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塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行




塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行


田村大元神社の祭礼執行役・別火講中に在講中、2泊3日の夏季例大祭・御籠(おこもり)や、正月別火講祭の後片付けの際に境内を探索して明治維新廃仏毀釈以前の太元帥明王社及び別当泰平寺の遺構探しをしていました。






地中からは、梵字のような文字が刻まれている石や太元帥明王の罹災した記録を記した石板、そして、多数の束石等々…。

そのまま埋め戻すのも忍びないので、境内の隅に置いておきました。








まだまだありそうで、神社の許可を正式にとって、本格的に境内を掘って調べたいものです。







古い資料があります。

明治初年の旧三春藩領三春町の「寺社明細帳」。

その中の旧三春藩領内総鎮守「太元帥明王社」の記載があり、社名は「大志太神社」、祭神は国常立命と記されています。そして、社殿の項を見ますと・・

「神殿(現・拝殿)」縦に尺三寸、横に尺八寸。「窟(現・本殿)」縦二間、横二間。

「随神門(現・仁王門)」縦二間半、横六間半。そして、「額殿(現社務所付近か?)」縦七間、横二間との記載がありました。

「額殿」とは、奉納した額を納めた社のことを指しますが、大きさからして神仏習合の「拝殿」に相当する建屋があったと思われます。そして、政府教部省の教導職道場「小教院」の記載もありました。






さらに、もう一つ。廃仏毀釈の混乱を現す記載がのこっています。


太元帥明王山内(境内)にあった記録が残る「愛染塔」が一部の過激な神道崇敬者によって境内から崖下へ投げ落としたというのですが、現在も同神社の真下にあるお宅の裏庭にひっそりと鎮座しています。

石碑の表中央には「愛染塔」、右側には「再建昭和6年・・・」と刻まれています。

そして、左側には再建・奉納者のお名前が揮毫され刻まれてあります。
また、裏面には、本来の建立した年号「丑月庚申」が読めます。

庚申の丑月で1月、庚申の年といえば60年に一回です。








永正子年間の田村義顕公による三春築城太元帥明王社の勧請(建立)、そして、会津蒲生代官期や会津上杉代官期、秋田候三春入城の正保2年などを考慮して愛染塔(愛染明王堂?)の建立時期を庚申年に合わせて設立された年を推察してみました。

永禄3年1560年 この前年の永禄2年10月に義顕公が太元帥明王に大般若経二百巻を奉納しています。

永禄4年3月25日に義顕公が死去しています。

元和6年(1620)蒲生代官時代の寛文10年(1670)に伽藍が炎上により焼失。

延宝8年(1680)4年前の延宝4年には三代藩主盛季公大阪勤番中に同地で死去、輝季公が家督相続しています。 

元文5年(1740)10年前に享保14年(1730)~15年 三春藩騒動「享保騒動」  

寛政12年(1800)15年前の天明五年(1785)には「天明の大火災」発生、三春本城以下、家中屋敷、下御屋敷を含め城下六町のほとんどを消失し、藩主御座所を真照寺に移すほどの災害から復興した頃か?

安政6年(1860)「安政の大獄」があり、三春にも幕末風雲の声が聞こえ始めています。

これらを鑑みるに、大般若経二百巻奉納と義顕公死去の間となる永禄3年か?はたまた寛文10年の「明王社伽藍炎上」?もしくは天明5年の「天明の大火災」で愛染明王堂が焼け落ち、その代わりとして「愛染塔」の石碑を建立したか…?謎が深まります。







この石塔には「愛染塔」との揮毫の刻印があります。石碑単体として祀っているのであれば「愛染明王」と刻まれているのではないかと思います。

もしかしたら、明治以前に宇内(境内)に設置されていた時には、この石塔の他に「愛染明王」を祀る本来の仏塔(堂)があったのではないかとも推測しています。

場所は、この巨大な石を人力で落とせる場所ですので、現在の手水社の後ろ側か宝物殿附近かなともあれこれ想像するだけでワクワクしてきます。







       蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺395号 「両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社」





両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社







 両国国技館で大相撲五月場所「夏場所」!なんとその『中日(8日目の日曜日)』に人生初めての大相撲観戦の夢が叶いました!

 以前は大相撲にそれほど興味はありませんでしたが、当店のマスコットボーイの悠大君が力士の豪栄道に似ているということがキッカケで、少しずつテレビ観戦をするようになったのでした。






 それ以来、すっかりハマってしまい、贔屓の力士(もちろん郷土の力士が中心)の取り組みの際にはテレビに向かって大声で声援を、そして、録画しても見るくらいの大相撲ファンになってしまいました。


 「いつかは国技館での観戦を!」と願っていた矢先に「升席が取れたので四人で行こう」と『大波三兄弟応援バスツアー』の手配から保険、道中の飲食はもちろん昼食宴会など、全て完璧に段取りしていただいたのが大先輩の田中金弥さんでした。

 そして、今回その夢が叶い老舗呉服屋の旦那さんや会社役員の方とともに、まもなく喜寿を迎える金弥さんを筆頭にしてちょい還暦を過ぎた“爺っちゃん4人の珍道中”となったわけです。


 両国国技館前に着いたのはちょうど正午でした。

 まずは館内に入り、自分たちの升席を確認してから昼食を取るために一時国技館を後にしました。

 少しだけ両国駅周辺を散策したのちに、金弥さんが知っている店に入り、生ビールを呑みながら両国名物の海鮮料理屋さんで海の幸を堪能することができました。






 食事が終わってから十両の取り組みまでには少し時間があったので、爺っちゃん4人はミーハー並みに、国技館脇の力士入場口の前で力士の入り待ち・・・やはりお相撲さんは大きい!大銀杏を結った力士の凛々しさとその存在感を肌で感じました。


 国技館に再入場すると、中日・日曜日ということもあり、会場は熱気むんむんで応援する歓声もヒートアップしてテレビ観戦とは大違いでした。

 この夏場所は横綱はじめ三役以上の力士が5人も不在という今までになかった波乱含みで、郷土力士の筆頭である”若元春”も怪我で休場してしまい応援することができませんでした。 






 そして、何と言っても横綱・照ノ富士の不知火型の土俵入りが見られなかったことが一番残念なことでした。

 しかし、大の里などの若い力士が成長してきて下剋上・群雄割拠の状況が大相撲の人気に拍車をかけており、また生で観戦する大相撲の迫力はすさまじく臨場感そのものが身に染みてきて感動そのものでした。


 特に宇良と豊昇龍、そして結びの琴桜と王鵬の二番は一生心に残る取り組みとなり、国技館での大相撲を十分に堪能、満喫してまいりました。そして、中日はあっという間の結びの1番へ…。

 夢心地というのはこういうことなのでしょう。

 今回、貴重な経験と素晴らしいご縁をいただいた金弥さんには心より感謝申し上げます。








 ところで、三春で相撲といいますと、中妻地区の神社、特に斉藤の松樹神社(旧妙見菩薩)にある土俵を思い浮かべます。









 この神社は、三春城下の南、斉藤村安養寺の裏山松樹山の山頂に鎮座しています由緒ある御宮様で、戦国時代、元亀元年(1570年)伊藤氏の祖藤原頼位氏が神舘城の峰続きとなる‘北ノ月見崎’に妙見菩薩を勧請して軍中勝利祈願をしたところと伝わっています。

 かつての御祭礼・縁日は、旧暦の春は4月24日、秋は9月24日でしたが、明治3年に発布の「神仏分離令」により妙見様は「松樹神社」と改名され祭礼も新暦となっています。








 妙見様は、昔より「相撲の神様」として知られ、秋祭には庄屋を中心として番付をつくり、旧斎藤村鎮守「見渡神社」とおなじく、村中で盛大にお祭りを行ったとのことです。







 明治になって若連会、そして、大正時代には青年会主催となり2年に1回に相撲興行を行うようになりました。

 祭礼当日には高い木戸の両側に美しい絵を描いたぼんぼりを沢山建ててとても華やかだったと伝わっており、祭礼には近郷近在より相撲好きな人達が大勢集まり、当時は香具屋と呼ばれていた現在の露天商・テキヤさんが多数軒を並べるなど大いに賑わったものだったとのことです。 


 「斎藤・おらが里ざっと昔」参照 




      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺394号 「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 




塵壺394号 令和6年4月26日発行

「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 

 滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。

田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。

日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村義顕の弟で、二代の隆顕、そして、三代となる清顕も補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人で、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳らとともに「田村四天王」と称されていました。


また、月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、三男・新田城主の新田民部顕輝(土佐守顕成)、四男・田村石見守顕朝、五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、そして、八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)らの一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。








 三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。


 先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。

 月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、現代にも通じる修身のことについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。







 天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。







 


さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。






 晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。






 

和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。

 月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。

以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏等と戦国の世とはいえ四面楚歌の中で知力謀略の限りを尽くして激闘を繰り返し、長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。


 田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。

さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!







生涯現役、ご長寿万歳!  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!

| ryuichi | 03:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺393号 令和6年4月発行 安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)




塵壺393号 令和6年4月発行


安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)

安東愛季は、後の三春五万石秋田氏初代藩主となる秋田俊季の祖父で、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された戦国武将です。

津軽地方の下国檜山家・安東氏の御屋形(当主)安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。

母はもう一方の安東氏、上国湊家安東氏出身の嶺松院です。


安東愛季が御屋形となる安東氏は、平安期の武将・安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。



その繁栄ぶりは国内外に広く知れ渡り、ルイス・フロイスが著した永禄8(1565)年の書簡にも愛季の蝦夷交易のことが記されています。


愛季は、長年に亘って利権争いなどから二分して争ってきた安東一門を統一するため、婚姻関係と養子縁組など政略的な縁組を行って弟・茂季を湊・安東家に養子入りさせ、湊家安東氏を吸収する形で、桧山・安東氏と湊・安東氏を統一して一流の戦国大名として本格的な領土拡張に動きます。


そして、愛季は戦国時代となる室町幕府末期の中央との政治工作も忘れてはいません。

強大な海軍力を備えた安東水軍を率いて日本海北前船交易で収集した畿内情報をもとに、娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使し、「言継卿記」を現した公家の山科言継などを使って織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。


また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。

さらには、北前貿易で蓄えた安東一門の財力をもって豊臣政権下での戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していたと考えています。


その一例として、蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられ、その時に殿様(愛季・實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。

愛季はさらに領地拡大を目指して領国経営戦略を打ち出し、比内郡を含む出羽国北部の大部分を領地としました。

同年には、「本能寺の変」が起こり、信長が明智光秀に討たれて、天下が豊臣秀吉に移っても安東氏の立ち位置は変わりません。

これが結果として、後の安東家に大きな役割を果たします。






天正15(1587)年、愛季は仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いの最中、淀川の陣中で病により世を去りました。

享年四十九。戒名は龍穏院殿萬郷生鐡大禅定門。

墓所は三春城下荒町の秋田家菩提寺秋田山龍穏院にあります。

愛季の知略は、息子である實季(俊季の実父)にも受け継がれます。

天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。


實季の姉、慶松院・北畠(浪岡)顕村夫人と婿養子慶好らが公卿北畠氏の権威を利用した禁裏・公家工作を行い、さらには、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開して安東家の安堵を画策します。

特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な配慮を受けることに成功して領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。

尚、慶松院は、常陸宍戸(現茨城県笠間市)で亡くなりますが、法名・昌安恵繁と刻された墓石は、父愛季の墓石同様に秋田氏の三春入部に伴って移された菩提寺龍穏院の秋田家墓所に運ばれて建立されています。






      蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺392号「私の還暦祝い・・・二つのサプライズプレゼント」 令和6年3月発行




塵壺392号「私の還暦祝い・・・二つのサプライズプレゼント」 令和6年3月発行


私の還暦祝い・・・二つのサプライズプレゼント
 
私事になりますが、辰年の今年1月20日に人生の節目である還暦を迎えました。







その日の午後、一つ目のサプライズなプレゼントがありました。

そのプレゼントは大きな油絵で、その作者は私の大叔父である故高橋哲夫でした。
 
哲夫さんは、自由民権運動などの歴史研究家で有名でしたが、絵の才能も非凡であり、自身による多くの著書の挿入絵なども手掛けており、哲夫さんの絵の収集家や愛好家も多かったと聞き及んでいます。

しかし残念ながら、実家であるわが昭進堂には一枚も絵画はありませんでした。






 その絵をプレゼントしてくれたのは、私の大先輩である田中金弥さんでした。

金弥さんは店に入ると「私の終活の一環として、そしてこれまで続けてきた『塵壺』への高橋先生のご褒美だと思って受け取ってください」と梱包された絵を静かに開封されました。

これには居合わせた妻共々驚き、言葉も出なかったほどでした。
 
この絵の由来をお聞きしますと、大叔父が一番弟子と認めた田中さんが役場を退職するときに「還暦の祝いと一緒に!」と言ってプレゼントしたものということでした。


 その絵は、山間の田んぼの水面に杉の木が映り、あぜ道を農夫が通っていくというもので、その農夫の小さな帽子の色だけが「赤」でした。

 「赤」は邪悪を払うという意味があり、還暦には不可欠な色なのです。

「私も退職後もいろいろありましたが、この絵を家の玄関に大切に飾り、16年間この赤の帽子に感謝しながら“日々これ好日”で過ごしてきました。今度は、龍ちゃんも、あと16年はガンバレ!とのエールの意味も込めて、この絵を実家である三春昭進堂に戻します。これからも多くの愛読者のために『塵壺』を続けながら新しい歴史を築き上げてください。」と言って帰られました。






