てまいりました!
クレジットの通り昭和6年、戦前の三春盆踊りの櫓歌です。
現在の三春甚句は、昭和40年代末ごろに城下各字に在った盆踊りを一本化して「三春観光盆踊り」を組織した時に”正調三春盆踊り”、そして。”正調三春盆歌”として造ったもので、私たちが子供のころに新町セリ市場の盆踊りで聞いていた三春盆歌とは違っていたような気がしていました。
私の父親くらいの年代の方に、盆歌の歌詞を聞きますと、今の盆歌とは語呂や符帳が合いません。
それらをずっと不思議に思っていましたが、このレコードを聴いて、その違いからやっと理解しました。
もちろん民謡の三春甚句のお座敷歌とは全くの別物です。
昭和40年のセリ場の盆踊り。
当店がまだ以前の店舗で、店内から真照寺の松の木が生えていたころの話です。
昭和39年生まれの私にはおぼろげな記憶しかありませんが、なんとなくテンポの速いこの三春櫓踊唄や三春櫓音頭のメロディーが記憶の彼方から蘇ってきました。
歴民の先輩よりこの三春盆踊の古い音源をお聞きして、探していました。
レコードのことは当店の次男坊が詳しいので探してももらおうと聞き居てみたところ・・・なんと城下北町の料理屋「山惣」の店内に飾ってあったと云うのです。
さっそく、山惣の支配人松村さんにお聞きしたら「これのことかなぁ~」とこのレコードを出してくれました!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
2024-08-16 Fri
三春盆踊り
三春の盆踊りは、県内でも特に盛んで、かつては盆の期間中はもとより、八月を盆の月として、十三夜盆・二十日盆・二十三夜盆・地蔵盆・晦日盆等々約半月に渡り三春各地で盆踊りが盛大に繰り広げられてと伝わっています。
三春盆踊りが、もっとも盛んだったのは大正期で、時間の規制などなく朝方まで踊り明かしたと伝えられ、宗教的要素よりは、娯楽として三春町民の楽しみであったといいます。
三春盆踊りの起源は、室町期の時衆念仏踊り説や参勤交代で三春藩士が江戸で習い覚えた説など、はっきりしていません。
大正期が最盛期というのは、三春経済の発展や遊郭の遊女や芸者の参加、そして若い男女の出会いの場などの要因が重なり合って盛り上がったと考えられています。
唄は七七七五調で、かつての三春甚句音頭取りは、熟練の強者が多く居まして、その場その場で即興唄を作り上げ、音頭取りと踊り手の掛け合いで踊りがおこなわれたといわれます。
旧暦のお盆十四日から十六日が新町と八幡町、十七日が北町、二十日が荒町、二十四日が新町一時地蔵等、月末まで連日盆踊りが開催されていましたが、社会情勢の変化など紆余曲折の中で縮小傾向にあります
現在は三春観光盆踊りとして、各地区太鼓保存会を組織して、帰省客の帰り足となる8月15日16日に、大町お祭り広場で開催されています。
山郷の盆踊りも青年団の解散などで、澤石・斉藤地区など一部を除いて消滅して仕舞いました。
最盛期、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。
2024-08-14 Wed
KFB福島放送 シェア 令和6年8月14日放送分 三春担当リポーター 髙橋龍一
三春盆踊り 2024
江戸時代より300年以上続いている三春伝統の夏の風物詩。
8月15日・16日の2日間、城下大町の四つ角交差点に面して櫓を立て「おまつり道路」で行われ、三春名物にふさわしい賑わいを見せます。
三春城下若連のお囃子衆 そして、子供太鼓の皆さんのパフィーマンスが見ものです!
