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塵壺360号「三春藩フランス商人との蚕種紙商取引契約不履行事件」令和3年7月発行




「三春藩フランス商人との蚕種紙商取引契約不履行事件」

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」でその生涯が描かれ、さらに2024年には新しい一万円札に肖像が使われる「渋沢栄一」。

一橋家家臣、幕臣、明治初頭の官僚を経て実業界に身を投じると、創設に関与した企業は500を数えます。

欧米列強諸国の経済的強大さに対抗するため、日本に近代産業を早急に根付かせて発展させる必要があるという理念を持ち東京株式取引所(現略称: JPX株式会社日本取引所・東京証券取引所)、大阪株式取引所(現JPX・大阪取引所)の設立等をしています。

さらに、民間実業界の総力を挙げて近代社会発展に寄与する為に「東京商法会議所」など、さまざまな経済団体を組織して政府に実業界の要望を積極的に伝えています。    
開国後、海外貿易は諸外国に支配されており、幕府はじめ諸藩や商人皆一様に外国の商社を使うしかなく、金相場相違も相まって外国の商人の独壇場でした。

これを危惧したのが、渋沢はじめ、小栗上野介(幕府勘定奉行「神戸商社」)、坂本龍馬(亀山社中・海援隊)、三野村利左エ門(三井創始者)、岩崎弥太郎(三菱創始者)など幕末の日本で活躍した先進的な経済人でした。

彼らは欧米諸国が日本に対しては武力によるものではなく、経済(商い)による侵略(交易)だということを見抜いていました。







三春にも、武士と外国商人との商いの難しさを物語っている一例があります。

幕末の慶応3年10月、三春藩が関連した「フランス人商人蚕種紙取引引き渡し条約不履行事件」が発生します。

これは、三春藩士奥村清酒が江戸藩邸在府中、藩邸藩重役の秋田斎(いつき)、小野寺金兵衛らが、同じく三春藩士(藩士の家来の陪臣?)渡田虎雄の周旋で横浜駐留のフランス商人と絹や和紙等の商いをしますが、不慣れな武家商売で齟齬をきたして契約不履行となり、国際訴訟事件にまで発展してしまいました。

この頃の日本に来る外国の商人の中には、開国したての新天地で一旗揚げようという胡散臭い輩が多数いたと記されています。

全国の三百諸藩、とくに東国の諸藩は、「出島」で取引経験のある長崎や大阪に貿易の為の藩邸を有する西国の雄藩とは違い外国との商取引は不慣れの為、各所で商い不履行が発生して賠償金騒ぎをおこしています。

三春藩は、この事案について藩費をもって決済して商取引に加わった藩関係者を厳に処しました。奥村清酒は最も重く、知行召し放し、永蟄居、兄奥村権之助に預けとなります。
また、縁坐法によって清酒の父俊蔵の従兄弟にあたる秋田斎も隠居、その他一族数十人がその咎を受けています。

もちろん周旋した渡田虎雄も藩から追放されたということは言うまでもありません。






これらの採決扱いは、江戸留守居役年寄(江戸家老)目付小野寺市太夫公忠でした。

このころ「参勤交代の廃止」、「鳥羽伏見の戦い」の発生などで全国諸藩は国表への帰郷との沙汰が発布されましたので、三春江戸藩邸でも撤収作業が終わり、市太夫は、江戸藩邸留守居役として一人残り、残務整理をしていました。

追放された渡田虎雄とその一味は、今回のフランス商人との条約不履行事件での採決を不服・逆恨みをして、警備手薄な三春藩邸に一人在邸する高齢の市太夫を襲撃し、市太夫は非業の死を遂げてしまいます。

この事件は、武士の海外貿易という商いの不慣れの中で藩の不祥事の処断をめぐって渡田らの私怨を買い、非業の死を遂げ、藩政に殉じたともいえるものでした。






因みに、時間は少し戻りますが、水戸・薩摩脱藩浪士によって大老井伊直弼が討たれた『桜田門外の変』の時に外桜田門の内側にある「内桜田門」の警固を担当していたのは、小野寺市太夫の嫡男小野寺舎人(とねり)でした。

   「疫病退散祈願」  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝



| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺359号 奥州本宮宿太郎丸 「御菓子司 こやま」 令和3年6月発行 