 この絵を見返しながら、還暦を迎えられた御礼に氏神様である田村太元神社に参拝して仁王門や社殿に設えてある龍の彫刻「雲龍」をじっくりと眺めてきました。

「雲龍」はその全体像をはっきりとは見せてはくれません。

顔が見えている時は、身体はほとんど雲に隠れて見えない。身体がちらっと出た時にはもう顔が見えません。

だから龍というのは世の中・世間と同じで全体を掴む事は永遠に不可能だという意味が込められているということを示していると聞いたことがあります。


 赤い帽子の農夫には「還暦に際して、雲龍が示唆する人生訓を思い返して、これまでの経験値から自分で分かったような気になっていることも全て見つめ直し、これからの人生を謙虚な心で改めて積み重ねて行きなさいよ」とこの絵を持参した金弥さんから改めて人生訓を教授していただいたような気がいたします。


 早速店内に配して、日々研鑽の糧としています。




 

そしてもう一つのサプライズです。ファミリーのような蒼龍御用人会6人の計らいで「還暦祝い」を馬場の湯温泉「三ツ美屋旅館」で開催してくれました。

 還暦の衣装「赤いちゃんちゃんこと頭巾」を身に着けて、家族もご招待を受けての本当に楽しい還暦祝い祝宴です。

 このメンツは、彼らが中学生の頃より35年来の付き合いとなる元アルバイト・スタッフの面々で、公私ともに家族の様な存在です。

父の葬儀の際にもお骨上げをしてもらいました。






 還暦祝宴の前に、いまいずみ写場にて記念撮影があり、メンバーの構成や成り立ちを聞いた今泉社長から「今日だけは肩書や役職を忘れて、中学生に戻ってはしゃいでください!」と云う粋な注意喚起がありました。

そして、「嬉しいねぇ、35年来のメンバーで還暦を祝って・・・幸せだね!」とのお言葉をいただき、我慢していた涙がとめどなく溢れてきました。

本当に幸せ者です。





 こうして還暦を迎えられるのも、これも一重に家族、お客様、友人知人、スタッフの皆さんなど様々な方々のお引き立てを頂戴していること。

さらには、神仏やご先祖様の御加護があっての賜物だと思います。

心より御礼申し上げます。今後ともご指導、ご鞭撻を賜りながら、ご高配、ご贔屓くださいますようお願い申し上げます。






      蒼龍謹白 さすねぇぞい、三春!  拝 


| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行



塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行
 

曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下

「令和6年能登半島地震」により被災された皆様のご無事と被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

この地震の影響で、輪島市門前町にある曹洞宗の諸嶽山總持寺祖院でも、国の登録有形文化財に指定された建物が全壊するなど大きな被害を受けました。







總持寺祖院は、かつての曹洞宗の大本山「總持寺」で、明治31年に発生した火災の災禍により七堂伽藍の大部分を焼失。

これを機に、本山として神奈川県横浜市鶴見へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなっています。


元亨元年(1321年)、本年700回大遠忌を迎える開山太祖、瑩山紹瑾禅師によって開創され翌年には禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。


瑩山禅師の跡を次いだ総持寺第2世・峨山韶碩(がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が参禅し、彼らが曹洞禅を全国的に広めたことによって更に門下が増えていきました。






そこで、曹洞宗開祖道元禅師の教えの「相承」と優秀な僧を育むために、峨山禅師の死後の「輪番住職制」で運営されるようになります。

もう一方の大本山永平寺は独住制です。

この輪番住職とは、全国末寺の「五院輪番地」(江戸中期記載17,361寺)から1〜3年おきに輪番住職として總持寺の住職を「五院(塔頭庵主も輪番)」と呼ばれる5つの塔頭寺院(普蔵院107ヶ寺、妙高庵86ヶ寺、洞川庵51ヶ寺、伝法庵49ヶ寺、如意庵58ヶ寺)から各塔頭から1名、計5名が選ばれて75日交代で住職を勤めました。


元和元年、徳川幕府より法度が出されて永平寺と並んで大本山となります。明治維新後の諸嶽奕堂(もろたけ えきどう)大和尚以降は輪住を取りやめ独住制となりますが、貞治3年から明治3年まで約500年間、実に5万人近い僧侶が本山住職を勤めました。

輪番住職の交替期(10月2日)には、上番下番の僧呂や寺院関係者1,000人以上も集まり、短期に住職が変わることで、全国の輪住地寺院から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。






三春城下からは普蔵院輪番地として清水にある曹洞宗録所萬年山天澤寺。そして、三春藩主に秋田氏が入城以降の「僧録(国僧録)」論争とは別に、藩主菩提寺の曹洞宗録所秋田山龍穏院も宍戸以来、總持寺直末三十六門、洞川庵輪番地となっています。


「能州大本山總持寺輪住心得并一回中手控」安政4年(天澤寺蔵)によれば、天澤寺の属する普蔵院末寺の場合は約50年毎、龍穏院は本山末寺三十六門及び洞川庵末寺数により、数年毎に輪番住職に赴任していました。







その際に赴く和尚は、供回りとして伴僧3名、従者1名を含めた滞在・往来費用は、年代にもよりますが180両は必要との記録が残り在勤中の諸経費はすべて自前だったといいますから事前の貯蓄が必要で天澤寺の記録には10年前から蓄えたと記されています。

また、その蓄えにしても末寺数の多さや藩主や大商人など強大な庇護のある有力寺院の僧侶しか本山の住職は務めることができなかったと思われます。


当家の菩提寺である天澤寺歴代住職の位牌堂を見ますと、御位牌には、「前總持 當寺廿一世 悅巖快禅大和尚禅師」または「前永平兼總寧 當寺 随意會中 霊海崐山大和尚禅師」と記されたお位牌を目にすることができます。







この「前總持」とは、悅巖快禅大和尚が總持寺の輪番前住、又は当住が總持寺に赴いた場合の資格を示し、そして、「前永平兼總寧」は、霊海崩山大和尚が永平寺に赴いた際の資格ないし待遇を示したものだと考えられます。

「随意會中」とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)「三法幢地(常恒会地、片法幢地、随意会地)」の一つで、3年ごとに1回、参加者七十人以上にて結制安吾を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられ「今の世にいふ認可僧堂と同義である」と『總持寺史』では解説しています。



       蒼龍謹白  がんばれ能登! 拝 




三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧

開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日 
廿一世 悦岩海信大和尚 
    悅岩快禅大和尚(位牌) 宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚 
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚



秋田山龍穏院 歴代住職 洞川庵輪番住職誌 總持寺住山記

開山 月泉良印大和尚応永七年二月二十四日夜
第二世 無等良雄大和尚 応永三十五年十月十日寂
第三世 龍谷良清大和尚 永亨十二年七月十三日寂
第四世 圓鑑良昭大和尚 康正元年五月十二日寂
第五世 機外良玄大和尚 文明五年三月十九日寂
第六世 鑑能吞昭大和尚 永正三年正月十八日寂
第七世 雲峰良集大和尚 永正十七年十月二十七日家
第八世 察心守鑑大和尚 天文十五年二日五日寂
第九世 草庵守瑞大和尚 永禄九年二月二十五日寂
第十世 光室源瑞大和尚 天正十七年七月八日寂
第十一世 天室宗龍大和尚 慶長十一年九月五日寂
第十二世 舜庵大堯大和尚 元和六年八月四日寂
第十三世 宏菴源奕大和尚 元和六年四月二十九日寂
第十四世 關室雲察大和尚 寛永十五年十二月十六日寂
第十五世 正眼雲祝大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛文七年二月十二日寂
第十六世 本祝松秀大和尚
第十七世 月宮慧閑大和尚  大本山総持寺輪番住職
   (宍戸より三春へ) 元禄六年十月二十三日寂

第十八世 鑑室良亀大和尚 貞享五年三月二十三日寂
第十九世 麟元雲祥大和尚  大本山総持寺輪番住職 正徳四年正月二十五日寂
第二十世 高山本立大和尚  大本山総持寺輪番住職 享保十七年四月十九日寂
第二十一世 大重本孝大和尚 寛延元年十月二十七日寂
第二十二世 海翁祖印大和尚 不詳
第二十三世 泰山活玄大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛延四年正月二十日寂
 月泉派 再公文龍穏院  
 一萬九千二百六十八世活玄和  元文二丁巳年八月十二日
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師良悟和尚
  
第二十四世 亮廓普宗大和尚 大本山総持寺輪番住職 明和六年十月十九日寂
 月泉派再公文 
  弐萬参千九百壱拾九世亮廓和尚 宝暦八戊寅年八月七日
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師鐵崖和尚

第二十五世 萬巖普白大和尚 天明六年十一月二十四日寂
第二十六世 萬元一如大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛政元年六月十九日寂
 月泉派再公文 弐萬八千九百世 萬元和尚 
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師亮廓和尚

第二十七世 九苞丹山大和尚 文化九年十一月十八日寂
第二十八世 本然量義大和尚 大本山総持寺輪番住職 天保九年七月二十五日寂
第二十九世 祥鳳忍瑞大和海 天保泗年十月十五日寂
第三十世   佛國泰然大和尚 大本山総持寺輪番住職 嘉永六年五月二十一日寂
 無端派海蔵寺 四萬七百三十九世 泰然和尚 天保十四年三月十六日
 授業師徳運和尚 嗣法師同 

第三十一世 耕真禾山大和尚 安政五年人月二十一日寂
第三十二世 至仙卍定大和尚 明治九年入月十六日寂
第三十三世 微岩一筋大和尚 明治三十六年正月二十二日寂
第三十四世 大英大和尚 不 群
第三十五世 大機謙道大和尚 昭和四年三月二十一日寂
第三十六世 大心弘道大和尚 昭和三年八月二十六日寂






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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塵壺390号「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号 




塵壺390号「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号 






     高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所 

今も尚、禅定(永遠の瞑想)を求め入定した空海が生き続ける霊域「高野山奥之院」。その入口「一ノ橋」から弘法大師御廟へと続く参道には厳粛な雰囲気が広がっていて、古木に覆われ静寂な空間の中には20万基を超える五輪塔等の供養塔や墓石群が広がっています。




 

その中に、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、そして、結城秀康といった戦国武将・大名の墓所として約110家の墓所があります。

武田の近くに上杉、そして、信長と光秀、徳川と結城等々・・・敵同士として戦った家中であっても関係なく、安らかに眠っているように感じられます。





これは高野山「御廟」に在る空海・弘法大師のそばで眠りたいとの先人たちの願いがこめられていると伝わっています。






 
磐城三春藩秋田家も、同じく高野山に墓所(供養塔)を求めた大名一家で、「奥之院」へ向かう参道「中之橋」のたもと手前右側にあります。









「金剛峯寺境内奥之院地区大名墓総合調査報告(高野町教育委員会編)」を見ますと、三春秋田家の墓所には、大型の五輪塔5基と中型五輪塔9基ほか多数の石塔があると記載されており、秋田家の墓所に五輪塔5基は南北方向に並んでいます。






三春藩初代後室 永壽院殿 本壽院真誉春覚照法 万治3年 盛季母

三春藩初代 真如院殿実岩常固 秋田俊季公 
           慶安2年 勤大阪城番於城中病没 

三春藩2代 陽雲院殿龍天蒼松 秋田盛季公 
            延宝4年 勤大阪城番於城中病没  

三春藩3代 乾元院殿剛山瑞陽 秋田輝季公 享保5年 

三春藩4代 廣運院殿俊徳玄明 秋田頼季公 寛保3年 


 秋田家墓所中之橋の手前右に3代輝季公の嫡子で、秋田伊豆守就季(廣季)公(大通院殿心源自性)の五輪塔もあります。

 就季公は、三春藩家督争いとされる「正徳事件」渦中の人として家督せぬまま正徳5年6月4日に父に先だって亡くなっています。

 この五輪塔は旗本秋田家から秋田本家輝季公の養子を経て4代藩主になった頼季公(家老荒木高村長男)が建立したものです。







 そして、「施主奥州三春城主秋田信濃守安倍頼季 三男秋田安五郎行歳八年而卒」「元文四己未 二月廿三日」と記された供養塔が見えますが、この方は、頼季公の3男で8
歳という幼さで亡くなった慈光院本性長了薫・安五郎・後の秋田民部公です。早世した為でしょうか高野山に供養のための石塔・墓が建てられています。







 尚、5代藩主の秋田延季(治季)公・法名天稟院殿令徳永顕から歴代の藩主は、三春城下秋田家菩提寺高乾院墓所に埋葬されており、以後藩主の高野山への埋葬はありません。(初代俊季公から四代頼季公の分骨された墓も高乾院にあります。)






 しかし、三春8代藩主秋田長季(謐季やすすえ)公だけは、もう一つの秋田家菩提寺である龍穏院の墓所に大仰院殿法鑑高輪大居士の法名で埋葬されています。

4代頼季までは高野山、そして、8代の長季(謐季)公は龍穏院にお墓がありますが、他の歴代の藩主は全て高乾院に埋葬されているというのは、家督騒動絡みの家中混乱や祟り伝説等の事情が見え隠れしているような気がします。






 高野山は空海の御廟を中心とする聖域で、古くから奥之院と呼ばれます。


承和2年(835)に没した空海・弘法大師、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するその時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると(宗教的に)信じられていて、弘法大師のもとには「生身供(しょうじんぐ)」称して1日2回の食事が運ばれてきます。







 高野山への分納骨の風習は鎌倉時代から始まったとされており、石造の五輪塔を墓石代とし始めたのが戦国期の室町時代末期。

現在は、江戸時代初期造立した諸大名家の五輪塔が多数見受けられます。

 これは徳川家康が高野山を分骨墓提所と定めたため、諸大名がこぞって高野山に墓石を建てたことに由来するとされています。









高野山 秋田家中 菩提寺 別各本山 金光院


秋田家菩提寺の金光院は、寛政8年(1796年)の『高野山古絵図』によると、一心院谷と呼ばれる場所にありましたが、明治初頭に火災に遭っています。

現在は西室院が建立されています。

金光院は、幕末に発生した「鳥羽伏見の戦い」前後における土佐脱藩浪士を主体として結成された浪士隊・陸援隊・後の高野山義軍(隊長の中岡慎太郎は先に海援隊の坂本竜馬とともに京近江屋にて遭難)に拠る「高野山挙兵」に於いて陸援隊・高野山義軍の本陣地して使われます。

陸援隊は、主将に侍従鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)、副将は陸援隊副隊長田中光顕。

慶応3年12月12日(1868年1月6日)、高野山に入った陸援隊は、金光院を本陣と定め、高野山に三〇〇〇両の御用金を命じ、十津川に勅書を伝えて義兵を募るとともに、紀州藩・高取藩・五条代官所にも使者を派遣して、その動きを牽制していますが鳥羽伏見の戦いで幕府軍総崩れを聞き陸援隊側に恭順しています。





付記


「高野山金光院 三春家中過去帳 享保十七年始」 全61折

「三春家中過去帳 自永正十六年 至享保十七年」  
        
「南無大師遍照金剛 高野山 金光院」

   永室妙久大姉  
永壽院殿御局伊井殿為自身逆修
 御石塔奥院有之 萬治三年十一月八日
               
   越山了公禪定門     
施主秋田豊嶋武藏殿立之 永正十六年八月三日

   乗重禪定門       
施主秋田豊嶋惣右衛門殿為逆修立之 永正十六年己卯七月廿六日
                  
   妙光禪定尼       
施主同人 右同時立之
                
   乗泰禪定門       
施主秋田豊嶋惣右衛門立之 永正十六年七月廿六日

   浄雲禪定門       
施主秋田大平坂口次平殿立之 永正十六年七月廿六日
                  
   善祐禪定門       
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 永正十六年七月廿六日
                  >

   藤参禪定門       
施主秋田豊嶋次郎左衛門殿 大永二年八月
                  
   華月浄春居士      
施主秋田湊藏人殿立之 大永五年九月十八日
                  
   月窓妙光大姉      
施主秋田御屋形様内村松源之焏殿 大永六年六月十七日
                  
   妙高          
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
                  
   本高          
施主同人 右同時立之
                  
   妙西禪定尼       
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 大永五年七月
                  >

   道永神居        
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
                  
   道順禪定門       
施主秋田大平兵右衛門立之 天文三年六月十四日
                  
   那智阿弥陁佛      
施主秋田豊嶋 天文四年八月十日
                  

   舊山妙香定尼      
施主秋田御屋形様内湊左京進殿 天文十九年二月十五日
                  
   妙光大姉        
施主秋田御城内古屋左衛門尉殿立之 天文三年七月廿一日
                  
   志父尊霊        
施主秋田御屋形様内大平左京進殿 天文廿二年四月廿一日
                  
   高範禪定尼       
施主秋田御屋形様内湊伊豫守殿 天文八年八月四日
                 
   高山春公沙弥      
施主秋田御屋形様内石塚衛門四郎殿 天文廿三年四月廿一日
                  
   妙金禪定尼       
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿 天正廿年二月八日
                  
 日 春月宗陽禪定門     
施主秋田御屋形様内湊五郎殿立之 天正十一年六月廿四日
                 
 日 南臺香林童女      
施主秋田御屋形様内大平殿 但為御息女也 天正十六年十一月十九日
                  
   即法禪定門       
施主秋田御屋形様内 取次内膳殿 天正廿年正月十二日
                  
   花心禪定尼       
施主秋田御屋形様内桓崎衛門殿立之 天正十七年三月十四日
                  
   道光禪定門       
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿立之 天正廿年二月八日
                  
 日 高月禪定門       
施主秋田御屋形様内田口彦助殿 但為弥四郎追福立之 天正廿年二月八日
                  
   龍然禪定門       
施主秋田御屋形様内伏部沢二位殿為父 文禄三年七月廿二日
                  
   鉄舩庵殿大虚洪廓庵主  
秋田奉為為御屋形様尭季公御菩提也 
施主石塚衛門四郎立之  天文廿三年七月廿八日 
                          
九月十三日忌
   鉄舩庵殿大虚洪廓庵主  
秋田奉為御屋形様𠒖季公御菩提也
施主湊尾張守立之 天文廿三年七月廿八日
                           
九月十三日忌 
   鉄舩庵殿大虚洪廓庵主  
秋田奉為為御屋形様𠒖季公御追福也
施主金光院 天文十九年二月十五日
                  
九月十三日忌    
源安徹公居士      
施主秋田大平摂津守殿 永禄八年十一月 日
                 
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士 
秋田奉為為御屋形様愛季御菩提也 施主桓崎衛門尉 天正十七年三月十四日
                          
天正十六年九月朔日忌
   龍穏院殿萬郷生鉄大居士 
秋田奉為為御屋形様愛季公御菩提也 天正十八年七月一日 城之助殿御父
                  
   湖光妙正大姉      
秋田二郎殿御祖母為御逆修也 施主大平岩見守 天正十八年七月七日
                           
   香林月照大禪定尼    
施主秋田大平岩見守殿 天正十八年七月七日
                  
   高月      
逆修 施主秋田御屋形様内垣崎衛門殿 天正十七年三月十四日
                     
華窓心公大禪定門    
奥州深浦物主木場袋右衛門頭吉季為御菩提也
    御施主安東藤太郎様御老母 文禄二年二月十六日 三十三回忌
                  
   高月大禪定尼      
施主秋田御屋形様内御湊専十郎殿 為老母立之
                  文禄五年四月二日

   壽山妙宗禪定尼     
施主秋田御屋形様内御千代様立之
                  文禄五年四月二日>

   熒月榮公沙弥      
施主秋田御屋形様内傳右衛門殿立之
                  慶長二年八月十一日

   巨海大姉    
逆修  施主同人 為老母立之
                  慶長二年八月十一日

   松月頂上大禪定尼    
施主秋田御屋形様内 相模守殿 取次兵右衛門殿
                  慶長二年八月十一日

   塒清春公大姉      
施主同人
                  右同時立之

   晏叟宗清大居士     
施主同前
                  右同時立之

   心月秋芳大禪定尼    施主同前
                  右同時立之

 日 光含宗圓大禪定門    施同前
                  右同時立之

   雲林宗月大禪定門    
施主秋田御屋形様内勝三郎 但為半兵衛菩提也
                  慶長五年九月廿四日

   榮山宗觀禪定門     
施主秋田御屋形様内新山将監 但為内方立之
                  慶長七年五月十八日>

   高林常秀禪定門     
施主秋田御屋形様内御虎様 但為舎弟立之
                  御使者中村織部
                  慶長十二年閏四月十三日

   月暉      逆修  
施主秋田御屋形様局立之 取次紅梅殿
                  慶長十三年八月朔日

   珎齡永松禪定尼     
施主秋田御菊様 但御局為菩提立之
                  御使者中村織部
                  慶長九年正月十四日

   池盛妙蓮禪定尼     
施主秋田御菊様 但為御老母立之
                  御使者中村織部
                  慶長十二年壬四月十三日

   秋月妙圓禪定尼     
施主秋田御菊様 但為伯母立之
                  御使者中村織部
                  慶長十二年潤月十三日

日牌 春嶺晴雲禪定尼     
施主常州宍戸城主秋田城介様内湊道久息女御宿様
                  但姉中殿為菩提也  取次三光院(金光院)久尊
                  寛永元年二月廿一日忌

      慶長十三年十一月四日 十七回忌
   梅節妙紅禪定尼     
施主常州宍戸城主秋田城介様内秋田仁左衛門子息
                  七兵衛殿 為悲母也   取次久尊
                  寛永元年八月廿三日

      元和九年八月四日忌
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉  
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
                  施主秋田将監殿
                  元和九年十一月朔日

日牌 瑞祥院殿東明清関大姉  
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
                  施主金光院祐實
                  元和九年十一月朔日

   玉窓妙金禪定尼     
施主常州宍戸城主秋田城介様内岡道與内方
                  但為悲母也
                  元和六年庚申二月廿五日

   心庵宗徳沙弥      
施主常州宍戸城主秋田城介様内三光院久尊
                  為父立之
                  寛永二乙夘年七月廿六日>
               (後略)




      蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!


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