2025-03-28 Fri
御春輩「田村庄司の乱」 北関東騒乱 田村氏と小山氏
母の里は、本宮市本宮町太郎丸の和菓子屋「小山(こやま)」です。
曾祖父から以前の古い戸籍を見ると新潟県旧寺尾村(現新潟市西区寺尾)となっています。
母方からは、新潟や長岡付近の小山(こやま)氏は関東八屋形の国人で、下野国(現栃木県小山市)守護職の小山(おやま)氏の一族郎党の末裔だと代々伝わったと聞き及んでいました。
小山氏の先祖は室町幕府の鎌倉府と戦った「小山の乱」で敗北しますが、当主の小山若犬丸は、田村郡(守山城もしくは日和田八丁目?)を本拠地とする田村庄司の田村氏(以下、田村庄司氏と記載)を頼って再起を図り「田村庄司の乱」が起こります。しかし田村庄司氏が敗北してしまい、若犬丸は菩提寺の和尚の縁で会津蘆名氏を頼って再起を期しますが討たれ、会津まで同行した小山氏一族郎党は各地へ落ち延びます。
尚、若犬丸の二人の息子、宮犬丸7歳と久犬丸5歳は、会津国主芦名詮盛(三浦左京大夫)に捕らえられ、鎌倉に送られて、六浦の海に沈められたと伝わっています。
その内の一派は、新潟へ落ち延び、小山氏は“戦で負けた”小山の呼称を“おやま”から“こやま”へ変更したと聞き及んでいました。
「小山の乱(小山義政の乱)」とは、室町幕府の第3代将軍足利義満の頃、下野守護小山義政が、鎌倉府足利氏満(鎌倉公方)に対して起こした反乱で、約17年にわたって戦いが繰り広げられた結果、小山氏の嫡流は滅亡しましたが、嫡男の若犬丸は同じく鎌倉府に不満を持つ田村庄司氏の元へ逃れ先の「田村庄司の乱」へと発展します。
この「田村庄司の乱」は、田村荘の庄司(管理官)である“御春輩”田村庄司氏(後の三春田村氏と区別するために田村庄司氏と記載)が、室町時代初期の南北朝の争乱(1336~1392)では、室町幕府(政所)や鎌倉府である鎌倉公方や関東管領の治世に屈服せず、戦略的な利害関係から南朝方として鎌倉府の白河結城氏と長年に亘って小競り合いが続いていました。
室町幕府の東国出先機関である鎌倉府は、服従しない田村庄司氏を「田村退治」として攻略すべく、結城氏経由で無理難題を押し付けてきます。
応永元年(1394年)鶴岡八幡宮造営のための段銭徴収を田村荘へ命じたことや、探題的な立ち位置の白河結城氏が鎌倉府の指揮下に移されるにあたり、鎌倉府から御料所として所領の進上が要求されますが、結城氏はその役料を自身の所領からではなく田村荘からの徴収しようとしたことへの不満もあって、田村庄司氏と御春輩は一斉に蜂起します。
田村庄司氏は、鎌倉府(当時は古川公方)のある関東出陣の大将として小山若犬丸(隆政)はじめ、新田貞義の三男義宗の子新田相模守(脇屋義則か?)、従弟の刑部少輔など南朝の残党らとともに鎌倉府攻略のため白河へ出陣、さらに北朝方鎌倉府の差配に不満を抱く旧南朝方の東国(上州や武州)の諸将も田村氏の下へ馳せ参じ、一大勢力とな
って結城氏を中心とした鎌倉府配下の軍勢と対峙します。
「田村庄司の乱」に対して、陸奥国の管轄権を室町幕府(征夷大将軍政所)から移譲されたばかりの鎌倉府の足利氏満(古川公方)が、北朝方の東国十一ケ国の国人に出陣を命じて、自らが兵を率いて出陣して結城氏の舘に入ります。
この鎌倉府によって動員された兵力の前に、一定の戦略的効果を得た田村庄司氏は、今後の形勢を鑑みて兵を納め、それぞれの領地へ帰還します。
これによって田村庄司氏は一時的に衰退し、田村荘は鎌倉府の御料所となって結城氏がその代官として在地支配を広げます。
後の応永六年(1399)、不満を募らせる御春輩を中心とする南奥諸将の支配・監視するために、鎌倉府政所から安積郡へ足利満直(篠川公方)、そして岩瀬郡には満直の弟足利満貞(稲村公方)が派遣され、仙道(現在の福島県中通り周辺)の国人諸将が、応永十一年に取り交わした「仙道国人一揆契状」から見ますと、仙道の諸将は篠川、稲村両公方の権威をもとに鎌倉府の差配を受けていたことが窺えます。
時代は下がり、田村庄司田村氏の基盤を継いだ田村直顕(三春田村氏初代義顕の祖父)は、宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど田村庄での足場を固め、結城氏の内紛によって没落し、後に田村氏は三春へ拠点を移して戦国大名へ発展し戦国乱世を走り続けます。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
尚、三春の商家菊川屋の大奥様は、栃木県小山市のご出身で、小山氏の御城が落城したのが7月7日ということで、小山のい旧市内では”七夕祭り”の七夕飾りは行っていなかったとに事でした。
| ryuichi | 20:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
2025-01-18 Sat
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。
「黒木舘」田村四十八舘
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
黒木鎮守 菅布禰神社 の由来書には
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。
建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
※田村庄司田村氏も南朝方
その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?
後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。
黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領)
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前
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2024-12-22 Sun
中津川城 中津川氏
応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。
時代は下って・・・
天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、咎めた伊達氏に対応して、田村義顕、隆顕が、中塚が氏の所領内中津川城を残して、田原谷城(小野町夏井)、及び細田城を破棄した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。
田村隆顕は、これらの一連の伊達との和睦交渉の中で、手中にした安積郡の一部余撤退を余儀なくされます。
さらには、常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。
このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます
田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ
天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う「伊達天文の乱」が勃発します。
天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が城主となりますが、城代として中津川の中津川四天王と称された、四宿老家が城を護っています。
仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。
天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐
天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)
天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死 郡山合戦
天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ
また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。
6月3日付の記載には、田村宗顕は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より
天正十八年六月
去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様 「貞山公治家記録」より
中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。
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2024-11-24 Sun
海老根鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)
海老根村(現郡山市中田町海老根)の菅布祢神社は大明神と称していたが、明治二年二月神社と改称して社格は村社となった。
その後、明治二十九年に幣殿縦一間半、横二間、拝殿縦二間半、横五間に再築されており、同三十四年三月には土蔵、木造木羽茸、建立壱坪五合を新築しており神楽殿は同三十五年の暴風雨によって破損したなど、神社明細帳えの追記願や、取消願が大正二年一月八日付で知事宛に提出されている。
また、この神社の御由緒調査書によると次のとおり。
祭神一座 猿田産命
右古老伝説
当社の勧請は、平安時代末の永暦元年(1160)田村郡下枝村の菅船大明神の御分霊奉遷する所なり
この時、神殿を新築。
尚、その後に至って、海老根舘主今泉左馬之守なるもの者、特に神社を尊敬したとの伝説があり。
また、室町時代の永京11年(1439)に、海老根の泉舘主熊田右馬之丞藤原重特も、これまた大いに神社を信仰したる由、判然とし口碑にあり。
寛延二年(1749)神殿を改造して明治維新の折の村社に列せられる。
古器物
剣壱振
鏡四面
右之通に相違無之候也
明治三十五年十二月八日
社掌 遠藤直記
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2024-11-18 Mon
黒木鎮守 菅布禰神社
「黒木舘」田村四十八舘
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。
武門の崇敬として源家朝臣より散米田と号して中田四反歩余畑山林を御寄付。
氏子は「寄附田」と称して祭事を行っています。
棟札四面の写しがあり
]
宝永元甲甲稔三月十八日(1704)
享保六辛丑歳八月十四日(1721)
寛政元己酉歳九月二十一日(1789)
弘化己己歳六月二十八日(1845)
宝永元年の棟札に「奉再興菅船猿田彦大神社為一天泰平四海平定当村安全也」と記載他のものが奉修復となっているようです。
享保元年九月(1716)「領主秋田信濃守馬匹奨励ノ思召ヲ以テ研山ノ神馬ノ額面奉納アリ」
弘化二年(遷宮)の棟札には領主秋田候より「太守公金五両御寄進相成候」とあります。
上記は、昭和16年に神祇院へ小社より村社への「皇紀二千六百年記念事業」に際する昇格に関する加列申請書より抜粋
境内の大ケヤキ 夫婦ケヤキですね。
三春 黒木氏 考察 2025
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。 建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
※田村庄司田村氏も南朝方
その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?
後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。
黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領)
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前
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2024-04-26 Fri
塵壺394号 令和6年4月26日発行
ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道
滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。
田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。
日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村大膳太夫義顕(植顕)の弟です。
甥にあたる三春二代の民部少輔下総守隆顕、そして、三代となる大膳太夫侍従清顕をも補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人です。
また、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳(月斎の次男?)らとともに「田村氏四天王」と称されていました。
月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、
嫡男・顕重 出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、
次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、
三男・新田城主 新田民部顕輝(土佐守顕成)、
四男・田村石見守顕朝、(橋本刑部少輔顕徳?)
五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、
六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、
七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、
八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)
月斎の一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。
三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎、無けりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。
先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。
月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。
今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、一身を修めることについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。
天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。
さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。
晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。
和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。
月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏と戦国のとはいえ四面楚歌の中で知力謀略限りを尽くして激闘を繰り返し長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。
田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!
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2023-10-06 Fri
「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。
永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。
また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。
直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。
しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。
清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。
やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。
「御祭舘」御祭小山舘
旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石
三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。
古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。
江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。
以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。
また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。
戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。
「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。
ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。
旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。
その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。
その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。
七草木という地名の由来が伝わっています。
平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。
このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。
後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい田村! 拝

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