    奥州本宮宿太郎丸 「御菓子司 こやま」
 
2019年の台風19号で中心部を流れる阿武隈川が氾濫し、甚大な浸水被害に遭った奥州本宮宿

私の母の里である太郎丸の本宮観音様前にある「小山菓子店」も例外ではなく、1986年「8.5水害」同様、浸水時には一階店舗兼工場が胸のあたりまでの浸水し、大変な被害となってしまいました。





テレビをご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、水害から一年経って小山菓子店は、おばあちゃんと孫娘の営む「御菓子司こやま」としてリニューアルオープンして、お客様に愛される和菓子店として新たな一歩を踏み出し「本宮魂」を見せています。

小山菓子店の小山家は、明治の頃に新潟蒲原郡寺尾(現新潟市西区寺尾)の商家の末弟だった曾祖父が丁稚奉公に出されたのが本宮宿仁井田でした。

才覚があったのでしょう、奉公先の家付き娘と所帯を持ち今の太郎丸にあった二軒長屋で商いを始めます。

はじめは「油げ」や豆腐を手掛けていましたが、後に饅頭屋になり現在に至ります。

この辺は、当三春昭進堂と同じような経緯です。

目の前にある観音様や安達太良神社の祭礼、そして遠くは白沢岩角山高松寺の祭礼などには大八車に饅頭や油げ豆腐を積み込んで商いをしていたそうです。

曽祖父や祖父は、そのご尊顔から愛嬌があり、大変愛想が良く商売向きの人柄だったと聞き及んでいます。

私などは、よく「母親・本宮似で商売向き」と云われる所以なのでしょう。

先に他界した叔父は母の弟で、叔父も小山らしく愛想が良く、仕事が大好きな真面目な商人でした。


本宮は、阿武隈川などが中心部を流れる地理的な要因もあり歴史的に見てもたびたび川の氾濫・洪水浸水被害に見舞われてきましたが、その都度宿場の皆さんで力を合わせて復興し発展を遂げてきました。





母の里というものは、何年たっても何か特別な感情があり、本宮出身だと聞くだけで話が盛り上がります。

特に安達太良神社の秋まつりでの、蛇女,ロクロ首などの見世物小屋や、サーカス、そしてオートバイに乗って大きな樽の中をぐるぐる回るパフォーマンス、さらには全国チンドン屋大会が本宮で開催されたことなど、懐かしい思い出で話が尽きません。


この本宮宿の歴史は戦国時代に今の北町を中心として宿場町が形成されていましたが、秀吉の采配で越後より会津に転封した上杉景勝の重臣直江兼続から、この地を与えられた旧三春田村氏(田村仕置により改易)の臣小沼貞長が、安達太良川以南一帯の荒れ地を造成して南町を造り、以後、奥州街道、会津街道、三春街道、そして相馬街道の交わる交通の要所追分があり各地からの物資集散の中心地として発展してきました。






古くから「花の本宮」とうたわれ、奥州街道屈指の賑わいを見せており、その街並みは、阿武隈川支流である安達太良川を挟んで、江戸側(南側)の上町、中条、下町を「南町」、そして川の北側の荒町、中町、大町を「北町」と区分されていました。

その南町末が太郎丸という地区となります。

また、飯盛り女の多い宿場としても知られ、井原西鶴の「好色一代男」や「一目玉鉾」にも登場し、人形浄瑠璃にも「奥州街道の本宮なくば、何をたよりに奥がよい~♪」と謡われるほどでした。


天正13年11月17日に開戦した伊達政宗最大の危機とされる「人取橋の合戦」の舞台となる本宮人取橋は、本宮宿太郎丸にある今の観音堂から奥州街道と分岐し、五百川沿いの会津街道と瀬戸川とが交わる付近にあります。

この戦いは、同年10月8日、二本松城主畠山義継が、伊達政宗の父輝宗を拉致して伊達勢の追手によって輝宗と義継が同時に討たれるという事案が発生、政宗は父輝宗の初七日が明けると弔い合戦として田村氏・相馬氏の兵を合わせて一万三千の兵(人取橋戦へは7千が出場)を率いて二本松城攻めを開始します。

