2024-12-12 Thu
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」3中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター
令和6年12月11日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~
三春昭進堂代表 髙橋龍一 塵壺発行責任者
中津川城 歴代城主
応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。
時代は下って・・・
天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城及び田原谷城(小野町夏井)を破局した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。
常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。
田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。
さらには、一度離反し反田村氏となった常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。
このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます
田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ
天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。
天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ
仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。
中津川氏 宿老 四天王家 滝田氏、宗像氏、村上氏、某氏
田原谷舘、細田舘 中津川氏 所領
天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐
天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)
天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死 郡山合戦
天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ
時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。
この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。
また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。
6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より
天正十八年六月
去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様 「貞山公治家記録」より
中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。
黒木舘主 黒木氏の考察 2025
「黒木舘」田村四十八舘
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。
黒木鎮守 菅布禰神社 の由来書には
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。
建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
※田村庄司田村氏も南朝方
その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?
後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。
黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領)
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前
御舘山「下枝城」城主 橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂の後裔)
橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善)の名前が見えます。
下枝氏は、本姓「橋本氏」で、田村庄司田村家一門 田村氏とも考えられます。
下枝橋本氏は、田村持顕の孫 重顕の子で、田母神氏の祖 田村利顕(重為)の弟、広顕より始まり、田村郡橋本村下枝を発祥とするとしています。
天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻。してきます。
隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。
下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされています。
後にも田村領城郭要害絵図には、下枝橋本氏の名跡を継いだ、下枝舘橋本刑部少輔顕徳の名前が記載されています。
橋本刑部少輔顕徳(あきのり)(貞綱)の居舘。三春城下臥牛山(現紫雲寺山麓)に刑部舘跡あり終焉地(今泉系譜)
※田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。
