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塵壺418号  大河ドラマ「豊臣兄弟!」と三春城主松下氏  令和8年5月発行




塵壺418号  大河ドラマ「豊臣兄弟!」と三春城主松下氏  令和8年5月発行

 木下藤吉郎(日吉丸)、後の太閤豊臣秀吉が最初に仕えた侍は、松下加兵衛之綱(まつしたかへいゆきつな)という地侍でした。
 
松下之綱は、江戸時代初期の三春城主松下長綱公の祖父にあたる方で、天文6年(1537)、松下長則(ながのり)の子として三河国碧海郡松下郷(豊田市)に生まれ、元服して通称を加兵衛としています。

 松下家は、今川家臣の飯尾(いのお)氏に寄子として仕え、やがて遠江国頭陀寺城(ずだじじょう・浜松市)を与えられて城主を務めました。

 正確な時期は不明ながら、藤吉郎は之綱の城主時代に仕えていたようで、之綱は藤吉郎と同年齢であり、まだ10代だった藤吉郎が仕えたのは、之綱の父である長則だったのか、父の後見を受けながら之綱なのか詳細は伝わっていません。





 松下家に奉公した藤吉郎はドラマでも描かれているように、明るく積極的で機転の利く才覚だったようで、藤吉郎を之綱は可愛がり兵法と槍術を指導したと伝わっています。

 しかし格式や序列・秩序を重んじる旧来の家臣や同僚からは、嫉妬が集まって人間関係で齟齬をきたし、仕方なく之綱は藤吉郎に暇を出します。

 永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が討ち取られると、まもなく今川家は滅亡、之綱は松平元康改め徳川家康に仕官します。

 之綱は、武田勝頼勢との最前線である高天神城(静岡県掛川市)の守備に出陣して、武田勢を迎撃していますが、天正2年(1574)に武田勢の猛攻にあい高天神城が陥落、
之綱ら籠城組は武田勢に降伏し捕虜となってしまいます。

 後に、羽柴秀吉(藤吉郎)によって召し出され、その家臣として仕えます。 天正3年(1575)の長篠合戦の際には、秀吉の前備として出陣しています。その後も之綱は秀吉に

忠義を尽くし、武功によって丹波国・河内国・伊勢国などに3千石の知行を与えられました。

 秀吉は、若いころに受けた恩義を忘れていなかったのでしょう、天正15年(1587)、之綱に従五位下の位階と石見守(いわみのかみ)の官職を与え、丹波国に知行3千石を加増し6千石となっています。

 さらに秀吉が天下を統一した天正18年(1590)、之綱は遠江国久野(静岡県袋井市)に1万6千石を与えられ久野城主となりますが、慶長3年(1598)2月、62歳で世を去り、家督は次男の松下重綱(しげつな)が継ぎます。この重綱の正室が、豊臣恩顧「賤ヶ岳の七本槍」のひとり加藤嘉明の娘だった事で、加藤家の与力大名として豊臣政権下での地位を確立していきます。






 さて、三春城主となる松下氏。寛永4年(1627)の正月に、会津藩主の蒲生忠郷が亡くなると、伊予松山城主加藤嘉明が入れ替えとなって会津40万石を拝領、三男明利が三春3万石、娘婿の松下重綱が二本松5万石を拝領。

 後に、重綱が亡くなると翌年正月にはその嫡子長綱が、明利と交替で三春城主となり、寛永21年(1644)に改易されるまで松下石見守長綱として三春を治めました。




※トリケ(発狂)の薬として削られた長綱公の墓石

 長綱は、三春入城後に先の城主三春田村家の伊達家へ吸収合併以降、久しく荒れていた三春城の城郭や石垣を補修し、城下全体を城郭とする中世城郭都市として整備改修し“東北の鎌倉”と呼ばれる現在の三春城下の基礎を三春在住17年の間に創り上げます。


 豊臣政権に代わって徳川の世になりますと、豊臣恩顧大名の御取り潰しが始まり、寛永20年(1643)、会津藩主加藤明成が封地返上というお家騒動『会津騒動』で、会津領が幕府により改易の上収公されます。






 松下家も例外ではなく、翌正保元年、長綱の切支丹(キリシタン)の嫌疑がかかり、妻の父である土佐藩主山内忠義(ただよし)が、長綱が乱心発狂したので領地を幕府に返したいと願い出て、それが許可されて城地召し上げの上、三春松下家は改易取り潰しとなります。


 改易になった長綱は土佐藩山内家に預けられ、松下家の家督を継いだ二男の長光が江戸幕府寄合旗本として松下家の家名は後年まで存続しました。








 三春城下新町にある曹洞宗天翁山州傳寺は松下家の菩提寺で、この山号は長綱の祖父加兵衛之綱の法号天翁長珊(てんのうちょうさん)に、寺号は重綱の法号州伝寺殿にちなみます。






長綱の墓所は、現在も高知市の真如寺にありますが、州傳寺山内の墓所には重綱、長綱、豊綱(長綱の子)松下三代の墓があり、町の史跡に指定しています。
 

今後、「豊臣兄弟!」に松下氏は登場する機会はあるのでしょうか…期待したいですね!