一方、伊達政宗の仙道(現福島県県中地域)進出を阻止と畠山氏救援のために常陸佐竹義重・義宣を中心に会津芦名亀王丸、須賀川二階堂阿南、岩城城主岩城常隆、石川城主石川昭光、白河城主白川義親・義広など仙道・南奥州の諸大名らが約3万兵にて迎撃し「人取橋」付近にて戦が勃発します。


戦いは圧倒的な数に勝る佐竹以下の連合軍が終始優勢で、伊達勢の老将鬼庭左月斎良直や伊達成実の善戦のお陰で、多数の犠牲者を出しながらも何とか本宮城へ帰還することが出来ました。

尚、この戦いで両軍合わせてあまりにも多くの人が討たれたために、「人取橋」と呼ぶようになったと伝わっています。









「太郎丸」という地名の由来ですが、耶麻郡太郎丸村(現喜多方市豊川町米室)を本拠とした会津芦名氏の家臣に太郎丸掃部(芦名氏庶子)という武将がありました。

天正13年(1585)5月、太郎丸氏は、伊達政宗が会津蘆名氏と戦った「関柴合戦」に際して同じ芦名家の家臣松本備中守が伊達政宗に内応しているという嫌疑があって政宗が占領している桧原への備えとして入田付村に派遣されますが、太郎丸氏もそのまま伊達勢の組下に加わってしまいます。

上記の人取橋の戦いの折にも伊達勢は本宮に本陣を置き最前線の高倉、青田原に軍勢を配して連合軍と対峙していますので、太郎丸氏も伊達勢組下として本宮に布陣していたと思われますが、この辺りに何らかの関りがあったのではないかと考えています。







蒼龍謹白  さすけねえぇぞい三春! 疫病撃退祈願 拝



| ryuichi | 04:00 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行



塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行

自由民権運動研究の第一人者である当家出身の髙橋哲夫氏の著書を、時々読み返しています。
 その中の一冊「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきに、当家に関する初めて知る驚くべき記述がありました。

それは「かつて羽二重(絹織物)工場を営んでいたが大正7年頃には第一次欧州大戦(第一次世界大戦)終了後に到来した世界大恐慌のあおりをうけて経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒産し、それからずっと工場は閉鎖…」というものでした。





当三春昭進堂髙橋家の初代民四郎は、三春家畜市場門前である現在の場所に商機を見出して買い求め、商いを始めたとは聞いていました。
また、その商いも様々な商売をしていたと伝わっていますが、まさか羽二重工場を経営していた事、そして、世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということなどは、昭和8年生まれの父も聞いたことは無いということでした。

その後、妻おタリは持ち前の気の強さで果敢に商売に挑み、現在の饅頭屋に落ちつきますが、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか、読み書きソロバンが堪能ということで弓町新地遊郭や畜産組合での書記や会計の仕事、さらには祭礼での露天商~という下りと相成ります。








幕末から明治初頭より、三春城下新町は三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城街道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りやセリ市場開設など藩の政策が明治期以降も生かされ、大商人や遊里が軒を並べていました。

今でも新町の民家には一軒一軒「屋号」が付されているのは、当時のなごりです。
自由民権運動家松本芳長の生家「移屋」もその一軒で、初代当主の出身地「移村」に因んだものでしょう。
その他、油屋、春野屋、谷家、岩城屋、仙台屋、亀屋、浜野屋、金屋、飛田屋、山屋、割野屋、長門屋、四海屋、松本屋と呼ばれる家が、明治初頭から昭和40年代にかけて、

大半が農家や職人(大工、石エ、鍛冶)に転向して生活していました。






実は、三春の自由民権運動にとって、その事に重大な意味があり、時の県令三島通庸(みしまみちつね)の時代。旧磐城街道(現国道49号線の原型)の道路改修工事によって自由民権運動の盛んな三春城下を避けて通るルートに変更されたために新町一帯はかつての交通上の要路としての地位を転落して衰退の一途をたどり、商人達は半農や職人
に転向せざるを得なくなったというものです。


上記の「移屋」が新町第一の家であったことは、古老の話やその屋敷跡からも十分うかがわれ、明治十六年に六棟あったといわれる土蔵(酒倉)の中、昭和40年代までは二つだけが残り、その中の一つは「文庫倉」と呼ばれ、おびただしい書籍の類がここに保管されていたのでした。

