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 KFB福島放送シェア 三春人形師 小沢宙 !本日放送!











三春人形 小沢民芸、四代目の人形師 小沢宙(そら)さん

 KFB福島放送シェアふるさシェアin三春 2025.1.14(火) 3:48~



小沢民芸代表 三春人形師の小沢宙さん=三春町在住

1・三春張り子人形の話を聞く

2・小沢太郎氏と三春張り子人形の復活 

3・作業工程 和紙張り 型外し 絵付け にかわ、染料など製造工程 等々

4・張り子人形の材料となる和紙や膠(にかわ)、そして染料などの調達の苦労

5・人形師小沢宙さんの今後の活動

事前収録 深谷悠大も参戦!(先の蛙さんの家方式)


:放送次第

来週の19日(日)に江戸時代から続く三春だるま市が開催されます。
その三春町から、明治期に衰退してしまった張り子の三春人形を復活し、今もその製法を守り続けている若き三春人形師を紹介します。










1・三春張り子人形の話を聞く
三春人形は、江戸時代の三春藩領だった高柴村(現在の福島県郡山市高柴)で作り始められた張子の人形で、歌舞伎や浮世絵を題材とし、文化文政期 (1804~30)頃に最盛を誇り、玩具・観賞用として作られた。

三春藩が人形を作り始めた当時の藩主秋田公は、文化面の関心が高く、歌舞伎や都で流行しているものを取り入れていたと言われている。
張子人形は、紙の柔らかさから細やかな表現に優れ、とても軽く仕上がる。色付けにより強度が高くなるため売り歩くのにもちょうどよく、外貨獲得の手段としても活用された。しかし、明治維新により、三春藩がなくなったことで三春人形は廃絶してしまった。

だるまや干支の張り子は、毎年、だるま市で縁起物として買われていたために続いていましたが、観賞用の玩具としての三春人形は衰退します。
しかし昭和の時代になり、高柴デコ屋敷の人形師、橋本広吉さんと小沢民芸初代の小沢太郎(宙さんの祖父)さんが復元させたという。







2・小沢太郎氏と三春張り子人形の復活 小沢民芸のはじまり
「初代の小沢太郎は、もともと軍医になる予定でしたが、体を壊したことで学校の教諭になりました。その頃に、学生時代の恩師で、文化財の収集を行っていた高久田脩一先生に『三春人形』を教えてもらったことが、祖父が三春人形と出会うきっかけでした。戦後のことです。こんな人形が三春町にあったことを知り、どのように作られたのか調べ始めました。町内に残っていた人形、木型もとても少なかったそうです。祖父は学者気質で資料を集め研究することに向いていたのだと思います。その後、高柴デコ屋敷、人形師の橋本広吉さんとともに自身も人形を制作しました」

わずかな資料と作品から模索し復元していった三春人形は、町内はもちろん全国各地のデパートで実演販売された。太郎さんらが大阪のデパートでの実演販売の際、収集家の本出保治郎氏と出会ったことが三春人形の再興につながった。

「この人形なら自宅にたくさんあるから見においでと言われたそうです。地元にも残っていないのにまさかと思って見に行くと、200を越える三春人形がありとても驚いたと聞いています。本出さんは全国各地で三春人形を収集していたそうです」

本出保治郎氏の協力もあり、作品の解説や制作過程についてまとめた太郎さんの著作「三春人形」は、昭和39年に出版された。
宙さんもまたその本から人形について学んでいる。

「祖父が実際に制作していたのは数年ほどで、父が15、6歳の時に亡くなっており、その後は祖母が制作を引き継ぎました。祖父は祖母にも仕事のものは触れさせなかったため、祖母は見聞きしていたことを頼りに作り続けました。父も大人になってから人形作りをしていましたが、病があり現在は制作を離れています。制作期間でいえば、祖母が一番長く、私が四代目というより4人目と言った方がよいかもしれません」







3・作業工程 和紙張り 型外し 絵付け にかわ、染料など製造工程 等々
かつて農家の古い母屋だったという作業場は、土間と囲炉裏がある昔ながらの一軒家。
「冬はとても寒いのですが、作業をするには湿気がこもらない昔ながらの家が良いのです。私が小学生のころに父がこの建物を見つけ、工房として『雲香堂(うんこうどう)』と名付けました」

