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御春輩「田村庄司の乱」北関東騒乱 田村氏と小山氏
 




御春輩「田村庄司の乱」 北関東騒乱 田村氏と小山氏

母の里は、本宮市本宮町太郎丸の和菓子屋「小山(こやま)」です。

 曾祖父から以前の古い戸籍を見ると新潟県旧寺尾村(現新潟市西区寺尾)となっています。

 母方からは、新潟や長岡付近の小山(こやま)氏は関東八屋形の国人で、下野国(現栃木県小山市)守護職の小山(おやま)氏の一族郎党の末裔だと代々伝わったと聞き及んでいました。



小山氏の先祖は室町幕府の鎌倉府と戦った「小山の乱」で敗北しますが、当主の小山若犬丸は、田村郡(守山城もしくは日和田八丁目?)を本拠地とする田村庄司の田村氏(以下、田村庄司氏と記載)を頼って再起を図り「田村庄司の乱」が起こります。しかし田村庄司氏が敗北してしまい、若犬丸は菩提寺の和尚の縁で会津蘆名氏を頼って再起を期しますが討たれ、会津まで同行した小山氏一族郎党は各地へ落ち延びます。


尚、若犬丸の二人の息子、宮犬丸7歳と久犬丸5歳は、会津国主芦名詮盛(三浦左京大夫)に捕らえられ、鎌倉に送られて、六浦の海に沈められたと伝わっています。




その内の一派は、新潟へ落ち延び、小山氏は“戦で負けた”小山の呼称を“おやま”から“こやま”へ変更したと聞き及んでいました。

「小山の乱(小山義政の乱)」とは、室町幕府の第3代将軍足利義満の頃、下野守護小山義政が、鎌倉府足利氏満(鎌倉公方)に対して起こした反乱で、約17年にわたって戦いが繰り広げられた結果、小山氏の嫡流は滅亡しましたが、嫡男の若犬丸は同じく鎌倉府に不満を持つ田村庄司氏の元へ逃れ先の「田村庄司の乱」へと発展します。



 この「田村庄司の乱」は、田村荘の庄司(管理官)である“御春輩”田村庄司氏(後の三春田村氏と区別するために田村庄司氏と記載)が、室町時代初期の南北朝の争乱(1336~1392)では、室町幕府(政所)や鎌倉府である鎌倉公方や関東管領の治世に屈服せず、戦略的な利害関係から南朝方として鎌倉府の白河結城氏と長年に亘って小競り合いが続いていました。




室町幕府の東国出先機関である鎌倉府は、服従しない田村庄司氏を「田村退治」として攻略すべく、結城氏経由で無理難題を押し付けてきます。

応永元年(1394年)鶴岡八幡宮造営のための段銭徴収を田村荘へ命じたことや、探題的な立ち位置の白河結城氏が鎌倉府の指揮下に移されるにあたり、鎌倉府から御料所として所領の進上が要求されますが、結城氏はその役料を自身の所領からではなく田村荘からの徴収しようとしたことへの不満もあって、田村庄司氏と御春輩は一斉に蜂起します。
田村庄司氏は、鎌倉府(当時は古川公方)のある関東出陣の大将として小山若犬丸(隆政)はじめ、新田貞義の三男義宗の子新田相模守(脇屋義則か?)、従弟の刑部少輔など南朝の残党らとともに鎌倉府攻略のため白河へ出陣、さらに北朝方鎌倉府の差配に不満を抱く旧南朝方の東国(上州や武州)の諸将も田村氏の下へ馳せ参じ、一大勢力とな
って結城氏を中心とした鎌倉府配下の軍勢と対峙します。



「田村庄司の乱」に対して、陸奥国の管轄権を室町幕府(征夷大将軍政所)から移譲されたばかりの鎌倉府の足利氏満(古川公方)が、北朝方の東国十一ケ国の国人に出陣を命じて、自らが兵を率いて出陣して結城氏の舘に入ります。



この鎌倉府によって動員された兵力の前に、一定の戦略的効果を得た田村庄司氏は、今後の形勢を鑑みて兵を納め、それぞれの領地へ帰還します。

 これによって田村庄司氏は一時的に衰退し、田村荘は鎌倉府の御料所となって結城氏がその代官として在地支配を広げます。


後の応永六年(1399)、不満を募らせる御春輩を中心とする南奥諸将の支配・監視するために、鎌倉府政所から安積郡へ足利満直(篠川公方)、そして岩瀬郡には満直の弟足利満貞(稲村公方)が派遣され、仙道(現在の福島県中通り周辺)の国人諸将が、応永十一年に取り交わした「仙道国人一揆契状」から見ますと、仙道の諸将は篠川、稲村両公方の権威をもとに鎌倉府の差配を受けていたことが窺えます。


時代は下がり、田村庄司田村氏の基盤を継いだ田村直顕(三春田村氏初代義顕の祖父)は、宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど田村庄での足場を固め、結城氏の内紛によって没落し、後に田村氏は三春へ拠点を移して戦国大名へ発展し戦国乱世を走り続けます。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春  拝




尚、三春の商家菊川屋の大奥様は、栃木県小山市のご出身で、小山氏の御城が落城したのが7月7日ということで、小山のい旧市内では”七夕祭り”の七夕飾りは行っていなかったとに事でした。

| ryuichi | 20:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
三春 黒木氏  考察 2025



 
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。

黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。



「黒木舘」田村四十八舘 

戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。


三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
 





 黒木鎮守 菅布禰神社 の由来書には

天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。


建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。

※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
 
※田村庄司田村氏も南朝方

その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?

後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
 
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。

 黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領) 

※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前



| ryuichi | 03:12 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
田村四十八舘 中津川城 歴代城主 中津川氏




中津川城 中津川氏

応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。

時代は下って・・・

天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、咎めた伊達氏に対応して、田村義顕、隆顕が、中塚が氏の所領内中津川城を残して、田原谷城(小野町夏井)、及び細田城を破棄した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。

田村隆顕は、これらの一連の伊達との和睦交渉の中で、手中にした安積郡の一部余撤退を余儀なくされます。

さらには、常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。

このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます

田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ

天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う「伊達天文の乱」が勃発します。

天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が城主となりますが、城代として中津川の中津川四天王と称された、四宿老家が城を護っています。
仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。

天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐

天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)

天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死  郡山合戦

天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ

また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。
6月3日付の記載には、田村宗顕は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より

天正十八年六月

去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様  「貞山公治家記録」より

中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。















| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
海老根村鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)



海老根鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)


海老根村(現郡山市中田町海老根)の菅布祢神社は大明神と称していたが、明治二年二月神社と改称して社格は村社となった。







その後、明治二十九年に幣殿縦一間半、横二間、拝殿縦二間半、横五間に再築されており、同三十四年三月には土蔵、木造木羽茸、建立壱坪五合を新築しており神楽殿は同三十五年の暴風雨によって破損したなど、神社明細帳えの追記願や、取消願が大正二年一月八日付で知事宛に提出されている。






また、この神社の御由緒調査書によると次のとおり。

祭神一座 猿田産命

右古老伝説

当社の勧請は、平安時代末の永暦元年(1160)田村郡下枝村の菅船大明神の御分霊奉遷する所なり

この時、神殿を新築。







尚、その後に至って、海老根舘主今泉左馬之守なるもの者、特に神社を尊敬したとの伝説があり。

また、室町時代の永京11年(1439)に、海老根の泉舘主熊田右馬之丞藤原重特も、これまた大いに神社を信仰したる由、判然とし口碑にあり。






寛延二年(1749)神殿を改造して明治維新の折の村社に列せられる。

古器物

剣壱振

鏡四面

右之通に相違無之候也

明治三十五年十二月八日

社掌 遠藤直記






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黒木村鎮守 菅布禰神社 「黒木舘」田村四十八舘 



黒木鎮守 菅布禰神社 


「黒木舘」田村四十八舘 

戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。


三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
 





 天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。

武門の崇敬として源家朝臣より散米田と号して中田四反歩余畑山林を御寄付。


氏子は「寄附田」と称して祭事を行っています。



棟札四面の写しがあり
]
宝永元甲甲稔三月十八日(1704)

享保六辛丑歳八月十四日(1721)

寛政元己酉歳九月二十一日(1789)

弘化己己歳六月二十八日(1845)






宝永元年の棟札に「奉再興菅船猿田彦大神社為一天泰平四海平定当村安全也」と記載他のものが奉修復となっているようです。

享保元年九月(1716)「領主秋田信濃守馬匹奨励ノ思召ヲ以テ研山ノ神馬ノ額面奉納アリ」

弘化二年(遷宮)の棟札には領主秋田候より「太守公金五両御寄進相成候」とあります。






上記は、昭和16年に神祇院へ小社より村社への「皇紀二千六百年記念事業」に際する昇格に関する加列申請書より抜粋








境内の大ケヤキ 夫婦ケヤキですね。









三春 黒木氏  考察 2025



先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。

黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。 建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。

※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
 
※田村庄司田村氏も南朝方

その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?

後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
 
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。

 黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領) 

※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前








| ryuichi | 03:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」
塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行


三春城主田村氏三代清顕公の正室、御北御前(於北、於喜多)は、相馬小高城(現・相馬市小高)城主相馬氏十四代当主相馬顕胤(あきたね)公の娘で、天文18年(1549)に三春城下へ輿入れしてきました。

後に米沢城主伊達氏十七代当主伊達政宗公(仙台藩初代藩主)の正室となった愛姫(陽徳院)の母です。

御北御前の婚姻に際して、花嫁於北姫の衣装やお化粧道具の費用、そして相馬家から守役として付いてくる侍女達の賄い料として、相馬領の古道村、岩井沢村、葛尾村、南津島村の4ケ村が田村領へ編入したとされ田村家と相馬家の結びつきの深さを今に伝えています。

さらに御輿入れの逸話として、後の三春城下新町末旧岩城海道庚申坂口に残る「化粧坂」の名称由来となる化粧清水には、この御北御前が城下に入る際に、この清水を使って化粧を直したことからこの名がついたとも伝わっています。


 初代田村義顕公の正妻は、磐城大館城(現・いわき市内郷・好間)城主岩城氏十七代当主岩城常隆公の娘、二代隆顕公の正妻小宰相は梁川城(現・伊達市)、西山城(現・桑折町)城主伊達氏十四代当主伊達植宗(正宗の曾祖父)公の娘、そして三代清顕公の正室が相馬家から、さらにその娘愛姫が伊達政宗へと嫁ぎ、三春田村家三代当主の婚姻はそれぞれの時期の仙道(南奥州)地域の利害関係の構図が如実に表されています。


御北御前は、後の立ち振る舞いから推察するに大変に勝ち気で気丈な性格と見受けられますが、姑となる伊達家出身の小宰相とは単に嫁と姑の関係以上に、里(出身)である相馬家と伊達家の戦略的な外交関係がそのままに投影されていたようで、二人の険悪な関係が見て取れる伊達家への手紙なども残っています。

天正14年(1586年)、城主田村清顕が没すると跡目を巡るお家騒動が発生し、争いとなります。清顕公と御北御前の夫婦には一人娘の愛姫以外には子がいなかったので後継者問題があり、家中は、筆頭宿老田村宮内入道頼顕(月斎)を中心とする「月一統」が後押しする伊達派と、小野城主の田村梅雪斎顕盛を中心とする相馬派の御家騒動に発展します。


御北御前は、主君(清顕公)没後は出家したものの、混沌とする戦国期の仙道に於いて主亡き後の田村家を案じて“田村ノ後室”として実権を握って田村家中の陣頭指揮を執り、田村家宿老重臣を掌握しながら実家である相馬家と愛姫の嫁ぎ先の伊達家との均衡を保ってこの混乱を切り抜けようと苦心します。

天正16(1588)年には、田村家中の相馬派は家中掌握のため、甥の相馬家当主相馬義胤(そうまよしたね)が手勢を引き連れて強硬に三春城入場を企てますが、伊達派の田村月斎や重臣橋本刑部顕徳らの指揮する直属の宿直田村不断衆が撃退して撤退させます。


結果的には、相馬派の盟主とされる御北御前を船引舘へ更迭して、伊達政宗が三春城に入城すると、田村月斎や田村梅雪斎など田村家の重臣と協議して田村領の仕置を行い、田村清顕の弟田村氏顕の子である田村宗顕(孫七郎顕季、後に牛縊定顕)を後継と定めて田村家の当主とします。

そして、田村家中の相馬勢力の相馬派38名は小野保領小野城へと撤退させます。

御北御前が居住した船引舘(城)(現舘山公園)は、田村四十八舘の一つで、時の三春城主三春田村初代義顕公の二男で田村起雲斎憲顕(のりあき)によって築かれました。

相馬義胤が三春城入城から撤退した際には、相馬勢は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠城しますが、伊達勢に攻められて敗走します。

その後、政宗の裁断により御北御前を船引舘へ隠居させて、清康を船引城から退去させます。


船引、片曽根山麓には「御前池伝説」の逸話が残っています。史実から御前とは御北御前を指していると考えられます。三春田村家の内乱により三春城から船引城へ追われたことを嘆き悲しみ、田村家の行く末を案じてこの池の身を投げたというものです。

史実では船引城に隠居後、奥羽仕置で相馬中村領の堤谷(堤谷御前の由来)に移り、さらに正宗の招きに応じて仙台城北舘(御北御前の由来)に居住。元和5(1619)年正月21日、仙台城下にて亡くなっています。

法名玉質性金大姉。亡骸は仙台城下金剛寶山輪王寺に埋葬されています。

      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春  拝  



おかげさまで 塵壺400号発行!

平成3年3月に発行して今回で400号となりました。

 これもひとえにお客様からの励ましや誤記載や誤字脱字の修正及び指摘などのご指導ご鞭撻のお陰だと思っております。

衷心より御礼を申し上げます。

 今回400号発行と発行者の店主が、今年還暦を迎えたことを期に製本化することにいたしました。

 詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。

   今後ともよろしくお願いいたします。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 22:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」




一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」。

祥雲寺の前身は、三春の田村家五代目の当主という立ち位置の田村宗良(伊達忠宗の三男)が寛文九年(1669)に岩沼(宮城県)に開設した長谷山大慈寺で、一ノ関移転後の初代藩主田村建顕が天和二年(1682)岩沼から一関に移封された際、寺も一緒に移し、宗良の母お房の方(祥雲寺殿)を開基に大慈山祥雲寺と改めました。








「大慈」は、伊達政宗・愛姫の第二子忠宗の法名「大慈院殿」にちなんでつけられた。
 
開山は大機円応禅師で、本尊を千手観音とさだめ、藩主はじめ家臣領民の深く信心を集めたといわれます。


忠宗の側室であったお房の方は、観音信仰にあつく、寺伝によると、寛文六年の江戸勤番中のある夜、枕辺に観世音菩薩があらわれ、その霊夢に心動かされ、岩沼の地に一寺を建立したとありました。
 










「田村家墓所」は、本堂の左手に田村家墓所がありますが、階段の上に土饅頭です。


大正期になって品川東禅寺にあった歴代墓を、纏めて合葬した際に墳丘墓に改めたようです。







忠宗の母で政宗の正室・陽徳院(愛姫)は、三春城主田村家三代当主淸顕の娘で、天下人豊臣秀吉による「北条小田原攻め」「奥羽仕置」と、不仲説が囁かれた伊達政宗の謀略で、三春田村家が断絶したのを深く悲しみ、遺言で宗良に田村家を創設して藩主に就かせたという経緯の中で、この祥雲寺は愛姫、三春田村家と深い繋がりがあります。


この縁で昭和六十二年、三春町と一関市とが姉妹都市の調印をした。

  なお、祥雲寺は田村氏の菩提寺となっており、円墳の墓所には初代宗良から十五代良顕まで田村家代々のご遺骨が納められています。

また、境内に建つ田村記念館には貞享元年(1684)作の忠宗、房姫の木像のほか、市指定文化財の「常香盤」や戊辰の役時の陣羽織、時の太鼓、子安観音像、田村家愛用の

黒漆蒔絵重箱など三十点以上の文化財を展示されていました。



一関藩田村家は、幕府から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村家に与えることが明記され分知されて成立した藩です。

即ち、幕府・徳川将軍家の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けていました。








一方、一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されていません、

したがって、仙台藩からの干渉もあって、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止されます。


これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の支藩的な立ち位置となっています。






また、一関所替後の所領は北上川に二分されていましたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれています。

藩職に仙台留守居役が設置され諸大名や幕臣を記した「須原屋武鑑」でも仙台藩の支藩扱いでした。








赤穂浪士の赤穂藩主浅野内匠頭が、吉良上野介に刃傷に及んだ後に、御預け、切腹をしたのは愛宕下にあった、一ノ関田村家上屋敷でした。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



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