2018-02-24 Sat
田村四十八舘 過足舘址 木幡氏過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。
将門が反乱して亡んだ後、その一族相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。
その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。
旧神号「木幡宮」
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2010-05-27 Thu
旧過足村にある曹洞宗笑月山全応寺です。
田村麻呂伝説の残る集落にあります。
寛文五年一安和尚の創建開山とされています。
三春城下、天澤寺の末寺とされていました。
御本尊は、木造釈迦牟尼如来です。
寺院の殆どには「山号」がついております。
この「山号」については、中国では山岳に寺院が建築されたから「天台山国清寺」「五台山清涼寺」などの存在場所の山名をつけて呼称されたそうですが我が国では山岳仏教、密教の修行者が山岳修行後、里に降りてきて、小さい集会所で一般庶民に仏教を布教し始め、信者が増えるにしたがって、立派な堂宇ができました。
それは平地に建築されましたが「山号」を冠した寺院となりました。それゆえ、「山号」を冠した寺院は大衆に人気ある
庶民信仰のお寺と言えるでしょう。
それと、真言や天台の密教は山岳仏教と呼ばれる
こともあります。
「禅宗寺院」などで古都奈良の「南大門」にあたる門を「山門(三門)」というの
も「山号」によるものであります。
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2010-05-16 Sun
旧蛇石村にあった延命地蔵堂です。
子安観音と子安地蔵も祀られています。
境内には、如意林観音や薬師如来、そして地蔵など三春ダムによって水没した蛇石村や春田村にあった石仏を集めてあります。
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2010-05-06 Thu
戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。
天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。
仁渡神社は、旧過足村の村鎮守であり、現在でも地元過足の人々によって、祭祀等の行事が行なわれているようである。
祭神は「天之水分神」(あまのみまくり)である。古書をひもとくと「水を恵み与え配分する神」としるされている
古風な「田の神」として人々に信仰されてきた神とおもわれる。
菅布禰神社は、祭神を猿田毘古としています。
古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記する。ほとんどの祭行列の先頭に見られる。
猿田彦神は、天照大神の命令で天津彦火瓊瓊杵尊・瓊瓊杵尊・邇邇芸命が降臨の際、鈿女命・鈿女命天宇受賣大神を、天の八衢に出迎え先導し道案内をしたといわれる土地の神・土公神とされている。
容貌は魁偉で鼻の長さは7咫、赤ら顔に長い口髭をはやし、目は八咫の鏡のように爛々と輝き、身長7尺余の神通力を持つとされた。その高徳により、「導きの神」「道開きの神」として困った時や物事の始めに、災厄を祓い幸運をもたらす大神としても高名で、全国に猿田彦の名の付いた神社が多数ある。
また、嚮導の神としての信仰があり、神幸行列では、先頭に立って祓い導く。
また、猿田彦は、道案内をしたことから、道祖神と同一視されたり、庚申の申と同じ読みの猿と同一視され、庚申信仰ともつながり、村の道端などに猿田彦が祀られているところもある。
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2010-04-25 Sun
旧蛇石村上金水集落守護の金水虚空蔵尊です。
無住の寺は静かで風や鳥のさえずりが時折聞こえ、傍を流れる渓流の音を聞いていると、神聖な場所に居るんだなあと感じることがあります。踏み込んでは行けない場所に入り込んだという恐れにも似た感覚と、心が安らぐという感覚のバランスの中で、美しい自然の中に全てが導かれ、古より人々が集うこの場所に来て、そんな詮索は意味のないことに気づかされます。
三春は、何もかもが見えない八百万の神々によって始まり、仏も曼陀羅もそして渡来人も、美しい風土に恵まれ、その源にまったりととけ込んで居るのでしょう。
天台宗寺門龍蔵院の入り口に鎮座します。
石の鳥居は、虚空蔵堂の上にある、上金水鎮守参道の鳥居です。
旧暦二月十三日が祭礼です。
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2010-04-22 Thu
三春には、歴史の変遷と共にその時代を生き、その土地に生活した人々によって伝承・口承されてきた信仰にまつわる話や昔はなしの民話、そして怪談が数多く口伝として残されている。
これは、先人が当時(昭和40年代)テープレコーダーを持って、各地区の長老を訪ね聞き、語りを録音し編纂したものが三春町史や三春の民話などに記録されている。
三春の民話の特徴は、主として歴史的な実話が語り継がれてきたことにある。
それは、三春藩領がその昔から相馬藩と磐城藩、二本松藩そして須賀川の境に位置に接するため、仙道と呼ばれた中通りに位置している関係から、国守りのため重要な土地だったためと推測される。また、田村麻呂東征伝説があり、その折々に立ち寄った村の成り立ちにまつわる話が多い。
三春の伝承にある、一つ一つの民話の根底には社寺仏閣、遺跡のいわれが語り継がれているものであり、それはその土地に生活する人々の日常と深くかかわり、信仰されてきたものである。
そして、昔の生活や風習から口承されてきた昔話は、その土地や家に語り継がれてきたものである。
過足村全景
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2010-04-20 Tue
三春の最南端に過足という集落があります。
過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。
戦国期の田村四十八舘の一つ過足舘址にある「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。
安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。
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