小沢民芸で制作する人形は、歌舞伎を題材にしたものから雛人形、福の神など22種類。
歌舞伎の演目、舞踊が題材であるため、人形たちは太鼓のバチや扇子といった小物を持ち、のびのびとした動きがある。
「三春人形は素朴ながら華やかさがありますね。小沢民芸では、江戸時代に作られていたものを基にデザインを再現しており、歌舞伎の悪役であっても、人形にしてしまうところがおもしろいなと思います」







三春人形の着物の柄には松が三つ重なったものが多くあり、縁起物には鶴や蛤が描かれた。
復元の際、木型はあるが絵柄が残されていなかった人形には、太郎さんが新たに柄を描き込んだものもある。

お雛様飾りの“三春内裏雛”や“三人官女”、“五人囃子”、赤い色が魔除けということから男子が生まれたら“熊乗り金太郎”や薩摩隼人、そして“福の神”や“鯛乗り恵比寿”、天神などの縁起物、また歌舞伎でおなじみの『三番叟』、舞姿、花笠、変わったところでは“唐人形”と呼ばれるシリーズ。

江戸で見聞きした歌舞伎や浮世絵などの流行していたものをモチーフに三春人形は作られています。おもしろいのがこの“象乗り唐児”、当時、三春の人形師たち本物の象を見たことがなくて想像だけで象を造ります。今の象と比べると何かが足りません・・・
耳がないんです。そして鼻も短い。さらには人が乗れるくらいの大きさとは聞いていたんでしょうが、そこまで大きいとは知らずに子供が乗れるくらいだろうと、子供を乗せてこの比率で作製されています。






「1、2か月に制作できるのは、だいたい20体ほどです。年間を通して一定の量を生産できると良いのですが、これからの夏場の時期は、色付けの乾きがわるくなるので、乾燥させている間に、人形たちのパーツや小道具作りをまとめて行います。乾燥しやすい冬は制作のスピードを上げることができます。常に人形たちをここに並べ、訪れる方に選んでいただけるとよいのですが、作業には限りがあるためそうもいきません」



4・張り子人形の材料となる和紙や膠(にかわ)、そして染料などの調達の苦労

小沢ブルー(藍アイ色) この色を何故か“ネズミ”

小沢民芸で作られている三春人形の色合いは、淡くとてもやさしい。

聞けば、植物染料を使用しているという。


下地の白は“胡粉(ごふん)

「蘇芳(すおう)、藍、くちなし、白は貝の粉“胡粉(ごふん)、墨などの植物性染料、そして金泥を使っています。
色の重なりや染める順番を考えたり、扱うには手間もかかりますが、祖父は江戸時代のものを復元することを目的にしていたため、小沢民芸では当時と同じ手法で作り続けています」
ノリは“三千本”の膠(にかわ)、膠とは動物の皮から抽出した古来の糊です。






和紙は、張り子人形用に特別にすいてもらっている和紙で、その昔はふすまの下地に使っていたような粗末な和紙です。そして人形足元を支える板は昔は屋根の下地に使っていた“木端”です。
ともに当時はそこら辺にあったような材料ですが、逆に今はこれらの材料集めが大変です。

人形の木型も、自分たちで造っています。
型の張り付けた和紙を方から取り外す際に小刀で切れ目を入れて外すという工程上、木型が10年くらいしか持ちません。それを自分たちで制作して補充しています。

ご家族で作っていた人形は、現在、宙さんおひとりで制作している。
在庫があればすぐにでもお分けすることは可能ですが、基本的には受注生産となります。



5・人形師小沢宙さんの今後の活動 
人形を作りつづける
「経済的な面もあり、家族から人形作りをやってほしいと言われたことはなく、子どもであっても、仕事には触れさせませんでした。ただ自分も作ることが好きだったので、進路を決める際、祖母と父に仕事を教えてほしいと話しました」
高校卒業後は、京都の伝統工芸を学ぶ専門学校に入学。木彫、仏彫を学び、その後、福島に戻って小沢民芸の仕事をお祖母さまの重子さん、お父さまの小太郎さんから教わっていった。
「作業を教わるといっても、染料を測るにも感覚の部分が多くありました。人形づくりの全体がわかるようになったのは、10年が経った頃です。今でもうまく描けない、もっとこうしたいということが多々あります」