田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主(兼務、弟や子が城代)、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も※田村月斎顕頼二男との記載が在り、弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)
三春田村家改易後の橋本刑部とその子孫・仙台橋本氏
一関田村家本「田村系譜」 (諸家系譜2)は、橋本刑部顕徳が大坂に登り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたがその甲斐がなかったと記されています。
「伊達世臣家譜・橋本家譜」は、顕徳の子但馬および清顕後室である”喜多(あるいは於北)相馬氏”のその後を明らかにしています。
但馬は田村家滅亡後、 清顕後室に従って子息とともに伊達家にはいり、以後もこれに仕えた。 元和五(一六一九) 年後室死去。
但馬の子伊勢広信は、陽徳院に仕えその老(おとな)となったと伝わっています。
その子孫は知行六百石で召出の班に列します。
三春の三春大神宮にあった橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟
橋本神社
南朝の忠臣橋本正茂を祭神とした、同族神の神社で大正7年ころに作られたものです。
大正7年、正五位を贈られたことからはじまり高野(仁井田・鬼生田)の橋本氏を中心にして橋本姓を名乗る人々によって建立・維持されていました。
現在は三春大神宮に合祀されています。
しかし、この神社が何故無くなったのかは、不明です。
尚、郡山市西田町(旧・田村郡西田村)土棚にある高野神社の境内に、橋本廟というものがありますが、ここに祀られているのも橋本正茂であり、またこの神社の裏山には、彼の墓があります。
故 橋本正茂 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省
故 橋本正茂 贈正五位 大正七年十一月十八日
宮内大臣従二位勲一等 子爵波多野敬直宣(宮内省印)
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2023-10-07 Sat
「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」 2023.10
三春昭進堂主人 髙橋 龍一
三春大神宮由来について
三春神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期の元禄二年、三春藩三代藩主秋田輝季公が、母正寿院が信仰する神明宮を貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩社としました。その遷宮を祝して藩主一門や藩老臣たちが奉納した古絵馬が現存しています。
以来、歴代藩主の信仰厚く、藩役職に神明奉行と下役を置き、参勤交代の行帰時の参拝や、在城中の正月参拝、湯立て行事による年占い行事の差し出しなどが行われ、また家中はもちろん、御城下町人、貝山村人などの信仰を集めました。
江戸期秋田藩政の三春総出の祭礼は現在の三春大神宮ではなく、三春秋田家五万石総鎮守大元師明王社(現田村大元神社)でしたが、戊辰の役により徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春の祭礼も大変革を成しました。
明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社格取得は明治三十二年)。
三春大神宮神輿渡御について
三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)
当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)の三十三郷が、頭屋制を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。
その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。
その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。
戦前の田村大元神社長獅子
長獅子奉納について
先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります。
それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。
満州事変、日中戦争など大東亜戦争への不穏な足音が聞こえる、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省、「神祇院」による「官幣社」「国幣社」からの国家神道による国民精神教化と思想統制が行われたことや、凶作が続き、世界的な恐慌の煽りを受け、三春の経済も昭和恐慌と呼ばれる停滞期を迎え、大東亜戦争勃発にともない出征軍人の壮行会や、戦勝祈願が盛んになり祭礼自体は、縮小傾向になり、そして戦争中期以降は中止になりました。
j大東亜戦争敗戦後、占領軍司令部GHQの神道司令により、神社は国家管理を離され、神社本庁がこれを統率するようになりました。
これにより、大正期から軍部により歪められていた、日本国民と神道・神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日を祭礼として、経済復興に伴って馬場尼ヶ谷の宮下子供神輿が供奉するようになると各字でも子供神輿の奉納が自然増殖的に始まりました。
三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く、神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。
各字奉納山車、花車、太鼓台について
