2025-10-23 Thu
令和7年10月19日 (日) 於 ルポール麹町 (東京麴町会館)
私も、三春舞鶴会三春在幹事、会報「三春舞鶴通信」編集委員という役員として参加しました。
三春からは坂本町長はじめ、各種団体の代表の方々にご臨席賜り、懇親会に於いてご挨拶及び近況報告などをいただきました。
八木沼会長のあいさつの中で、三春町花の丘への個人的な参加、そして会員数の減少の中で、年会費の値上げと会員の増加を目指すということをお話しされれていました。
前記は、総会の議案でもありましたので、総会の中で無事可決いたしました。
懇親会に於いては、織方顧問、内藤邦明様娘さんで大学教授の内藤暁子様、フランス絵画の巨匠後藤茂樹先生、ニューヨークはじめ日本を拠点に世界的に活躍されるの写真家中村信夫様はじめ、ご臨席された諸先輩方とご挨拶や様々なお話を伺うことが出来たいい会合でした。
和やかな中に会委員様と三春からの来賓の方々の交流がある総会懇親会です。そして最後は三春盆踊で〆となりました。
八木沼会長、伊藤幹事長等、役員一同で記念写真。
皆さんのお陰様で、昨日は、総会を無事終了することができました。
感謝申し上げます。有難うございました。
管野さんのテンポの良い司会、議長役によって、滞りなく進めることができました。
冒頭、故内藤則邦さんのご息女、内藤暁子さんにご出席頂いて、ご挨拶いただいたのは良かったと思います。
また、前会長、織方郁映にもご出席頂いて、お話いただいたのも、皆さん喜んでいただいたと思います。
さらに、サプライズで、小倉修子さんからの贈り物、三春駒の切り絵の色紙、総会に花を添えていただきました。
昨年よりも、少し参加者が減りましたが、盛会に執り行うことができたと思います。
高橋龍一さんには、写真で席を温めている時間はありませんでしたね。
重ねて、皆さん、本当にありがとうございました。
北海道では、そろそろ雪の便りが聞こえてくるようになりました。どうぞ、お体を大事にしてお過ごし下さい。
八木沼 今朝蔵
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2025-09-11 Thu
「三春舞鶴通信」 第26号 三春舞鶴会広報誌
首都圏を中心とした県外にお住まいの三春縁の方々の会「三春舞鶴会」の広報誌です。
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 三春昭進堂代表 髙橋龍一
三春舞鶴通信 第26号 令和7年秋 寄稿
この度、私の還暦と結婚30年を迎えられたことを記念して、「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」を出版いたしました。この本は、平成3年3月から新聞折込のPR誌「塵壺(ちりつぼ)」に毎月続けているコラム“如是我聞”を掲載しています。
発行から約33年分となるそのコラムを既刊396号(令和6年7月号)までの中から130号分まで絞り込み加筆・校正をして一冊の本にまとめました。
内容も多岐にわたり、田村庄司、歴代三春城主田村氏、田村四十八舘、松下氏、秋田氏など歴史関連を中心に歳時、寺社仏閣の歴史・由来、高野山の秋田家墓所、伊勢神宮と伊勢朝熊の秋田實季公墓所参詣、或いは、女房方の菩提寺である島根県浜田市の禅寺紅蓮山観音寺での参禅記、そして、旧三春経営塾での研修会や、故伊藤寛さん主催の地方自治研究・勉強会などで学んだ町づくりの話、また、かつて務めた三春小学校学校運営協議会元会長職の際に霞が関の文部科学省講堂で登壇した時にの話、三春町消防団元三春分団長の時の話、三春大神宮祭礼での三春若連連合会創設時の話、さらには、大好きな矢沢永吉さんや木村充輝(憂歌団)さんのライブ参戦や両国国技館での大相撲観戦等々を記載しています。
また、予想を超えた発行部数、そして多くのお客様より良い反響をいただいておりますことを大変嬉しく存じます。
これもひとえに皆々様に支えられてきたお陰だと感謝を申し上げたいと思います。
今後も、皆々様のご厚意にお応えすべく、これまで以上に三春の商人として和菓子屋という家業はもちろん、ふるさと三春の文化向上に寄与できるよう取り組んでまいる所存でございます。これからも変わらぬお力添えを賜りますよう何とぞよろしくお願い申し上げます。
まだ発行して間もないですが「塵壺Ⅱ」も構想中です。「塵壺」は、三春昭進堂店頭はもちろん、三春カネサン書店様はじめ全国の有名書店や、Amazonでも販売しております。
塵壺という名称は、幕末の頃の越後長岡藩家老河井継之助が、若い頃に勉学のために師を求めて諸国を遊学した際に附けていた旅日記の名前から、そして、春陽思ひ附阿津免草は、三春町検断役回春堂橋元柳助が、風雲告げる三春城下の様子を慶応三年から明治十四年まで日記風に書き留めておいた橋元文書から、それぞれ敬意を表して命名しました。
このPR誌「塵壺」は、毎月新聞折込をして、季節のお菓子の紹介はもちろんですが、このコラム、そして三春の寺社の祭礼や盆踊りなど城下における歳時などの様々なイベントも告知しています。
現在の発行部数は、三春町内は元より郡山の一部(西田町、中田町、緑ケ丘等)、船引町、常葉町、大越町など旧三春藩5万5千石の領内を中心に15000部を発行していますが、発刊当初は旧三春城下の世帯数3000部、しかも大多数はポスティングでした。印刷も、北町の中屋商店社長の村田信一さんの「うちの印刷機で刷ってやるから持って来なさい」というお言葉に甘えて数年間お世話になりました。後に亀井にある赤井書店代表の赤井幸夫さんより「中古の印刷機が手に入ったので使って」と印刷機を譲っていただき、自分で刷るようになったころには、告知範囲も広がり10000部は超えていました。
すると「船引の友人に聞いたんだけど、なんか歴史のことを書いたチラシを発行してんの?俺ゲの方にも入れてよ!」という声があちらこちらから多数寄せられるようになり、現在の告知範囲となった次第で、印刷も渡辺書店さんにお願いしています。
この「塵壺」の発行にはそれなりの経費が掛かりますが、支店を出す経費とリスクに比べれば安いものです。そして、何といっても三春昭進堂にご来店いただきたいのはもちろんですが、和菓子屋の使命として季節の歳時やそれに合わせたお菓子の提案なども記載しています。さらにもう一つ、兎にも角にも四季を通じて三春城下へお越しいただいて町内での買い物や旬のイベントを堪能していただきたいという思いもございます。
コラムの題材としては、三春町史や田村兵戦記、奥陽仙道表鑑、奥州茶話記など郷土史資料を基本としていますが、元役場職員の田中金弥さんや、元鳥文の吉田清三さんはじめ、大勢の方々から参考になればということで資料を提供して頂いたり、寺社や舘跡など実際に出向いて見聞したり、近所の方にお話を伺ったりしながら書いています。これが趣味と実益を兼ねたということなのでしょう、面白くて仕方がありません。
そのため、発行するたびに様々な反響があります。例えば「当家には古い蔵があり、先祖が残した古文書があるんだけど、自分以外全く興味がなく、このままでは捨てられてしまいそうなので見てほしい」と家伝の資料管理の方策や、NHK人気番組「ファミリー・ヒストリー」の影響もあってか「うちの先祖は愛姫様の付き人だったと伝わっているが本当だろうか?」「先祖は三春の武士だったんだけれども~」というご自身の家に伝わっているご先祖の照会、或いは「塵壺に俺げの方の舘跡のことを書いてもらってありがとうない」「うちの先祖のことを書いてもらってよく分かった、ありがとうない」「吾が集落の神社(お寺)の由緒を書いてもらってありがとう、社伝(寺伝)にするよ」等々、感謝の言葉をいただくこともあります。
紙面での塵壺の発行もありますが、同時に三春昭進堂のホーム・ページにも掲載していますので、新聞社やテレビ局などメディア関連の方々からも様々な問い合わせがメールや電話で来ることもあります。テレビ出演の依頼や雑誌新聞へ取り上げられるのもそのおかげかもしれません。
先にも、毎日新聞の戦後80年企画として、「厚木航空隊事件」の幕引き役の執行責任者でカネサン書店渡邉家や当三春昭進堂髙橋家の遠縁の、旧芦沢村(現田村市芦沢)出身の旧日本海軍佐藤六郎大佐の記事への取材があり、終戦記念日の近辺の日程にて全国紙の紙面に掲載されました。太平洋戦争末期の無条件降伏前夜に、厚木基地に籍を置く海軍厚木航空隊第三〇二航空隊の司令官小園大佐が、8月15日の玉音放送後もポツダム宣言の受諾・無条件降伏に反対して徹底抗戦を訴えます。一触即発の危機的状況の中で、そこに乗り込んで占拠する反乱軍化した将兵に、武装解除、そして解散と強制退去を試みてはいますが、武装した反乱将兵によって予期せぬ襲撃も危惧される中で、滑走路にバラまかれ放置された大量の戦闘機や爆撃機や武器の残骸を突貫工事で片付けるという危険な任務を、配下の安藤明氏が社主の「大安組」と共にたった3日の間に完遂し、滑走路を確保して占領軍の先遣隊及びマッカーサー元帥を迎えることに成功して、戦後日本の幕開けに寄与しました。
塵壺のコラムは、故渡辺和明さん(わたや呉服店会長)の考案した「わたや呉服店販促用団扇」からヒントを得て書き始めました。その団扇の裏面には「三春駒之助」のペンネームで和明さんが三春盆踊りの由来を書いたコラムを印刷されていました。昔から頂いていた団扇でしたが、三春駒之助がわたやの旦那さんと知った時は驚きました。
団扇から、商人(あきんど)として商品を売るのは当たり前ですが、目先の利益だけではない地域文化の向上、そして地域住民のお役に立ちたいという思いや行動、まさに“商いは、売り手と買い手だけでなく、その商いが社会全体の幸福につながるものでなければならない”という商人の理念である「三方よし」の考え方を教わりました。
この「塵壺」自体の発行のきっかけとしては、三春城下大町に以前あった「マルミ酒店」(後セブンイレブン三春熊耳店、現在は引退)のPR誌「マルミかわらばん」です。
商いの思いが一文字一文字に込められた心温まる手作りのチラシでした。チラシを見たときに、「口先だけの理想論ではなく、とにかく行動しろ!」今までの自分の甘さを痛感した記憶があります。このように、三春には商いの手本となる「三春商人(みはるあきんど)」の方々が沢山いまして、その文化の香りがする粋でお洒落な旦那衆から日々学んでいます
さらに、古より三春商人の地域への思い入れは別格で、三春藩政下の江戸期、三春藩御用商人たちは、各々の商売を通じて、借財にあえぐ三春藩に対して莫大なる献金や貸付けを長年に亘って実施して藩財政を援け続けていました。
戊辰ノ役では、戦火を免れた三春城下でしたが、三春商人は、明治維新後、廃藩置県によって藩への貸し付けは不履行になり不良債権となります。しかし、さすが三春商人です。こんなことではへこたれていません。私利私欲のためだけではなく「郷土三春」、そして国の発展の為に商売をするという考えで、明治、大正、そして昭和という激動の時代を乗り越えて、更に商いを広げていきます。
明治初頭からの顔ぶれには、川又恒三郎(彦十郎)氏、渡邊甚十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏、大越巳木蔵氏等もお名前が見えます。呉服、生糸、味噌、醤油商などの各々の生業に加え、「第九十三国立銀行」(明治11年設立)を中心に、「製糸三盛社」「三春馬車鉄道株式会社」そして「三春電気株式会社」等々を創設され、共に当代の三春地方の経済界の立役者として、さらには仙道地域(福島県中通り)の経済界の引率者として中心的な役割を担って、ますます商いを広げて近代化を進め、地域社会を支え続けました。
彼らを筆頭とする三春の商人の方々は、自身の町内は元より三春各所の寺社に建てられている寄贈芳名の石板に記載されている通り、再改築や祭礼への多額の寄付など、城下の文化を金銭面で支え続けました。
一方文化面で特筆すべきは、明治11年に「福島県民会規則略解」や小学校教科書「教則」を出版する「三春書林」を本陣本店の川又定蔵氏が立ち上げています。後の衆議院議長となる河野広中も、この三春書林で「自由の理」(ジョン・シュチュアルト・ミル著中村敬宇訳)に出会い自由民権運動に目覚めたと記しています。
こうした三春商人の生き様を見ますと、経営者自身の自己実現を追求するだけが経営ではなく、お客様や従業員の物心両面での幸せを追求し、地域社会の進歩発展に貢献することが経営には大切であるということを教えられます。
私たちは“人として人生を生きる上で必要な事柄”を町の人、先人からどれだけ教えてもらったことかわかりません。
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」を出版した目的には、未来を担う子供たちへの提言もあります。
本書の郷土の歴史という内容もさることながら、本の出版という遠い存在のような感じもしますが、見たことのあるの身近な饅頭屋のおやじが本を出したということで、本そのものや出版というものを身近に感じて、生き方の選択肢のひとつに加えてもらえれば幸いです。
三春城下を故郷にする今を生きるものが、先輩から学んで受け継いできたものを、未来を担う次世代にどう伝えていくかということを常に考えて、様々な角度から実践していくことが、様々な事柄を教示していただいた先輩方々への恩に報いる方策だと思います。
拝
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-10-30 Wed
三春舞鶴会第13回総会
令和6年10月27日(日) 於ルポール麹町(麹町会館)
私も、三春舞鶴会三春在幹事、役員として参加しました。
三春からは坂本町長はじめ、各種団体の代表の方々にご臨席賜りご挨拶及び近況報告などをいただきました。
担当は撮影班です。
八木沼今朝蔵三春舞鶴会会長の挨拶の中で、三つの良いことが今年あった。
一つは、長年のお付き合いのある友人と今年の春に念願かなって滝桜を身に三春へ帰省した。町の散策をした際に「いい町ですね」との言葉をもらった。
もう一つは、パリパラリンピックで男子車いすバスケットに競技に於いて三春出身の橋本君が中心選手である日本チームが念願の金メダルに輝いたこと。
さらにもう一つ、三春出身の登山家田部井順子さんの生涯を吉永小百合さん主演で映画化されるとのこと。
総会が無事成立して、懇親会です。
三春町(旧御木沢村)出身の画家、後藤茂樹さんより当三春舞鶴会副会長(会計)の關マサ様へ絵画「富士山」の寄贈があり総会出席者の皆さんの前で贈呈式を取り計らっていただきました。
後藤先生から「三春に生かされている」との御言葉に感動いたしました。
【後藤茂樹先生プロフィール】
・1931年 三春町生まれ
・陶芸、水墨画、油絵を学ぶ
・フランス ル・サロン展:銅賞(1978年)、国際大賞(1979年)
・日本南画院展:特賞(1979年)
・太陽展:文部大臣賞(1994年)
・三春町文化功労賞(1981年)
懇親会では、先輩方にご挨拶しながら有意義なお話を伺うことが出来ました。
楽しい時間はあっという間に過ぎるものです。
また来年の三春舞鶴会総会(14回)での再会を約して閉会です。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
2024-09-05 Thu
「三春舞鶴通信 第24号」 三春舞鶴会広報誌
首都圏を中心とした県外にお住まいの三春縁の方々の会「三春舞鶴会」の広報誌です
私も三春在住の幹事として登録されています。
あとがき 髙橋龍一
福島県内の地方局テレ朝系KFB福島放送で放送されている夕方の情報番組「シェア」の中で、県内の市町村を紹介する「ふるさとシェア」というコーナーがあり、三春担当リポーターということで、私が担当して三春の催事を紹介する機会が年に数回あります。
今回は城下の若連さんのご協力いただいて「三春盆踊り」、先には今回の記事にもあります渡辺弥七さんの二人の娘さんが営む「蛙さんと安里、あずさの家」を、生中継を交えて紹介したところでした。
KFB福島放送シェア ふるさとリポート 三春
「安里窯とあずさと蛙さんの家」 旧中郷小学校狐田(きつねだ)分校跡
その他、以前の紹介で「真照寺節分会」や「紫雲閣」、「三春大神宮中町若連・川崎神輿」、「伊勢朝熊秋田實季公幽閉庵永松寺」「田村太元神社祭礼」等々、三春関連の歴史や祭礼を交えてご案内しています。視聴はYouTubeの検索で「シェア 三春」と検索していただければ、福島放送の番組公式YouTubeから私の担当した放送が見れるかと思います。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
2024-02-29 Thu
三春舞鶴会通信 第23号 寄稿
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一
三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏
三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。
三春初代秋田俊季の祖父安東愛季
安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。
蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。
「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。
「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。
後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。
以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。
蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。

若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像
奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。
羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。
この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。
さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。
若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。
高野山奥之院三春秋田家墓所
奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。
他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。
尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。
蒼龍謹白 拝
三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍
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