宙さんが人形作りを始めてもうすぐ20年。自分ひとりの作業は、休みも仕事も区別なく続けてきたという。制作の他に、三春人形の復興から太郎さんから続く小沢民芸の仕事についての講演会の依頼もあり、資料を見直し、人に伝えていくのも宙さんの大切な役割。

「私たちが作った人形を見て、今もこうして、いいな、かわいいなと言っていただけること、古くからのお客様はもちろん、各地のお客様からのお手紙をいただいたり、祖父が書いた本をどこどこで見つけたと連絡をくれる方がいたりとそれが制作を続ける励みでもあります。ひとりでこつこつ作業することが性に合っていて、これからもずっとこうして作り続けていきたいなと思っています」

今後、現在のレパートリーに加えて、江戸時代の三春人形でまだ復活していない粋に入りの人形の製作です。もちろん木型造りからです。






江戸時代から続く「三春だるま市」が来週開催されます。
張り子人形の郷、城下町三春へお越しください。シェア!

先にも、町文化伝承館で開かれた展覧会「ふたつの じいまご 展」では、祖父が三春出身の美術作家の前川加奈さん(39)=埼玉県在住=とコラボした作品展を開催しています。

小沢民芸 福島県田村郡三春町大字南成田字千代川87
お問い合わせ先 0247-62-2522(見学は、要予約)









| ryuichi | 03:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::KFB「シェア!」 三春 |
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」  中田町郷土歴史研究会 講演会 4




「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」4
  
      中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター

   令和6年12月17日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~


三春昭進堂代表 髙橋龍一  塵壺発行責任者

「御春輩」とは中世の混沌とした乱世に於いて中央からの圧力に抗して自尊独立を貫き通した誇り高き田村武士団の総称です。

郷土の歴史を辿るのは自己を顧みる事なり 照顧脚下

   赤穂浪士と三春藩 秋田氏 雑記

大高源吾(秋田由来)、不破数衛門(宍戸)、小野寺十内、
宍戸秋田氏と笠間浅野氏 同時期に隣接 親類?

・討ち入り衣装 大名火消し装束 火消及び機動隊 消防団(防犯協会)

六万石以下の大名 三春藩五万石秋田家火消組

真壁藩・笠間藩浅野氏
・浅野長政は慶長10年(1605年)隠居料として幕府から常陸真壁などに5万石。
赤穂事件で有名な浅野長矩は長重の曾孫である。

※寛永13年(1636年)江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番。同年11月、朝鮮通信使の来聘につき、相模大磯にて饗応を担当。
寛永20年(1643年)にも、朝鮮通信使を下野今市に於いて饗応を勤めている。

正保2年(1645年)、当時赤穂藩主池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件(正保赤穂事件)で池田家は改易。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。

尚、赤穂浪士討ち入りの20年位前、三春藩主3代の秋田輝季は、延宝7年(1679)に勅使饗応役を勤めました。

※朝鮮通信使は、江戸時代に来日した外交使節団です。その回数は12回に及び、大船団を
組んで日本各地に寄港し、400 名以上の大行列が江戸まで旅をしました。
 脇坂安董の所領 現・たつの市には、通信使が寄港した室津があります。
加えて、最後の通信使を迎える副使に脇坂安董が任じられています。
全12 回にかかわったゆかりの地です。
 対馬での聘礼は、徳川11代将軍家斉襲職(天明7・1787年)に対する慶賀でしたが、接
待費負担の軽減等をはかるため文化元(1804)年に対馬での聘礼が決定しました。安董は副
使として文化 8 年の聘礼をつとめました

宍戸藩(現・笠間市平町旧陣屋一帯)は、江戸初期(慶長7年(1602年)~正保2年(1645年)7月三春転封)の安東・秋田氏五万石の領地です。
関ヶ原の戦い後、常陸54万石佐竹氏の出羽転封で、秋田実季の宍戸入封となりました。
※寛永7年(1630年)9月、実季幕命により伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季(後の三春初代藩主が継いだ。
秋田氏は、正保2年(1645)8月、奥州三春(福島県三春町)に転封となりました。

※宍戸から三春への国替え行列は、旗一七本、槍一二〇本を立て、鉄砲一八〇挺、弓四五張、騎馬供七六騎であった。

浅野長矩 切腹場所 一関田村家江戸藩邸 虎ノ門ヒルズ付近

桜田門外の変と三春秋田氏
安政7年(1860年)に水戸藩浪士らによって大老・井伊直弼が暗殺された、「桜田門外の変」三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭として「外桜田門御番所御当番」の役職にあり、「内桜田門」は「桔梗門」のことでその警備を任されていました。

秋田家文書「桜田門勤務心得」「桜田御番所御当番火事行列帳」(元文四年未六月)「外桜田御門番所御出馬行列帳」(寛保元年酉四月)三春藩江戸定府公役には桜田門警備記載
 
また、「桜田門外の変」の水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士の小野寺慵斎(ヨウサイ)がいます。

・伊勢朝熊 永松寺實季 近習 交野氏 石田三成の子(愛妾)
関ヶ原合戦の際、徳川方の秋田實季に三成が我が子を預ける。 
近習として最後まで實季に奉公 後三春藩へ帰参

・三春田村の墓所 白石市 片倉墓所隣接 真田幸村娘 伊達に預ける 片倉氏預り
愛宕山の片倉家御廟所の一角に、仙台藩主伊達政宗公の正室愛姫(めごひめ)の父である三春城主田村清顕(きよあき)公をはじめとする田村家の墓所があります。
清顕公の没後、田村領は豊臣秀吉によって没収され、嗣子の宗顕は「牛縊(うしくびり)定顕」と改姓。子の定広とともに宮城県の伊具郡に静かに身を潜めていたといいます。その後、愛姫の命により、二代片倉重長が白石に招き住まわせたといわれています。
定広は片倉喜多の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名。
真田信繁(幸村)公の遺児の一人である阿菖蒲姫(おしょうぶひめ)を妻に迎え、300石で仙台藩士となります。片倉家御廟所のある愛宕山に田村一族の墓所を定め、父清顕公の墓を建立。一族の菩提を弔い、没後、妻の阿菖蒲姫と共にこの地に葬られています。
阿菖蒲姫の墓のそばには、名の刻まれていない父真田信繁(幸村)公のものと伝わる墓碑が並んでいます。




三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」

   「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺。

 ここには弘法大師木像と興教大師木像が収められています。

これは、天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。


 この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。

 江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。

 家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わりに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。


 この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。

 このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。


 幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。


「腹切り梅」

亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。

その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。

その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。


「三春化け猫騒動」

事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

また、三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。


その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。

 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。


 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 

 古い広報三春コラム「古蹟萬歩」貝山の荒木屋敷参照

 大町の浄土宗引接山紫雲寺、戦国期創設の浄土宗の古刹である、その境内に、三春の歴史を見続ける梅の古木があります。


 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村

および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。

 正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。

しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。


今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。


 享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。


 天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。


消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった

 真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。

火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。



                    合掌  









三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |
総合学習の時間「町中探検」の授業で三春小学校2年生の児童にご来店いただきました。




可愛らしいお客様のご来店!


寒い中、総合学習の時間「町中探検」の授業で三春小学校2年生の児童にご来店いただきました。


三春の将来を担っていく三春健児です。


長い歴史のなかで様々な変化してきた激動の時代を乗り越えてきた三春。

この三春を発展させてきた原動力というのは、どの時代も私たち民衆の強い意志と行動であったことを”歴史”や”仕事”、そして”祭礼などの地域活動等々の中に在るんだろうと思っています。






この様々な成長の場を提供していくのも、私たちがこどもの頃に先人に学んだことへの恩返しになるんだろうと考えています。


さらには、こうした学びの世代交代・繰り返しが、地域の文化を作って行くんだろうという考えの下、私たち三春昭進堂は、そんな願いを込めて活動を進めています。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」  中田町郷土歴史研究会 講演会 3
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」3
 
 中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター

令和6年12月11日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~

三春昭進堂代表 髙橋龍一  塵壺発行責任者

中津川城 歴代城主

応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。

時代は下って・・・

天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城及び田原谷城(小野町夏井)を破局した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。

常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。

田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。

さらには、一度離反し反田村氏となった常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。

このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます

田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ

天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。

天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ 

仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。


中津川氏 宿老 四天王家 滝田氏、宗像氏、村上氏、某氏


田原谷舘、細田舘 中津川氏 所領



天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐

天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)

天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死  郡山合戦

天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ

時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。

この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。

6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より

天正十八年六月

去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様  「貞山公治家記録」より

中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。


黒木舘主 黒木氏の考察 2025
「黒木舘」田村四十八舘 
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
 
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。

 黒木鎮守 菅布禰神社 の由来書には
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。

建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
 ※田村庄司田村氏も南朝方

その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?

後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
 天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。

黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領) 
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前


御舘山「下枝城」城主 橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂の後裔)
橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善)の名前が見えます。
下枝氏は、本姓「橋本氏」で、田村庄司田村家一門 田村氏とも考えられます。

下枝橋本氏は、田村持顕の孫 重顕の子で、田母神氏の祖 田村利顕(重為)の弟、広顕より始まり、田村郡橋本村下枝を発祥とするとしています。

天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻。してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされています。
後にも田村領城郭要害絵図には、下枝橋本氏の名跡を継いだ、下枝舘橋本刑部少輔顕徳の名前が記載されています。
橋本刑部少輔顕徳(あきのり)(貞綱)の居舘。三春城下臥牛山(現紫雲寺山麓)に刑部舘跡あり終焉地(今泉系譜)
※田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。
田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主(兼務、弟や子が城代)、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も※田村月斎顕頼二男との記載が在り、弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春田村家改易後の橋本刑部とその子孫・仙台橋本氏

一関田村家本「田村系譜」 (諸家系譜2)は、橋本刑部顕徳が大坂に登り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたがその甲斐がなかったと記されています。
「伊達世臣家譜・橋本家譜」は、顕徳の子但馬および清顕後室である”喜多(あるいは於北)相馬氏”のその後を明らかにしています。
但馬は田村家滅亡後、 清顕後室に従って子息とともに伊達家にはいり、以後もこれに仕えた。 元和五(一六一九) 年後室死去。
但馬の子伊勢広信は、陽徳院に仕えその老(おとな)となったと伝わっています。
その子孫は知行六百石で召出の班に列します。

三春の三春大神宮にあった橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟
 橋本神社
南朝の忠臣橋本正茂を祭神とした、同族神の神社で大正7年ころに作られたものです。
大正7年、正五位を贈られたことからはじまり高野(仁井田・鬼生田)の橋本氏を中心にして橋本姓を名乗る人々によって建立・維持されていました。
現在は三春大神宮に合祀されています。
しかし、この神社が何故無くなったのかは、不明です。
 尚、郡山市西田町(旧・田村郡西田村)土棚にある高野神社の境内に、橋本廟というものがありますが、ここに祀られているのも橋本正茂であり、またこの神社の裏山には、彼の墓があります。
 故 橋本正茂 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省
     故 橋本正茂 贈正五位 大正七年十一月十八日
  宮内大臣従二位勲一等 子爵波多野敬直宣(宮内省印)









| ryuichi | 03:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |
三春町立中郷小学校  職業講話   2024.9.5  三春昭進堂店主  髙橋龍一




 三春町立中郷小学校 職業講話  2024.9.5 


三春町立中郷小学校第6学年の職業講話に三春の商人・和菓子屋として講師依頼があり、三春で商売をすることを話してきました。







・職業に就いたきっかけ

4代にわたっての家業 ひいおばあさんより 髙橋家 込木柳作 本家

商売の仕組み 材料を仕入れて 加工して、販売する セブンイレブン 仕入れ

和洋菓子屋・四季に応じて商品を変える 季節の先取り


・職業に就くための方法 (学校、資格、試験等)

製菓衛生師 調理師 現厚生労働省

食品衛生指導員・管理師 食品衛生法による営業許可  保健所

製菓・専門学校 コース料理のデザート

 商いの基本 情報(世の中の経済、マーケティング、マネジメント) アンテナ



・やりがい

お客さんに喜んでもらえる 三春での商い 

テレビ・新聞、雑誌など「春」 世界中から注目を浴びる 最高の営業マン 滝桜


・仕事とは、生きてる時間。

「近江商人の教」“三方良し”仕事お客さんに良、会社に良、そして地域に貢献する。

なんのために生きてんのかと言ったら、やっぱり楽しみたい。遊びたい。

しんどい仕事があっても、楽しいことあるなあと思うたら、頑張れます。

しんどいことばっかりやったらなんも意味ない。頑張りすぎないことも大事!

そら、しんどいこともありますよ。でも、そこをどう乗り越えるか。

なんべんやってもダメと思うたり、悔しいな、まだまだだなと思うたりもするけど、それがあるから続けられる。










・苦労 など   神社 お寺 お参り 感謝 責任

季節(春の花見・クリスマス)や歳時(お彼岸や月見)などの時節には早朝より

身体は疲れますが、儲かれば嬉しい・楽しい  売り上げが一番の栄養ドリンク

60になってもワクワクして朝目覚める

人生は長いよ、何回でもやり直しや修正が効く。

しかし、芯がブレちゃダメ、人間なんて、どっかでちゃんと 帳尻が合うようになってる。

10代は10代の青さとか未完成な部分がある。そこを恥ずかしがったり隠したがったり、うまくごまかしたりしてきた人は、あとで絶対しっぺ返しが来ます。

今の勉強とはその基礎作り。

大人って案外楽しいヨ!責任とのバランス。楽しいことがしたいなら楽をしてはダメ!禅の教え“照顧却下” しっかりと地に足をつけて勉強してください。

 とにかく 人生を楽しんで生きてください   





頑張れ三春・中郷健児!  




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 03:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
KFB福島放送「シェア」 三春盆踊り 午後4時ごろから~ 店主がごあんない~ ア~ラッショ♪







    KFB福島放送 シェア 令和6年8月14日放送分 三春担当リポーター 髙橋龍一



三春盆踊り  2024 

江戸時代より300年以上続いている三春伝統の夏の風物詩。


8月15日・16日の2日間、城下大町の四つ角交差点に面して櫓を立て「おまつり道路」で行われ、三春名物にふさわしい賑わいを見せます。




三春城下若連のお囃子衆 そして、子供太鼓の皆さんのパフィーマンスが見ものです!









三春藩が現福島県中心部の経済都市だったころに人、物、文化が絶えず集まっていたころの名残りで、お盆ともなると近郷近在から大勢の人が集まって踊ったという歴史があります。

それにあわせて、初めて参加される観光のお客様でも、だれでも気軽に参加できるようにあえて単調にしていると聞き及んでいます。








空を指す手の動きは“あの世”を表し、地面を指す手の動きは“この世”を表しているとされ、最後の手拍子は、お盆にこの世に戻ってきた先祖の精霊や有縁無縁の
諸霊を供養敬う気持ちをもって「年に一度のお盆を一緒に楽しみましょう」「また来年も来てくださいね」との思いを表しているとされています。









月明りと提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしいもとこ)さんのデザインによる街路灯には、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛が画されていて、三春城下らしい演出で華やかさを醸し出し、趣ある雰囲気と相まって三春盆踊りの楽しさを演出してくれています。






 


かつては、月明りと提灯で踊った三春盆踊り。

旧盆の盆踊りは、満月の月明かりのもとで踊りました。








月明かりは踊るには十分明るく、しかもムードのあるやわらかい光はロマンチックな「演出効果」をもっていたのです。

また、16日が盆明けということから、賑やかに踊り歌って先祖を送り出すという意味もあったようです。







仄かな明かりを頼りに踊る中で、幻想的な雰囲気が作り出され、盆踊り会場内にいる方々に、亡くなった方々を重ね合わせ、あたかも御霊と一緒に踊っているようだったと伝わっています。








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::KFB「シェア!」 三春 |
 令和 6 年 6 月 28 日 「福島県小学校長会会報」 第 259 号 (ふくしま人この道に生きる)