     

 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!


| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺第417号 4月号 「洗心洞劄記」 大塩平八郎(中斎)と伊勢御師 令和8年4月発行 



塵壺第417号 4月号 「洗心洞劄記」 大塩平八郎(中斎)と伊勢御師 令和8年4月発行 


「大塩平八郎の乱」で知られる、大塩平八郎中斎は、蒼龍窟河井継之助や南洲西郷隆盛らと並び称される当代の陽明学者でした。

陽明学とは、朱子学と同じ儒学を源流とする中国の明代に王陽明が起こした学派で「事上磨錬」「致良知」「知行合一」を基本学理の根幹に据え「学んだ知識には行動を伴い即実践する」を第一義としていました。






大塩は、大阪奉行所の与力で天満の屋敷(現大阪造幣局付近)に私塾「洗心洞」を開設して同僚の与力や同心、近郷の豪農、医者、神官などを門弟として陽明学を講義、『洗心洞剳記(せんしんどうさっき)』や『儒門空虚聚語(じゅもんくうきょじゅうご)』などを著し「中斎学派」と呼ばれる一派を形成していました。


「大塩の乱」(大阪騒動)に際して、大塩は先頭に「天照皇太神宮」、右に「湯武両聖王(とうぶりょうせいおう)」、左に「八幡大菩薩」、そして「救民」と「南無妙法蓮華経」を大きく染め上げられた二流の幟を押し立て決起進軍したと伝わっています。

 また、大塩が、配布した決起趣意書「檄文」は大名から民衆まで広範囲に伝写され、乱鎮圧後に大塩らの40日にも及ぶ潜伏期間中の広報活動によって事の仔細は食に伝達され「幕藩制社会への抗議」として大きな衝撃を与えました。

窮民を救うためと訴えた「檄文」や、蔵書を売って得た600両を困窮者に分け与えると書いた「施行札」は、大塩の人徳と争乱決起の正当性を強く世間に訴えました。  

大塩の乱は、僅か半日で制圧され武装蜂起は終わりますが「檄文」は、幕府の厳しい回収令にもかかわらず民衆によって筆写を重ねられ諸国に流布し、「大塩世直し大明神」と称えられ芝居の演目にも取り上げたりと、陽明学徒である大塩の大意は成し遂げられたといえます。



この「檄文」には「天より被下候村々小前のものに至迄へ」など、いたるところに「天~」という文字が多数表記され、表紙には伊勢神官の御札が貼ってあったと記録されていることなどから「天照皇大神宮」を主祭神とする伊勢信仰が読み取れます。


 江戸時代に伊勢信仰が広がった背景には「御師(おんし)」と呼ばれる人々の活躍がありました。神宮の神職でもある御師は、伊勢山田を拠点に諸国にある御料地や御厨(東国)を足掛かりに各々の師檀(担当地域)の旦那である大小名家や、代々の檀徒・檀家の世話人宅(城下検断、町肝煎・村名主等)を宿として「旦廻(だんまわり)」(巡行)して「天照皇大神宮」と記された御神札「御祓大麻(おはらいたいま)」、現在の「神宮大麻(じんぐうたいま)」の頒布や伊勢暦、海産物等を各戸配布して伊勢信仰の広布や参宮案内、そして行く先々で心願成就、豊作祈願などの加持祈祷を行うなどして御初穂料の受領を本業としていました。

一方、御師は伊勢の自邸で宿坊を経営ており、旦那衆や檀徒、檀家は伊勢講中、個人問わず、「お陰参り」と称する伊勢参宮の滞在中際には、各々の御師邸への宿泊や食事の費用(お神酒以外のお酒と道中の旅費は個人負担)は、その御初穂料に含まれるという次第が構築されていました。


最盛期の江戸後期には20000人を超える御師とその配下数万人が活躍し、御師邸453軒、総檀家数は全国戸数の9割に及んでいたと記録され、年間500万人(6人に1人)が詣でたと伝わっています。

また、諸国巡行には「伊勢太々神楽」の神楽師を配下に同行して、行く先々での御祈祷の御神楽奉納や、曲芸の披露なども行ってとの記録も残り、伊勢の神宮と民衆を結びつける役割を担っていたことが読み取れます。尚、その年末の忙しさから「師走」の語源とも云われています。


尚、この御師による「神宮大麻」の頒布は、明治維新後の制度改革により廃止されましたが、現在でも、伊勢神宮はじめ近くの神社、さらには「お正月様」としての鎮守様の神主や宮司、禰宜によって年末に授与されています。






大塩は、2度伊勢を訪れ、神宮神官で国学者でもある御師足代権太夫弘訓(あじろ・ひろのり)との親交があり宿を取って参宮をしています。
 
1回目は、天保4年7月。王陽明に倣い、天(天照大神)に近い日本最高峰の富士山、もしくは伊勢神宮のお膝元の伊勢朝熊山頂に於いて陽明学を研究した論文集である自身の著書「洗心洞劄記」をお焚き上げして、己の決意を天に誓いたいと富士、伊勢へ向かいますが、御師足代権太夫から、外宮の豊宮崎(とよみやざき)文庫、そして内宮の林崎文庫(はやしざきぶんこ)への書籍奉納を勧められ、お焚き上げを取りやめて神宮の文庫に「洗心洞箚記」を各々へ奉納します。

 翌月にも、門人橋本忠兵衛、同じく但馬不動二朗(但馬守)を足代権太夫の元へ遣わして、朱子文集、古本大学、及び伝習録、陸象山全集、そして王陽明文抄を両文庫へそれぞれ奉納しています。


 2回目の参宮は、翌天保5年2月。内宮祠官の林崎文庫に於いて、客員教授として大塩が書院教壇に立って陽明学を講じています。

 両文庫は、祠官子弟の研修修学道場でしたが、後に知識階級の講所として知られるようになり図書館と学問所(学校)の機能も有して、村井古厳を始め、水戸藩主徳川斉昭は「大日本史」の初摺り、肥前島原藩主松平忠房は「古文尚書」など大名からの書物献納、さらに山田奉行、公家、諸国の学者などから多くの書籍寄贈がありました。

また、毎月定期的に行われる和学、漢学、神典、儒書の学習会に加え多くの碩学の学者たちも文庫を訪れ客員教授として教壇に立って講義や講演会が行われていました。

その中には大塩の他にも本居宣長、貝原益軒、室鳩巣、伊藤東涯など当代一流の著名な学者が名を連ね、伊勢と京都、大阪、江戸などの知的文化圏を結ぶ役割を果たしてきたと考えられています。   






     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝




※訂正  印刷物チラシのコラム欄にて、文章の重複する印刷ミスがありました。

訂正してお詫び申し上げます。


| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
「クミコとToshieのいわきなLive 」Ma plus belle histoire d'amour♪ 第416号 令和8年3月発行




  「クミコとToshieのいわきなLive 」Ma plus belle histoire d'amour♪ 第416号 令和8年3月発行

いわき市出身の歌手・俳優・MCのToshieさんから案内を受けまして、平駅前まちポレいわきで行われた歌会始「クミコとToshieのいわきなLive vol.5」を鑑賞してきました。

 Toshieさんは、ご当地出身ということもあり、友人知人やファン、そしてクミコファンのお客様も多数詰めかけてその歌に聞き入っていました。

また、歌手や俳優の他にも、ラジオパーソナリティー(FMいわき“Toshieのまぁまぁそんな感じで♪”土18:30 月13:00)や各種MCを務める軽快なトーク、さらに1983年全国高校軟式野球大会全国準優勝校・福島県立平工業高校の活躍を描いた映画「それぞれのヒーローたち」のエンディング「Blue Bird」を歌うと会場が一気に盛り上がりました。






シャンソン歌手クミコさんがステージに姿を見せると、会場のその雰囲気が一瞬で変わります。さながらここはパリ・モンマルトルの大人の社交場「ラパン・アジル」か「いわきQueen」か!といった按配です♬

定番のシャンソンからご自身のアルバムに収められている曲も取り混ぜて披露され、その歌詩の場面が叙情的に表現され、絶妙なタイミングで間合いを取りながら、シャンソンの世界へ誘い、ちょっとセンチな大人の恋を語ってくれます。

そのステージは、感動のあまり鳥肌が立ち、涙が勝手に頬をつたって来るほどで、周りからもすすり泣きの声が聞こえます。

 「シャンソンは、人生と同じで、その年齢になって詩に味が出るものね、歳を重ねることが負けではないと思えることが幸せ。迷いながらでも日々試行錯誤、毎日を丁寧に生きていく強みや重さにかなうものはないのよ。どんなにぶざまで情けなくても、悲しくても、日々を一生懸命生きる。その説得力にかなうものはないんですものね♪」
このクミコさんの言葉すべてが詩的で情緒豊かで胸に響き、素敵な夜を満喫いたしました。

 



実は、クミコさんとの出会いは、今から45年位前、高校卒業後の湘南茅ケ崎サフラン洋菓子店でのケーキ屋修業時代に、店の先輩方や以前修行されていた先輩方kから「大人の社交場を教えてやる」と、休日になると銀座に在ったシャンソンの名店「銀巴里(ぎんぱり)」に連れて行ってもらい、初めてクミコさんの唄を拝聴して感動したことを覚えています。
 

コンサート中、「夢をあきらめたくない!」と頑張っているToshieさんに勇気をもらい、クミコさんの唄でちょっとセンチになっていたのかもしれませんね、遠い記憶がよみがえり、茅ケ崎の先輩方からお引き立てをいただいたことが思い出されました。

 単車を降り、Gibson USAのレスポール1本だけ持って三春から茅ケ崎へ出てきたばかりのお祭り好きのロック小僧に、少しでもさみしさを紛らわしてやろう、楽しい思いさせてやろうということだったのかも知れません。休日には都内へ連れて行ってもらい有楽町の「銀座スイング」や先の「銀巴里」などで大人の音楽を堪能しました。

また、日本武道館での初矢沢永吉参戦やboowyの「新宿LOFT」もこの頃です♪さらに有楽町や新橋、上野の「大統領」をはじめとするガード下巡り…。この頃の経験が、現在の都内でも私の行動パターンの一翼となっていることは間違いありません。


 当時の茅ケ崎の家は、東海岸、通称加山雄三通りの海岸側で、路地を一本入った閑静な住宅街の一軒家。すぐ近くには通りの名前の由来となる加山雄三(上原謙さん)さんや、桑田佳祐さん、そして徳光和夫さんのお宅などがありました。

 町内の方に誘われて茅ヶ崎に夏の到来を告げる茅ヶ崎西浜海岸(サザンビーチちがさき西側)で早朝に開催される「浜降祭」に参戦して、相州神輿独特の「どっこい、どっこい」と神輿を担ぎ、直会に三春甚句を歌いながら「お祭り好きなんだなぁ、どこでも同じことをしている」と自分に驚いた記憶があります。






 江の島まで車で15分、鎌倉までも30分(どちらも空いていればです)という立地もあって、鎌倉(由比ガ浜や北鎌倉付近)や横浜(あぶない刑事ロケ地の山手や桜木町のカフェ)、そして葉山(金曜ロードショーOPバックのカフェ)など洋菓子関連の先輩方が修行のために勤務する店舗やその工場などにお手伝いと称して技術や資機材の習得のためによく連れて行ってもらったことは感謝しかありません。


これらの経験は今でも店造りや菓子製造の基礎知識として生きています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺415号  「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 三春昭進堂代表 髙橋龍一   令和8年2月発行




 塵壺415号  「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 三春昭進堂代表 髙橋龍一   令和8年2月発行
 
還暦祝いと結婚30年、そして当店発行の新聞折込のチラシ塵壺発行400号を迎えられたことを記念して昨年5月「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」を出版いたしました。

 発行済の塵壺のコラム「如是我聞」約400話の中から130話へ厳選して、三春の歴史や寺社仏閣を中心に歳時や、島根県浜田市観音寺での参禅、また、嘗て務めた役職の三春小学校学校運営協議会会長、三春町消防団三春分団長、三春大神宮祭礼三春若連連合会創設、故伊藤寛元町長や元三春町役場の田中金弥さん等の先輩方から教示された「町づくり」関連の話。

そして大好きな矢沢永吉さんや木村充輝(憂歌団)さん等のライブ参戦や両国国技館での大相撲観戦等々様々な内容を記載して製本化しました。






 お陰様で好評をいただき売れ行きも良く、「塵壺Ⅱ」も数年後には発刊しようと企画しているところでございます。


塵壺という名称は、幕末の頃の越後長岡藩家老河井継之助が、若い頃に勉学のために師を求めて諸国を遊学した際に記した旅日記「塵壺」から、そして「春陽思ひ附阿津免草」は、幕末の三春城下検断回春堂橋元柳助が風雲告げる城下の様子を慶応3年から明治14年まで記した日記「思ひ附阿津免草(橋元文書)」から、それぞれ敬意を表して命名しました。


 印刷も、当初は友人の会社でコピーしてもらったり、城下北町中屋商店の村田社長さんより「うちの印刷機で刷ってやるから持って来なさい」というお言葉に甘えて数年間お世話になりました。後に亀井にある赤井書店の赤井社長さんより「中古の印刷機が手に入ったので使って」と印刷機を譲っていただき自分で印刷していました。

 和菓子屋の販売促進のための広告ですので、四季や歳時に合わせたお菓子の提案など告知して売り上げアップを意図していますが、四季を通じて三春城下や田村地域へお客様にお越しいただいて歴史探訪や買い物、旬のイベント等を堪能していただきたいという願いもございます。






 コラム「如是我聞」の題材は、三春町史を基に田村兵戦記、奥陽仙道表鑑、奥州茶話記など郷土史資料を基本としていますが、大勢の方々から参考になればということで資料を提供して頂いたものが一番参考になっています。

 それらを基に、その場所に足を運んで見聞したり、寺社や史跡のご近所の方にお話を伺ったりしながら記していますが、これが趣味と実益を兼ねたということなのでしょう面白くて仕方がありません。


 塵壺の原点は、故渡辺和明さん(担橋わたや呉服店元会長)の考案した「わたや呉服店販促用団扇」に記載の「三春駒之助」というペンネームで和明さんが三春盆踊りの由来を書いたコラムです。





そして発行のきっかけとして、城下大町にあった「マルミ酒店」(後セブンイレブン三春熊耳店、現在は引退)のPR誌「マルミかわらばん」です。
これを初めて見たときに「景気の良い屁理屈を並べた派手な理想論ではなく、とにかく行動しろ!」と今までの自分の甘さを痛感した記憶があります。

 古来より三春商人の生き様を見ますと、「経営者自身の自己実現を追求するだけが経営ではなく、お客様や従業員の物心両面での幸せを追求する」、そして「地域社会の進歩発展に貢献することが経営には大切である」と教示され、商人として人生を生きる上で必要な事柄をどれだけ教えてもらったことかわかりません。

先人から受け継いできたものを、未来を担う次世代にどう伝えていくかということを常に考えながら様々な角度から実践していくことがこの恩に報いる方策だと思います。





 もう一つ、「塵壺~」を出版した目的に、未来を担う子供たちへの提言もあります。本書の内容もさることながら、見たことのある饅頭屋のおやじが本を出したということで、本や出版というものを身近に感じて、自身の生き方の選択肢のひとつに加えてもらえれば幸いだと思っています。


 今迄、皆さんからの励ましや温かさを何度も感じ、その力があったからこそ、困難な時も諦めずに歩み続けることができました。人生は長い旅路のようなもので、途中には雨の日も晴れの日もありますが、皆さんの支えがあるからこそ、私はよりしっかりと歩んでこられたのだと思っています。

今後も、皆々様のご厚意にお応えすべく、これまで以上に三春の商人として和菓子屋の家業はもちろん、三春・田村の文化向上に寄与できるよう取り組んでまいる所存でございます。

これからも変わらぬお力添えを賜りますようお願い申し上げます。


       蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺414号 「朝熊永松寺落慶法要と伊勢神宮参拝の旅 ご縁に感謝」





塵壺414号 「朝熊永松寺落慶法要と伊勢神宮参拝の旅 ご縁に感謝」  令和8年1月発行



伊勢朝熊(あさま)にある石城山永松寺様の本堂落慶式の法要に、来賓として参列してまいりました。

この永松寺の山内にある墓所には、三春藩秋田氏の初代藩主河内守俊季公の実父で、秋田實季(あきたさねすえ)公(高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道)が徳川幕府によって幽閉され、逝去するまでの約30年間にわたって蟄居生活を送った草庵があった寺です。







幽閉の理由は諸説あり、秋田家のお家騒動や関ヶ原の際に行った慶長出羽合戦の軍令違反や大坂冬の陣での大敗などを理由に幕閣から御咎めを受けて常陸宍戸転封、それらを苦慮した嫡男俊季公や家臣団との不和などの理由から幕閣へ蟄居幽閉を願い出たなどが挙げられます。






一方、安東秋田家は俊季公や家臣による幕府への忠節と、實季公の正妻円光院の母は、織田信長の妹でお犬の方と呼ばれた人物で、父は細川昭元という人物で、室町幕府の管領を務めていた細川家の直系にあたり、俊季公は母方の血縁を通じ江戸幕府3代将軍徳川家光の又従兄弟という関係などから幕閣へ多方面からの働きかけによって相続が認められ、三春藩五万石の大名として明治維新まで続いています。







朝熊の實季公は、幽閉されたとはいえ「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、和歌をはじめ、書道、茶道に通じ、薬方にも詳しく「秋田候教示万金丹」もここから出たと伝わっています。


代々三春藩主秋田氏は、生前の賄料並びに亡き後の墓所管理料を持参していました。












郡・町奉行を務めた三春藩士で、絵師の中村寛亭・匡(ただし)は、藩主名代として天保五年(1835)に永松寺、そして伊勢神宮へ参拝道中の様子を描いた旅日記「御代参日誌」を記しています。






旅日記「御代参日誌」より








これらのご縁から三春人としては「お伊勢参り」の際には永松寺さんへの参詣は欠かせないと思っていまして、實季公の墓参とご住職様へのあいさつに度々伺っていました。





この度は、本堂落慶式法要に案内をいただきお祝を言上したく、三春より馳せ参じた次第です。

しかも来賓上座の案内され、気分はもう殿様の名代として「御代参」する春陽士です。

本堂と共に、御位牌の入る厨子やお位牌も漆で再生され、修復された厨子の中には、安倍實季入道戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」の位牌が収められ、片山殿、お千世姫の
お位牌も修復され同じ須弥壇の上に安置されていました。






また、同寺に墓所のある福原長堯(ふくはらながたか)右馬助公の末裔の方も同席されていました。

この福原公は、豊臣秀吉の側近で、石田三成公の妹婿で、「慶長の役」では三成の差配で軍監として朝鮮に出陣し、後の“関ヶ原合戦”で東軍に組した大名たちの軍令違反を報告しています。






慶長五年(1600)、関ケ原では西軍の福原は敗れ大垣城にて抗戦しますが、東軍からの和議に応じ「道蘊」(どううん)と戒名をいただき出家して、わずかな家来と共に謹慎先の永松寺へ落ち延びますが、その門前にて刺客に討たれたと聞き及びました。


 臨済宗南禅寺派の永松寺さんは、昔より伊勢神宮の鬼門を守る寺とされる伊勢朝熊山金剛證寺の末寺となっています。

金剛證寺には、伊達政宗公、愛姫(陽徳院)夫妻の娘五郎八姫(いろはひめ)の婿で、徳川家康六男越後少将松平忠輝公も、伊達離縁後に兄の二代将軍秀忠公から所領没収の上改易を命じられ流罪になり同寺で謹慎しています。

※忠輝公は2年後には行儀不埒という理由から寺から追放され、飛騨高山から諏訪へ流され92歳で死去、諏訪貞松院に埋葬されています。






宴席の中で、ご臨席された方々と様々な歴史談義に華が咲き、戦国の武将に思いを馳せました。


今回の伊勢行きは、友人夫妻を案内して“お伊勢参り”も企画していました。内宮さん近くの神宮会館に宿を取り職員の方々が毎朝実施している“早朝参拝”へ参加して「第63回神宮式年遷宮」令和15年秋「遷御の儀」に向けた関連祭事の話も伺いながら内宮の参拝をしてきました。






司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を「暑さも寒さ、虫の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称されていましたが、正にご縁に導かれた伊勢の旅でした。






「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」 西行
        

蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝


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塵壺413号 「江戸城下漫遊記 於EIKICHI YAZAWA LIVE in TOKYO DOME」




塵壺413号 「江戸城下漫遊記 於EIKICHI YAZAWA LIVE in TOKYO DOME」  令和7年12月吉日発行
 
「Do It!YAZAWA 2025」矢沢永吉ソロ50周年、76歳の永ちゃんの新たな伝説になった7年ぶりの東京ドームでのライブに参戦してきました。

 これだけはいくつになっても止められません。2時間余りのステージは、年齢を感じさせない圧倒的な歌唱力、マイクターンなど妥協しないステージ・パフォーマンス、そして世界一流のプロモーションと全てが異次元にパワーアップされていました。







 永ちゃん流の自分の信じた道を生き抜く精神力と、生命力の強さを持って挑戦し続ける“男の生き様”を改めて叩き込まれた最高のライブで、全身汗だくになりながら最強のパワーを貰ってきました。 




江戸城天守台址



 年数回のお上りさんである私は、毎年、ライブ前後にはこの時しか顔を出して挨拶することが出来ない所や、観ておきたい場所等に足を延ばしては、江戸城下漫遊と洒落込んで毎回テーマを決めて市中の散策をしています。





 今回も都内を散策していますと、近所の方と勘違いされるのか様々な方に声をかけられます。特に外国人には、道を訊ねられたり写真を撮られます。

 やはりE・YAZAWAのバック刺繍入りの白いスーツのせいでしょうか、さらに神社やお寺では、様々な質問を受け、宮司さんやお坊さんと勘違いされていた方もいるのでしょうか?




内桜田門  井伊大老襲撃事件「桜田門外の変(外桜田門)」の際には、三春藩は小野寺舎人以下の江戸藩邸要員が内桜田門の警備担当でした。


因みに、都内での私の行動範囲は皇居周辺から日比谷、有楽町、そして上野、浅草あたりですので、都内では地下鉄はつかわず、頭の中にある江戸の古地図を頼りに歩く、歩く、小走り?


 まずは、三春藩関連で江戸藩邸上屋敷は愛宕下、現在の西新橋慈恵医大付近、中屋敷は港区麻布台にある現ロシア大使館付近、下屋敷は西新宿東京都庁付近にありました。

江戸市中が見渡せる愛宕神社を参拝して虎ノ門大坂屋砂場で蕎麦をあてに一献。





 大手町付近では、平姓坂東武者の統帥「将門公首塚」や日比谷公園内の旧伊達屋敷跡(伊達政宗・愛姫夫妻終焉の地)、そして皇居(江戸城址)を拝しながら千鳥ヶ淵経由で靖国神社。時間のある時には市ヶ谷の御濠にある釣り堀で高層ビルを眺めながら釣りというのも一興。







 神田神保町は、時間を忘れ古書店巡りして、喫茶“さぼうる”で読書なんて至福の時です! さらに妻の縁となる神田錦町三丁目に在った屋敷跡を(関東大震災復興にて目白に移転)探索し、「神田神社」通称“神田明神”へ。






神田明神は、参道沿いに私の遠縁が終戦後に和菓子修行をした甘酒屋(元和菓子屋)があって、若い頃に神田祭の本社大神輿を担がせていただいたご縁もあり、当代の親方にご挨拶。

浅草神社三社祭と同じく、本社御神輿を担いだ経験で親しみを感じる“花の東京”を代表する神社です。

 御祭神は、一之宮が大己貴命(おおなむちのみこと)・大黒様。

二之宮が、少彦名命(すくなひこなのみこと)・恵比寿様で、商売繁盛を祈念し、三之宮が、平将門命(たいらのまさかどのみこと)で、除災厄除の神様となっています。





境内にある神田明神会館1階の洒落たカフェにある神泡生ビールで乾杯!

 湯島では、学問の神様、湯島天神参詣して子供たちの成長の報告や、テレビの相棒悠大君の学業成就を祈念してきました。








 境内の女坂付近にある人間国宝の故一龍齋貞水師匠が建立した「講談高座発祥碑」に手を合わせ、天神下の炭屋にて怪談話をあてに一献!

 不忍池、池之端弁天様と宇賀神様に参詣し日頃の商いの御礼と商売繁盛を祈願して、上野公園の寛永寺へ。










上野の御山では「彰義隊慰霊碑」に手を合わせます。 


この慰霊碑は、戊辰戦争上野の戦いで放置されたままの彰義隊の遺体を三ノ輪円通寺の仏磨和尚と寛永寺の御用商人三河屋幸三郎が、戦死者供養の官許を受けて荼毘に付しその慰霊で建立したものです。






 最後のあがきでしょうか、上野御徒町のガード下を外しては三春への帰還が出来ません。


北国三春から来た者には、アメ横界隈の昭和を感じる雑踏のごちゃごちゃ感がなんとも居心地が良く「大統領」などの居酒屋では三春訛りでお客さんや店員さんとの話に花が咲き“野暮は承知の長っ尻”になってしまいます。

 そして〆は、上野藪蕎で蕎麦味噌をアテに焼酎の蕎麦湯割り、上りに藪の蕎麦を堪能して最終の新幹線へ…  






〆の蕎麦は、上野藪






蕎麦味噌と焼酎の蕎麦湯割り!








 「歳を取るってのは、細胞が老けることであって、魂が老けることじゃない!」


   by矢沢永吉  ロックン・ロール♪ 年末は恒例の武道館です!   



        蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝


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塵壺第412号 「八幡様の秋祭り」 三春城下八幡町鎮守八幡神社秋季例大祭 令和7年11月号




塵壺第412号 「八幡様の秋祭り」 

三春城下八幡町鎮守八幡神社秋季例大祭 令和7年11月号
 


先月の十五夜は雨雲が広がり、残念ながら十五夜のお月様を拝むことが出来ませんでした。
 

その十五夜の日に、三春城下八幡町の八幡神社では秋季祭礼が執り行われ神様に五穀豊穣の御礼と氏子平穏の祈願をされていました。

 この八幡神社の祭礼は、春と秋の2回催行されています。春の祭礼は、ご承知のように、4月の第3日曜日にその年の農作業の始めに当たり、五穀豊穣を祈願して開催され、御神輿渡御と先払いを勤める長獅子が三春城下に春の訪れを告げています。







 そして秋の祭礼は、旧暦の8月15日(中秋)。十五夜の“中秋の名月”の日に社殿に於いて行われています。

 三春城下の八幡様をはじめ全国の八幡神社の秋季祭礼が旧暦の中秋とするのは、鎌倉「鶴岡八幡宮」の例大祭、放生会に由来すると考えられています。

 鎌倉幕府について書かれた『吾妻鏡』に、文治3年(1187)8月15日(旧暦)に「放生会」と「流鏑馬」が始行されたと記され、これが例大祭の始まりと伝えられています。

※現在の鶴岡八幡祭礼は、明治6年の旧暦から新暦へ移行した際に今の暦9月15日となり現在に至ります。






 明治2年(1869)、明治維新後の廃藩置県、そして神仏離反、廃仏毀釈等を経て「八幡宮」も「八幡神社」と改称されますが、祭日は引き続き十五夜(中秋)に定められました。

しかし三春藩五万石領内の総鎮守だった太元帥明王(現田村大元神社)も、城下の総鎮守様として三春大神宮へ変更され、その例大祭も10月の1日から3日の日程となります。

 それを受けて八幡様では、祭礼が旧暦の十五夜ですと、その年によって日にちが移動し三春大神宮例大祭と祭礼日が重なることがあるために、祭礼遂行に不都合が生じてしまうので、八幡様の祭礼日は春4月の第3日曜日に変更されました。

尚、長獅子奉納は、明治維新の後なので江戸時代にはありませんでした。






 八幡町鎮守八幡神社(旧八幡宮)の御祭神は「品陀別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)」神社明細書によれば、天文年間京石清水より勧請とあり、三春田村氏二代隆顕公の治世です。

この応神天皇は、武家の棟梁源氏をはじめ武士の信仰が厚く、勝負の神、弓の神や出世開運の神としても崇敬されました。

 家内安全・商売繁盛をはじめ、勝負の神・武神として必勝祈願や心願成就の御利益があり、また厄除八幡とも称され厄難や病などに打ち勝つ御利益のある神様として厚い信仰がよせられております。






 三春の御城下は桜川の氾濫原を埋め立てた所で、特に八幡町の道は八幡小路とよばれた細道でありました。八幡様の参道は、雁木田西奥の桜川右折部から設けられ、雁木田から八幡町下手、丈六から鶴蒔田にかけては、かつての湿田を開拓されて広がった場所とされています。



 八幡様といえば武の神と思われがちですが、もともとは開拓の神で、秋田候入府時の移設等、諸説ありますがこれらの田畑の守神として勧請されたと考えられています。

十五夜の祭礼にはこんな話も残っています。八幡様旧参道、八幡町末の三春城下旧会津街道口の左側にあったとされる、石造の大手水鉢(現在は無し)、通称“八幡様の化粧清水井戸”とも呼ばれていた巨石を掘り窪めた石の手水鉢で、祭礼参詣の行きかえりの際には、十五夜の月がその水面にあることを愛でながら、「今年の五穀豊穣を八幡様に感謝していた」というもの
で、三春人としては一興。風情がありますね。


 また、八幡様の化粧清水井戸は、旧会津道口や若松道口から城下に入る人、関東道・近世の江戸道から城下に至る人々が汲み、身支度を整えるための化粧水や水鏡として使用された井戸と伝わっています。

 かつての八幡小路(現八幡神社参道へ通じる道)は、三春川(現・桜川)を渡る八幡様(八幡宮)参道沿いにあることから、城下への出入り口にある亀井清水、新町末化粧坂清水と同じく大勢の方々が利用したと考えられます。


 今年の「十三夜」は11月2日(日)。

今週末の三春秋まつりには八幡町若連をはじめ、八雲神社(荒獅子保存会)、そして田村大元神社別講中が長獅子(大獅子)を奉納します。



        蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝






三春城下紅葉ライトアップ 2024.11.1


真照寺の今日






紅葉に少し早いような気もしますが、今年の陽気は変わります。






ライトアップがいい感じです。







当店もライトアップ仕様に!







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
 


| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |