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石見浜田帰省 観音寺参禅 雨安居2 『佛埀般涅槃略説教誡經』山梨韮崎願成寺住職山本正乗和尚記拝領




先の所用があり3日間の連休を利用して車で片道約1100キロ、約11時間の島根県石見の浜田城下にある妻の実家へ帰省です。

朝は3時起床で、夏や水の紅蓮山観音寺方丈様の下へ参禅です。

この時節は、雨安居と呼ばれる「夏安居入制」で、座禅後、夏安居の朝課には楞厳会があり「楞厳呪」を読経です。

「大仏頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)」楞厳呪(りょうごんしゅ)と云う難しい陀羅尼を読誦し、寺院の繁栄、修行僧の弁道増進、檀信徒の安穏を祈る「衆寮諷経」が修行されました。





楞厳呪は呪文のようなお経で、読経だけでも難しい上に、歩きながら読経する歩行禅です。


途中から読経速度が早くなり、とても難しいお経です。

夏安居 修證一如時而今

穆清






接心の中で、山梨韮崎の願成寺住職 山本正乗和尚の記された『佛埀般涅槃略説教誡經」』經本を拝領しました。

正乗和尚は、二十年ほど前に観音寺でご一緒し、教えをいただいたことがあります。








「仏遺教経」とか、単に「遺経」とも略されて通称されています。

「仏遺教経」は、その名の示すとおり、釈尊が八十年のご生涯を終えられるにあたって、さいごに示された、いわば遺言とも言うべき教典と教えていただきました。








鳳凰山願成寺(がんじょいうじ)は、771年(宝亀2年)の創建と伝わる曹洞宗の寺院です。

 武田信玄から15代前の甲斐武田氏の始祖武田信義が再興して祈願寺とし、後白河法皇から「鳳凰山」の山号を賜ったのだとされています。

 本尊の阿弥陀三尊は、信義が再興した際に祀られたもので、国の重要文化財に指定されています。


 信義の法号は「願成寺殿俊照国公大禅定門」。

願成寺霊廟殿

武田家累代御霊殿には、新羅三郎義光から始まる甲斐源氏三代と武田信義から武田信虎・信玄・勝頼・信勝に至るまでの武田氏十八代の位牌が安置されている。


近くには、武田信義館跡の武田氏の氏神「武田八幡宮」があります。







浜田城は、日本海・松原湾に突き出た標高六七メートルの亀山と呼ばれた山頂に築かれた平山城で、別名「亀山城」とも呼ばれる。

北は松原湾を介して日本海を望み、南から西にかけては浜田川によって囲まれた天然の要塞です。







元和五年(一六一九)に伊勢(三重県)松坂から古田重治が五万四千石余の浜田藩主として転封となり、翌年二月には築城に着工、同年一一月には造成が終わり、元和九年(一六二三)五月には城及び城下が整ったようです。











山頂の本丸には三重櫓の天守があり、中腹の二ノ丸には焔指蔵や番所、時打番所等が配置され、中ノ門を境とした山顔の三ノ丸には細殿をはじめ、多くの蔵や役所、番所等がありました。










また、城の東側には武家屋敷を配し、浜田川以南には八町から成る城下がありました。











浜田城では、古田家(二代)から松平周防守家(五代)、本多家(三代)、再び松平周防守家(四代)、そして松平右近将監家(四代)と替わり、幕末の慶応二年(一八六六)七月に村田増六率いる長州藩による第二次長州戦争(石州口の戦)に敗れ、浜田城は近世城郭としての役割を終えます。











浜田城跡の浜田護国神社の境内に小説「花神」で第二次長州征伐(四境戦争)における石州口の戦いの取材のご縁で、司馬遼太郎の「浜田藩追懐の碑」建立されています。








又、同地には「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の木口小平の銅像やノモンハン戦慰霊碑もあります





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |
令和元年夏 紅蓮山観音寺参禅 龍吟初夜後




龍吟初夜後

山陰の浜田へ帰省の折に観音寺様で義祖母の二十三回忌法要を営んでいただきました。

その際の塔婆の裏に表記の「龍吟初夜後」と記されていました。

法要後、方丈様にこの「龍吟初夜後」の意味をお聞きしました。







禅語の一説で、語句「龍吟初夜後 虎嘯五更前」

龍は吟ず初夜の後、虎うそぶく五更の前

という禅語の一説です。






禅では夜を初夜、中夜、 後夜と三つに分けています。

その夜に仏の教えがあり、お釈迦様も明け方の明星に悟りひらいたとされています。

注 一夜を、初更(甲夜)・二更(乙夜(いつや))・三更(丙夜)・四更(丁夜)・五更(戊夜(ぼや))に五等分した称。

そして、「龍吟雲起 虎嘯風生」と解され、

初夜の後に「竜吟雲起~」(竜が唸ると雲が起る)がつく。

暁天(後夜・戊夜寅(とら)の刻)虎が吼えると風が生じる。

その後に禅修行の雲水への尊い悟りが待っている。と訳されていました。








「龍」は九つの動物の特質をかねそなえた聖獣・霊獣と云われています。

仏法を守護する天部八部衆の中でも、八大龍王は仏法を護る八体の龍神です。

三隅龍雲寺「法堂」の龍雲図のように、寺院の障壁や天井によく龍が描かれるのはそのためです。


古くより「龍」が一度鳴けばにわかに空がかき曇り、雷雲、嵐を呼ぶといわれています。


私の名前にも、龍の文字が入っているものですから他人事でゃありません。









「板塔婆」とは、故人の供養のため、梵字や経文などを書いて法要の時などに墓に立てる細長い板のことで、卒塔婆 (そとば)ともよばれています 。

板塔婆を建てることは良いこと善行をすることにつながり、その功徳を故人に廻らすという供養の一つの形ということのようです。

年回法要の時に、一回の法要に一枚だけ建立と思っていましたが、実は、花やお供物などと同じように、故人の供養と施主自身の功徳のために建立するということでした。




建てる数も施主が一本のみというところもありますし、建てたいという親戚も建てて20本くらい一度に建てるところもあります。
つまり、故人が親ならば法要の施主のみならず、兄弟や子供たちが各一枚ずつ建立というのもあり得るということでした。

また、建てなければ供養にならないということでもないということです。

そういえば、都内の墓地を見ますとやたら板塔婆の数が多いことを思い出しました。

当家でも本家ですので、先祖供養の年忌法要を多々施させていただいていますが、初めて聞くことでした。

どおりで板塔婆の料金が別に必要なわけですね。




この板塔婆を、よくよく調べてみますと、年忌法要や彼岸などに、お墓の周りに立てて、故人の冥福を願って建立するもので、サンスクリット語の“ストゥーバ”が語源と伝わっています。
その昔、お釈迦さまが入滅したあと、その舎利(遺骨)を納めた塔(ストゥーパ)を建てて供養したのが始まりとされ、それが日本に伝わり、三重塔や五重塔、多宝塔の意味となり、五重塔を模して五輪塔が建てられましたと記され、板塔婆とは、その五重の塔などの塔の簡略化したものです。










また一つ心が洗われました。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |
令和元年夏 紅蓮山観音寺参禅 1 貝葉経




夏休みをいただき当店女将の実家がある島根県の西部、日本海側にある港町浜田市に帰省をしています。
年に一回の参禅でもあります。







浜田市にある曹洞宗紅蓮山観音寺方丈の花吉老師の元にて、朝だけですが午前3時起きで座禅、そして朝の勤行・・・

一年分の心の垢を洗い流しに行って参ります。






また、老師様との会食が一番の楽しみでもあります。






この会食の際に貝葉経(ばいようきょう)は葉に書かれたお経を拝見させていただきました。






貝葉とは貝多羅葉(ばいたらよう)の略で貝多羅は音写です。

梵字(サンスクリット語)の原形とされる貝葉体と呼ばれる書体で紙がまだ出来ない時代に葉に釘のようなもので傷をつけ文字を刻んだそうです。







また一つ心が洗われました。






尚、9月8日放送の「何でも鑑定団」出張鑑定は浜田市、そして11月3日NHKのど自慢も浜田市より生放送です!










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| ryuichi | 07:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |
石見浜田観音寺参禅 2018.10 自利利他 




島根浜田の紅端山観音禅寺花吉老師の下での私の参禅は、午前3時起床で身支度を整えて3時30分前には観音寺へ出頭し、蹲にて洗足して着座します。

午前5時ごろまで坐禅、そこから朝のお務めである朝課が始まります。

午前6時ごろから山内廻り、そして老師接心があり、家に帰るのが午前6時30分・


今回は満天の星空の下、徒歩3分という目の前にある観音寺様への出頭

北極星を背に立つ観音寺dす。

様々な星座が励ましてくていれました。


夏とは違い、少し肌寒い本堂の壁際に坐布をひいて坐禅開始です。


窓を閉めているせいでしょうか、虫の声も少なく、風の音も聞こえません。

静寂という言葉がしっくりとはまる、蝋燭のほのかな明かりの中、無音の世界がひろがります。









今朝の接心では、お坊さんの仏道修行とは、修行者や求道者がみずから修行を積んで自身がその結果を得る己の修練である「自利」

そしてこれに対し生きとし生けるものの全ての救済のために実践することで他人を幸せ導く「利他」

この両輪をもって仏道に励むことが仏教者としても務めである。

そして、後輩を育て後を託す。

さらには、生まれ変わっても仏道修行に励むことこそが本懐である。とご教授いただきました。


帰宅してから、「自利利他」を思い返してみました。

江戸の三大商人のひとつ近江商人の教えが思い浮かびます。

近江の商人は織田信長による楽市楽座の拠点であった近江(滋賀県)に本店を置き、天秤棒をかついで他国に行商をしました。


近江商人は、「売り手良し、買い手良し、世間良し」の三方よしという経営理念を生み出します、日本中で信頼を得る秘訣となりました。

これこそが「自利利他の円満」という仏教の教えなんだと思っています。









布施や持戒じかいを保ちつつ、忍辱にんにく精進怠らず

禅定を修し智恵みがき日々の行いふりかえり、

自利利他ともに円なる生き甲斐のある一生をおくるぞ

人の道とこそ悟るぞ涅槃の訓なり

と「発菩提涅槃章」に教授してあります。

反省の上にたって自分を生き、他人をもたて、ともに円かな人生を目指して努力し続けたいものだと解しました。



正に、観音寺の花吉老師の生き方を見るようです。

また心が一つ洗われました。







さて、今日は三春帰還です。

朝のうちの昨日のペンキ塗り残しを仕上げて、帰りの途に就きますが、折角ですので出雲大社で参詣して帰りたいと思います。







浜田から出雲大社までは一般道と山陰道、そして山陰道未完の無料通行個所を経由して約2時間です。






雨が降りそうな天候ですが、たくさんの人で賑わう出雲大社。







神在月の所以が残りますが、それは旧暦ですので今回は所願成就を聞き届けていただきます。


男四人の珍道中!それぞれに祈願して回ります。








出雲大社は「二礼四拍手一礼」です。








参拝を済ませ、門前にて出雲そばを食して、いざ三春へ・・・・







ナビの到着時刻を見ると・・午前2時!









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| ryuichi | 05:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |
「対機説法(たいきせっぽう)」 女房殿の実家を補修2018 島根県浜田市




三春から約1200キロ。

二泊三日の行程で、島根県西部にある港町浜田市にある女房殿の実家の補修作業に行ってきました。


次女娘の婿という立場なので、この家を次世代までつなげるのが私の役割だと思い、維持に努めています。

いい婿さんを演じさせていただいていますが、それもそうなんですが観音寺産での参禅、方丈様との接心、日本海の新鮮な魚介・・・・



ま、そんな訳で、今回は根本看板店専務、そして長男とその友達という男四人の旅です。







昨年も、この時期に補修に行きましたが、明治五年に発生した浜田大地震の後の復興建設となります。


築百年以上前に建てられた何分にも古い家なのでここを直せばあそこが~ってな具合で、次から次にと出てまいります。







しかし、この補修のおかげで、目の前にある実家の菩提寺「観音禅寺」花吉老師の下に参禅することができます。

また、日本海の幸が豊富な浜田の食を堪能することもできます。







早朝3時出発です。


新潟~若狭~中国道~浜田道というコースで午後2時前に到着です。





早速、観音寺さまやご近所様に挨拶を済ませ、現場と作業工程、必要資材の確認です。


徒歩3分のところにあるジュンテンドウというホームセンターがあるから何かと便利です。






実際の作業開始は二日目にして、今回はもう一つ夕日というテーマがありました。


家から車で10分の所にある浜田市下府にある国府海水浴場(海)のとなり、唐鐘漁港にある「石見畳ヶ浦」の夕日です。





夏に家族で帰省の折には時間の関係で昼間にお邪魔しました。


この時に、石見畳ヶ浦唐鐘漁港婦人部売店で偶然お会いしたお父さんたちに焼酎と今朝とれたての「白烏賊(剣先イカ)」を御馳走になりました。


特に夏の浜田で食せる各種の「烏賊(イカ)」たちの美味しさは知っていたつもりでしたが、漁師でもあるこのお父さんが朝上げてきた白烏賊は絶品でした~


それもコリコリと甘いと2種類~







そういう訳でこの時ごちそうしていただいたお父さん方にお礼にと思って三春からお菓子を持参した次第でした。







どうですかこの夕日と海に浮かんでいるような遠浅の海岸。







石見畳ヶ浦~ なんとなく時間がゆっくり過ぎているように感じます~









また、浜田帰還の際には寄らさせていただきます。







そしてこの日は車で15分にある「有福温泉 御前湯」にて湯浴み~






昭和初期で時間が止まったままのような有福温泉街のこのレトロ感がたまりません。




















夕食はいつもの、人気店「すし蔵」です。







店長の林田君にネタのレクチャーを受けながら浜田の海鮮に舌鼓~







私は明朝3時起床で観音寺の老師の下へ参禅です。






翌朝の老師との接心では、老師のお弟子さんが「伝法」に際し送った言葉の中から、「対機説法」をお話しいただきました。

仏教では、相手の理解度に応じて分かりやすく法を説き人びとを平穏に導きます。

それを「対機説法(たいきせっぽう)」(応病与薬)といいます。

「応病与薬(おうびょうよやく)」ともいいます。

仏教では、医者が病人に薬を与えるように、人の悩みに応じて教えを説くとされています。

つまり、「対機説法」と「応病与薬」は、意味するところは「同じ」です。







恵心僧都が弟子に鹿を打ち追い払わせたという逸話について道元禅師は、「道者の行いは、善行悪行につき皆思惑がある」「鹿を打ち追い払うのは、慈悲がないようだけど内心は慈悲でやっているのだ」と教授されています。

何事も物事の表面だけで判断するなということなのでしょう。


禅の教えでは仏道修行修練の先には「解脱」があると教えています。

しかし、そこへ導くための道は、いく通りもあり、ひとつでありません。

アプローチ・入口もどこからでもいいですし、直線だったりストレ-ト、曲がりくねったワインディングロードだったり・・・・

さらに、思い切り遠回りな道もあるでしょう。

こうした道と同じように、人はそれぞれ感じ方も考え方も違います。

しかし、人生における安心(あんじん・苦からの解脱)を望むのはすべての人に共通なはずですね。


また一つ心が洗われました。







さて作業状況ですが、屋根の補修及びペンキ塗り、雨どいの改修・補修、外壁下面のコンクリートでの養生、池排水補修・・・


何分海まで徒歩3分という港町にある家です。

否応なしに潮風にさらされています。


トタンにペンキを塗っても三春のようにはいきません。








早め早めの対応が肝要かと思います。


これで当分は持つでしょう^






こんばんは観音寺様から、4人でのご招待を受けまして、浜田の海の幸、そして美味しい般若湯~

皆で楽しい会食です。



実は、私はこれが一番の楽しみだったかもしれません・・・






方丈様、ありがとうございます。



おっと、明日も三時起床で参禅です。


ほどほどにしないと・・・・








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |
石見浜田 紅蓮山観音寺参禅記 2018.夏




浜田では3時起床にて曹洞宗紅蓮山観音寺に於いて師と仰ぐ方丈様である花吉道久老師の下で朝だけですが、座禅と勤行に参禅させていただいています。

朝3時、引き締まった空気の中、冷たい水で顔を洗って、徒歩一分という目の前にある観音禅寺へ満月に照らされた参道・山門を通り本堂へ出頭いたします。


北国三春の夏の夜とは違い、日本海特有の高温多湿の夏の真夜中・・・


冷房の効いた寝室から一歩外へ出るとジわっと汗ばんでまいります。







方丈様の下への参禅も気付いたら長男が生まれてからですのでかれこれ20年になります。


坐っているだけでも汗がしたたり落ちる本堂の片隅。


時折、火灯窓(かとうまど)より、吹き込むそよ風に”ちいさな幸せ”を感じます。

大袈裟な言い方かもしれませんが、普段なら気づかないような”小さな幸せ”に”ありがたさ”を感じ、”生きている”・”生かされている”ということが実感できます。


そして、老子の下で参禅させてもらっている家族へ感謝しながら、1年分の溜まりに溜まった”心の塵芥”の洗濯です。








お寺では、方丈様の弟子である善福寺持住の中村敬信様、定岡蔵心様に御指導いただき、観音寺方丈様の下で、座禅、そして朝課勤行に勤しんでいます。


文字通り「門前の小僧(50過ぎのおっさんですが)」、約3時間半のプチ参禅です。






何物にも代えることの出来ない、満ち足りた一番有意義な“しあわせ”な時間です。

そして、ゆっくり自分の身体や心と向き合う大切な時間です。

約一時間半ですが暁天坐禅を心ゆくまで堪能しています。






参禅させていただいた期間が7月30日~8月2日まで。

この時期、観音寺様では90日間の集中修行である「夏安吾(げあんご)」の最終段階でした。


夏安吾の観音寺様では、「楞厳会(りょうごんえ)」という偈分「大仏頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)」をお唱えしながら本堂を歩きながらお経を唱える「行道」をして修行期間中の無事を祈念しています。






そして、安吾も終終了の翌日は8月1日。

禅寺では元旦や、月の1日、15日を「祝聖」と呼んでお祝いの日としています。

僧堂でも祝聖の日は親指の分かれていない白足袋を履いて、朝課に出頭します。

そして、朝課を始めますが、日課のお勤めの前に、天皇陛下の聖寿をお祝いして興禅護国を祈願します。

そして、すべての仏様にお茶をあげます。






私など、門前の小僧で周りをきょろきょろとみているだけですが、とにかくお坊さんの朝は忙しく走り回り、無駄な時間がありません。

また、参道に鎮座する龍王尊守護 祈祷道場山形鶴岡にある龍澤山善寳寺からの分霊した「龍神」様、秋葉大権現様、そして、天満自在天さまをお祀りする鎮守堂。

地蔵堂のお地蔵様と無縁になった仏像。

歴代住職之墓、幕末の旧浜田藩松平〔越智〕家臣の墓、そして、日露戦争日本海海戦時の撃沈された軍用船「常陸丸」の乗員を弔う無縁地蔵等々を回向してまわります。







今回の方丈さまとの接見法話では大事な事柄をご教授いただきました。


・人に伝える学ぶ その方法もいく通りもある。

・一本調子ではなく柔軟な考え方が必要である。

・これは普段の生活においても同じです。

・俺が俺がではなく その有り様を考える事が大事である。







・絵師池野大雅

・片手仕事をしてはいけない

・一事一佛一成就 = 一つ一つの所作が修行である。

・娑婆訶「そわか」とは、もともと仏教のお経で最後に唱えられ「成就する」という意味。







・正宗の刀

・自由無碍 物事に執着しない

・名声成功習得など・・・・

・山登り詰めれば下りるだけ  = 天の上に天がある


・赤目老子

・弟子の旅立ちに対して、道中気をつけてとは、次の師家寺院までの旅だけではなく、その弟子の仏道成就・までの道程・人生



老師は"典座"を通して、真の弁道(修行)とは、坐禅や祖録公案だけではなく、 むしろ日常生活そのものが修行であると説いておられます。



この参禅、講義の中で、老師は
「禅修行”とは、この四日間の参禅だけが仏道修行ではなく、日々の暮らしの中にある事柄のすべてが禅の修行である。
日常生活の一つ一つの営みの中に、禅の教えを活かし、日々そのことを念頭に生きなさい。
そして、自分と身の回りの人に、安らぎと落ち着きを与え、明るく、正しく、仲良く、 日々の生活を送れることが大事である」


人生そのものが仏道成就のための“心の旅”であると老師はご教授されたと解しました。

心の旅、この世のすべては修行であり、何ひとつ無駄なことはありません。
つまり、どんな人生であってもこの世に“生きている”のは、修行のために“生かされている”ということなんだろうと思います。


日々精進ということですね。


ありがとうございます。







曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。

それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進されたことによって“悟り”を開かれたことに由来するとされています。


そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。







何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。
坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿と説かれています。

私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。







道元禅師は、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。

修行というと非日常的な何か特別苦行をすることのようにとらえがちですが、実は、毎日の生活の中の行い一つひとつがすべて前修行であり、何事も坐禅と同じ心で勤め、それを日々実践し続けることが大事で、それが修行であるということを教えていただきました。


また一つ心が洗われました。







幕末 石州口(石見口)の戦い
幕府は、慶応2年(1866)、第二次長州征伐の軍を起こし、四境(石州口・芸州口・大島
口・小倉口)より戦端が開かれました。
そのうち石州口の戦場となったのが浜田藩領益田で、のちの戊辰戦争で一番初めに長州藩と戦い敗れたのが浜田藩松平氏ということになります。


 当時は浜田藩松平〔越智〕家の第四代当主松平武聡は、父を水戸徳川斉昭(なりあき)とし、徳川将軍後見人一橋慶喜の異母兄弟です。

無益な戦いと知りながらも、そう簡単に城を明け渡すわけにも行かず、病気療養を理由に指揮権をほかの藩にと幕府に要請します。

そこで幕府が指名したのが、因州鳥取藩12代藩主池田池田慶德(よしのり)です。

慶徳は、武聡と同じく水戸徳川斉昭の息子で、二人は兄弟です。

ところがこの慶徳も、病気を理由に大将を辞退し、鳥取藩兵も撤退させてしまいます。

その後、応援に来ていた松江藩も、慌てて兵を撤退させます。
さらに翌最後まで残っていた浜田藩の兵たちが、本拠・浜田城に火を放って松江へと逃亡し、事実上、浜田は陥落しました。



後の日本帝国陸軍の創設者である長州藩大村益次郎は、石州口(島根県浜田市)方面の指揮官となります。


益田扇原関門関守浜田藩士 岸静江国治は僅かな部下と急募の農民と共に関門の守りについていました。

慶応二年(1866)6月16日朝 大村益次郎(旧名 村田蔵六)率いる長州軍約一千五百名が横田方面からこの地にさしかかったが、扇原関門の守 岸静江国治(浜田藩)は通過を許さず、ついに戦闘が開始されたます。

しかし、圧倒的な兵力を誇る長州軍のため、国治はまず部下と農民を退去せしめ、唯一人関門を死守するうち不幸敵弾を受け、圧倒的多数の敵兵をまえに岸静江は仁王立ちのまま絶命したと言われ三十一歳を一期として壮烈な戦死をとげました。

昭和八年 岸静江国治は靖国神社に合祀せられた。

尚、この岸静江国治の墓も観音寺墓地にあります。




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| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |
石見(島根西部)浜田の夏休み 浜田紅蓮山観音寺 2018夏


浜田では3時起床です。

目の前にある曹洞宗紅蓮山観音寺に於いて師と仰ぐ方丈様である花吉道久老師の下で朝だけですが、座禅と勤行に参禅させていただいています。

夜明け前の空のことで、須弥壇の蝋燭球の仄かな明かりの中、夜の闇に包まれた本堂。






日本海に面した浜田港まで徒歩3分の港町です。


遠くに波の音が聞こえ、虫の声や出向する船の音以外は無音で、静かに坐って過ごすことが毎朝の楽しみになっています。








夏は座っているだけでも汗が吹き出してまいります。
しかし、時折吹き込む優しいそそ風に励まされながら坐っています。


この観音寺での数日間の座禅を快適に出来るよう念頭に置いて、一年間生活しているような気がしています。






1年分の溜まりに溜まった心の塵芥の洗濯です。

後夜の座禅(私は、3時起床、3時半着座)、そして朝課。

お寺では、方丈様の弟子である善福寺持住の中村敬信様、定岡蔵心様に御指導いただき、観音寺方丈様の下で、座禅、そして朝課勤行に勤しんでいます。








観音寺様では90日間の集中修行である「夏安吾(げあんご)」が最終段階です。

朝課、勤行 の中で「大仏頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)」という題名のお経を唱えます。

楞厳会(りょうごんえ)と言ってこの経を読みながら本堂を歩きながらお経を唱える「行道」をして修行期間中の無事を祈念しています。

坐禅

“ただひたすら座る”

過去の行いや出来事、これから起きることを全部自分の中から捨て去って、ただ座るということ教えられています。

それが今生きている実感や生かされていること、日常のありがたさに気付くことでもある大事な修行です。







何物にも代えることの出来ない、満ち足りた一番有意義な“しあわせ”な時間です。

そして、ゆっくり自分の身体や心と向き合う大切な時間です。



5月〜7月末の90日間、禅寺では集中修行期間の夏安居が行われています。
ここで「大仏頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)」というお経(呪文)を唱えます。
これがまた古代インド語をその名前漢訳しただけの難しいお経で、長文のため20分くらいかかるお経です。






なんちゃって小僧の私など漢字にカタカナがフってありますがコレすら間違えています。
途中に「〜〜夜彌(ヤミー)」の連呼があります。雑念を振り払って一生懸命お経を読んでいる最中ですが〜いつもヤミーを連想してしまいここで間違えています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 07:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |