2025-12-08 Mon
福島中央テレビ 16:45〜 ゴジてれChu!木曜日バンデス✖️chu の収録で、ふくしまボンガーズのしなだマンさんにリポートしていただきました。
佐藤宗幸さんがmcを勤めるミヤギテレビoh!バンデスと と「ゴジてれChu!」とお国自慢合戦!
来年の干支「午」にちなみ「三春駒」の紹介で、三春昭進堂の「地酒三春駒どら焼き」のご紹介です♪
12月11日(木) 4時45分からの放送です お楽しみに~
今回は、私の出演はありません・・・
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::テレビで紹介されました。 |
2025-10-16 Thu
伊勢朝熊 臨済宗南禅寺派 石城山永松寺 落慶法要 安東秋田城之介實季公墓所
落慶法要の案内が届きました。
百合孝道住職、ありがとうございます。
喜んで参列いたします。
本来であれば、裃姿か、紋付き袴での参列でしょうが”平装での参列をお願いします”という案内ですので、その通りにいたします。
記 令和7年11月30日(日曜日)
午前 九時三十分 本堂入堂
午前 十時 本堂落慶法要
檀信徒各家先祖総供養
感謝状贈呈
建設委員会委員長挨拶
謝辞
記念撮影
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記 |
2025-10-12 Sun
「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」 三春昭進堂主人雑記 髙橋 龍一
三春大神宮由来について
三春神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期の元禄二年、三春藩三代藩主秋田輝季公が、母正寿院が信仰する神明宮を貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩社としました。その遷宮を祝して藩主一門や藩老臣たちが奉納した古絵馬が現存しています。
以来、歴代藩主の信仰厚く、藩役職に神明奉行と下役を置き、参勤交代の行帰時の参拝や、在城中の正月参拝、湯立て行事による年占い行事の差し出しなどが行われ、また家中はもちろん、御城下町人、貝山村人などの信仰を集めました。
江戸期秋田藩政の三春総出の祭礼は現在の三春大神宮ではなく、三春秋田家五万石総鎮守大元師明王社(現田村大元神社)でしたが、戊辰の役により徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春の祭礼も大変革を成しました。

明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社格取得は明治三十二年)。

三春大神宮神輿渡御について
三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)
当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)の三十三郷が、頭屋制を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。
その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。
その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。

戦前の田村大元神社長獅子
長獅子奉納について
先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります。
それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。

満州事変、日中戦争など大東亜戦争への不穏な足音が聞こえる、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省、「神祇院」による「官幣社」「国幣社」からの国家神道による国民精神教化と思想統制が行われたことや、凶作が続き、世界的な恐慌の煽りを受け、三春の経済も昭和恐慌と呼ばれる停滞期を迎え、大東亜戦争勃発にともない出征軍人の壮行会や、戦勝祈願が盛んになり祭礼自体は、縮小傾向になり、そして戦争中期以降は中止になりました。
j大東亜戦争敗戦後、占領軍司令部GHQの神道司令により、神社は国家管理を離され、神社本庁がこれを統率するようになりました。
これにより、大正期から軍部により歪められていた、日本国民と神道・神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日を祭礼として、経済復興に伴って馬場尼ヶ谷の宮下子供神輿が供奉するようになると各字でも子供神輿の奉納が自然増殖的に始まりました。
三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く、神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。

各字奉納山車、花車、太鼓台について
各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、田村大元帥明王社祭礼の時は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉し、踊りの組が随伴していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、商人の街である、中町・大町・北町・新町の山車が随行したと考えられます。
明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で、中町・大町・北町・新町等の大店が店を構えて羽振りを利かせ、多額のご祝儀、篤志寄付により、商人街の各字では、競い合うように舞台を兼ねた大型の山車が作られ、祭礼への奉納になったと聞き及んでいます。

また、各字若連では、山車の舞台の高さを大店の二階に合わせて建造して、渡り芸人を招いて芸を披露したり、芸者を引き連れて興行となり、多額のご祝儀を出す大店では、二階の座敷にお客さんを招き、座敷前に曳航した山車の繰り出す演目を観覧しました。
この頃の三春の祭礼は、県内でも有数の華やかな賑わいで、その祭礼を一目見ようと、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。
各字神輿奉納について

大人神輿の若連会は、それまで各町内にあった山車が、老朽化と道路舗装に伴う事故のために奉納が取りやめになっていましたが、昭和30年代から昭和40年代の初めにかけての日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が再組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。
現在は、体育の日の直前土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。
還御も長獅子の担当と同じくして、荒町御出立と新町御出立で隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・赤天狗・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員が続き・宮下小若連を先頭にして、八町の子供神輿と・六基の大人神輿、そして四基の花車太鼓台が御神輿還御に供奉されています。

以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治35年9月の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
高橋哲夫著「河野広中小伝」の冒頭に、「戊辰戦争の直前、町の祭礼の時に、大町組山車と新町組山車との争いにおどり出て、あわや刃傷沙汰になろうとしたが、兄広胖が駆けつけようやく事なきを得た。」という話が記述されていますが、田村大元帥明王社の祭礼のことです。
| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |
2025-09-24 Wed
本日のKFB福島放送のシェアは、三春です。
私が紹介する三春担当の新しいレポーター 宗像俊樹君
ご自身が、新しくオープンしたオーガニックワイン専門店「Mu」を紹介します!
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 20:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::KFB「シェア!」 三春 |
2025-09-08 Mon
2025.9.4三春小学校 第3学年 総合的な学習の時間「三春町の良さをみつけよう」
「三春の達人」外部講師としてお招きを受けまして「三春城下の和菓子屋、おたりまんじゅう」の話をしてきました。
和菓子屋の仕事、三春で商いをする意義、そして、利点・・・・
事前に子供たちからは様々な質問が寄せられていました。
普段の教室とは違いプレイルームで、2組合同の授業にも関わらず、落ち着いた姿勢で真剣に話を聞いてくれました。
質問や感想なども適切に発言されており、御爺さん世代となる私などは頼もしく思えました。
先生はもとより、親御さんの教育の賜物ですね。
三春町で学んだことが誇れる教育!
このフレーズを垣間見た心持です。
かつて私たちが子供の頃に地域の方々に教わったように、今の子供たちの役に立てればという思いと恩返しで講師を務めています。
がんばれ三春健児!
吾が母校、三春小学校様へ「塵壺」を寄贈しました。
三春小学校学校運営協議会長を務めていたころの記載もあります。
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」を出版した目的には、未来を担う子供たちへの提言もあります。
本書の郷土の歴史という内容もさることながら、本の出版という遠い存在のような感じもしますが、見たことのあるの身近な饅頭屋のおやじが本を出したということで、本そのものや出版というものを身近に感じて、生き方の選択肢のひとつに加えてもらえれば幸いです。
三春城下を故郷にする今を生きるものが、先輩から学んで受け継いできたものを、未来を担う次世代にどう伝えていくかということを常に考えて、様々な角度から実践していくことが、様々な事柄を教示していただいた先輩方々への恩に報いる方策だと思っています。
子供たちにお話す機会の度に、その純真で間直ぐな姿勢に「裸の王様」の逸話を思い出して、己の戒めとして気を引き締めています。
そして先の寓話の戒めの真髄である「やましき沈黙」を、肝に銘じてきました。
これは、私自身の失敗から学んだ反省の意味も込めて、最も嫌悪し忌み嫌っていることです。
間違っていると一人一人は心の中で思っていても,組織がその方向に進むと口に出すことはできず、組織の空気に飲み込まれて,自分の意志ではない方向に流されていく。これが「やましき沈黙」です。
私は周りに流されるのが嫌いです。
やましき沈黙に陥る要因の一つに周囲の顔色を気にしすぎがあります。
みんな、子どものころから人の顔色をうかがい過ぎなんです。
親や先生、長じて上司などの期待に応えようとして、自分の意志を貫くことに慣れてない。
私は、いくら周囲から嫌われても、結果が出るまで戦い続けるしかないと思っています。
後悔はしたくはないので、私は使命として大局を見極めた上で言わなければならない事を言い続けています。
今でも私は周りから嫌われていると思いますよ。でも、それは誇りとして胸を張って良い勲章の一つだと思っています。
受け売りですがね・・・・♩
ご縁があって、霞が関の文部科学省講堂にてコミニティースクールの研修でパネラーとして登壇し、三春小学校学校運営協議会の取り組みを紹介するという貴重な経験をさせていただきました。
文部科学省では異彩された平成23年度 学校運営協議会委員・学校関係者評価委員研究協議会に三春小学校学校運営協議会会長としてパレリスト登壇した模様です。
7分55秒から発言が記録されています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
2025-08-16 Sat

毎日新聞終戦80年企画 8月14日静岡県版
“終わらなかった戦争”8月15日プラス 「厚木航空隊事件」
厚木航空隊事件を収束させた芦沢出身の佐藤六郎海軍大佐の残した手記よりの特集記事です。
故湊哲郎代議士、カネサン書店、そして三春昭進堂髙橋の親戚筋の方です。
取材協力をした記事がまず、静岡県版に掲載されました。
毎日新聞の戦後80年の企画で、関東、東北などの各県に適宜、掲載されていくことになります
戦後80年
厚木事件始末記 「私の体験秘録」 旧日本海軍大佐 佐藤六郎
三春昭進堂主人 髙橋龍一
1.はじめに
先日、カネサン書店渡辺康人社長から、母方の叔父である旧日本海軍大佐佐藤六郎(海軍機関学校 第三十一期生 現田村市芦沢出身)氏の戦時中の事柄を昭和50年代にまとめようと認められた文書の資料をお預かりいたしました。
大きな紙の袋に収められた多くの書類封筒を取り出す康人さんの手には「厚木事件」と記された封筒があります。
胸の高鳴りを抑えながら、おもむろにその封筒から中に入っている書類を取り出しますと「厚木事件」と記された紐綴じの黒いバインダーやその当時の事柄を記した資料がたくさん入っています。
それからは時間を忘れて夜更けまでその資料の分類や読み込み、資料照合等々・・
厚木航空隊事件
昭和20年8月30日。日本を占領統治する連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥が無事に厚木に降り立ちます。
この時、一発でも銃声が響いていたならば米軍の無血進駐は武力進駐へと一変し、戦後の日本の自由と繁栄はありえなかったでしょう。
その陰でこれからの日本の将来を憂い天皇制存続という国体維持のために命を懸けて働いた佐藤六郎海軍大佐や大安組安藤明社長など男たちの物語がありました。
この終戦直後の混乱期に起きた厚木航空隊の反乱、後に云う「厚木事件」の中で長年にわたり疑問?としてモヤモヤしていた事柄がクリアーになった感じです!
・小園司令の捕縛入院の真相
・小園司令徹底抗戦の真意
・破損戦闘機を飛行場へ投棄した犯人は?
・大安組安藤明氏の「天皇制護持」
・大安クラブの功罪
・佐藤六郎大佐へ厚木鎮圧の下名者は?
・佐藤六郎大佐と他の航空隊指揮官とのやり取りは?
・マッカーサー元帥の厚木進駐の真意は?
・マッカーサー襲撃の回避
等々・・・・
※海軍厚木基地の所在地は、神奈川県の厚木市にあるわけではなく、同じ神奈川でも綾瀬市と大和市の一部を含む約500haに及ぶ広大な敷地にあり、昭和16年に運用開始され終戦時には厚木海軍航空隊、相模野海軍航空隊(航空機の整備兵教育を担当する部隊)そして、高座海軍工廠(航空機の機体製造を行う工場)が設置され帝都防衛の主要基地となっていました。
2.「厚木事件始末記」
当該資料からの引用も含めた私の所見をまとめてみました。
後に「厚木航空隊反乱事件」「厚木事件」とよばれると厚木基地占拠は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏が決定され、玉音放送という終戦直後の混乱期に、GHQ総司令官マッカーサー元帥が進駐軍の先遣隊として厚木飛行場に降り立つ事を知った海軍将校の一部が、天皇制護持、天皇の戦争責任回避を求めて徹底抗戦を提唱し、武装解除して破壊した戦闘機の残骸で滑走路を封鎖し、米軍を迎え撃とうとしていた事件でした。
佐藤六郎海軍大佐は、有末精三陸軍中将が委員長、鎌田陸軍中将を副委員長とする厚木終戦連絡会より、小園大佐と同期で旧知の間柄ということで特命派遣委員に任命されます。
厚木航空隊の反乱決起鎮圧の協力要請を、厚木空中立派はもちろん他の日本陸・海軍の各部隊、警視庁、消防、行政など公の組織に求めますが、どこも動く気配はありません。
結局、佐藤大佐は、決死の覚悟で海軍の出入り業者であった大安組社長安藤明氏を伴って立った二人で、海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐以下の反乱軍が占拠した厚木基地の航空隊本部に乗り込みます。
佐藤大佐の手記によれば、当時、小園司令は徹底応戦派の幹部数名とともに野比海軍病院(精神病院・精神科病棟・現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センターか?)にて身柄拘束されて不在だったことが記されています。
そして、小園司令なき反乱部隊は、佐藤大佐らの説得が功を奏し武装蜂起を解除しつつあり、安藤氏は全国から仲間を集め、GHQ進駐妨害のために飛行場他基地内にバラまかれた戦闘機・爆撃機の残骸処理後に飛行場を整地してマッカーサー元帥率いるGHQ先遣隊(チャールズ・テンチ大佐指揮)の厚木進駐に間に合わせています。
今回拝見させていただいた資料は、海空会 日本海軍航空外史刊行会・編 昭和58年発行の「海空時報」別冊に寄稿された「私の体験秘録」(佐藤六郎・海軍機関学校 三一期)
及び 「戦後三十五年厚木事件を回想す」(佐藤六郎・三一期)「鎮魂と苦心の記録」海軍機関学校 海軍兵学校舞鶴分校 同窓会世話人 昭和56年7月発行の資料となります。
尚、資料の中には「厚木事件関係者の電話回答」昭和56年8月発行も含まれています。
佐藤六郎大佐の手記の中で、厚木事件の真相を公開する真意として小園氏と安藤氏に言及するに及んで、次のように述べています。
当時、何と云おうとも、小園大佐が悪く聞える事(悪く云われること)が我慢出来ませんでした。
私(佐藤大佐)と彼(小園大佐)との交友は同期生以上のもので、最後に厚木で逢えなかった事が誠に残念でした。
※ 別の本の序文には、厚木にて小園大佐説得の命令を受けた際に“万が一の時は、小園と刺し違いで死ね”の意を瞬間に感じとったと記されています。
また、大安組・大安クラブ代表の安藤明親分に対しては、晩年、零落しての最後が非常に憐れだったので、その偉大なる功を称えるために、その葬儀の席で弔詞を読み、厚木事件での彼の功績を公表したと記されていました。
3.厚木基地飛行場の現状回復と修復
天皇の戦争責任追及を回避し、国体護持を達成する為には、なんとしてもマッカーサー元帥の厚木進駐を成し遂げなくてはならない。
厚木基地には、当時は隣接する第一相模野飛行場や第二相模野飛行場もあり、現在の厚木基地の広さは後楽園球場約108個分とされていますが、当時の規模はもっと大きく、その広大な飛行場の滑走路や格納庫など基地の内部には破壊された零戦や雷電、彗星、彩雲、月光、銀河などの戦闘機や爆撃機など破壊された300機以上の機体の残骸が散乱し、人力での排除はさぞ困難であったろうと思います。
しかも広大な敷地の中に、徹底抗戦派の一部の兵士が潜んでいるかも知れず、護衛の戦闘部隊もなく、いつ攻撃されるか分からない緊迫した状況でしたが、佐藤大佐は、「これからの日本を支える者同士だ!日本人同士が撃ち合ってどうする!」「話せば解る!」と言って民間人である大安組の社員には武器の携帯を許しませんでした。
この様な状況の中で、命の危険を冒して滑走路の整備を請け負った大安組の社員は、貨物自動車やトラクター等約20両を使用して、250名程人員で戦闘機や爆撃機の残骸を厚木空格納庫の裏手にあった谷に投棄して埋め立てして飛行場を回復する作業を文字通り三日三晩不眠不休で通し続けました。
そして連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥率いる先遣隊到着の前日、8月27日午前8時、全ての飛行機が片づけられ、滑走路は使用可能となって到着時間ぎりぎりで受け入れ準備が完了して日本の危機は回避されました。
尚、この埋設した戦闘機の残骸は、一年後くらいに神奈川県庁からの命令で佐藤大佐(除隊後)が一時的に設立した会社「佐藤組」によって撤去されます。
4.連合国軍総司令部(GHQ)総司令官マッカーサー元帥厚木到着
厚木航空隊基地にマッカーサー元帥の乗るダグラスC-54B元帥専用機「バターン号」及び米軍の先遣部隊の十五機が飛来、先に着陸した先遣隊12~3機に乗務していた護衛の米軍海兵隊員は直ちに飛行場周辺に展開し日本軍の「ダマシ」打ちを警戒して、銃を身構えマッカーサー元帥の乗るバターン号の着陸を援護・護衛していました。
また、沖縄及び日本近海に米空母を中心とする攻撃部隊を待機させ護衛の空母艦載機数十機を攻撃態勢にて上空援護させて有事に備えていたようです。
私(佐藤大佐)は、之を望遠鏡で見て驚き、終戦連絡委員会の有末陸軍中将委員長に申し上げ、米軍の護衛隊指揮官を抑えるため交渉役を引き受けました。
「マッカーサー元師が来ていると思われたので、誰も通訳がいなかったが、文部省代表田中館秀三東北大教授(後東京大学教授)が引き受けてくれました。
私は白旗を自動車の窓から出して、田中館秀三東北大教授を伴って飛行場を横切り十五機の中央に向って突進しました。
そのときの気持は何とも云いません。
それを思うと「屈辱」「無念」「緊張」今でも悔しくて眠られなくなります。
と当時の心境が認められていました。
5.安藤組・大安クラブ代表 安藤明氏
安藤明氏は、この時の請負賃を元手に築地に「大安クラブ」を作り、会社の莫大な金を投資し、GHQの高級将校を連日のように接待し、天皇制護持を訴え、日本6分割案に反対していたと伝わっています。
その後、大安組は最盛期には日本全国に十数か所の支店,従業員16万人をかかえる大会社となりますが、安藤明氏は後にGHQの高官を懐柔したとして逮捕され、住む家を追われます。
厚木基地の飛行場原状回復・破損戦闘機残骸廃棄物処理から大安クラブをもってGHQの将校を接待して「天皇制護持」「天皇戦犯論撤回」そして「日本列島分割(日本6分割案)回避」を働きかけ、ついには実現にこぎつけましたが、終戦直後の混乱期から戦後へと移行する昭和46年6月贈賄容疑でGHQに逮捕されました。
昭和35年8月15日の終戦記念日の日に、不遇な晩年を過ごし赤貧の中で60歳の生涯を閉じます。
これを哀れんだ佐藤氏は、昭和38年、青山斎場で行われた安藤明氏の葬儀で弔辞を拝読して初めて戦後期における安藤氏の人知れぬ功績を披瀝しました。
豊橋航空隊司令時代
近年、情報公開及び当該関係者の死去等により戦前から終戦という昭和の混乱期の解明が進み先にも厚木事件を取り上げたNHKの特別番組がありましたが、安藤氏は、正に時代に翻弄された人生だったのではないかと思います。
今日の日本は、戦後のドイツのように東西に分割されず、天皇陛下の元で一つの国として生きることが出来ました。
これも、佐藤六郎氏と安藤明氏のお陰であると日本人として忘れてはならない事柄だと思います。
6.海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐
一方、小園大佐は、1937年、支那事変(日中戦争)から、1941年(昭和16年)10月台湾の台南基地に新設された台南航空隊の副長兼飛行長に着任。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦後、台南空は戦線の南下に伴ってフィリピン、インドネシアを経てラバウルへ進出後、東部ニューギニア及びソロモン諸島に展開する米豪軍と戦った歴戦の司令官です。
小園氏が司令長官を務めた海軍三〇二航空厚木航空隊というのは、本土防衛にあたって帝都上空を守る小園司令官の下に、総員5500名、稼働機170機、予備機300機、2年分の食料弾薬を備蓄しており、東日本最大最強の帝都上空防衛航空部隊です。
「厚木事件」は、玉音放送前夜に陸軍将校によるクーデター未遂となった「宮城事件」と共に、天皇の戦争責任追及回避、そして「天皇制護持」が確約されていないポツダム宣言受諾に反対して抗議のための決起で、天皇の命が脅かされる危険がある無条件降伏は、到底受け入れられることはできなかったのでしょう。
佐藤大佐はじめ、厚木鎮圧後に「抗命罪」で逮捕された小園大佐の「天皇制護持」の思いに基づく徹底抗戦の行動には、海軍や陸軍の内部にも共感される関係者はあったであろうと想像がつきます。
1946年11月大赦令により無期禁錮から禁錮二十年に減刑され、1950年9月特別上申により禁錮十年に減刑、12月熊本刑務所を仮釈放され、拘束から7年後の1952年、平和条約の発効のとき大赦令によって赦免されます。
釈放後は、故郷の鹿児島に帰り農業を営みながら余生を過ごされていましたが、1960年晩秋の頃に脳溢血で死去されました。享年58歳。
皇紀二千六百年特別観観式(昭和15年)
7.佐藤六郎さんの記された「私の体験秘録」の一部をご紹介させていただきます。
海軍軍人として奉職25年。その内の20年間は海軍航空部隊で勤務しました。
その中で、特に私は選ばれたと思った事が度々あった。
一、先ず飛行艇で内南洋諸島をかけ巡り海軍の首脳を案内する事、之は私ならやれると自信があった。
二、私は、一度も教官になった事がないのに、最も重大なときにその教育の大改革の断行者に選ばれた。
三、鹿屋(後に豊橋) 部隊の中攻隊を率いて大苦戦のサイパン行きとなるぞと勇んでいた処、やった事もない生産関係に転任し然も大増産をやれと云うのであった。
四、そこで遂に終戦、此の度は愈々最後の転任即ち復員だったが、私は戦後処理なら何でもやりますと、残留を希望していた処何と、「厚木を片つけてマ元帥を迎えよ」と云う、誰でも厭う事を命ぜられた。
然し、「之は小薗を知る、俺が片つける」と自信を持って出発した。
尚本文中、敬称を略し当時の関係上官や部下だった方々の彻名前を無断拝借してありますが御寛容御願致します。
「マスコミ」には転載等を一切御断り致します。
今回の資料を拝読するに、佐藤六郎氏は戦前から終戦までプロの帝国海軍軍人として活躍された司令官であり、その人生を捧げ日本防衛の要として、さらには大戦末期の混乱期の中で最大の危機「厚木事件」を収束された近代日本の幕開けご尽力されたことに対して敬意と感謝を捧げたいと思います。
拝
旧三春士族湊季松宅にて 親戚一同と記念写真
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:01 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記 |
2025-08-15 Fri
KFBシェア放送日8月15日分 「三春盆踊り 北町天神ブース」 髙橋龍一
https://youtu.be/YhN9efH9NUs?si=AJqV61QdrHVXFDFa
・今回は発想を変えて、三春盆踊と同時に北町天神ブースで開催される三春町商工会北町支部、北町若連及び三春町商工会青年部合同で主催のお祭りゲームブースの紹介をメインにしたいと思います。本格的なビリビリ棒、射的、鉄球落とし(いずれも北町若連のハンドメイド)、商工会青年部(型抜き・くじ引き)、そして、味処山惣(やまそう)屋台ブースにて生ビールや“盆踊りおつまみ”を紹介する。
場所は、北町天神広場 盆踊り会場とは別の一角(約50メートル離れる)
立地としては、盆踊り会場を望める場所で、途中に展開するキッチンカーブースも望めます。
〇当日の流れ 髙橋、深谷悠大(小5)リポート 案内役 北町若連
1. 盆踊り会場 四つ角をバックに北町天神からスタート 振り向いて天神ブースへ
2.三春盆踊りの告知 昨年の三春盆踊りVTR 昨年の三春盆踊の様子をナレーション
・江戸時代より300年以上続いている三春伝統の夏の風物詩。8月15日・16日の2日間、大町の「おまつり道路」で行われます。
・通常の盆太鼓や踊りや会場の雰囲気 単調なリズムでどなたでも踊れる
・5mの大櫓若連の太鼓衆による迫力満点内な“ばちさばき”も見どころの一つです。
・最終盤 盆踊りの終わりを告げる“〆の太鼓”として、踊り子を散らす“散らし太鼓”、
通常とは違うという意味の名称“莫迦囃子(ばかばやし)”にはいると、より一層に力の入ったダイナミックなばちさばきとなって、櫓が揺れるほどの太鼓に変わります。
盆踊りが終わる寂しさと、また来年も会いましょうという、思いの中で踊り子はもちろん、来場の方々からの大きな手拍子と歓声という喝さいを浴び、フィナーレを迎えます。
3.北町天神内北町若連及び商工会支部北町ゲーム・露店ブース (奥の蔵側に設置・案内所来客のため駐車場3台分空ける)
・本格的なビリビリ棒、射的、鉄球落としその他 ゲーム体験
・商工会青年部(型抜き・くじ引き)
4.北町味処山惣(やまそう)屋台ブースにて、生ビールや盆踊り仕様おつまみ試食 乾杯!
5.〆 三春盆太鼓で踊って みんなで踊って シェア!
三春盆踊り
100人居れば100人の盆踊りがあります。
太鼓を叩く人、踊る人、見る人、屋台露店の人、そして先祖供養の人などなど様々な方々が盆踊り(お祭り)というワードで一つになって、それぞれが楽しんでいる。
上記は、昨年のシェア!です
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::KFB「シェア!」 三春 |
TOP PAGE △