 現在は一般のお宅となり屋敷の形跡はありませんが、屋敷跡の奥に残る大井戸跡は、かつての酒造に用いられたものであろうと想像できます。






 江戸時代中期、秋田藩政の三春城下における町屋(商工業)は、明和八年の「町内屋号覚」によると、大町62軒、中町4軒、八幡町12軒、北町31軒、荒町30軒、新町43軒の計182軒で、塩問屋·肴問屋·紙問屋·たばこ問屋・鉄問屋·木錦繰綿 茶問屋、炭問屋をはじめ、麹屋、染屋、質屋、薬屋、太物屋(たんもの・呉服屋)·小間物屋·水油、素麺屋などの店が記されています。





 城下町三春は、会津蒲生氏の統治以降、大店が店を構え江戸街道や会津街道、磐城街道、相馬街道、二本松街道の大きな五街道が交わる物流・文化の中心地として栄えます。主産業である米穀をはじめ、いろいろな品物の集散地でもあり、他領からは塩、瀬戸物·綿糸、砂糖、小間物、鍬(農耕具)など多くの物が入り、領内からは米や煙草や繭などが出て行きました。


     蒼龍謹白 With三春城下 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺357号 「地酒三春駒どら焼き」“酣たけなわ”プロジェクト 令和3年4月




塵壺357号 「地酒三春駒どら焼き」“酣たけなわ”プロジェクト 令和3年4月

“酣たけなわ”プロジェクト“とは、福島県のブランド品化をめざした県菓子工業組合と県酒造組合の共同企画で、県内の酒蔵と菓子屋がペアを組み新しいスイーツを誕生させるというものです。

当三春昭進堂もその立ち上げに加わり、地元三春城下中町の佐藤酒造様の「三春駒黒ラベル」を使った「地酒三春駒どら焼き」を製造・販売することになりました。





三春駒を、一度沸騰させて日本酒の香りや、アルコール成分を飛ばして旨味を凝縮してから調味料として少量添加することにより、味が日本酒の成分でまろやかになり、しっとりふっくらしているように感じます。お酒の苦手な方や、子供さんまで楽しめる美味しいスイーツとなっています。

江戸後期より昭和の終わりころまで旧三春藩領の馬・牛の競り市は、現在の新町真照寺下の広場でおこなわれてきました。
当三春昭進堂は、その旧三春家畜市場の門前に店を構えており、競り市があった当時は市に来る畜産農家の方々に向けたお土産として“おたりまんじゅう”や“大福”等々が喜ばれ、古い帳簿を見ると文字通り飛ぶように売れていたようです。





ここは通称「せり場」と呼ばれ、馬市が隆盛だった頃は、雌馬の市が5月、雄馬の市が11月に大々的に開かれていて全国の馬喰(ばくろう)たちが三春を訪れ、城下は馬市一色の賑わいを見せ、競り市開催時の新町筋には茶屋や露天屋台が大元帥明王下の山中まで建ち並び、夜ともなれば遠来の馬喰や馬を売りに来た百姓たちが繰り出す「遊郭新地庚申坂」からは、お囃子の太鼓が鳴り響き、この界隈は祭礼のごとき賑わいでごった返す程の人出があったと伝わっています。







三春駒(三春産馬)は、後冷泉天皇の天喜年間、 江戸期の三春藩主秋田公の祖とされる安倍貞任を八幡太郎義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと伝わっています。





更に、三春田村氏三代の祖田村義顕公の頃、三春城下荒町と、堂坂(現郡山市西田町堂坂)に「馬頭觀世音」を建立して信仰したといわれ、三春地方の馬は古い歴史を有していると思われます。

また、慶長年間の豊臣末期、三春の人渡辺助左エ門が、上杉攻めへ向かう徳川家康公「小田原評定」の小山本陣に、乗馬14匹を奉献したと伝えられています。

正保2年の秋田河内守俊季公三春入府後には、ますます増殖がはかられ、延宝7年(1679)、黒鹿毛刀駿馬を幕府に献じて、大いに名声を博し、以後、藩主参勤の際には、駿
馬の献馬が恒例となっていたと記録されています。





貞享2年(1685)頃からは、藩主が率先して馬匹の改良特励に意をもちい、三春二代藩主信濃守輝季公は、馬奉行、駒付役の制度を設けて産馬改良につとめ、元禄12年には、駒付役藩士を仙台、南部に派遣して五百金を下付して良馬を購入させ領内の古道、岩井沢、葛尾などの放牧適地に貸し与えて増殖を奨励します。同時に競り市法を改め、これにより三春産馬の各声高く、馬の産地として全国に知れわたるようになり、明治14年の国内勧業博覧会に三昏産馬会社から出陳した3才青毛馬が天覧に供されこの外9頭も有功賞を得て、大いに面目をほどこしたと記録されています。





「三春駒どら焼き」の発売と同時に、今年は「丑年」、そして新型コロナ撃退祈願の意味を込めて疫病から人々を守る神様「牛頭天王(ごずてんのう)」の名をいただいた「三春牛頭
天王バターどら焼き」の製造販売を開始しました。




牛だけに、中には粒あんと塩味の利いた有塩バターをトッピングしました。

この三春牛頭天王とは、旧三春畜産協同組合が昭和26年に、三春方部家畜飼養農家一同の畜産振興と牛体守護・家内繁盛、並びに五穀豊穣等を祈願して、家畜に対する報恩感謝の拠り所として“竹寺”の愛称で親しまれている埼玉県飯能市旧吾野村にある医王山薬寿院八王寺の御本尊「牛頭天王」の御分霊を、三春城下新町にある旧三春藩主祈願所である真照寺山内の一角に勧請した御霊ですが、畜産組合解散に際して返納して現在は石碑だけが残っています。





with 三春城下

蒼龍謹白 さすけねえぇぞい三春 拝


| ryuichi | 04:50 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺356号 「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動 令和3年3月発行



「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動

幕末から明治という激動の時代。時代に翻弄され、挫折や犠牲を繰り返しながらも、「先憂(せんゆう)」という高い志を持って近代日本の礎を築いた三春の若い自由民権運動家達。

「先憂」とは、北宋の政治家范仲淹(ハンチュウエン)が著した『岳陽楼の記』の一説“天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ”即ち「政治家は常に国民のことを真っ先に憂えるべき」という言葉からの引用で、明治初頭の三春に於ける政治思想の根幹です。





自由民権運動とは、まだ、日本国に於いて国会はもちろんのこと憲法さえも存在しなかった時代、国民が国政に参加する自由と権利を獲得することを目的として全国的に広がった民間の政治運動で、明治7年(1874)、旧土佐士族板垣退助、後藤象二郎らが「民撰議院設立建白書」を提出したことが始まりとされています。

板垣らは、この運動のために全国的な組織「愛国社」を大阪に結成し、今では当たり前となっている国会の開設や 憲法の制定などを政府に求める活動を展開していました。

一方、三春における自由民権運動は、河野広中(こうのひろなか)を中心に、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設、館内には「三春先憂社」を組織して討論演説会を開始し数多くの運動家の育成を図ります。

また、東北初の政治雑誌「三陽雑誌」を発行して政治思想の教育に努め、多くの若き自由民権運動家たちを輩出します。

尚、「三陽雑誌」は第1号から第4号まで発行されましたが、発行部数の少なさと、時間経過等の中で長年その詳細な全容は不明でしたが、昭和50年から発行の「三春町史」編纂の際に、その全巻が発見され現在は三春町歴史民俗資料館内・自由民権運動記念館に自由民権運動研究家の第一人者で当家出身の故高橋哲夫氏所有の研究資料と一緒に自由民権運動の貴重な資料として収蔵されています。






これらの活動によって「西の板垣(高知)、東の河野(三春)」と称され、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、政党活動にも積極的に拘わるなど三春は東国に於ける自由民権運動の中心地となっていきます。






明治 15(1882) 年、「鬼県令=県知事」とまで呼ばれた旧薩摩士族三島通庸(みちつね)が福島県令になり、政府の意を受け自由民権運動を強力に弾圧したため、福島県議会議長(後の衆議院議長)河野広中(福島民友新聞創刊者)らとの確執が続き議会は何度も紛糾します。