三春藩が現福島県中心部の経済都市だったころに人、物、文化が絶えず集まっていたころの名残りで、お盆ともなると近郷近在から大勢の人が集まって踊ったという歴史があります。
それにあわせて、初めて参加される観光のお客様でも、だれでも気軽に参加できるようにあえて単調にしていると聞き及んでいます。
空を指す手の動きは“あの世”を表し、地面を指す手の動きは“この世”を表しているとされ、最後の手拍子は、お盆にこの世に戻ってきた先祖の精霊や有縁無縁の
諸霊を供養敬う気持ちをもって「年に一度のお盆を一緒に楽しみましょう」「また来年も来てくださいね」との思いを表しているとされています。
月明りと提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしいもとこ)さんのデザインによる街路灯には、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛が画されていて、三春城下らしい演出で華やかさを醸し出し、趣ある雰囲気と相まって三春盆踊りの楽しさを演出してくれています。
かつては、月明りと提灯で踊った三春盆踊り。
旧盆の盆踊りは、満月の月明かりのもとで踊りました。
月明かりは踊るには十分明るく、しかもムードのあるやわらかい光はロマンチックな「演出効果」をもっていたのです。
また、16日が盆明けということから、賑やかに踊り歌って先祖を送り出すという意味もあったようです。
仄かな明かりを頼りに踊る中で、幻想的な雰囲気が作り出され、盆踊り会場内にいる方々に、亡くなった方々を重ね合わせ、あたかも御霊と一緒に踊っているようだったと伝わっています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 20:00 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
2024-04-28 Sun
三春町公民館より、昭和37年から毎年発行された写真集「三春の文化財」です。
全20巻の三春の文化財を納めた写真集で、写真を元教育長を務めた本陣本店元社長の故川又恒一氏が担当です。
大城下大町、鳥文の吉田清三さんより「参考にして~」とお預かりしました。
茅葺屋根の龍穏院や形の定まる前の三春駒・・・
今では見れない画像の宝庫です。
文章も大変参考になります。
あいさつとして、当時三春町教育長だった武藤義男氏の文章が記載されています。
「三春の文化財写真集」が、二十年の歳月をかけて、その集大成をみることになりました。
見かけはささやかですが、発刊をつづけていくなかで、三春町の文化財の発見や再評価、さらには全国への紹介など、この写真集の果たしてきた役割ははかり知れません。
このような価値高い写真集二十巻が出来ましたのは、一にかかって企画、編集に参画された同好の方々、とりわけ撮影に精魂を傾けてくださった川又恒一さんのご労苦に負っております。
これらの方々に心から感謝申し上げます。
この写真集は、第二十集をもって完結いたしました。どうか、座右におかれて長くおたのしみいただきたいと存じます。
なお、町には、これに収め切れず割愛した文化財がまだまだ埋もれております。
いずれ機を得て続編を計画したいと思います。
そして、撮影者でありこの写真集発行の中心的な役割を果たした川又さんのあとがきが記載されていますのでご紹介します。
「レンズを通して二十年 文化財写真集に想う」
斎藤地内安養寺の如意輪さん、何という豊かな仏さんであろう。日本女性の優しさと厳しさ、凛としたものを内に秘めたこの仏を、最終のページに収録し得たことは、いま七十歳を迎えた身が浄化される思いです。
ふりかえれば、終戦の後、三春の昔の面影が消えてゆくのを惜しみ、レンズを向けてから三十年余、「三春の文化財」として出版し続けてユ十一年間、それは卒直にいって生易しいことではなく、時に挫折しそうになったこともありました。
しかし、心あるまわりの方がたの励ましと支えを頼りに、撮影からネガの処理、引き伸しから割付と解説まで、助言をいただきながらもひとりで通し得て、いま古稀を迎えた年に最後の第二十集の完結をみることができました。
二十一年前の出版の始めにあたり、当時の町議会議員故橋本久右工門氏・公民館長渡辺利雄氏のご協力は格別のものがありました。
その他、お力添えをいただいた多くの方がた、いまは亡くなられた方がたを含め厚くお礼を申し上げます。
この写真集を三春を愛する心と同じようにいとおしみ、研究の土台にしていただければ幸いです。
写真撮影者
川文恒 一
