2021-03-07 Sun
黄龍舘跡
旧美山村大字北鹿又に在り、移ケ岳の麓に屹立(きつりつ)し、その地形たるや蜿蜒(えんえん)と龍が翻(ひるがえる)るが如く見えることから黄龍舘とよばれていました。
戦国真っ盛りの永禄年間には松平刑部太夫が居住しています。
天正期に至って没落したといわれていますが詳細は不明です。
いつの事かは不明ですが、山の頭部に湛へ曲流する流水を稲田に灌漑しようとその頭部を切開しました。
その工事は至難と思われましたが、村のためにと村人が従事し成功に至ります。
後に、七日間紫の水が流出したことからその川を「紫川」と呼ぶようになります。
また、その場所に薬師様と稲荷様を勧請し祠を建立して「堀切薬師」「堀切稲荷」と称するようになったと伝わっています。
田村郡郷土史参照
紫川と蛇盛塚(桜)
『言伝えによると、西暦830年頃(天長年間)鹿又字舘地内を曲流する流水を稲田に導くための工事を行った。
それは至難の工事である為に村を挙げてその役に従事しました。
漸く工事の完成を見る頃に、この地に巣くっていた大蛇を発見 数十人でこれを退治します。
この大蛇の胴体からの血潮が川水に混じると紫色の川となり、七昼夜にわたりこの川下を紫色に染めて流れ、人々はこの川を紫川と呼んだという。
この大蛇の頭は、川を流れに流れ、この川下一里余門鹿の樋の口に流れ着き、門鹿村の人々がこれを拾い上げ手厚く葬られた。
その地が今も史跡として残り、蛇盛塚(蛇盛稲場)幕の内地内に葬ります。
それがこの蛇盛塚(通称 蛇盛稲場)です。
村人は、その労苦と霊を慰めるため、薬師堂を建立。(後の廃仏毀釈により、別の寺に安置)
また、飛田家の祖先が三春滝桜の地より求めこの蛇盛塚に植樹し「蛇盛塚桜」と呼ばれ、今でも春には可憐な桜花を咲かせています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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