2023-05-29 Mon
昔、貝山村庄屋屋敷内にある観音堂前を通る通称「庄屋道路」を馬に乗った侍が通る度に突然馬が暴れだし落馬したと云う。
(※白山本宮の古記録に観音様の霊験新たかの記事が残っている)
これは、観音堂の本尊が十一面観音木像の霊験新たかな現象があり、頻繁に起きて困るために三春城下の福聚寺(貝山地区の菩提寺)にある十一観音木像と取換えられたと伝われている。
又、貝山白山比咩神社の旧本地仏は、加賀の白山本宮と同じ十一面観音であり、今から400年前に高林家の祖である正徳院が加賀の白山本宮から持ち逃げして来た御神体(仏像)も観音様でなかったかと思われ、最験新たかの秘仏である事は確かであると古い資料に記載されている。。
貝山口伝話史参照
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-05-01 Mon
「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎
官軍となった西軍による会津戦争の際に三春からも荷駄人足として各村から人足として駆り出されています。
時に慶応四年七月二十六日 (1868) 。
三春藩庁より領内の村々に人足(15歳~60歳まで)の要請があり、筆者伊藤好三郎は、その日の内に三春城下に入り人間人馬人足を勤めています。
従軍記は、八月二十日に二本松から玉ノ井村(現大玉村)に移動した所から軍用記覚付帳が始まっています。
慶応四辰年 軍用記覚付帳 八月二十日~九月九日
1、 七月二十六日、三春町に繰り込み人馬おつとめ
仰々慶応四辰年 八月二十日
二本松を出立し玉ノ井村と申す所に参り候、所定より壱里半程先に、二本松藩丹羽丹波と申す家老が山の中に屯ろ致し、其所にて二日、夕七ツ時頃にすぐ戦いに進み大戦に相成り
官軍様方に壱人の怪我、その晩玉ノ井村に引帰り宿際に相成り候。
次二十一日、早朝に石筵村と申す所に四里ほど参り、其所より壱里半程先のぼり石筵峠
と申す所に会津公の大掘抜六七ヶ所有る所を打ち破り 会津勢弐千人程人数に御座候。
官軍様方怪我人六七人あと会津勢怪我人数多し、人馬石筵峠にて泊り申し袋、その時人馬
に逃げられ申し候、怪我をいたし所に敵方参り候、自軍方も驚き入り申し後、まことに驚き入り、官軍様方戊成峠より大原村新田に宿際仕え候。
次廿二日、人足馬方共も泊りに相成り、官軍様方は猪苗代迄に攻め込む、人馬共大原に泊る。
明廿三日、朝七ツ半頃に大原を出立にて人馬引立て申し候、官軍様方は猪苗代より乗り込み致し、十六橋より強清水、滝沢口まで戦いに御座候、其所より怪我人数多し御座候、会
津勢かこめずみるみる数多く散り々に遣られ、滝沢で人馬四五人流れ玉にて怪我を致し九半頃に若松へ操込む、大手門より繰込み三四丁ほど城に近づき申すに御座 。
大筒小筒にて終ち合いの最中、屋敷に火をかけ大火事に相成り、城中に大筒をかける。
人馬滝沢町に参り馬を休め、又、馬を引立し、城の近くまで引付け候の所、滝沢より町中に死人数多く有り。
廿四日、朝より戦い相成り申し候。町内には一人もおらず候。
廿五日、朝六ツ時より大戦に相成り城中からも攻撃があり、昼八ッ半迄に休みなく戦いに相成り候、大玉小玉の雨が降るが如く町中に参り驚き入り、丸の内の薬倉に火を掛け大地
震の如く大雷様如く 家の壁も崩れ大地に伏し驚き入り奉り候、煙の様態はたとい方もな
し 夕五ツ頃に城中より切り出し、その時、官軍方関の声を上げて押しかいし申し候。
〇廿五日 勢至井堂口より官軍様方繰り込み申し候、戊成口損じるに御座候、中山口は、二日、彦根様御人数繰り込み申し候、三日、格別なこともなし
明廿六、朝四ッ頃より夕七ッ頃まで大戦に御座候。
廿七日は、格別の戦いもなし。
廿八日も、その通り、廿九日、朝五ッ頃、津川口より勢井志堂口(勢至井堂口)の敵方が集まり五六千人程にて参り城中に入ると致す所 官軍様方七日町にて相おり、城中に入らんとする所を破り すぐ大戦に相成り城中より切り出し話の外の戦い致し敵方へ官軍様より大筒を撃ち掛け外内に廿五六人ほど突けかい致し、敵方のほうにて三百六七拾人ほど死人と申するに御座候。
官軍様方は五拾六七人の怪我、晦日には、少々戦いに御座後。
一日にも二日にも三日にも格別の戦いもなし四日にも五日にも格別のこともなし 町にも
なし。
五日、津川口より官軍様方参りすぐ大合合戦に御座候、百姓とも嫌がりいたし、鉄砲を撃ちかけられ我さきと逃げる、蓑や鎌わらじも置き皆逃げ申し候、
その時、てき(敵)方死人数多し地に伏し堀に伏し大合戦に御座候、
官軍様方もけがを致しその時、津川口より攻めかけ官軍様方何万人となしに六日七日八日と数しれず繰り込み申し候。
九日、大火事に御座候、七日町より滝沢町までも燃え広がり申し候、その時、大合戦に御座後、大筒小筒の撃ち合い、その時、人馬だんな方も地に伏し堀に伏し壁にかくれ大合戦に御座候。
会津人馬つとめる、瀬川には薩州六半匁大清作方おつとめ、貝山三人組 作吉、倉ノ助、藤三郎氏組三拾六人組二本松人馬、三春人馬入り混ざり若松に繰り込みに付人馬は、貝山人馬拾人1.勘右衛門 1.田作1、今朝治1、玄治右衛門 1、慢次郎1、柳多 1、藤ノ烝氏方は薩州三半匁大四半匁報奨人馬相つとめ、七人と三人合わせ拾人
以上
この従軍記は、8月20日現大玉村の玉ノ井村から始まり9月9日会津城下大合戦までの約20日間の記録で終わっていますが、三春から二本松藩攻略(7月29日落城)の人足に出たのは三春藩の記録にあり、二本松藩とは親藩の間柄の為か記録するのをためらったのかもしれません。
尚、9月22日の会津城落城迄参戦していたかは不明ですが、9月9日以降の行動は激戦の為に書き留めておく余裕なかったのではないかと想像されます。
別の記録には会津城下の激戦に於いて三春人足は最前線迄鉄砲や大砲の玉など武器弾薬を運搬していたと記されています。
戦後の記録には貝山村からの10人の人足が徴発されていますが戦傷者もなく禅無事に帰還したと記されています。
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2023-04-17 Mon
貝山鎮守白山神社“白山さま”の胎内くぐり
古老に曰く、この機は胎内くぐりの銘木として高さ5尺の石を欅との間を通りくぐり抜けられたが悪事を働いた人は、くぐり抜ける事が出来ないと伝えられて居た。
今では、欅はその石を巻き込んで遠い昔を語るようであり、樹齢300余年を数えます。
また、貝山で萩の箸(はし)で食事をするとかならず歯が痛むと言うがこれは白山神社本殿の柱が萩を使用しているからと伝わっています。
昭和4年の落雷による焼失後、翌5年の再建の際、萩の材料を新潟方面から運んで来たと伝う。(日庄屋屋敷跡辺りの地名が裁人保と五う)
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2023-03-19 Sun
先の「中郷さくら学級歴史講話」の際に会員として臨場された貝山の伊藤様から「貝山伊藤家口伝話史」の上下巻という拝見させていただきました。
御先祖様が残した「貝山伊藤家と白山比咩神社に関する資料」をご親戚の方が近年になってまとめられた書物です。
塵壺の参考になればということで借用させて頂きました。
内容は、平安時代から続く伊藤家の歴史、伊勢国から三春貝山までの変遷、そして、貝山鎮守「白山比咩神社」の勧請、さらには戊辰戦争会津攻めに於ける三春藩領人足にかかわってご先祖の資料等々、大変興味深い書物・資料となっています。
大変貴重な資料ありがとうございます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2021-02-18 Thu
三春在旧貝山村に鎮座する白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。
加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。
白山比咩神社では、御祭神は、菊理比咩命という『日本書紀』に登場する女神さまです。
菊理比咩命とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。
菊理比咩命(尊)の菊理(くくり)は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。
『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。
この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。
ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
「絹本著色白山三社神像」重要文化財黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理比咩尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。
享保二年八月土用月に、村中で奉納した石造鳥居です。
飢饉の回避祈願でしょうか・・・
山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。
昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。
出征する我が子の無事帰還祈願でしょか?
郡山市中心部が一望できます。
白山神社のふもとに旧貝山村にある貝山観音堂です。
田村三十三観音の第三十一番札所となっています。
十一面観音をお祀りしてあります。
高速道路建設に関連して、白山神社の麓に移設建立されています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2019-08-21 Wed
滝桜にほど近い中郷地区狐田の桂昌寺山内にあった青面金剛庚申塔(しょうめんこんごうこうしんとう)石像がなくなってしまいました。
他の六地蔵や石仏、仏塔などはそのままでした。
地域の貴重な文化遺産がまた一つなくなってしまいました。
他の神社でも同様の被害があるみたいです。
古の狐田村の皆々様が、地域住民の健康を願って建立されたものです。
冷静な心を取り戻して、そっと返していただけることを願っています。
以下、区長さん、社寺総代長さんのお知らせ文です。
お寺の境内の石塔二基が盗難にあいました。
去る4月8日桂昌寺にて例年通り大般若会が営まれましたが、境内に長年あったはすの石塔がなくなっていることに、出席者が気づきました。
警察に連絡をしたところ、中郷駐在員佐々木氏他1名の警察官が来て現場を確認していきました。
このことについて、狐田地区内の数名の方々のお話を伺いましたが、「3月17日(彼岸入り)の早朝にはあの石塔はあったように思う」と証言する方もおれば、 「3月18日の午後にはあの石塔はすでになかった」と語る方もおられます。
この件につきまして、何か思い当たることがありましたならば、上石益夫(代表社寺総代)までご連絡ください。
また、藤川宮司様へ二本松市内の神社で起きた事件について連絡がありましたので、その原文をそのまま配布いたします。
皆様のご自宅や、集会所·神社·お寺などの公共物での器物損壊、盗難などにはくれぐれも警戒されますよう、お願いいたします。
区長 吉田一二三
代表社寺総代 上石益夫
庚申(こうしん)信仰とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰です。
陰陽五行説では、十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる、こうしんの夜に、三尸(さんし)という虫が睡眠中に体から抜け出して、帝釈天に人の罪行を報告して命が奪われるというものです。
この庚申の夜は、三尸が体から抜け出さないように、眠らずに徹夜をするというのが「庚申待ち」であり、60年ごとの庚申の年には各地域で庚申塔を建てたといわれています。
また、青面金剛が彫られた庚申塔は、江戸時代ごろから建てられようです。
青面金剛は、帝釈天 (たいしゃくてん) の使者の金剛童子とされています。
鎌倉期に表された様々な経典や儀軌(造像・念誦・供養の方法・規則)を集である「渓嵐拾葉集」によれば、元来は、密教で、鬼病・病魔を退散させる威力があるとする鬼神です。
体は青色で、二本、四本または六本の腕があり、弓矢宝剣を握り、頭髪はさか立ち、体に蛇をまとい、足に鬼を踏んでいます。
後世、庚申信仰に取り入れられ、庚申待(まち)の本尊となっています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2010-06-01 Tue
貝山白山比咩神社の白山公園にあるブナの大木です。
町の天然記念物に指定されています。
このブナの大木をよく見ると、名前や年号そして無数の穴があいています。
これは、この大木に幸不幸の「願掛け」をする際に、刻まれたものと聞いています。
貝山白山比咩神社祭神の、菊理媛神とは、白山の神は女の神様で、白山比咩神、またの名を菊理媛神(ククリヒメノカミ)といい、イザナギノミコト、イザナミノミコトと共に白山比咩神社に祀られています。
白山神が白山妙理大権現であり、その本地が十一面観音とされています。
そして本地垂迹説的の解釈では「菊理媛神は、十一面観音の垂迹身であり、白山比咩神はすなわち菊理媛神である」とされています。
養老3年(719)、白山修験道の泰澄大師が白山山頂で祀ったのは、高句麗媛(こうくりひめ)といわれます。
時代を経て、理知的な鎌倉仏教やの影響などを受けるようになると、白山において泰澄大師が祀った高句麗媛は、日本書紀における菊理媛神と同一であるとされた、とするものです。
郡山市の繁華街が一望できます。
日本人は古代から、「八百万の神」というように、あらゆる物の内に神がいる(宿る)と感じていました。特に、人の力の及ばない高い場所や、巨大なものに神様が降りてくるという考え方があって、高い山や巨木などはそれ自体が信仰の対象でした。
森は、森自体が、人が足を踏み入れてはいけない神聖な場所として守られています。
唱歌に出てきた「鎮守の神様」がいるのも、ですから、地域でいちばん高い山です。
日本の場合、「山」とはすなわち「森」ですから、鎮守の神様は身近な風景の中でいちばん高い山の、深い森の奥にいるものと考えられていたのです。
興味深いのは、その山にいる神様が、ときどき里に降りてくると考えられていたことです。
山から里に降りてくる神様を迎えるためには、里にも高い木のある場所が必要です。
そこで人々は、集落の中の小高い場所に木を植え、森を育てました。
これが「鎮守の森」です。
そこは、鎮守の神様が訪れる神聖な場所であり、この森が元気であれば神様は来てくれるが、森が滅ぶようなことがあれば神様が訪れなくなり、地域を守ってくれなくなる。
だから、みんなで協力して世話をし、大切に守り育てたのです。
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