正に先人達の三春の文化を守るという気概と努力には敬意を表し町の自慢だともいます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2024-01-15 Mon
三春城下の火災史三春藩秋田家「町火消し組」と「家中火消し組」江戸期の三春城下は、山間に位置しており、丘陵の谷筋を縫うように家並みが軒を連ねて城下町を形成していました。
また、火消し組の消防設備・資機材の未発達と茅葺屋根、障子戸等の建物構造の上に、城下が山間地であるために、水源が乏しく、水利の不便に加えて谷筋を吹きぬける風は強風となり、一度火の手が上がると風にあおられて、数件から字全て、さらには「天明五年の大火」の様に城下町の約八割焼失の上にお城が焼け落ちるほどの大火に、たびたび見舞われていました。
三春藩藩士足軽組による「家中火消し組」と、町奉行支配町方による「町火消し組」が組織されて火災鎮圧に立ち向かっていました。
江戸中期の正保二年(1645年)に秋田家三春藩、初代藩主秋田俊季公入府の折りに火防に就いてのお触れが出されました。
「火事出来事は、町中の面々水桶を持ち、早速火下へ可馳せ参じる事」
大火に危険性を危惧した三春藩では、ことの重要性から「火消し人足組」の指揮命令系統及び組織編成の度々改革を実施し、現代の三春町消防団と同じ「現場対応型の火消し組」の組織編成に着手しました。
城下「町火消し人足組」は、一番組50名(大町、北町)、二番組41名(中町)、三番組42名(八幡町)、四番組63名(荒町)、五番組40名(新町)で構成して、「町方火消し組」として火災の際には火災鎮圧に向け、消火・類焼・防火を各組の連携協力で、消火活動に従事していました。
一方、「家中火消し組」の編成は、足軽組の御籏組・御弓組・御持弓組・御持筒組・御先筒組を一番組から三番組にて構成され、一組37名で編成し計111名(内町方人足90名程度)で構成して火災に備えました。
その他、城下町以外の在方在住の者は、御殿・現三春小学校の裏山にあった太鼓堂の太鼓の早打ちと、大元神社境内にあった鐘撞堂の早鐘を合図に、北町口には熊耳村・笹山村、荒町口には七草木村・南北成田村など、各部落単位でそれぞれ割り当てられた地区や、寺社仏閣の消火・防火・残火処理並びに警護のため城下に参集して、「家中火消し組」、「町火消し組」の消火手伝いに出向きました。
享保十三年から慶応四年の140年間に、三春城下で発生した複数軒の火災発生件数は、98件に登り、その半数近くが、字全て以上を焼き尽くした大火となりました。
これに因んで、三春城下の主な火事の歷史をひもといて見ました。
延享2年3月15日 北町亀井の光岩寺から出火、御旗町まで延焼した。
宝暦12年5月21日 中町から出火町家70戸程が焼けた。
明和9年3月22日 紫雲寺本堂焼失
天明5年2月22日 この火事は「滋野火事」と呼ばれている三春城下未有の大火である。
尼ヶ谷の御厩(おんまや)番小屋から出火、中町、大町、山中、清水、北町、荒町の侍屋敷、町家、神社、寺院、そして殿樣の御殿 で総なめにした。
夕方までに三春城下を焼き尽くし、荒町は龍穏院前、新町は真照寺前、入清水の中ほどで何とかくい止めましたが、夜中までには城も本丸表門を除いてすべて焼け落ちました。
当時、三春にいた藩主倩季は、最初は北町の黒門辺りに陣を構えていましたが、城に火が迫ると三階櫓に納めていた幕府からの「御朱印状」とともに亀井の祈願所宝来寺へ入ります。夜には祈願所真照寺へ御座所を移し、同寺古四王堂に朱印状を納めました。
その後、5月には馬場に新設した仮御殿へ移りますが、11月には馬場御殿も焼失し、近郷の庄屋宅を臨時宿所としていたという。
天明3年から連続凶作だったので、人足、炊出し等も思うに任せず、炊出しは“かゆ飯”で、罹災民には非常な苦しみだった。
明治39年3月22日 八幡町踊場附近から失火して13 0戸を焼失した。
明治43年11月23日、二十三夜様の灯明残火で八幡町から発火、八幡町、馬場尼ヶ谷、御免町、中町から荒町の一部まで延焼、320戸を焼失。
昭和5年3月25日、新町大火約20戸焼失。
昭和22年2月22日、高女から出火小学校舎の一部に延焼
享保十三年から慶応四年の140年間に、三春城下で発生した複数軒の火災発生件数は、98件に登り、その半数近くが、字全て以上を焼き尽くした大火となりました。
火の用心! 蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2023-10-15 Sun
三春盆踊り 思い出のアルバム 2023
みはる観光協会主催「三春盆踊り」のイベントの一つ、「思い出のアルバム」での一コマです。
中町若連さんと一緒にぱちり!
踊りや太鼓の参加していただいた方々に無料で撮影、配布しています。
参加された方々に喜ばれるイベントです。
皆様も是非ご参加ください!
仮装はもちろんコスプレでの参加も大歓迎です♪
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
2023-08-14 Mon
令和5年度 三春盆踊り 8月15日(火)、16日(水)に通常開催です。
かつては、月明りと提灯で踊った三春盆踊り。
旧盆の盆踊りは、満月の月明かりのもとで踊りました。
月明かりは踊るには十分明るく、しかもムードのあるやわらかい光はロマンチックな「演出効果」をもっていたのです。
「伝統三春盆踊り」は、8月15~16日の2日間、城下大町の四つ角交差点に面して櫓を立てて、盛大に行われます。
16日が盆明けということから、賑やかに踊り歌って先祖を送り出すという意味もあったようです。
月の満ち欠けを基本にした旧暦(太陽太陰暦)では、盆踊りの行われる7月15日(現8月15日)の夜は十五夜で、翌16日は「十六夜(いざよい)」ということになります。
いずれかの夜は月が満ちて満月となり、照明のない時代でも月あかりがその場を照らしてくれたことでしょう。
もともと盆踊りは、お盆に帰って来たご先祖様の霊を慰める霊鎮め(たましずめ)と言われる行事でした。
仄かな明かりを頼りに踊る中で、幻想的な雰囲気が作り出され、盆踊り会場内にいる方々に、亡くなった方々を重ね合わせ、あたかも御霊と一緒に踊っているようだったと伝わっています。
月明りと電球提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしいもとこ)さんのデザインによる街路灯には、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛が画されていて、華やかさを醸し出し、趣ある雰囲気と相まって三春盆踊りの楽しさを演出してくれています。
盆踊りの空間はあの世とこの世の境界であり、踊りの所作には霊と自分自身の親しみを表す所作が必ず含まれているとされています。
三春盆踊りの振り付けは、空を指す手の動きは“あの世”を表し、地面を指す手の動きは“この世”を表しているとされ、最後の手拍子は、お盆にこの世に戻ってきた先祖の精霊や有縁無縁の諸霊を供養敬う気持ちをもって「年に一度のお盆を一緒に楽しみましょう」「また来年も来てくださいね」との思いを表しているとされています。
盆踊りは、念仏踊りがルーツのようで、もともとは、地獄の責め苦から一時のがれて帰郷した喜びに亡者たちが踊り明かして喜んだという、霊を供養し、ご先祖様に感謝する意味が込められています。
また、もともと伝統ある盆踊りの多くは、戦国時代に戦死者の霊を祀る念仏踊りが始まりとされています。時代が下がり、社会が安定するにつれて風流踊りの影響を受けて、地域の楽しいイベントになったのは江戸時代中期以降とされ、時代とともに華やかさが増していったとされています。
仄かな明かりを頼りに踊る中で、厳かで幻想的な雰囲気が作り出され、踊りの輪の中に、ご先祖の方々を重ね合わせ、御霊と一緒に踊っているようだったんでしょうね
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
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