その最中、三島は会津三方道路の建設に着手します。この計画は将来を見据えたものではありましたが、農民たちの過酷な労役などの建設手段には大きな間題がありました。

この農民たちと一緒に、三島に弾圧され続けた三春正道館などで志を同じくした自由民権運動家たちは、三島に対する憎しみを強め、その反対運動・農民運動を展開することになります。





同年 11月28日、喜多方市塩川町の“弾正ケ原”に千人以上の自由民権運動家や農民が集まりその反対運動は頂点に達しますが、明治政府の力を背景とした三島は、大弾圧を強行し河野広中・田母野秀顕(たものひであき)ら、三春出身者10名を含む、多数の運動家を逮捕します。

これを『福島事件』と呼びます。






その翌年、三島が栃木県令として転任すると、残った自由民権運動家たちは三島通庸の追討として栃木県庁爆破未遂を起こします。

明治17年には、一連の三島暗殺を含む自由民権運動弾圧の反対行動は過激さを増し、最後は茨城の加波山で挙兵します。

後に「加波山事件」と呼ばれ、河野広中の甥である河野広躰(ひろみ)や琴田岩松など、三春人5名を含む多数の運動家が捕えられます。

彼らは、政治行動として逮捕も覚悟しての挙兵でしたが、国事犯としてではなく一般犯罪者として処刑されてしまいます。

以後、明治政府も、上記の一連の自由民権運動の高まりの結果もあり近代国家として国会の開設や憲法の発布の必要性を認め、明治22年大日本帝国憲法が発布され、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ「帝国議会」が発足しています。



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| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺355号 「田村大元神社随身門(明王さまの仁王門)の彫刻」 令和3年2月発行
 



  田村大元神社随身門(明王さまの仁王門)の彫刻
 
今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の影響により、正月三が日を外した初詣のお陰で、ゆっくりと詣でることが出来ました。その折に久しぶりに荘厳な彫刻の施された随身門をじっくりと眺めてきました。





 現在の田村大元神社の随身門(ずいしんもん)は、三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)の仁王門として幕末の慶応四年(明治元年)に建築された「八脚楼門」総けやき造りの神社外郭の大門です。









 今でも「明王さま」(訛ってミオさま)と呼ばれる田村大元神社は、戦国期の三春田村氏時代から江戸期の秋田氏藩政下まで、仏教・外敵を駆逐し国を守護する大元帥明王を御本尊としてお祀りする三春藩の領内総鎮社で、三春五万石領民の崇敬を受けてきました。

 しかし、神仏混淆(しんぶつこんこう)の大元帥明王は、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊され、仁王門と中に納まる仁王像の二尊も廃棄の憂き目にあいます。

以後、御祭神も国常立命に代わり、名称も田村大元神社へ改変され仁王門も随身門となっています。





 慶応4年竣工の仁王門自体は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、仁王様の二尊は、元々明王社別当(管理官)の三春藩主祈願所真照寺に移され、本堂正面の軒下に仮遷宮していました。

 時代は下って、“真照寺の仁王さま”と親しまれていたこの仁王様は、太平洋戦争後の信仰の自由解放に伴って“神仏混淆の禁”も解けたこともあり、昭和43年に三春城下の新町の氏子信徒の熱望と文化財保護の施策とが実を結んで、田村大元神社随身門(仁王門)への帰還の運びとなり“平成の修復”を経て現在のお姿となっています。

 本来、随身門とは、神様・神社を守る守護神として武官姿の随身像(守護神像)を左右に安置し祀った総門のことで、上記の理由から随身像は、拝殿側に遷宮され、拝殿から見て左側が豊磐間戸命(とよいわどのみこと)、右側が奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)で、俗に矢大神(やだいじん)・左大神(さだいじん)と呼ばれる随身木造像が鎮座されています。

 随身(ずいじん)とは、御随身(みずいじん)と称し、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。






境内入口の正面の欄間には、二尊の龍が勇ましい姿で彫られています。

自分の名前に龍の文字がついているものですから、幼き頃よりこの龍たちには特に親しみがあります。







 そして、仁王様が納まる正面左側には「麒麟が行く」でお馴染みの「麒麟」が二躯。

麒麟は中国の想像上の動物です。麒は雄、麟は雌とも言われています。

聖人が出現する前兆として現れるといわれ、麒麟児などと示されるように、文字の意には才能があるという事。






同じく、右側には唐獅子の二躯が和毬と戯れています。

唐獅子とは、百獣の王と言われ、魔除けや護獣を意味します。






 また、入口正面の梁と柱の結合部にある左右には「龍」の姿が・・・左右対称に設えられ口の開閉となれば「阿吽ノ龍」ということでしょうか?