各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、田村大元帥明王社祭礼の時は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉し、踊りの組が随伴していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、商人の街である、中町・大町・北町・新町の山車が随行したと考えられます。
明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で、中町・大町・北町・新町等の大店が店を構えて羽振りを利かせ、多額のご祝儀、篤志寄付により、商人街の各字では、競い合うように舞台を兼ねた大型の山車が作られ、祭礼への奉納になったと聞き及んでいます。
また、各字若連では、山車の舞台の高さを大店の二階に合わせて建造して、渡り芸人を招いて芸を披露したり、芸者を引き連れて興行となり、多額のご祝儀を出す大店では、二階の座敷にお客さんを招き、座敷前に曳航した山車の繰り出す演目を観覧しました。
この頃の三春の祭礼は、県内でも有数の華やかな賑わいで、その祭礼を一目見ようと、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。
各字神輿奉納について
大人神輿の若連会は、それまで各町内にあった山車が、老朽化と道路舗装に伴う事故のために奉納が取りやめになっていましたが、昭和30年代から昭和40年代の初めにかけての日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が再組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。
現在は、体育の日の直前土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。
還御も長獅子の担当と同じくして、荒町御出立と新町御出立で隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・赤天狗・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員が続き・宮下小若連を先頭にして、八町の子供神輿と・六基の大人神輿、そして四基の花車太鼓台が御神輿還御に供奉されています。
以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治35年9月の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
高橋哲夫著「河野広中小伝」の冒頭に、「戊辰戦争の直前、町の祭礼の時に、大町組山車と新町組山車との争いにおどり出て、あわや刃傷沙汰になろうとしたが、兄広胖が駆けつけようやく事なきを得た。」という話が記述されていますが、田村大元帥明王社の祭礼のことです。
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2023-10-05 Thu
旧三春藩総社三春大神宮秋季例大祭
新町睦会 花車と樽神輿奉納
この樽神輿は、長獅子との隔年奉になります。
昭和50年代初頭に、長獅子の無い年に奉納しようと、田村大元神社別火講中の有志で作られ、紆余曲折しながら平成5年に新町睦会として整備されました。
花車は、30年前に復元しました。
昭和30年に、一度だけ奉納した旧新町太鼓山車で、田村太元神社の縁の下に70年間眠っていました。
彫り物は、盆太鼓櫓や随神門下などに、分散して保管してありました。
恵比寿さまや、鶴に亀など祝いの彫り物があります。
明治所用に解体された旧三春藩内総鎮守「大元帥明王社」の遺構と考えられています。
その後、明治後期に作られた新町大太鼓舞台「花車」へ受け継がれ、現在に至ります。
| ryuichi | 04:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |
2023-03-15 Wed
中郷の高齢者学級さくら学級でお話をさせて頂きました。お昼まで呼ばれまして〜♫
幼き頃より見知っている先輩方ですっかりご馳走になり、いい心持ちのよき日となりました。
先の講演会には、おたり婆さんの出宿の当主さんも出席されてました。お話をしたました際に、「自分の家出身のその末裔が頑張って繁盛してる。これは嬉しいことだぞなぁ!と知り合いに言われたんだ、本当にそう思う、ありがとな!」と言う言葉をいただきました。
こんな嬉しい言葉はありません。
がんばって商売をやって良かったなぁ〜って心より思いました。
「中郷の歴史 田村四十八舘」
中郷さくらの学級 歴史講演会 三春昭進堂 髙橋龍一
於三春の里 令和5年3月14日(火)
はじめに
・柳作髙橋 根本近内 込木見渡様 笠石八幡宮
・滝桜散歩 ゴミ拾い
・テレビ 滝桜
・中郷は、戦前には一時教化村に指定され、多くの人材を輩出。
昭和60年代末より平成2年桜中学校創設にあたって、三春瞬教育委員会「子どもの夢の育つ学校造り」「教科教室形の学校運営方式を採る中学絞」の研究校
1.戦国時代舘跡探訪
戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。
「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせると百以上の舘が存在しています。
時代に前後しますが、確認されている田村領内の館跡だけでも、三春町内で二十五カ所、旧三春藩領(田村郡及び郡山市東部)を含む全体では百十三カ所にのぼり、他に、場所のわからない館や郡外に田村氏が築いた館をあわせると三百カ所以上になります。
これらの館跡から、江戸時代に、選りすぐったのが「田村四十八館」です。
全国の戦国武将の領内でも「~四十八舘」と称されています。
この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。館(たて)とは、小規模な城のことですが、実際には、軍事施設もあれば、地主・領主の居宅、村の集会所や避難施設などの様々な用途があります。
◎ 過足舘址 木幡氏
過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。将門が反乱して亡んだ後、その一族千葉氏、後の相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。
その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。
◎ 「柴原館」
城将は、橋本助右衛門、禄高450石。
館(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、
本丸は南北28間、横18間。
この橋本氏は、下枝城主、木村城主(刑部舘)で、田村四天王の一人橋本刑部少輔顕徳の一族と伝えられているが、記録が少く地方の人にも余り知られていないようです。
尚、田村氏の一族も橋本姓を名乗っています。
芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本、田母神橋本、中津川橋本・・・
◎「貝山館」
舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)
天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢の軍勢の為に軍勢の主力を臨場させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、伊達に組する三春の領主田村宗顕を攻めます。
この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。
2・中郷今昔物語の巻
中郷の昔は、滝外18ヶ村戸長役場が行政区となっていた。
その後、滝、柴原、込木、楽内、芹ヶ沢、貝山、蛇沢、春田、狐田、過足、根本、樋渡、蛇石が合併して中郷村となったのである。
これは明治20年町村制実施以来のことである。
初代村長は田村謙次郎、次に御代田勝弥、木幡文多郎、橋本喜四郎、木幡文忠と続き、三春町に合併したのである。
◎ 芹ケ沢
津島神社(旧神号天形星王社)
※天形星は天刑星(てんけいせい)ともいわれる道教の神で「木星」を意味するという。
この天形星が陰陽説で牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王が素戔嗚(須佐之男命)と習合する、という複雑な過程を経てこの社名
三春城下の西、旧小野海道芹ヶ沢村の入り口を見下ろす小高い丘に、鎮守津島神社、芹が沢稲荷神社、見渡神社が合祀された社があります。
かつて、春と秋の祭礼には、「お人形祭り」として、三春領五人形様の一つ「天形星王のお人形様」のお衣替えという行事がありました。
祭礼前日に、氏子が社殿に集まり、大人形を作ります。
まず、大きな樹の柱を胴骨にして、コモを巻き頭部に篭を被せて紙を貼り、顔を描きます。
胴体には、杉の葉をたくさん差して着物にします。
これを「お衣替え」としていました。
この人形を押し立てて、神官の祈祷の後に氏子一同で拝みます。
そして人形様は、神精霊の形代として、村に入り込む厄や流行病除けとされてきました。
その偉容は、厄病を威嚇するに相応しい中国・朝鮮調の鬼面のような人形であったと伝えられています。
この津島神社の「お人形祭り」は、春秋の二回欠かさず行われてきましたが、近世に発生した社殿の焼失で現在は行われていません。
◎ 楽内
三春城下磐城海道境の旧楽内村に鎮座する「金比羅様」です。
かつては、農家方々からは繭の神様として信仰を集めていました。また、山一つ隔てた弓町遊廓、庚申坂新地のお女郎たちからは、年期が早く明ける祈願所として信仰を集めていました。
◎ 込木
三春城下の南に、くぐりきと読みます”込木”の宮ノ下に見渡神社があります。
江戸期は、「飯渡大権現」権現さまと呼ばれ、古くからトリケの神と称して、百日咳にかかったときは鳥居の石を削って呑めば治ると云われていて拝殿には鶏の絵馬が多数奉納されている。
三春昭進堂の創始者高橋民四郎の本家も、込木柳作です。
かつて、十月の祭礼には、民四郎の妻おタリや、その子で当家先々代の傳造が饅頭を台八車に乗せて、社殿下で売っていたと聞き及んでいます。
◎ 柴原
・「柴原日枝神社」江戸期までは、「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「柴原山王社」などと呼ばれ、旧柴原村の産土神として崇敬されていました。景色がいい
・「柴原神社」
三渡大明神として村の鎮守していました。現在でも、秋の祭礼時には柴原の若衆が「お籠もり」をして夜明けの神事を行っています。
◎ 滝
・稲荷神社
・田村三十三観音三十番札所 大霊山龍光寺、馬頭観音堂
三階滝(三界滝) 古銭
◎根本
・笠石八幡
昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。
これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。
麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。
今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。
笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。
・根本神社 根本八王子神社
三春城下の南四里、滝桜南の根本村旧鎮守です。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に八人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社とされています。
八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。
根本神社は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。
◎過足
・「鎮守仁渡神社」
戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。
天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。
・過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。
・「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。
日本にある江戸時代前に建立された有名な神社仏閣
その7割が、空海、田村麻呂そして徳一が創建
◎ 樋渡
・樋渡神社です。
立派な社殿には、豪華な雲龍の彫り物が施されています。
熊野神社も合祀され集落の信仰の中心となっています。
11月3日の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されます。
境内を彩る枝垂れ桜の古木は圧巻です。梅も咲きます。
◎ 蛇石
「蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
三春ダムの建設に伴い、現在の地へ移転しましたが、かつては世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
十一月の三日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の九月十九日に行われていました。前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。
◎ 狐田稲荷神社
三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就した。
大晦日、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。
享保三年に、家老職連名で奉納した鳥居です。
◎ 貝山村
・白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。
柴田勝家 与力 織田信長重臣佐久間氏末裔由来 佐久間氏の氏神様
山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。
昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。我が子の無事帰還祈願でしょか?
◎ 「春沢見渡・日枝神社」
春田集落の見渡・日枝神社は、三春ダムの完成により、旧蛇沢と春田の住民がこの地に移転してきました。
蛇沢郷鎮守見渡神社は、天之村雲命を祭神として蛇沢村にありました。
関東より移住した先祖が分霊し勧請したと伝えられています。
また、日枝神社は、春田鎮守山王権現として大山祇神を祭神として春田村に鎮座していました。日枝神社の神の使いは猿といわれています。
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2022-11-17 Thu
先ごろ、福島大学の藤原遥准教授からの依頼がありまして、福島大学の学生さん約30名の方々に三春昭進堂代表の“わたしがから見た三春町のまちづくり”ということでお話させていただきました。
「三春で生まれ育ったこと、そして住んでいることが誇れる住民とのまちづくり」
~自分の地域を肯定することによって自分自身を肯定することになる~
三春昭進堂代表 髙橋龍一
福島大学 人文社会学群 経済経営学類 藤原 遥 ゼミ
於2022.11.13 三春町役場の多目的ホール
・昭進堂の歴史
明治の中頃・絹の生産が盛ん・製糸業の失敗
岩城街道・自由民権運動(河野廣中等、政治結社正道館・三春人中心)
郡山~平線(現49号線)で三春城下を外れる・三春城下衰退の要因
三春馬市場の競り市 農耕馬・軍馬 年2回 S40年代~子牛二月に一回
城下新町・場所にこだわった商売 三春名物化「おたりさん」おたりまんじゅう
眞照寺(旧三春藩主祈願所)・田村大元神社(旧三春藩領内総鎮守)・天沢寺(総持寺貫主輩出)・州伝寺(三春藩主松下家墓所・先々代大地玄亀大和尚弟子200人・先代石龍正孝老師(東北大准教授)墓所・庚申坂弓町新地(遊郭)・寺社仏閣の多い地域
・髙橋さんが地域と関わるうえで大事にされてきたこと
三春出身といえなかった反省・三春は裏切り者・三春狐・田舎
塵壺 旧三春藩領 15000部発行新聞折込チラシ・旧三春藩領内
ホームページ、新聞雑誌テレビ等各種メディア
先人が残したものを後世に伝えたい・口伝
蔵から古い書物が出てきた・自分以外家族は興味がない
三春藩領 御春輩(みはるのともがら) 春陽士(しゅんようのふ)
滝桜への感謝 三春の広告塔 メディアに引き合いが多い
・三春町の歴史について
東北の鎌倉・小さな城下町 映画「鎌倉物語」黄泉の国茶屋“紅い饅頭”
戦国武将 三春田村氏伊達政宗・
会津蒲生代官・城下町の形勢 松下・
秋田氏安東水軍・お家騒動化け猫伝説
・三春町の建物の歴史について
城下町武家屋敷 寺社を中心とした四季折々に映える城下の町並み
城下荒町・中町、寺町 裏通りの発達 夜の移動 木戸回避
お墓参り藩主以下藩重役の墓参回避
・中心市街地整備についてどのようにお考えか。
市街地整備30年
街路灯、石井幹子氏(レインボーブリッジ・皇居・エッフェル塔・ローマコロッセ等)交流館「まほら」 大高正人氏(三春町歴史民俗資料館・自由民権記念館 福島県立美術館 神奈川県立近代美術館別館
建築写真 門馬金昭氏 大手建設会社パンフレット
画僧「雪村」 林進氏(文学博士・(元)大和文華館学芸員)歴史民俗資料館所蔵「奔馬図」まほら緞帳
三春人形館ラッココレクション・約90年前、大事な文化遺産であると考えた二人の東北大学生が廃絶をおそれ、収集中井淳(後に関西学院大学教授)と高久田脩一(後に旧制田村中学の教師となる)
元三春町長 当時の都市整備課元課長とそのスタッフ
・今後、三春町において保全する価値があると考える建物。
三春城址・各種寺社仏閣・遠藤病院 旧庄屋屋敷 その周辺整備
旧三春藩領 三春町、田村市、小野町、郡山市(中田・西田・日和田・田村町)
田村四十八舘・田村三十三観音
・今後、三春町の景観を考えるうえでの課題
中心市街地(城下)だけではなく、歴史的な意味合いを含めた郷各地区拠点整備
トップが変われば街並み整備のビジョンそのものが遅延
行政に頼り過ぎない住民主体の街づくり ビジョン
・景観づくりをする際に、住民とどのようなことができるか。
歴史的な意味合いを伝授・孫子の代まで
“三春は城下町なんだ”という意識があれば、自ずと景観を意識するもの(鎌倉・京都・金沢)
子供たちへの自己肯定程度の向上・民度の向上
:学校・高生涯学習・ロータリークラブ等の各種団体での講話
・景観づくりをする際に、町に要望したいこと。
全国共通(政令指定都市・中核都市除外)期間限定の補助金を活用したイベントの意味合い・到達地点の明確化何のためのイベントなのか?
三春藩領 広域観光ビューロ 会津武家屋敷
「温故知新」ハード面(構造物)とソフト面(歴史的な意味)の両立 歴史的意味合い
「ワクワクする小さな城下町」
「三春で学んだことが誇れる教育」=「三春で生まれ育ったこと、そして住んでいることが誇れる住民とのまちづくり」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2022-09-16 Fri
「お陰さまで・・・郷土三春」
「舞鶴大学」 三春生涯学習講話会 於まほらR4.9.13
三春昭進堂 髙橋龍一
はじめに
テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい
県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富
小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる
滝桜・春だけでも世界中から脚光を浴びる
小学館発行の人気雑誌「サライ」(令和4年10月6日発刊)へ三春町の特集が4ページ
三春町と連携協定が締結されたアウトドア用品メーカーのmontbell(モンベル)、そして、サライも加わっての「三春特集」です。
歴史への興味
学校の先生からの^三春藩裏切り
三春と云えなかった自分 高校生
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢
塵壺 毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく 経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年9月で374号 30年有余年 (手配200平成7年より新聞折込)
令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」
・お菓子の紹介が3割、三春7割
三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春
全国新聞折り込み広告大賞2022福島県代表でエントリー
伊勢参り お陰参り
朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記
三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名
三春田村家三代
義顕・隆顕・清顕 (愛姫父)10万石(郡山、岩瀬含)
伊達政宗 田村大元神社宿所
磐城国の由来 御城山掘削(地デジアンテナ工事)
三春城下の成り立ちは、500年前
室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城(日和田八丁目舘)から移り現在の場所に三春城を築城したのが始まりと言われ、初代義顕、2代隆顕、3代清顕の三世代が三春領を治めます。
義顕の三春城築城時に城を中心として北方位を北町、南方位を南町とします。
明王町(大元帥明王の門前)は明王にかかわりのある神官や宮大工等々の町
現荒町は築城の町割りの時に新設した町ということで新町(あらまち)としました。
中町と下大町は、そして、新町(新南町)後の蒲生代官時代に新設されています。
・お城山 太鼓堂(中町愛宕神社参道へ移転) 鐘撞堂 (田村大元神社三の丸)
・三春城主秋田家慰霊碑 戊辰戦争殉職者慰霊碑
・上校庭 お殿様御殿 下校庭 まほら 中央大町 奉行所や役場
・歴民下 講所・明徳門 学校 ・護国神社
・天神口・天神橋 とうりゃんせ♪・防火用の池 池之端稲荷
・お城山への道 亀井坂・天神坂・三部坂
・月斎舘 100歳超 天才軍師「畠に地縛り、田に、蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」
・八幡町
八幡神社 お城から移転 安部安東秋田氏由来
・丈六焼き 丈六佛 90センチ 八幡様の化身追いはぎ商人 灯籠
・三春大神宮 土砂崩れ 三春城下総鎮守 松尾神社・甲子神社・橋本神社
・中町
福聚寺 戦国時代日和田八丁目
・本陣 秀吉の時代 近江松阪武将・商人 蒲生時代
・愛宕神社 火消 近江の蒲生時代か? 太鼓堂 西福寺庚申
・荒町
本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、華正院、馬頭観音等が立ち並び、寺町を形成。
藩主及び士族の菩提寺
お彼岸・お盆・命日等 町民は道を開けるその行列に遠慮して、通り過ぎるのを待って墓参に行く有様で難儀をしていました。
今に伝わるお盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、
・馬頭観音は石段の減り具合 参詣者のひとの多さ
・大町
大商人街 山三伊賀屋渡辺商店 伊賀・武将の商人 カネイ
・王子神社 おっしゃま 星信仰 百杯宴碑 川前紫渓
・浪岡家(秋田) 北畠親房 荒木家 明智 細川家
・紫雲寺 腹切梅 化け猫 秋田家猫塚 枝垂れ桜 真照寺 弘法・興教大師
新町
・松下家町割り 新南町
田村大元神社 三春藩五万石領内総鎮守 三春城三の丸 泰平寺 学頭坊 10修験
・大元帥明王 元寇 真照寺 別当 廃仏毀釈 阿吽仁王像 昭和30年代
「正徳・享保事件」お家騒動 化け猫騒動の発端
江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
「腹切り梅」「猫冢(塚)」化け猫伝説の証明
御城坂にある家老屋敷跡から「猫冢(塚)」が発見されました。
旧三春藩秋田家上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡の庭
•化け猫騒動として三春城下が大火災に見舞われ御城まで消失します。
•大雨の影響で荒木屋敷が土砂崩れで崩壊し多数の死者を出します。
この枝垂れ桜は樹齢200年以上です。
又、枝垂れ桜は土砂崩れ防止にために植樹したと考えると、その樹下に猫冢を置くというのは、何か因縁めいたものを感じます。
主夜神(しらしん) 夜神
三春城御花畑にあったという「主夜神」紫雲寺山内にもあったと記録に在ります。
この辺にも「三春城下化け猫伝説」との何かしらの因果が見えてきます。
おわりに
故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」
昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。
是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失
わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。
「三春で学んだことを誇れる教育」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2022-06-24 Fri
「中妻の歴史」中妻生涯学習「すずらん学級」講話会 三春昭進堂 髙橋龍一
於さくら湖自然観察ステーション R4.6.23
三春城下商人の先人から「地域貢献」そして文化の担い手として民度の向上を教えられています。
「商品を売るのは当たり前ですが、目先の利益だけではない地域文化の向上、そして地域住民のお役に立たなければならいという指針が示され、まさに商いは、売り手と買い手だけでなく、その商いが社会全体の幸福につながるものでなければならないという商人の理念である「三方よし」の考え方を教わっています。
塵壺を発行しているという因縁もあってか歴史勉強会の講師をいえあいされることがあります。
ご縁もあり、今回はコロナ禍でのびのびとなっていた「中妻生涯学習スズラン学級」様、約40名の方々の勉強会で「中妻の歴史」という題でお話をさせていただきました。
中妻の歴史
はじめに
テレビ出演・KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 5週間に一回くらい
県内59市町村の中の一人 三春は紹介するところは豊富
小さい町だからすぐに目立つ メディアが拾ってくれる
伊勢参り 朝熊永松寺 高乾院殿 安倍實季入道 片山殿、娘のお千世方
中村寛亭 藩士 「御代参日誌」江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記
三春昭進堂の髙橋 四代目 セリ場の横 おタリさんのおたりまんじゅう
込木柳作 明治の終わりごろ 当初「おタリさんゲ」昭進堂は対象に入ってから命名
歴史への興味
学校の先生からの^三春藩裏切り
三春と云えなかった自分 高校生
商売柄全国の経営者と話す機会 お国自慢
塵壺 毎月一万五千部発行 三春・船引・常葉・中田・西田・白岩
三春に来ていただきたい 当店だけではなく
経費やリスクが支店を出すより低い
平成3年3月~令和4年6月で3371号 約30年 手配200平成7年より新聞折込
令和版「三春城下絵図・三春物見遊山」・お菓子の紹介が3割、三春7割
三春昭進堂ホームページ お菓子0.5%、95%は三春
三春田村家三代
義顕・隆顕・清顕 (愛姫父) 伊達政宗 田村大元神社宿所
10万石(郡山、岩瀬含)
・南朝忠臣 橋本一族 大神宮橋本神社 苗字
・三春秋田氏 安倍・安東家
田村麻呂 阿弖流為 京都・清水寺「田村堂」
奥州藤原氏 清原家末 平泉金色堂 ジパング(黄金の国) 対源氏義経を匿う
・鎌倉時代・蝦夷探題 元寇・神風 ヒバの木造船
安藤水軍 倭寇 東南アジア沿岸に日本人街 インド洋 ペルシャ湾
十三湊 外国大使館 貿易 津波で壊滅 発掘調査
関ケ原の合戦後・宍戸五万に減封 水軍を取り上げ常陸宍戸へ 不満噴出 本来なら切腹・お家取り潰し=回避
旧管領細川氏娘が正室・家光の又従妹・強力な水軍?
秋田城介官位から秋田氏
生駒實季 伊勢朝熊隠居(永松寺)へ片山殿、娘のお千世方を連れて
伊勢名物 和漢胃腸薬「秋田教方中倉萬金丹」
実季の長男 秋田俊季公 水戸藩徳川創設に伴い 三春(米が安い)へ 移封願い
鷹巣
・石の宮様 大元師明王
大元帥明王の勧請は、平安時代となる弘仁十己亥年(819年)2月25日、磐城守山山中村(現郡山市田村町守山町山中)より奉還し、同社神主の柳沼市太夫神が神職として勤仕したと記されています。その後、応仁の乱後の室町時代となる文明17巳年(1485)、舊(旧)記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭礼には鷹巣村近郷より寄付方控左書を綴奉するとの記載もありました。
・五龍神社(五龍大権現)
鎮守府将軍陸奥守八幡太郎源義家公の奥州東征の折に、源氏の家臣鎌倉権五郎景政の休息した處ということで村人がその由緒をお祭りして「五郎権現」として祀ります。後に別当等が「五龍」と改め「五龍大権現」としました。
鷹巣鎮守「八雲神社」の由来は、瀬山にあった天正16年(1588)勧請の牛頭天王を、明治初期に廃仏毀釈神仏離反の命により、祭神を「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、神社名を「八雲神社」と改めこの地に移したもので、鷹巣地区の総鎮守となっています。
戦国時代の三春城主田村家重臣、鷹巣七竈の首長と云われた橋本刑部左衛門貞綱が、尾州津島から勧請したと伝えられている「牛頭天王」
・田村大和は、鷹巣の修験・威徳院賢晃を改名した名前で、後に田村清見と再度改め初代鷹巣小学校の校長となった方で、鷹林和泉は二代目の校長です。
・宇賀神様 稲荷神社 宇賀玉(神楽)栗原新田秋田藩政下 新田開発
鎌倉銭洗弁財天・上野不忍池弁財天 弁天様の頭に鎮座 金運上昇・芸能上達
・橋本正吉様 「田村の庄」鷹巣の歴史 鷹巣の諸家由来や継承をまとめた力作
中妻小学校・三春中学校・県立図書館・国会図書館・三春町図書館・歴史民俗資料館へ寄贈
俳句の会(民度の高さの証)生活・文化レベルの高さ
・薬師寺 法相宗徳一和尚。
全国の有名寺社の6割、徳一弘法大師、坂上田村麻呂 大同年間(平安時代初期・806-810)
薬師寺のご本尊は、木造阿弥陀如来聖衆来迎像。
創建時は独尊であったと思われますが、阿弥陀二十五菩薩来迎像と呼ばれ阿弥陀如来の周囲に二十五菩薩が配置され、雲上に聖聚を従えて往生者を迎える様を描写した彫刻仏像です。この様式の仏画は多数みられますが、木造は大変珍しいものです。
沼澤地区
・沼沢子安薬師如来堂 徳一由来の創建 光明寺
会津慧日寺 閼伽井(赤井)岳薬師如来 波立薬師堂
戦国田村氏要害、田村四十八舘沼沢舘にある光明寺は、舘主沼沢孫兵衛の屋敷跡と伝えられています。
江戸期には真言宗修験の守山大元帥明王別当師継院末寺と記録されています。
近代の明治の初めには中妻小学校の前進となる、達材小学校(後に沼沢小学校に改称)が設立されます。
・春日神社 境内末社の疱瘡神に奉納した相撲は近年まで続き、今も土俵の跡が残る
・沼沢往来 遠藤様 清水田様
斎藤地区
斉藤村社「三渡権現」 宝亀二年(771年)、土地の豪族、伊藤氏の遠祖藤原頼豊が、松樹山と呼ばれる現地に勧請したと伝えられています。
平安期に創られた古社として古い行事を今に伝えています。
祭神は天弁羅雲命で夏季祭礼には「お湯立て」の神事が行われます。
また、神楽・奉納される太々神楽は古式をとどめる出雲流で町の無形民俗文化財に指定されています。
・安養寺、
寛永二年、三春城下大町にある浄土宗紫雲寺方丈の隠居寺として、良編岌誉上人により開山された小さなお堂で、御本尊は、如意輪観音で、三十三観音、子安観音、三光地蔵
尊を祀っています。
また、案内板には、その昔の縁日には説法会が開かれ、浄土宗ということもあり、町人が近郷近在の参拝者で賑わい茶店が軒を連ねたと云われます。
・月見崎には三春城主田村氏の重臣,田村四十八館の一つ松樹山上館主の斉藤大善の軍中勝利を祈願して、嫡子藤原頼位が建立した妙見様と呼ばれる、松樹神社があり、近くには五輪塔がありますが、その案内板には松樹山上館主の墓と思われるとありました。
西方地区
・霧の城 西方舘 千葉氏
・「西方不動堂」は「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人の額には墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。
・「乳付け観音」と呼ばれる馬頭観音堂も鎮座しています。この観音様は「馬産安全」「子孫繁栄」に霊験あらたかで、田村地方では小野の東堂山と並んで信仰され、かつての祭礼は旧三月十七日で、西方の各戸では、団子を持参して参拝者に「団子撒き」をしていました。
笹を浸して神前に供えておき、参拝者にこの笹と、小さな板に馬の走る焼き印を押して配り、馬が丈夫に育つようにと、たてがみに結んでいたとされています。
堂の内外には江戸期三春の馬画名匠と云われた徳山研山の書かれた大絵馬をはじめ四十六面の親子絵馬が奉納されています。
毎年元旦に同地区で開催される、「西方水かけまつり」
塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は小正月の十五日に行われていましたが、現在は正月元旦に行われています。
前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、地区内の田んぼに入り桶やバケツで泥水を掻け合います。
古老の説明によれば、西方城主千葉紀伊守が、配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。
もう一説には、村に疫病が流行ったとき、水場(行井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病が治まります。一村全滅にもなりかねなかった疫病が、霧のごとく消滅したことを村民皆で喜び「これは西方鎮守塩釜神社神霊の加護に相違ない」と、村民が「水祝いの行事」で水垢離(みずごり)をとって御礼参りをしたことに始まったと言われています。
「中妻文化財を守る会」の方々が、地区にある史跡を後世に伝えようと立てているもので、中妻地区住民の地元に対する想いには、頭が下がります。
おわりに
故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」
昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。
是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。
「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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