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塵壺399号  令和6年10月号発行 「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」 医学博士 小林克巳 著 




塵壺399号  令和6年10月号発行

「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」 医学博士 小林克巳 著 


旧御木澤村出身の公認会計士で歴史家の伊藤勉さんより、小林克巳先生の書かれた「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」を頂戴しました。

この小説は、先に三春町交流館「まほら」で公演された「愛姫をもっと知ろう~琵琶と舞とおもしろ講話」というイベントに関連した作品で、伊藤さんは、小林先生の依頼で資料提供と時代考証等をしました。


 小林先生は、経歴が示す通り、病院を経営されている現役の医学博士・医者の傍ら様々な小説を世に送り出しています。






 そして今回は愛姫(めごひめ)・・・

 愛姫の晩年、86歳を迎えた彼女が、夫である伊達政宗の生涯とともに、激動の戦国期を生き抜いた戦国武将の正妻として我が身を静かに振り返るという回想からはじま
ります。


 戦国時代と言えば、猛々しい武士たちの生き様に注目しがちですが、その影には彼らを支える力強くも温かい妻・女性たちの力強い姿があり、その典型を三春田村氏の娘で伊達政宗の“愛姫”法名・陽徳院の視線を通して描いた作品です。


 愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

 そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。

 このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

 この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができましたが、伊達家へ嫁いで早々に、愛姫と共に三春から来た世話役の乳母が当時伊達家と敵対していた相馬家家臣の出身だったため相馬家に内通しているのではないかと疑いをかけられ、その乳母のみならず、愛姫の世話役に付いてきた田村家家臣出身の侍女達までも同罪として処罰されてします。







 以来、伊達・田村の安泰とは反比例して政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ、天下人太閤・豊臣秀吉の命で京・聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)に結婚から15年目にして後に越後少将松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。






 さらに、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸と、三男一女に恵まれました。

 豊臣政権下での京に於いて愛姫は、人質とはいえ今でいう外交官的な役割を果たして奥州の政宗に京・畿内の情勢を知らせます。

 徳川政権下では江戸幕府より与えられた江戸城外桜田の仙台藩伊達上屋敷(現・日比谷公園内)に住んでいました。

 政宗は、寛永13年(1636年)年5月、ここで70年の生涯を閉じます。

 そして、愛姫は政宗の死から17年経った承応2年(1653年)1月24日(正宗の月命日)に旅立ちます。享年86。
 
愛姫について瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。

 伊達政宗は、愛姫と共に戦国武将として戦乱の世を駆け抜け、豊臣政権、そして、徳川政権下でも政局を乗り切り伊達家を守り抜きました。

 ※仙台藩上屋敷は、後に江戸城整備や火災などにより、新橋、さらに汐留に屋敷が移転します。






 三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫の意向によって孫にあたる伊達宗良が田村氏を名乗り仙台藩内分分知の分家岩沼藩田村家三万石の大名に、後に一関藩三万石を領し田村氏の名前は幕末まで続きました。






     蒼龍謹白 さすけねえぇぞい、三春!  拝



※新聞折込の塵壺の中で訂正があります。

伊藤勉と記入すべきところを伊藤務と記載してしまいました。

訂正してお詫び申し上げます。


| ryuichi | 03:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺398号  「越中富山の薬売り」 富山藩主と三春藩主




塵壺398号  「越中富山の薬売り」 富山藩主と三春藩主


先日、公私ともにお世話になっている配置薬の有限会社「サンサン」(郡山市)社長の佐久間喜重様(三春町沢石出身)が、春の叙勲で「旭日双光章」を受賞され、その祝賀会にお招きを受けましたのでお祝いを言上したく喜んで出席しました。

その祝宴の席で、佐久間さんの配慮で富山にある有名な製薬会社の会長さんや、医療・薬科の業界新聞社の元主幹、そして、宮城県の配置薬協会の会長さんなどと同席となりました。

薬、配置薬、富山、三春と云えば、「越中富山の薬売り」の起源となった富山藩主と三春藩主の逸話が伝わっており、早速、歴史談義となり歴史好きの私にとって大変有意義な時間を過ごさせていただきました。







元禄3年(1690)歳暮、富山藩2代目藩主前田正甫(まえだ まさとし)公が参勤交代で江戸城に登城の際に、伺候席(控之間)“帝鑑之間(柳之間?)”にいた譜代格(当時)大名三春藩主3代秋田輝季公(当年40才)が腹痛を起こし、そこに居合わせた正甫公が印籠から『反魂旦』(はんごんたん)を取りだし服用させたところたちまち平癒します。
正甫公自身も元来体が病弱だったようで、薬に対する興味が強かったと伝わっています。

そこで、自ら全国の薬を調べた結果、備前岡山藩の藩医・万代常閑(もずじょうかん)がつくった“反魂丹”(はんごんたん)という何にでも(特に腹痛に)効く薬を調合してもらい、肌身離さず持ち歩いていたそうです。

そのやり取りを見ていた諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で『反魂旦』を売り広めてくれるように、各々薬売り道中手形の発行を約して前田公に頼みます。


以来、富山藩は備前岡山藩から藩医万代常閑を招いて城下の御用達薬商人松井屋源右衛門に命じ反魂丹を作らせます。

さらに、領地から出て全国どこでも商売ができる前田公裏書の『他領商売勝手』を発布して「殖産興業」の政策として、富山を寄港地とする北前船を駆使して全国津々浦々に至るまで薬売りの販路拡大を整備して「売薬産業」を奨励しました。








一方の三春藩主3代秋田輝季公は、晩年まで精力的に領国経営・大名賦役を勤めます。

大坂城加番勤務として江戸幕府内では譜代格大名に再任され、遠州吉田大橋(静岡県)の大改修などを請け負います。

また、領内整備では、真照寺山内古四王堂再建、藩社神明宮(三春大神宮)の遷宮、領内総鎮守太元帥明王社(田村大元神社)へ大般若経六百巻を奉献、そして、新田開発の水源として南原之大池の整備など藩運営をしています。


さらに、領内の馬産に力を注ぎ、仙台より良馬を購入して殖産に努め良質な農耕馬の産地として事業を推進し、後にこの駿馬が「三春駒」として全国に名を馳せるようになります。

このようにして藩財政の発展を遂げ、三春藩主歴代最高齢の72歳で生涯を閉じます。

尚、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田候教方萬金丹」は、三春初代藩主俊季公の実父秋田實季候直伝によると伝えられています。


「越中富山の反魂丹(はんごんたん)♬鼻くそ丸めて萬金丹(まんきんたん)♪」と童唄でも親しまれ、「越中富山の反魂丹」と並んで全国的に有名な伝統薬でもあったことを追記しておきます。


さて、話を越中富山の薬売りに戻します。

この配置販売業が今日まで営々と受け継がれてきたのは薬の効き目はもちろんですが「先用後利」という独自の販売システムのお陰ともいえます。

急に発病する病のために薬を数種類も常備しておくことは困難でしたが、先に常備薬として預け、次回訪問時に使用した分の代金だけを支払うという信用商法であったため利便性が高く、全国の人々に広く受け入れられました。





 



また、何代にも亘る家族構成や使用する薬などのデータを書き記した「懸場帳」を基に、そのお得意先に適した薬の配置が出来るとともに、使用歴に応じて健康アドバイスする専属の薬剤師さんの役割も担っていました。

今回、越中富山の薬売り関係の方々から配置薬の話を拝聴して、どの商売にも生かせるマーケティングの原型がそこにあるということをご教示いただきました。



  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝







きのこ集団Protomass リハビリ公演その2


『さりげないほど、絵になるウエハース』

作.演出:高橋 成知






■公演日時

10/19(土)14:00/19:00

10/20(日)14:00/18:00

o 開場は30分前

o 上演時間は約90分の予定



■公演会場

ATELIERブリコラージュ

〒960-8034 福島県福島市置賜町8-30
カスタムビル2F


■料金
一般2000円学生1000円 小学生以下無料

※当日一律+500円



当店のホームページの表示が時々文字化けするようになっています。更新ボタンを押して再表示していただくと直るんですが、この不具合はホームページの制作ソフトのシステムが古くて今のシステムに会っていないのが原因です。これから新しいシステムに移行する準備を進めているところです。お客さまにはご不便をおかけしますが、もうしばらお待ちくださいますようお願い申し上げます。


| ryuichi | 03:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺397号 「明治戊辰役三春藩士烈士碑」 旧三春城本丸跡  令和4年8月吉日発行




塵壺397号 「明治戊辰役三春藩士烈士碑」 旧三春城本丸跡  令和4年8月吉日発行


 暑中見舞い申しあげます。8月に入り、より暑い日が続いております。

熱中症に気を付けて、暑い夏を乗り切りましょう。

 もうすぐお盆ですね。お盆は、ご先祖さまを敬い、供養する行事です。

いうまでもなく、私たちが今ここにいるのは、父母・先祖の存在の「おかげ」があってこそだと思います。

お墓や仏壇、そして、神棚で手を合わせると、不思議とご先祖や亡き人を身近に感じることができるのではないでしょうか。

ご自愛のうえ、心穏やかなお盆をお迎えください。








 そして、終戦記念日。平和の尊さについて考え、感謝する日です。

戊辰戦争、日清・日露戦争を経て、日独戦、太平洋戦争と多くの方々が戦場で斃れ、一般の国民も戦禍に巻き込まれ尊い命を落としました。

 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」を経て樹立された明治新政府と、これを不服とした旧江戸幕府勢力との内戦で、鳥羽伏見ノ戦、江戸城開城を経て、会津藩追討の為に攻め上がってくる薩長を主体とする新政府軍に恭順するのかという決断を、全国の諸藩が迫られます。






 特に東北の諸藩に於いては、旧幕府勢力の旗頭になってしまった会津藩救済を目的とする奥羽列藩同盟に加盟するのかという差し迫った事情もあり、5万石の小さな三春藩もその対応に苦慮していました。



 三春藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟していましたが、征夷大将軍徳川家自ら政権を投げ出したことで旧幕府側として会津松平家擁護の大義名分が失われます。

 その時代の流れを一早く察知し三春藩閣僚の意を汲んだ河野広胖(河野広中の兄)らの若い藩士たちが、西軍断金隊隊長美正貫一郎の裁量で東山道先鋒総督府参謀の土佐藩板垣退助に会見し、西軍参謀と帰順を工作・和平交渉の末に三春無血開城を果たします。


 戦争を回避し城下を戦禍から守った三春藩の選択は、後の明治という近代国家成立の礎となり、磐前県を経た福島県の発展に大きく寄与します。

 しかし、その陰には大義に殉じた三春人の誇りを貫き尊い犠牲となった武士、そして、農民もいます。この命を賭して三春を守った人たちが居たことを忘れてならな
いと「明治戊辰役三春藩士烈士碑」は、殉難された藩士の名を刻み旧三春城本丸跡に建立されています。


 明治元年七月二十六日、藩論一変し西軍三春入城となったため、奥羽同盟軍事局に派遣されて福島や二本松に滞在中、三春藩離反の嫌疑により東軍の手によって数名の藩士が殉難犠牲となっています。


 三春藩は、三春城無血開城を果たし新政府軍に恭順を示しますが、新政府軍政局より新たな賦役が三春藩に言い渡されます。

 主な賦役には「西軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「西軍の諸藩の道先案内」「参謀局会計局の世話」(当初・御殿、後に総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(西軍のために龍穩院に設置、病院内で死亡した者66~70名)などでした。 

 ※軍資金の供出もあったことでしょう。








 さらに、会津追討に際しては「母成峠・中山口へ兵隊五十人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬」を命ぜられ、人足達は軍夫として最前線で弾薬を背負い西軍戦闘部隊に付き添って戦場を駆け巡ります。



 三春近辺はもとより領内全域から徴発された人足は、多少の手当はもらえたものの、みな死に物狂いであり実際死亡した者も十教名に及んでいます。

 三春藩の命令で領内各村から招集され、西軍・新政府軍を編成する薩摩藩、土佐藩、佐土原藩などの西軍諸般の輜重隊(荷駄隊)付軍夫として会津藩追討に参加して戦死しています。


後に、西軍に与力した三春藩軍夫の戦死者には旧薩摩藩などから墓所へ慰霊碑墓石が支給され、靖国神社にも合祀されています。

 今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の辛苦に耐え復興の道を歩んでこられた先人のご努力の上に成り立っています。こうした先人たちへの敬意と感謝を忘れず、すべての犠牲者の方々のご冥福を祈り衷心より哀悼の意を表したいと思います。









     蒼龍謹白  拝 さすけねぇぞい三春!


| ryuichi | 03:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行




塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行


田村大元神社の祭礼執行役・別火講中に在講中、2泊3日の夏季例大祭・御籠(おこもり)や、正月別火講祭の後片付けの際に境内を探索して明治維新廃仏毀釈以前の太元帥明王社及び別当泰平寺の遺構探しをしていました。






地中からは、梵字のような文字が刻まれている石や太元帥明王の罹災した記録を記した石板、そして、多数の束石等々…。

そのまま埋め戻すのも忍びないので、境内の隅に置いておきました。








まだまだありそうで、神社の許可を正式にとって、本格的に境内を掘って調べたいものです。







古い資料があります。

明治初年の旧三春藩領三春町の「寺社明細帳」。

その中の旧三春藩領内総鎮守「太元帥明王社」の記載があり、社名は「大志太神社」、祭神は国常立命と記されています。そして、社殿の項を見ますと・・

「神殿(現・拝殿)」縦に尺三寸、横に尺八寸。「窟(現・本殿)」縦二間、横二間。

「随神門(現・仁王門)」縦二間半、横六間半。そして、「額殿(現社務所付近か?)」縦七間、横二間との記載がありました。

「額殿」とは、奉納した額を納めた社のことを指しますが、大きさからして神仏習合の「拝殿」に相当する建屋があったと思われます。そして、政府教部省の教導職道場「小教院」の記載もありました。






さらに、もう一つ。廃仏毀釈の混乱を現す記載がのこっています。


太元帥明王山内(境内)にあった記録が残る「愛染塔」が一部の過激な神道崇敬者によって境内から崖下へ投げ落としたというのですが、現在も同神社の真下にあるお宅の裏庭にひっそりと鎮座しています。

石碑の表中央には「愛染塔」、右側には「再建昭和6年・・・」と刻まれています。

そして、左側には再建・奉納者のお名前が揮毫され刻まれてあります。
また、裏面には、本来の建立した年号「丑月庚申」が読めます。

庚申の丑月で1月、庚申の年といえば60年に一回です。








永正子年間の田村義顕公による三春築城太元帥明王社の勧請(建立)、そして、会津蒲生代官期や会津上杉代官期、秋田候三春入城の正保2年などを考慮して愛染塔(愛染明王堂?)の建立時期を庚申年に合わせて設立された年を推察してみました。

永禄3年1560年 この前年の永禄2年10月に義顕公が太元帥明王に大般若経二百巻を奉納しています。

永禄4年3月25日に義顕公が死去しています。

元和6年(1620)蒲生代官時代の寛文10年(1670)に伽藍が炎上により焼失。

延宝8年(1680)4年前の延宝4年には三代藩主盛季公大阪勤番中に同地で死去、輝季公が家督相続しています。 

元文5年(1740)10年前に享保14年(1730)~15年 三春藩騒動「享保騒動」  

寛政12年(1800)15年前の天明五年(1785)には「天明の大火災」発生、三春本城以下、家中屋敷、下御屋敷を含め城下六町のほとんどを消失し、藩主御座所を真照寺に移すほどの災害から復興した頃か?

安政6年(1860)「安政の大獄」があり、三春にも幕末風雲の声が聞こえ始めています。

これらを鑑みるに、大般若経二百巻奉納と義顕公死去の間となる永禄3年か?はたまた寛文10年の「明王社伽藍炎上」?もしくは天明5年の「天明の大火災」で愛染明王堂が焼け落ち、その代わりとして「愛染塔」の石碑を建立したか…?謎が深まります。







この石塔には「愛染塔」との揮毫の刻印があります。石碑単体として祀っているのであれば「愛染明王」と刻まれているのではないかと思います。

もしかしたら、明治以前に宇内(境内)に設置されていた時には、この石塔の他に「愛染明王」を祀る本来の仏塔(堂)があったのではないかとも推測しています。

場所は、この巨大な石を人力で落とせる場所ですので、現在の手水社の後ろ側か宝物殿附近かなともあれこれ想像するだけでワクワクしてきます。







       蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺395号 「両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社」





両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社







 両国国技館で大相撲五月場所「夏場所」!なんとその『中日(8日目の日曜日)』に人生初めての大相撲観戦の夢が叶いました!

 以前は大相撲にそれほど興味はありませんでしたが、当店のマスコットボーイの悠大君が力士の豪栄道に似ているということがキッカケで、少しずつテレビ観戦をするようになったのでした。






 それ以来、すっかりハマってしまい、贔屓の力士(もちろん郷土の力士が中心)の取り組みの際にはテレビに向かって大声で声援を、そして、録画しても見るくらいの大相撲ファンになってしまいました。


 「いつかは国技館での観戦を!」と願っていた矢先に「升席が取れたので四人で行こう」と『大波三兄弟応援バスツアー』の手配から保険、道中の飲食はもちろん昼食宴会など、全て完璧に段取りしていただいたのが大先輩の田中金弥さんでした。

 そして、今回その夢が叶い老舗呉服屋の旦那さんや会社役員の方とともに、まもなく喜寿を迎える金弥さんを筆頭にしてちょい還暦を過ぎた“爺っちゃん4人の珍道中”となったわけです。


 両国国技館前に着いたのはちょうど正午でした。

 まずは館内に入り、自分たちの升席を確認してから昼食を取るために一時国技館を後にしました。

 少しだけ両国駅周辺を散策したのちに、金弥さんが知っている店に入り、生ビールを呑みながら両国名物の海鮮料理屋さんで海の幸を堪能することができました。






 食事が終わってから十両の取り組みまでには少し時間があったので、爺っちゃん4人はミーハー並みに、国技館脇の力士入場口の前で力士の入り待ち・・・やはりお相撲さんは大きい!大銀杏を結った力士の凛々しさとその存在感を肌で感じました。


 国技館に再入場すると、中日・日曜日ということもあり、会場は熱気むんむんで応援する歓声もヒートアップしてテレビ観戦とは大違いでした。

 この夏場所は横綱はじめ三役以上の力士が5人も不在という今までになかった波乱含みで、郷土力士の筆頭である”若元春”も怪我で休場してしまい応援することができませんでした。 






 そして、何と言っても横綱・照ノ富士の不知火型の土俵入りが見られなかったことが一番残念なことでした。

 しかし、大の里などの若い力士が成長してきて下剋上・群雄割拠の状況が大相撲の人気に拍車をかけており、また生で観戦する大相撲の迫力はすさまじく臨場感そのものが身に染みてきて感動そのものでした。


 特に宇良と豊昇龍、そして結びの琴桜と王鵬の二番は一生心に残る取り組みとなり、国技館での大相撲を十分に堪能、満喫してまいりました。そして、中日はあっという間の結びの1番へ…。

 夢心地というのはこういうことなのでしょう。

 今回、貴重な経験と素晴らしいご縁をいただいた金弥さんには心より感謝申し上げます。








 ところで、三春で相撲といいますと、中妻地区の神社、特に斉藤の松樹神社(旧妙見菩薩)にある土俵を思い浮かべます。









 この神社は、三春城下の南、斉藤村安養寺の裏山松樹山の山頂に鎮座しています由緒ある御宮様で、戦国時代、元亀元年(1570年)伊藤氏の祖藤原頼位氏が神舘城の峰続きとなる‘北ノ月見崎’に妙見菩薩を勧請して軍中勝利祈願をしたところと伝わっています。

 かつての御祭礼・縁日は、旧暦の春は4月24日、秋は9月24日でしたが、明治3年に発布の「神仏分離令」により妙見様は「松樹神社」と改名され祭礼も新暦となっています。








 妙見様は、昔より「相撲の神様」として知られ、秋祭には庄屋を中心として番付をつくり、旧斎藤村鎮守「見渡神社」とおなじく、村中で盛大にお祭りを行ったとのことです。







 明治になって若連会、そして、大正時代には青年会主催となり2年に1回に相撲興行を行うようになりました。

 祭礼当日には高い木戸の両側に美しい絵を描いたぼんぼりを沢山建ててとても華やかだったと伝わっており、祭礼には近郷近在より相撲好きな人達が大勢集まり、当時は香具屋と呼ばれていた現在の露天商・テキヤさんが多数軒を並べるなど大いに賑わったものだったとのことです。 


 「斎藤・おらが里ざっと昔」参照 




      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝


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塵壺394号 「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 




塵壺394号 令和6年4月26日発行

「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 

 滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。

田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。

日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村義顕の弟で、二代の隆顕、そして、三代となる清顕も補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人で、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳らとともに「田村四天王」と称されていました。


また、月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、三男・新田城主の新田民部顕輝(土佐守顕成)、四男・田村石見守顕朝、五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、そして、八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)らの一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。








 三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。


 先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。

 月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、現代にも通じる修身のことについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。







 天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。







 


さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。






 晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。






 

和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。

 月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。

以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏等と戦国の世とはいえ四面楚歌の中で知力謀略の限りを尽くして激闘を繰り返し、長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。


 田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。

さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!







生涯現役、ご長寿万歳!  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!

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塵壺393号 令和6年4月発行 安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)




塵壺393号 令和6年4月発行


安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)

安東愛季は、後の三春五万石秋田氏初代藩主となる秋田俊季の祖父で、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された戦国武将です。

津軽地方の下国檜山家・安東氏の御屋形(当主)安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。

母はもう一方の安東氏、上国湊家安東氏出身の嶺松院です。


安東愛季が御屋形となる安東氏は、平安期の武将・安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。



その繁栄ぶりは国内外に広く知れ渡り、ルイス・フロイスが著した永禄8(1565)年の書簡にも愛季の蝦夷交易のことが記されています。


愛季は、長年に亘って利権争いなどから二分して争ってきた安東一門を統一するため、婚姻関係と養子縁組など政略的な縁組を行って弟・茂季を湊・安東家に養子入りさせ、湊家安東氏を吸収する形で、桧山・安東氏と湊・安東氏を統一して一流の戦国大名として本格的な領土拡張に動きます。


そして、愛季は戦国時代となる室町幕府末期の中央との政治工作も忘れてはいません。

強大な海軍力を備えた安東水軍を率いて日本海北前船交易で収集した畿内情報をもとに、娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使し、「言継卿記」を現した公家の山科言継などを使って織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。


また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。

さらには、北前貿易で蓄えた安東一門の財力をもって豊臣政権下での戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していたと考えています。


その一例として、蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられ、その時に殿様(愛季・實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。

愛季はさらに領地拡大を目指して領国経営戦略を打ち出し、比内郡を含む出羽国北部の大部分を領地としました。

同年には、「本能寺の変」が起こり、信長が明智光秀に討たれて、天下が豊臣秀吉に移っても安東氏の立ち位置は変わりません。

これが結果として、後の安東家に大きな役割を果たします。






天正15(1587)年、愛季は仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いの最中、淀川の陣中で病により世を去りました。

享年四十九。戒名は龍穏院殿萬郷生鐡大禅定門。

墓所は三春城下荒町の秋田家菩提寺秋田山龍穏院にあります。

愛季の知略は、息子である實季(俊季の実父)にも受け継がれます。

天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。


實季の姉、慶松院・北畠(浪岡)顕村夫人と婿養子慶好らが公卿北畠氏の権威を利用した禁裏・公家工作を行い、さらには、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開して安東家の安堵を画策します。

特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な配慮を受けることに成功して領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。

尚、慶松院は、常陸宍戸(現茨城県笠間市)で亡くなりますが、法名・昌安恵繁と刻された墓石は、父愛季の墓石同様に秋田氏の三春入部に伴って移された菩提寺龍穏院の秋田家墓所に運ばれて建立されています。






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