 この「阿」「吽」とは、仏教の輪廻的な意味では、人は生まれたときに“あ”と口を開いて生まれるといい、亡くなるときには“うん”と満足して逝くといわれています。
即ち、生きるということは全て修行であり、一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いているとされています。






  随身門を入り、奇磐間戸命像の上には「海人(あま)」が彫られた欄間が納まっています。

 物語は、讃岐国(現在の香川県)志度の浦の海人(海女)が、藤原不比等と契って生んだ我が子(房前)を世に出すため、命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説で、龍女の姿で現れた母の亡霊を、「法華経」の功徳で成仏したことを表しています。
 
我が子の立身のために、死地におもむく深大な母性愛、女性の強さを壮烈に描いた物語です。




 

 同じく豊磐間戸命像上の欄間には、三国志で王佐の才をふるい劉邦を皇帝にした中国漢の国の名軍師「張良」の彫刻です。

 張良が、漢の高祖の臣張良が黄石公の落とした沓をささげて真心を示し、その兵法の奥義を授かるという故事で、この欄間には馬に乗った黄石公、張良は沓を持って龍に乗って追いかける姿が彫られています。





 
これら作者は、伊東光運と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。
 
光運指揮の元で、官吉も一緒に彫刻に取り組んだのかもしれません。

光運は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や田村大元神社本殿・拝殿彫刻等の作品も残っています。







  蒼龍謹白  疫病退散祈願 With三春城下 さすけねぇぞい三春! 拝







◎ 「真照寺節分会」 三春藩主秋田家祈願所真照寺

 令和3年(2021年)は、節分の日が2月2日になります。
 真照寺節分会ですが、新型コロナウイルス拡大防止の観点から「節分会豆まき」は中止となります。
 当日は、事前申し込みによる所願成就の護摩焚きの御祈祷とお札受けのみとなります。

 ※節分の日が、この2日になるのは明治30年(1897)2月2日以来124年ぶりだそうです。

 商売繁盛、厄払い、合格祈願、コロナ退散等々の所願成就の祈祷は、三千円、五千円、一万円などから受け付けています。
前日までに申し込みください。

 尚、今年の初寅は2月23日(火・天皇誕生日)となります。こちらも飲食を伴う直会を取りやめて、コロナ対策を取っての事前申し込みによる所願成就、コロナ退散等の護摩焚き御祈祷とお札受けのみとなります。

問い合わせ・申し込み 真照寺0247-62-2705







| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺354号  BABYMETAL紅白初出場!「舞木のお稲荷さま」 高屋敷稲荷神社 令和2年12月






塵壺354 令和2年12月号

BABYMETAL紅白初出場!「舞木のお稲荷さま」 高屋敷稲荷神社 

今年の紅白歌合戦に、世界的に活躍する人気ヘビーメタルバンドBABYMETAL(ベビーメタル)の初出演が決まり、大晦日のお茶の間で 生の演奏が見られます!
“神バンド”と呼ばれるバックを務めるバンドの迫力あるメタルロックは圧巻です。

そのドラムを務めるのが、昨年当三春昭進堂に御来店された「青神」と称される青山英樹さん。なんと、青山さんのおじいさんは、郡山市白岩町の出身です~

そして、お父様は、故青山純氏。そうです、「青純」と親しみを込めて称された当代のミュージックシーンには欠かせないドラム界の大御所で、山下達郎や竹内まりや、そして、MISIAなど数えきれないアーティストたちのツアーやレコーディング引っ張りだこのミュージシャンでした。








この青山さんとご縁がある「舞木のお稲荷様」古くは「舞木の“いなっしゃま”」と称され親しまれてきた白岩町高屋敷にある「高屋敷稲荷神社」

社伝によれば、江戸時代飢饉の際に、御仁徳の厚かった時の天皇(東山天皇か中御門天皇、もしくは前年の元禄期よりの領主、守山藩主か?)から3年間年貢を免除してもらったことに感謝した農民達が、庄屋・鈴木権兵衛を中心に、五穀の神として名高い伏見稲荷大社の御分霊を頂いて祀ったのが、高屋敷稲荷神社の始まりとされ、享保・明和・天保の大飢饉を経て信者が増えました。








後に、上記の青山さんのご先祖様にあたる、白岩庄屋の青山久助によって、嘉永年間(1848〜1854)、高屋敷稲荷神社の社殿(昭和9年に建てられた現在の前の社殿)が建て替えられています。

尚、五穀豊穣をもたらす神様、商売繁盛の神様の使いは狛犬ではなく、狐が祀られています。

また、古来より“願いが叶う磐座”と云われている「御神石」は、直接触れ霊力をお受けできる、パワースポットとして知られています。









拝殿内に掲げられてある昭和16年10月、早川写真館と記された高屋敷稲荷神社の秋季祭礼に撮影された写真額があります。

先ごろ、鈴木宮司から神社の沿革と歴史を拝聴する機会がありました。






この写真(拡大写真が社務所のアルバムにあり)には、よく見ると社殿はもちろん、最盛期には4000基と伝わる“朱ノ鳥居”、数件の茶店、稲刈り途中の田んぼ、稲荷山の全景、改修前の参道等、そして、芝居小屋と役者、そして、芝居見物に興じる数えきれないくらいの参詣者が見ることができます。

また、当時は4000基と云われた朱塗りの奉納鳥居も写っていました。この参詣者の人数には驚きです!








この写真が撮影された1940年ごろには、雨の日に傘がなくても通れるほど密集していることから「傘いらぬ鳥居」とも呼ばれていたと伝わっていますが、当時は戦争から無事に帰れるよう「武運長久」祈願のため、奉納が多かったのではないかと思います。






戦前までは、日本全国はもとより、三春の地より、遠く海外へ移民した人々の成功御礼の建立があり、ハワイ・ブラジル・満州などからの所願成就祈願・御礼の鳥居建立があったとされていたことがうなずける写真です。


その鳥居も、太平洋戦争末期になると爆撃の目標になる恐れがあり撤去させられたことや、防空壕の支柱として供出されたとのことで数が減ったとの事。

しかし、現在でも、高屋敷の御稲荷様に所願成就を祈念して、また御礼の心で朱の鳥居を奉納される方が多くいらっしゃいます。

また、舞木駅近くに立つ高屋敷様の大鳥居にはこんな話が残されています。

昔、磐城の浜から漁に出た漁船が台風に逢い方角を見失ってしまいました。すると時化(しけ)で荒れた波間の向こうに狐様が現れました。すると漁師の親方が「これは自分の信心する舞木のお稲荷さまの使いじゃ!あの狐様を追って船を漕げ!」と船員を鼓舞して荒波を乗り切ったという伝説が残り、この時助けられた漁師たちは、助けてもらった御礼として高屋敷稲荷神社に大きな朱の鳥居を奉納しました。

その鳥居が舞木駅から延びる参道に今も建てられています。






さあ、大晦日です。
紅白歌合戦を見終わったらコロナ対策をして初詣!

 高屋敷稲荷神社はじめ各寺社仏閣では新型コロナウイルス感染防止のため、新しい「初詣」参拝方式に取り組んでいます。

今年は「三が日」にこだわらず、旧暦小正月の2月26日までの分散参拝を呼びかけています。



三春城下真照寺門前 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍









令和3年 高屋敷稲荷神社 「初詣」

新型コロナウイルス感染防止のため、新しい参拝方式に取り組んでいます。

元旦1月1日より旧暦小正月(2月26日)までの分散参詣を推奨しています。

※今後の感染状況により対応が変わる場合がありますので、ご了承ください。

〇 体調不良の方、参拝はお控えください。

〇 玉串拝礼・お神酒拝載は控えております。

〇 1月1日8:00~14:00は、大変混み合いますので分散参拝にご協力お願い致します。


ご祈祷の受付時間

〇 元旦 0:00~2:00 7:00~17:00

〇 2日以後旧暦小正月の2月26日まで 9:00~17:00

ご祈祷を申し込まれました方は、外のテントにてお待ちいただくこととなります。

  暖かい服装でお出掛けください。


問い合わせ 高屋敷稲荷神社 ☎024-943-6396






| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |