2025-08-24 Sun
三春城下新町
天翁山州伝寺 御霊まつり 「子育一時地蔵尊祭礼」
子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め地蔵盆には“御霊まつり“が開かれています。
わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。
やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。
一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。
親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。
亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。
こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。
それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。
人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。
私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。
その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。
そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。
後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。
その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。
地蔵菩薩の縁日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。
お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。
「賽の河原地蔵和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。
賽の河原地蔵和讃
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む
一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく
(ただ明け暮れの嘆きには)
(酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる
我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出てさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2025-06-21 Sat
江戸時代秋田藩政下、三春城下後免町にあった修験の宝幡寺(法幡寺)の付箋が付いた天神さまの掛け軸です。
宝幡寺山内に雷神堂があり、その御本尊は、雷神さまですので、天神信仰とも密なかかわりがあります。
絵師は、寛永寺のお抱え絵師となっています。
宝幡寺は寛永寺の直末寺となっていますので、寛永寺から下されたものかもしれません。
宝幡寺は火災に遭っていますが、その際に殿様からの「御朱印」を消失してしまい廃寺、謹慎を命じられていますが、後に許されています。
火災の際によくこの駈け実が焼失しなかったものだと思います。
また、東京で見つかったものらしいんですが、様々なご縁を経てこの三春に帰ってきました。
仏縁のお陰だと思います。
寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺です。
寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。
後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。
また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院でした。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2025-05-25 Sun
駒板観音山常林寺山内の「三界萬霊等(塔)」の石碑
三界萬霊の三界とは、欲界、色界、無色界のことで、人が生死の生まれ変わりから脱することの出来ない“迷いの世界”を表しているとされています。
また「万霊ばんれい」は、この世における一切の霊のこととされています。
村人が争いの絶えない世の安寧を願い、無縁の霊をも篤く祀った石碑だと言われています。
すなわち、「三界萬霊等」の位牌は、この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのものです。施餓鬼会においては、連綿と続いている御先祖様のおかげで、今の私たちがあることに感謝して、合掌しましょう。
七観音供養塔の右の石造は、「羅刹天」“らさせつてん”と呼んでいいのでしょうか?
羅刹天は、仏教の守護神として現在も信仰されており、悪霊退散や厄除け、仏教徒の護り神として祀られています。
また、羅刹女、十羅刹女(じゅうらせつにょ)として、女性の守り神として信仰されています。
法華経陀羅尼には、法華経を守護する10人の鬼神で、以前は、人の精気を奪う鬼女でしたが、のちに鬼子母神らとともに仏の説法に接し、法華行者を守る神女となったと説かれています。
普賢菩薩の眷属とされています。
そして子供の守り神でもあります。
水月観音堂 - 木造観音菩薩半跏像(水月観音)を安置
2025-01-23 Thu
蛇石の蛇神様 2025年の干支は乙巳(きのとみ)。
今は三春ダムに沈んでしまいましたが、旧中郷村蛇石の蛇神様が鎮座していた辺り、根本川と樋渡川の合流点を三枝谷といっている。
昔は、両岸から古木の枝葉がのびて、うっそうと繁り、その暗い谷を、激流が岩を咬んで、ゴウゴウと音を立てていた。
元禄の頃、この谷間に大蛇が出て里人達を脅かし、藩内を驚かした。
その噂は、江戸表までもひろがっていったほどの騒ぎだった。
時の藩主、秋田信濃守輝季も捨ておくわけにはゆきません。
早速、家老荒木内匠に命じ、藩士総出動で蛇退治をすることになった
先陣には鉄砲祖、弓組の二組を編成、藩主である信濃守自身も、近臣を従えて出馬するという、大がかりなものであった。
松井正右エ門は200石取りの侍だった。彼も毆様の御供を仰せ付けられた。
丁度その折、彼の甥の松井民ニ郎が秋田から来ていて、お供を志願しますが、家臣でないため加入することができず、単独で出かけました。
三枝谷を遠巻きして、鳴物入りの蛇退治が始まります。
予想通り大蛇は谷の大岩を枕にとぐろを巻いていたので、鉄砲、弓の総攻撃を加えた。
怒った入蛇は、大きな鎌首を2米程も高くあげて、舌端火を吹きながら殿様に迫ろうとしている。
これは大変と、殿様は馬を引返して逃れ出たその時である。
物蔭に身をひそめていた民二郎が躍り出て蛇の進路に立ち塞がり、手裏剣を大蛇ののどに打ち込み、大刀を上段にかざして首を打ち落した。
やがて、民二郎は御殿に召し出され、その武勇を賞し“粟田口の太刀”を賜った。
面目を施した民二郎は、召し抱えたいという殿様の希望を固辞して秋田に帰って行った。
お蔭で叔父の正右エ門も代々無役250石の恩賞にあずかったという。
里人達は、崇りを恐れて、鎮守の祠を建てたのが今の蛇神様である。
昔、蛇石村に大蛇がいた。
大蛇の胴回りは三尺、長さは七十尺もあり、山から山へ地にも付かずに這い回っていた。
時折、山から出てきて田畑の農作物を荒らし人畜にも被害を及ぼしていたので村人は恐れ、困り果てていた。
時の三春初代藩主秋田俊季候は、この大蛇の話を聞き、何とか退治しなければならないと勇気ある侍を差し向け、何回となく大蛇退治を試みたが、その都度失敗に終わっていた。
藩の槍指南役の松井民次郎という者が大蛇退治を聞きつけ、単身で大蛇退治に乗り込んだ。
その付近は川と岩と山とが神秘的なところで、近くの山頂は「蛇枕」と呼ばれて大蛇の住処とされていた。
ここで民次郎は大蛇と出くわした。大蛇は鎌首を高く持ち上げて、ものすごい形相で睨み付け、人呑みにしようとした。
民次郎をは恐れず、槍をかまえて半刻も睨み合っていた。民次郎の態度にしびれを切らした大蛇は怒って襲いかかってきたが、民次郎は自慢の槍で応戦した。
しかし、槍を奪われてしまった。
そこで短剣で大蛇の急所を突き刺すと、血が滝のように流れ出し大蛇は音を立てて倒れた。
あたりの川は、その大蛇の血で赤く染まったという。
このことを聞いた秋田候は大変喜び二百石を与えたという。
村人たちは安心したが大蛇のたたりを恐れてお宮を建ててその霊を祀った。
現在も蛇石の厳島神社の境内裏手には大蛇の頭だったと言われる大石が残されている。
蛇石の蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
以前は、世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
11月3日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の9月19日に行われていました。
前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。
さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-08-15 Thu
KFB福島放送 シェア 令和6年8月14日放送分 三春担当リポーター 髙橋龍一
三春盆踊り 2024
竹久夢二「三春盆踊り」 三春町史より
三春盆踊りでは、みんな手ぬぐいを頭に掛けて、いわゆる“ほっかぶり“をして踊っていました。
これは、お盆という意味のから(祭礼時も同じ意味)、この手拭は“身を改める”という意味合いあったようです。
ほっかぶりをする手拭の効果は、各所で見られるように深い編笠などと同じように、盆踊りの「仮装性」を表すものだとも考えられています。
顔を隠して誰かわからなくすることにより、盆にこの世に戻った祖霊・精霊が、ともに踊っているということを示しています。
もちろん、顔を隠すことで、誰彼気がねなく思いっきり踊れるという解放効果もあったことでしょう。
三春盆踊りは、参加も服装もまったく自由ですから、普段着でまったく気にせず踊っていますが、手拭一本あっただけで気分はもう盆踊りモードに突入です。
三春盆踊りのメイン会場となる大町お祭り広場では、月明りと電球提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしい もとこ)さんにデザインされた街路灯が配され、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛けでもあり、趣ある雰囲気を醸し出しています。
そして、昨今の若い女性は、メイクや髪形もばっちり決めて、浴衣を着ておしゃれをしている可愛い方が多く、手ぬぐいをかぶって顔を覆う若い女性はだんだん少なくなっているようです。
盆踊りの衣装の定番ともいうべき踊り浴衣も、お洒落聞きこなしている方が多くみられます。
その多彩な柄がおしゃれで、見ている方も着る方も楽しいものですね。
三春盆踊りも、お盆に招いた御霊をあの世へ送るための念仏踊りが始まりとされています。
尚、江戸時代の武士はどうやら盆踊りの参加については、禁じられていたらしく、幕末の越後長岡藩家老河井継之助を描いた司馬遼太郎著小説「峠」
この小説の中に、「 河井継之助は長岡甚句の盆踊りが大好きでよく 行ったのですが、この盆踊りには武士は参加できないことになったいたそうです。
しかし 継之助は、妹の浴衣を借りて、 顔をほっかぶりで隠して遅くまで町の人と踊ったという 」と記載されていました。
盆踊りの夜、ほろ苦い思い出はあります。
若い頃の話です。
当時は三春の在郷では青年団主催の盆踊りが各地で盛んに開催がありました。
もちろん城下でも観光盆踊りから新町はじめ城下各町でありましたが、ここは男若集がメインとなり踊りに若い女性がいても賞味期限赤信号点滅か知り合いだらけという状況です。
しかし、青年団の盆踊りには女性がワンサカ居ます。このチャンスを逃すてはないと私たち城下の新町若連は選抜隊を結成して応援と称して今日は中郷、明日は中妻、そして…といった具合に出張太鼓に出向いていました。
そして、ここは当時最大の盆踊りが繰り広げられおり、各地の青年団が集まり、色鮮やかで華やかな浴衣、そして各青年団の法被に白い短パンを纏った若い女性で溢れていました。
漂う匂いも汗と香水が合わさり漂っています。ここは桃源郷か!マハラジャか!という感じでした。
こうなると太鼓どころではありません。ギターを弾いている場合ではなかった若かりし頃のロックンロールパティーの如く、ダンスフロアーでチークタイムまで一直線の再来です。
踊り手に混ざり、ぼんぼり提灯に照らされた素足、そしてうなじが妙に光り輝く若い女性青年団員のみなさんと楽しいひと時を過ごしました。
楽しいひと時というのはあっという間に終わりがやってまいります。
するとお待ちかねの懇親会か開催されようとしています。
私たち新町もすっかり仲良くなった女の子達と手を取り合ってその懇親会の会場に向かいますと「ここから先は青年団だけです」と役員さんに冷たく止められました。
「エ、そりゃあんまりですよ、マハラジャでも黒服に止められたことのないんですぜ〜お兄さん」ってなもんです。
するとお手伝いの区長のおじさん達から声がかかり「オレげの婆っパが作った漬物と日本酒があっからこっちで呑め〜」と区長や老人会の役員さんと誰もいなくなった盆踊り会場の櫓の下で男だけの酒盛りとなりました。
時折り、宴会場の会館からは若い女の子たちの楽しそうに笑う声が漏れ聞こえてきます。その声は夜もふけるまで真っ暗になった盆踊り会場にこだましていました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2024-03-31 Sun
三春在住の写真家、松下修さんの写真集「三春の三猿(庚申塔)」です。
松下さんが持参していただきました。
三春在郷にあるお寺に祀られた「庚申塔」
「庚申講」は、庚申信仰の信者たちがあつまってつくる講です。
庚申信仰は、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、その夜はねむらずに言行を慎しみ、健康長寿を祈念する信仰講で「庚申待(こうしんまち)」、「守庚申(しゅこうしん)」呼ばれています。
この信仰のもとは、志那の老子の教えにもとづく道教によるもので、庚申の日になると、人の体内にいる三尸(さんし)の蟲(霊物)が、庚申の夜に天にのぼって、その人の罪を天帝に告げるために、寿命をちぢめられると言い伝えられてきました。
庚申の日に寝ないで日をまたげば体内から抜け出すことが出来ないということから日付が変わるまで健康長寿を祈念したと言う訳です。
庚申塔には、すべての悪いものを追い払う力がある青面金剛(しょうめんこんごう)や、その神使いであり謹慎態度をしめす 三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)と二羽の鶏(にわとり)、上方には日待(ひま)ち、月待(つきま)ちを表す日月(じつげつ)が浮きぼりされているのが刻印されています。
店内に配してありますので、ご覧ください。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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