福島県校長会の発行機関紙

田村市校長会事務局様より取材がありました。



 令和 6 年 6 月 28 日 「福島県小学校長会会報」 第 259 号

1◦教育ニュース 令和6年度 県小・中学校長会合同開会式挨拶


2◦特集「福島に誇りをもち 多様な他者と協働しながら 持続可能な社会を創る子どもの育成」 3~6

◦支会だより 7~10

◦ふくしま人この道に生きる 11

◦表彰,役員・事務局員名簿 12


窓口には当家次男坊の恩師である田村市美山小学校校長です。


私が三春小学校学校運営協議会の委員長当時、協議会の運営や研修等でお世話になったかたです。










「前向きなうぬぼれ」 自他を大切にする

三春町 三春昭進堂代表 髙橋龍一 さん

三春町出身であり、同町にて和菓子店を経営する高橋龍一さんにお話を伺いました。明治時代より続く店を現代に至るまで守り、三春町を代表する和菓子店にまで繁栄させました。

田村、三春町をこよなく愛し、商いを通して人と関わり、地域の活性に日々尽力なさっています。
また、城下町三春町に係る歴史探訪を趣味と称する一面ももっていらっしゃいます。
和菓子店「三春昭進堂」の看板品は「おたりまんじゅう」。こだわり抜いた厳選小豆を丹念に煮込んでつくった餡を、地元三春の醤油と味噌を使った薄皮に包み込み仕上げる。

素朴な見た目とは裏腹に、ついついまた手に取り口に運んでしまう逸品です。これまでの経緯や思いについて伺いました。

一現在に至るまでの経緯をお聞かせください

高校を卒業後、湘南茅ケ崎で洋菓子、そして、バブル真っ盛り時期に郡山で和菓子と結婚式関連の営業職などを通じて師匠から商人道を学びました。

三春に戻ってからは町消防団や神社祭礼や三春盆踊り団体、商工会経営塾など各種団体に加盟して防災や防犯、祭礼、そして、街づくり等々に携り、それらの経験を生かして三春小学校学校運営協議会、同会会長も務めました。

現在観光協会副会長や福島県菓子組合理事などを務めています。




―信条としていることや活動の原動力を教えてください

三春は「春陽ノ郷」「東北の鎌倉」などと呼ばれる小さな城下町です。

三春滝桜のお陰で毎年、春先にはテレビ雑誌等のメディアの方々からの当店へ問い合わせや取材依頼が多数寄せられ、桜開花の時節になると全国、近年では世界中から脚光を浴びるようになっています。

当店のような地方の小さな饅頭屋の知名度を全国区にするのは途方もないお金と労力がかかります。

しかし、「三春滝桜」という最高の広告塔の力をお借りして「三春」をメインに宣伝すれば「三春の饅頭屋」として全国区に成り得るのではないかと考えて「三春の宣伝が9割、饅頭が1割」の情報発信を続けています。

例えば、三春昭進堂でもHP、そして平成3年より毎月発行の新聞折り込みチラシ「塵壺」(旧三春藩領内1万5千部発行)内に記載の三春の歴史関連や日常の事柄をつづったコラムなどを通じて三春の魅力を紹介しています。

最近は地方局の“三春町ふるさとリポータ”として時々テレビに出演して三春の名所や歴史、名店などを紹介しています。

また、これらに付随して“三春”をテーマに、町内の小中学校や経済団体、そして、高齢者学級などから講話依頼を受けて毎月のようにどこかでお話をしています。

これらの活動の経緯や商売柄もあって、三春滝桜や三春の歴史や寺社仏閣の恩恵を一番受けていると思っていますので、感謝と御礼の意も込めて片道4キロの滝桜までの道をウォーキングしながらごみ拾い、そして、当店が藩主祈願所真照寺の門前ということもありその参道石段を掃除しています。









―福島の子供たちへ伝えたいこと

表題の「前向きな己惚れ」矢沢永吉さんの言葉で、私の座右の銘としています。

「うぬぼれと言うといやらしく聞こえるけど、考え方一つ変えていい取り方すれば、うぬぼれ屋ほど自分の主張を大切にしているんですよ。
前向きなうぬぼれなら、いくらうぬぼれてもかまわないんです。
それは言い換えれば自信だから。自信ということは何かといえば責任なんですよ」

人生、立ち止まることも、涙することも、つまずいて、落ち込んで、自分自身がいやになってしまうこともあります。

しかし、みっともなくても、這いずり回ってでも“前を向いて生きていく“というそれ自体に意味があるんだということを伝えていきたいと思います。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |